I foud…1.I looking for…
その日は酷く風が爽やかだったことを覚えている。
海辺の街、名前こそ忘れたがそこまで遠くに来たような気はしなかった。
――――
懐かしい夢を見た。
それは幼い頃に何度も何度も開いた絵本のお話だった。
寂しい海の底で1人泣いている人魚の御伽噺だ。
「みんなと違うから、私はこんなに苦しいの?」
彼女は群れと馴染めず、誰もいない岩場で1人空を眺めていた。
そんな人魚は陸に住む少女と出会う。少女は穏やかで夢を見がちで、何よりも幸福だった。
人魚は彼女のように自由になりたいと思った。
太陽の温かさを知ってしまった人魚は海の冷たさの中で生きることは出来ずに、人間の少女と幸せに暮らしたのだった。
――――――
重たい瞼をこじ開け、カーテンの隙間から漏れ出た日光を睨みつける。
夏が待ちきれずに顔を出した正午、幼馴染からの「海いかない?」という連絡がスマートフォンを揺らした。それを見た藍音はベッドから飛び起き、いつもよりもラフなパンツに履き替える。
行く!のスタンプを返してからわずか15分で通知欄を独占する量のチャットが雪崩込む。着いたなら1回電話をしてくれればいいのに。そう不満を垂らしながらスマホと手近な小さなショルダーを掴んだ。
頼りない欄干越しから、呆れた声がダダ漏れの友人たちを乗せた車を眺める。
近所に少しだけ気を使いながら彼女はゆっくりと階段を降りていく。5月特有のからりとした空気を吸ってから車に乗り込んだ。
苑原藍音は、都内に暮らすOLだった。
平日は朝早くから夜遅くまで会社で過ごし、下手をすれば家に帰らずに会社で朝を迎えることもあった。だが歳を重ねるごとに自分の人生はそんなものだと思えるようになっていた。
そんな生活を繰り返してはいるがオフの日はしっかりと楽しむことがポリシーで、仕事の事は頭からすっぽり投げ捨てる、と決めている。今日はそんな日だ。
小陽美と颯希の2人は、藍音の幼馴染で、ランドセルを背負っていたころからいつも3人で並んでいた。それは社会人になり、2人が同じ苗字になった今も変わりない事実だ。
ーーー
2人がトイレを探しに行く頃、藍音はふと口寂しさを感じた。コーヒーでは誤魔化しきれない口寂しさだ。
この街は町内全域に路上喫煙禁止の条例があるようだ。
今は閑散としているが夏には観光客が増えるのだろう。
景観の観点か、それとも管理の問題かは分からないが喫煙のできる場所が少ないのだ。
藍音は辛抱できずほんの少しの罪悪感とともに、手近な裏路地へと滑り込んだ。
目に付いた路地の裏手には先客が居たようで、藍音はちょっとだけ罪悪感を和らげる。しかし、気配のするものの煙を吐き出している様子はなかった。
不思議に思いつつ、取り出したタバコに火をつけるとその影は顔を上げた。
「その、もくもくしたの、なぁに?」
その人影はどうにも浮世離れしていて、不思議な雰囲気を放っていた。
呑気な声を上げたその影は座ったままこちらをじっと見つめていた。
「あなたのそれ、なぁに?」
突然見知らぬ人に声をかけられたことに驚きつつ、咎められると思った藍音はすみません、とだけ伝え火を消そうとした。
「すみません?それはすみませんっていうの?」
それからすみません、と呟いて何かを考えているようだった。
「いや、これはタバコで……」
藍音はちょっとだけ面倒そうに答える。
「たばこ……そのもくもくしているのが?」
「これは煙。火をつけると出てくる気体のこと。」
「けむり!ひ?こんなにちいさいの初めてみた!」
りんかが見たのはこんなに大きかったの!と無邪気に騒ぐ姿はとても異質だった。
どこか店から逃げ出したのだろうか。服には土埃がついていて、傷だらけの足を見るととても街中を歩けるような格好ではなかった。
「じゃあ、あれ、なんて書いてあるの?」
