夕暮れに一欠片の幸福を 薬の調合に必要な素材を買いに出てくる旨を伝えると、賢者様に心配そうな顔をされて誰かと一緒にと言われてしまった。私は魔女だしそんなに心配する必要はないのにと笑って返すとそう言って先日、魔法使いのサロンから帰ってこれなくなったことを指摘されてうっと言葉に詰まる。あれは元々私を狙ったものだったしそんな事件じみたことはそう何度も起こらないと思うと反論しても納得してくださる様子はなかった。
(参りましたね……)
買い物をするだけだし向かうのは西の国と中央の国の境の街で私を知る人はほとんどいないだろうし……どれだけ理由を並べても賢者様の顔は晴れない。そもそも私ごときの用事に賢者の魔法使い様たちを付き合わせるわけにはいかない。彼らには大事な任務があって手を煩わせるわけにはいかないのだ。
「でも、リリーベルも私たちの大切な仲間ですし」
平素だったらありがたい言葉も今の状況では恐縮以外の何物でもない。先日大変ご心配をお掛けしたことは伏してお詫びするくらいの心持ちだけれども。
「なになに、何を二人で揉めてるの」
「フィガロ!聞いてください、リリーベルが……」
通りがかったフィガロ先生が興味津々に話に加わる。面倒なことになったなと視線を逸らしながら嘆息する。きっと先生は誰かについてきてもらいなさいと言う。賢者様の前での体面があるから。今はタイミングが悪過ぎる。
「まあ普段ならそんな心配しなくてもって言うところだけど、この間あんなことがあったばかりだしねぇ」
そら見たことか。過保護なフィガロ先生が顔を出した。いよいよ逃げられなくなって目を泳がせる。せめて同じ南の魔法使いであるレノックスやルチルあたりだったら罪悪感が薄まるだろうか。
「南の魔法使いは午後から訓練があるから同行出来ないんだ。さてどうしようか……あ、聞いてくれよファウスト。リリーベルがさ……」
更に通りがかったファウスト様を捕まえてフィガロ先生が賢者様と同じ内容を今度はファウスト様に話す。段々と険しくなるファウスト様の表情にもう買い出しは諦めようかと肩を落とした時だった。
「それなら僕が同行しよう」
「……っ!?」
予想外の言葉に目を見開く。進んで同行を申し出てくださるとは露ほども思ってなかったから。ファウスト様とは再会したての頃よりはまともに話もできるようになったし、時々気に掛けてくださるようにもなった。でもまだ以前の私たちよりは程遠いし、元のように親しく接してくださることもないだろうと思っている。だから余計に驚いた。
「一人にしてこの間のような騒ぎになるのはごめんだ」
この間。少女たちが魔法使いのサロンに引き寄せられて魔法をかけられて使役されていた。それを解放しようとした結果、私の方が捕らえられて連れ去られそうになった。助けに来てくれた魔法使いの中にファウスト様がいらっしゃったことは後からアーサーやカインに聞いた。二人が口を揃えてファウスト様がものすごく怒っていたと言うから戦々恐々としていたのだけれど、その特大のお叱りは受けなかった。代わりにお小言を少しだけ。そのことを訊ねて余計に怒られるのが怖くて詳しく聞けずにいる。フィガロ先生には今にも件の魔法使いを呪い殺しそうだったよと言われたけれど、フィガロ先生の言うことだし話を大げさにしているような気がしてならない。
ファウスト様的にはまたこの前のような余計な手間をかけさせられるなら初めから見張っていた方がマシということだろうか。そう考えると、出先で何かあって誰かに迷惑をかけるよりは大人しく見守られていた方がいいのかもしれない。
「僕が嫌なら他の魔法使いに頼むが」
「いえ、そんな……!……その、よろしくお願いします……」
◆◇
目的地での買い物は程なくして終わった。元々大量に買い込む予定でもなかったし、切らしている品目が多かった訳でもない。一人で抱えられる程度の量だったから本当に一人で事足りたため、尚更同行してもらうのに気が引けたというのも同行を渋った理由のひとつだった。
買った荷物はほとんどファウスト様が持ってくださって益々申し訳が立たない。荷物持ちと見守りをさせるつもりではなかったのだけれど……代わりにファウスト様が買った荷物を持たせてほしいと申し出てみたものの、君は呪いの影響を受けやすいから駄目だと断られた。何となく予想はしていたけれど、立つ瀬がない。
「買い物はこれで終わりか?」
「あ、はい……申し訳ありません、何から何まで……」
遠慮がちにお礼を伝えるとファウスト様はいや、と短く返して辺りを見回す。何か気になるものでもあったのだろうか。それとも何か探しものとか……不思議に思って首を傾げていると、ある方向に進むように促される。はぐれないようにファウスト様の斜め後ろを歩いていたら隣に並ぶように指示される。……確かに同行していただいた理由を考えれば、視界から外れた場所にいるのはよくないかもしれない。この方の隣を歩くのは何百年ぶりで、何のしがらみもなく兄弟子として慕っていた頃が思い出されてひとりでに鼻の奥がツンとした。あの頃の何も知らなかった自分たちにはもう戻れないことを知っていたから。
「さっき通った時に気になっていたんだ。少し休憩していこう」
そう言って連れてこられたのは年代を感じさせるカフェだった。店内には上品で物静かな音楽が流れていた。それぞれに飲み物を注文して出来上がりを待つ。面と向かって二人きりになると何を話したらいいのか分からない。魔法舎ならその日のご飯とか訓練の話とか中庭に遊びに来る猫の話をしたりはできるけれど。