路上に掲げられた看板を指さす声はとても愉快で弾んでいた。
「タバコ、きんし…」
藍音が答えるとその人物は無邪気にもたばこきんし!と繰り返す。何となく責め立てられているような気持ちになった。
「どうしたの?」
さっきまで楽しそうに辺りを見回していた人物は心配そうに藍音の顔を覗き込んだ。気づかぬうちに藍音の足元まで近づいていたらしい。
ばち、とぶつかった視線に引き込まれる。その目は蒼く澄んだ瞳だった。
「あおい……」
藍音は思わず声が漏れた。
「あおい!?」
その蒼い瞳を丸くして声を上げる。
「りんか、あおいを探しているの!」
よく分かったねぇ、なんて呑気な声で笑う人物はどう考えても迷子と呼ぶにはあまりにも背が大きい。
「あなた迷子?いくつなの?」
迷子は何かを言いかけて口を窄めた。
「でも、あおいが知らない人には教えちゃダメって言ってたから……でも聞かれたから答えなくちゃダメだよね……?」
1人でぶつぶつと悩む姿に少し苛立ちながら藍音は続ける。
「そのあおい?って人は誰なの?家族?どういう関係?」
「あおいは、色んなことをおしえてくれる人!あなたと同じくらいのとしなんじゃないかなぁ。人の年齢って難しいよね」
あははなんて能天気に笑えば全て解決するとでも思っているのだろうか。とにかく警察に連れていくべきだろうか。藍音は必死に思考をめぐらせながらも人物の情報を集めることにした。
「わかった、えっと、あなたの名前は?」
警察に連れていくにしても身元が確認できなくてはならないだろう。見たところ手荷物も何も無いようだが、現代社会を生きる上では身分証は必携アイテムのひとつだ。いくらなんでも持っているはずだ。
「りんか!」
「りんか、免許証は持ってる?」
「めんきょしょー?」
りんかの頭上にはてなマークがたくさん浮かんでいるように見えた。
「なにか、名前が確認できるものは?」
りんかは少し悩んでから「りんかです!」と元気に答える。
これは思いのほか大変な人物に絡まれてしまったかもしれない。最後にこれだけはあってくれ、と願いながら藍音は問いかける。
「帰る家はあるの?」
―――――――――
行きには余裕のあった車内が、少し窮屈に感じた。
それは、さっきからなにこれー!や、あれなにー?などと騒がしく存在感を放つ者が1人増えたからだ。
あの後路地で煙草を吸っていた所を小陽美に見つかった藍音は、一通り小陽美からお説教を食らった後にりんかと名乗る人物のことを説明した。
「ふーん、りんかね。」
小陽美はりんかと名乗った人物をまじまじと見つめるが、りんかは先程と打って変わって大きな袖でもじもじと顔を隠す。
そんなりんかを見た小陽美は「うん、合格」と呟く。
「とりあえず、そろそろ出ないとだけど。」
立ち上がり大通りに向かう小陽美は振り返りながら続ける。
「あなたも来る?」
その言葉を聞いた藍音と颯希は顔を見合せた。
――
藍音も決して大人しい性格ではないが、ここまで騒がしくできるのはある意味天才だろう。まるで初めて世界を見るかのように、りんかは窓の外の風景に夢中だった。
名前を交したにもかかわらず小陽美と颯希に警戒をしていたりんかは、次第に2人に対しても心を開いたようだ。2人は楽しそうなりんかを微笑ましそうに眺めていた。
しかし、体力はあまりないのだろうか。りんかは30分も騒ぐと次第に言葉が要領を得なくなる。
「眠いの?」
目を擦りながらもりんかは首を振る。
「ねむくない」
強がってはいたが火を見るより明らかだった。
「眠いなら無理しないで寝なよ」
静かになるし。言わないけど。
次第に降りてくるりんかの瞼をみて、藍音はクスリと笑う。
「肩貸そうか?」
りんかの頭に手を伸ばすと、りんかは反射的に肩を竦めた。
「ごめん、りんか、触れない」
先程の初対面の小陽美や颯希に対する態度や人気の無い路地裏に居たことから、なにか事情があるのだろうと藍音は思った。
りんかは眠気に耐えることが出来なかったようで、藍音とは逆の窓の方へ寄りかかるように重心をずらして行った。
助手席でその様子を見ていた小陽美は口を開く。
「その子、どうする?」
その子と呼ばれたりんかはどう見ても、自立していてもおかしくない年頃だった。
「家がない、みたいだし……」
頭を抱えた藍音は改めて、りんかと名乗る人物に向き合う。
髪は傷んではいるものの透き通るほどに蒼く、肩より下まで伸びた髪は山吹色のリボンでラフに纏められていた。
肌は白く、先程まで開かれていた瞳はまるで宝石のように澄んだ蒼だった。栄養状態が良くないのか少し血色が悪く、車に乗る前に拭いた為今は綺麗になったが素足で歩いていたようで足も傷だらけだ。
持ち物を改めたがやはり身分証の類はみつからず、スマートフォンなどといったものも所持していない。それどころか初めて見た様子だった。
女性ものの袴を着てはいるが、中に着ているシャツは男性のものだった。それがあまりにもちぐはぐで不気味だった。
それに窓の外の風景や藍音たちの持ち物を見た時の反応はまるでタイムスリップしてきたかのような……。そんな御伽噺のような思考を藍音は振り切る。
りんかについて思考を巡らせている藍音をミラー越しに眺めた小陽美は、少し考えてから振り返り藍音を見つめる。
「藍音、しばらく面倒見てあげたら?」
その言葉に藍音はぎょっとする。
「嫌だよこんな身元もわかんないの。下手したらやばい人たちに捕まるかも知んないじゃん。」
そうは言うものの長年の付き合いの小陽美と颯希だからこそ分かる。藍音はりんかを放って置くことはしないのだ。
「まぁ、この間まで付き合ってた、ほら……恋人とも別れたんだし部屋空いてるでしょ」
すこしごもりながらも颯希が続ける。
「この子騒がしいし、気も紛れるよ。きっと」
小陽美も頷く。
「…でも、この人の意思もあるだろうし…仮にも独身女性なんだけど。」
さすがに得体の知れない人物を家に置くのは多少なりとも勇気がいる。改めて観察するが、りんかの顔つきは中性的で性別もどちらとも言えない。所持品はなし、更には泥まみれの服を着ている。
身体を調べようにも、触れるなと言われれば―そもそも許可もなく他人の身体に触れる様なことは流石にしないが―その術が今の藍音にはなかった。
そんな藍音をバックミラー越しに見た小陽美と颯希は、互いに顔を見合せてからナビに藍音のマンションの住所を入力する。
「とりあえずさ、話聞いてみようよ。」
小陽美の声に応えるかのようにETCの音が車内に鳴り響いた。
――
「着いたよ」
颯希の声にいつの間にか眠っていた藍音が目を覚ます。隣を見ればりんかは既に目覚めていたようで、窓に張り付くように外を見ていた。途中で買い与えられたらしきハンバーガーを頬張りながら、りんかは興奮を隠せずに藍音に詰め寄る。
「これなあに?おっきいね」
藍音のマンションを見て騒いでいたらしい。
「これからあなたが暮らす場所だよ」
「りんかが?ここに?」
そう、なんて言う小陽美の顔は庇護欲に溢れていたが、そのやり取りを聞いて藍音は血の気が引いた。
「まって、私一緒に住むとか決めてないんだけど!」
慌てて車を降り、小陽美に詰め寄る。一方の小陽美は飄々とした態度で
「とはいえ、このまま捨て置く訳にもいかないでしょ?それに、実はタイプなんじゃない?」
藍音は思わずむっとする。タイプではないし、得体のしれない人物を家に置くほど義理に厚いつもりもない。反論しようとすると、車の窓を器用に開けたりんかが不安そうに見上げる。
「りんか、じゃま……?」
それを見た藍音と小陽美は顔を合わせた。
「それにどうせ部屋散らかってるんでしょ?色々やってくれる人がいた方が私達も安心だし……。」
ね?