昔から話好きな方ではなかった。私もお喋りな方ではなかったからぽつぽつと思いついたことを話しては笑いあって、それが終わると一旦静かになって……その沈黙が嫌いじゃなかった。無理に話を繋げなくてもそこには温かい空気があって、それだけで幸せだった。満ち足りていた。希望がいっぱい胸に詰まっていたあの頃。……でも今は何も言葉が出てこない。より嫌われないようにとそのことばかりで、沈黙が重い。窓の外の今にも降り出しそうな空のように。
「……悪かったな、無理についてきて」
「え……?」
「僕といるのは気詰まりだろう。誰か他の魔法使いについてきてもらった方が楽しかっただろうに」
「そんなことは……」
そんな風に言わせたいわけじゃなかった。あの頃と同じようにとまではいかなくても歩み寄れたらいいのにと思っていた。思っていたけれどそれはファウスト様には迷惑なのかもしれないと恐れていた。再会してから私は失敗ばかりだ。怒られて、突き放されて何かする度距離が広がっていくようで怖かった。嫌われても疎まれても仕方のないことをした身で近くにいたいだなんて迷惑なのかもしれないって。今もまた、折角ついてきてもらったのに嫌な思いをさせている。
「……すみません、いつもご迷惑をおかけしてばかりで……今日だって私がわがままを言わなければファウスト様も無理に付き合う必要はなかったのに……」
段々情けなくなってくる。どんどん惨めになってくる。こんな思いをしたいんじゃなかった。もしかしたらちょっとでも昔みたいに話が出来るんじゃないかと思っていた。でも、実際には全然遠くって。貴方にはまるで手が届かなくて。ぱたりとローブに水滴が落ちる。ぱたぱたと続けて雫が振ってきて染みを作った。
「……リリー……」
詰まりかけの鼻を啜って、震える口元をへの字に曲げて。それでも止められない。止まってくれない。視界がどんどんぼやけて滲んでいく。
「リリー、すまない。僕の言い方が悪かった」
ふるふると頭を振る。悪いのは私だ。態度の悪かった私のせい。嫌な思いをさせた私のせい。
「わたし……、わたしが……っ」
「……、……っ………。……心配、だったんだ……」
瞬間、世界の音が消えた。
「君はいつも、一人で飛び出していってしまうから」
ひまわり畑で死の淵を覗いた時も、雪山で魔物を食い止めるために単身立ち向かった時も、少女たちを救うために魔法使いの懐に飛び込んだ時も。誰にも助けを求めず、孤立し追い詰められた果てに姿を消した遠いいつかも。
視線をずらして俯くファウスト様はどこか寂しそうで、どこか心細げに見えた。ぽつ、ぽつと雨が窓に当たってやがて次々に濡らしていく。
「知らないところでいなくなりそうで……馬鹿みたいだろう」
自虐的に笑おうとして失敗したような顔でファウスト様は口許を歪めた。そうしてポケットから取り出したハンカチを渡してくださる。差し出されたそれを受け取ってそっと目元にあてて水分を含ませた。
恨まれていると思っていた。疎まれていると感じていた。課せられる重荷に耐え兼ねて一人逃げ出した私を。最後まで栄光を夢見ることが出来なかった私を。大勢の仲間を見捨てた私を。……そうじゃなかった。心配してくれていたんだ。ずっと、ずっと、ずうっと。気付けなかった。気付こうとしなかった。自分が傷付くことを恐れて。かけられた言葉の意味を考えようとしなかった。そこに込められている思いを知るのを怖がって。
「私、ずっと嫌われてると思って……」
「そんなこ、……。……いや、そうか……」
何かを言いかけて苦虫を噛み潰したような表情になるファウスト様を濡れたまつ毛をパシパシさせて見つめる。額に手を当てて体ごと斜めを向いたファウスト様は随分と居心地が悪そうだった。
「……君を嫌いになることなどないよ」
それだけで充分だった。これまで膝を抱えて丸まっていた自分を掬いあげてもらえるような心地がした。ぼろりと大粒の涙が零れて、溢れる。
「な、泣くのか……」
ギョッとして狼狽えるファウスト様が何だか可愛らしくて、ポロポロと涙を零しながら笑った。
◆◇
随分時間がかかって運ばれてきた紅茶を前にわぁ、と小さく感嘆の息を漏らす。花の形をした結晶砂糖の紅茶はそれだけで華やかで綺麗だった。目の前でキャラメルティーを口元に運んでいたファウスト様がふっと頬を緩める。
「それ、君が好きそうだと思ったんだ」
店を探しながら通りを歩いていた時にショーウィンドウで見つけたそれを目印にこのお店を目指してきたんだという。最初からこれだけを目当てに。そう思い至ると何だか無性に恥ずかしくなって顔を伏せた。私は自分のことで頭がいっぱいだったのに、ファウスト様はそんなことまで。
「……結構日が傾いてきたな」
いつの間にか雨の上がっていた空から西日が差している。鮮烈に光る橙色の輝きを眺めながら手に持っていたカップの取っ手をキュッと握り締める。
「……もう少しだけ」
ファウスト様がこちらに視線を向ける。眩しそうに目が細められる。
「もう少しだけ、ここにいていいですか……?」
恐る恐る問いかけると、サングラス越しにゆったりと双眸が穏やかで優しい光を帯びて。
「ああ、構わない」
―――沈黙はもう、重たくも苦しくもなかった。