その顔に藍音が逆らうことが出来ないということを小陽美はわかった上でやっているのだ。
渋々ではあるが、家事代行を雇ったと思えばいい。どうせほとんど空けたままの家だ。
小陽美は藍音とりんかを藍音の部屋へと押し込むと、颯稀の運転で買い出しへと向かう。
必要なものをと言うよりも、小腹がすいた自分たちのための買い出しだ。
話を聞けば、りんかはここ数日まともな食事を摂れていないとのことだった。顔色が良くないのも頷ける。
車内で苦手なものを聞いたが、よく分からないと言っていた。
仕方が無いのでひとまず目に付いたドライブスルーのファストフード店で購入したバーガーを与えたところ、初めて見たかのように喜びあっという間に平らげてしまった。
その様子があまりにも心地よく、思わず自分たちの分まで与えてしまった程だ。
買い出しを終え、藍音のマンションの駐車場へと車をつける。
エントランス前にピタリとつけた颯稀は小陽美に軽食の入った袋を預ける。
「少しは2人で話せたかな」
「さぁ?でも藍音だって前を向いた方がいいと思うよ」
それだけ残し、車のドアを閉める。
エレベーターを降り、藍音の部屋の扉を開けると同時に小陽美の耳に大きな声が響く。
「いやだ!!」
涙を浮かべているりんかが叫びながら扉の方へと向かってきていた。
「藍音?何してるの?」
子どもの頃のように藍音を叱りつければ、藍音は癖のようにピタリと止まる。
「違うって、服が泥だらけだから洗ってお風呂に入れようとしただけ!誤解!」
「」
小陽美がりんかの手を優しく包もうとすると、りんかはあちと声を上げる。
小陽美が触れたところが赤くなると同時に、小陽美は思わず手を引っ込める。人とは思えぬ温度だったのだ。
「り、りんかごめんね!大丈夫?」
「大丈夫……ごめんね、りんか、さわれないの」
車内で呟いた「触れない」とはこの事だったのか、と小陽美は納得した。
ーーー
りんかがお風呂に入ってる間、小陽美と颯稀は藍音に向き合う。
「あの子、どこから来たとか聞けたの?」
そのーーー
「わかんないって。」
「正直、あんまり詮索しないよ。聞いて欲しくなさそうだし。」
「2人が言ったんだよ?置いてあげなって。私は別に家事してくれるなら男でも女でもいいし、なんだっていいよ」
「と、とりあえず本人に聞いてみようよ」
「なんて聞くのよ?人間ですか?って?」
「りんかのこと?」
この声に3人は同時に振り返る。
「りんかはりんかだよ」
ーー
「りんかは、もっと深くてくらいところから来たの」
「でも……みんなのこと、だいすきだけど……りんかはアオイの言葉しか信じちゃだめなの。だから、りんかはりんかのことをみんなに言えない。」
「アオイはりんかの……わかんない、でも、りんかってつけたのはアオイだから、アオイの言葉は絶対……」
「知られちゃだめなの。アオイがそう言ったから。」
「アオイともっといっしょにいたくて来たの。でも、アオイは来てくれなかった。だから頑張って足を貰ってきたの。」
「アオイを探したいの。ずっと探したのにいなかったから、もっとたくさんのところ探したいの。」
ここまで静かに話を聞いていた藍音はやっと口を開く。
「わかった。どうせ行くところもないんだろうし、探すことは手伝えないけど家にいていいよ。」
「りんか、ここにいていい?」
「いいよ、仕方ない」
その代わり、とつづける
「私がいない間好きにしていい代わりに家事をやっておくこと、それが条件」
「かじ?家を燃やすの?」
「その火事じゃなくて……」
あまりの言葉の通じなさに頭を抱える。
「ごめんね、りんか頑張るから……だからここにいさせて?」
不安気にゆれる瞳に吸い込まれ藍音は抗うことが出来ない。
2.I saw the sea.
遠い秋の空の下、すぐ隣で鳴り響くはずの波音がやけに遠くに聞こえた。
「こんにちわ、人魚さん?」
美しい黒髪とちらりと覗いた白い肌がほんのりと紅に染まる。まるでおもちゃを見つけた幼子のようだった。
あ、逃げなくちゃ。
人魚の脳が命を伝達するのを感じる。しかし、それよりも強い力で惹かれた。
頬よりも紅い唇が動く。凛とした確かな声で紡がれた音は
「あなた、お名前は?」
とハッキリと人魚の耳に届いた。人魚はぱくぱくと口を動かすが、ここが海中ではないことを知り絶望した。
「あ、蒼い。」
人魚がこの音を知るのはもっと先の事だった。
――
元来、凛架たちは海底の奥深くに住処を持つ種族であった。地域性はあれど様々な文化を築き上げてきた。
特に多いのは、きらびやかな街並みや派手に着飾る文化だった。
凛架の家系も例に漏れず、華やかな街の一角に軒を連ねていた。外を歩けばしゃらんと音を立てて泳ぐ、優雅な人々が行き交う。
凛架はその風景が憂鬱で仕方なかった。景色自体が嫌いな訳では無い。凛架が苦手とするのは「同調」であった。
いつもと変わらぬ憂鬱な朝だった。
街ゆく影の騒々しさに揺り起こされた凛架は、重い瞼をなんとかこじ開ける。
昨晩もゆっくりと眠ることは出来なかった。
凛架は重い体を起こし、乱雑に落ちていた服を拾い上げて袖を通した。扉の横にかけられた姿見で跳ねた髪を整えてから部屋を出た。
○○の横を通ると、鏡の中の自分にしか興味が無いと思っていた母がこちらを一瞥し鏡へと視線を戻す。
「あなたはいつまでそんな格好をしているの?」
凛架は口を開きかけたがそれをやめ、母に背を向ける。
「いってきます」
それだけの言葉と、大きな声をだす母の言葉を残して扉を開けた。後ろから何か聞こえた気がしたが、振り返る気にもならなかった。
凛架は静かな高台に腰をかけて流れるていく同族たちを眺めることが好きだった。誰も自分に見向きをしない世界。それがとてつもなく安らぐのだ。
おかしな話で誰かに気づいて欲しい、認めて欲しいと思う一方、誰にも気づかれたくないと思っている。こんな矛盾した自分が何よりも嫌いだった。
遠くの街を眺めれば濁った様にも見えた。
「この先なんてあるのかな。」
伸ばした指の向こうを眺めても何も変わらなかった。
――
サチコは今日もこっそりと屋敷を抜け出した。
幼い頃から御伽噺がすきで、いつも頭の中に思い浮かべては空想に耽ることが日課だった。
たまには違う場所で
運命に出会った。岩場に腰をかけていたのは本物の人魚のお姫様だった。
人魚はどこか寂しそうに遠くを眺めていた。初めてサチコの顔を見たときは大きな蒼い瞳が宝石のようにぽろっと零れそうになるほど目を見開き、ぱくぱくと口を開閉させる様は観賞魚のようだった。
風に靡く翠玉の髪は短く、波のようにさらりと流れた。
帰ってからサチコはお父様の書斎に忍び込む。慣れた手つきで茜色の古い伝記を引き出す。昔から何度も繰り返し読んだ本なら、目録など見ずともお目当ての頁を開くことが出来た。ぺらりと頁を捲ると、禍々しい挿絵と共に魚人の言葉が連なる。
その頁をさらりと撫でると「不老」の言葉に指をとめた。頁の頭には「高値」という言葉が綴られていた。
やはり、彼女のことは誰にも口外してはならない。そう誓ったのだった。
それから来る日もサチコは海辺へと向かった。人魚の姫がまた現れるかもしれないと、心を踊らせながら。しかし人魚は気まぐれのようで、数日に1度顔を見せるだけだった。
人魚は言葉が上手く話せないようで、口をぱくぱくしながらあーだとか、うーと音を発していた。
凛架は無意識に山吹の髪紐へと手を伸ばす。
アオイが身につけていた色を纏えば世界が広がるようだと思ったのだ。
しかし、そんな単純なものでもなくじわりと凛架の心は悲しみに染まっていく。
3.You'll be alone.
「藍音、あのね、りんかのほんとの名前ね」
耳打ちされた言葉を藍音は繰り返す。
「うん、呼んで?」
躓きながらも藍音は何度もその名を口にする。
それを聞いりんかは幸せそうに笑った。
「ありがとう。生まれ変われた気がする」
「大袈裟だなぁ」
くくっと藍音は笑うとつられてりんかも声を上げて笑った。
「藍音にとってはそうかもだけど、りんかにとっては大切なことだよ。大切の重さは人それぞれだってアオイも言ってたよ」
確かに、と藍音は呟く。
「ねぇ、藍音、りんか、ほんとは海のお姫様だったらどうする?」
「え〜姫って感じじゃなくない?」
「もしもだよ」
「ん〜これまでの家賃として竜宮城くらい連れてってもらおうかな」
「じゃあ、お姫様じゃなくても海底に行けるとしたら?」
「泳ぐの上手いってこと?知らないこと沢山あるんだなぁって思う」
「全部を知るのはむずかしいよ。」
そういえば、と藍音は体をおこす。
「サチヨさんの作品に人魚のお姫様のお話があってさ。」
幼い頃、藍音が焦がれた物語をゆっくり、丁寧にりんかへ説く。
「ねぇ、藍音。藍音がこのお話に名前を付けるなら、なんて呼ぶ?」
薄暗い部屋では、藍音の瞳がぼんやりと映える、なんて凛架はうっすら思う。
「う〜ん。そうだね。」
少し考えてから、藍音は続ける。
「アイ、かな。人魚のお姫様が自分と、愛を探すお話だから。」
「アイ、かぁ。そっかぁ」
ふふ、と凛架はこぼしてから手を伸ばす。
凛架の指先は、藍音の額に触れるとぴくりと震える。
初めて触れた凛架の手は冷ややかでここちよかった。
「おやすみ、藍音。また――」
凛架はいつもと違う声色で語る。冷たくて、何処か寂しげで、心地よい、まるで凛架の手のようだった。
次第に、藍音の瞼は意思と反して落ちていく。
「凛架、まだ、もっと……」
聞きたいことが、あるはずなのに。
知りたいことが、沢山あるのに。
上手く回らない口を、必死に動かそうとするが、藍音は深くまで落ちていく。
まるで、冷たい海に沈んでいくように。
「また、あそぼうね。」
凛架の声を遠くに聞きながら、藍音は意識を手放した。
凛架は赤くなった指先を満足気に見つめてから目を閉じる。
自分が探していたものは、もう触れることは叶わない。
それでも、アオイが残した、確かな愛に触れることができたのだ。
きっと、物語だったらこれ以上ないくらいの幸福な終幕だろう。
だから、凛架も進まなくてはいけないのだ。
柔らかな日差しが差し込む部屋に、耳障りな電子音が鳴り響いた。
藍音は、久しく聞いていなかった音に顔を顰める。
「凛架。うるさい。止めて」
不機嫌に、それでいて微睡んだ声色で隣に手を伸ばす。
しかし、そこにあるはずの温もりはなく、冷たい空気だけが残っていた。
「あれ、凛架?」