君の好き嫌いを克服させる、唯一の小気味いい咀嚼音が二人分。それと、一冊の本がごくゆっくりと捲られる音だけが部屋に響く。
外はよく晴れているにも関わらず、年頃の少年二人――行秋と重雲は、使用人の出入りすらない行秋の自室で遅い昼餉を摂っていた。
乱雑に置かれた本の山を避けて作ったスペースに用意したテーブル、大した数もない皿が決して大きくないその卓上に所狭しと並べられており、どの皿にもスティック状に刻まれた新鮮な野菜が盛り付けられている。
今朝、石門の茶屋で行秋と待ち合わせの約束をしていた筈の重雲が、どういう訳か璃月とは真逆のモンド方面から、大量の採れたて野菜を手に石門へ到着した。アカツキワイナリー所縁の者から半ば押し付けられるように頂戴したという。
両手いっぱいに大根、キャベツ、人参と、おまけにもらったらしい一瓶の葡萄ジュースをかかえ、瑠璃百合色の少年は怪奇関連の依頼をこなした後の報酬云々の話になったときのような、何一つ納得できていない顔を浮かべて困っていた。
「何をしたらそんなにたくさんのお土産がもらえるんだい」
「……ぼくが聞きたいくらいだ」
無妄の丘へ向かう予定だったのが思わぬ手荷物により璃月港に戻ることとなり、「せっかくたくさんあるのだから少しお裾分けしよう」と思い立ち、真っ先に向かった万民堂。生憎と香菱は留守であったが、店主である彼女の父親に手渡した野菜の出所と事情を説明すると、大喜びで野菜を受け取り、せめて礼にと娘の友人達が持ち帰る分の野菜を食べやすいように刻んで持たせてくれた。
かくして予想以上に手荷物を軽くすることに成功した少年達であったが、時刻はちょうど昼餉時。人気料理店に人が集まり始めるのを見て、場所を変えるべきと判断した行秋は、賑わいとやや強い日差しでふわつき始めた連れの手を引いて緋雲の丘の自宅へと歩を進めた。
豊富な水分が今にも滴りそうなスティック野菜を次々と頬張っていく。風と清泉の恩恵を一身に受けて育てられた大地の恵み達はシャキシャキとした歯ごたえと瑞々しい甘さで育ち盛りの胃袋を満たしていく。
気の置けない無二の存在と二人きりというのは、普段は品行方正な行秋から行儀作法を取り上げるのに充分な状況下であった。大きめの長椅子にゆったりと身を預け、先日万文集舎で購入したらしい本から視線を外すことなく白と若葉色を選んで口に運ぶ。
一方で重雲はそんな行秋の様子をただ無言で‘観察’しながら、鮮やかな赤紫色が並々と注がれたグラスを傾けた。透明な氷同士がぶつかり合い、カラリと音を立てる。
行秋の手がテーブルの皿へ伸びる。大きめに切られたキャベツの葉を一切れ摘まみ、そのまま口へと吸い込まれる。視線は相変わらず本に向いたまま。
本が汚れるのを避ける為か、皿の横に用意された調味料が使われた形跡は無い。食事の折には濃い目の味を好む彼だが、どうやら読書への渇望がそれを上回っているようだ。
皿の野菜たちに目をやると、ここまで一切選ばれることなく残っている橙の比率が目立っていた。本の世界にいる部屋の主に気取られないよう、重雲は小さくため息をつく。――行秋は大の人参嫌いである。
過去に、毎度姿形を変えて食卓に出現する人参について、これでもかと言うほどに愚痴を聞かされたことがある。重雲自身も食に対する好き嫌いはあるものの、そのほとんどが持って生まれた体質が災いするが故であり、「味や匂いが受け付けない」と理由づけた彼にその場では相槌を打ったものの、何とかして息子の好き嫌いを無くさせようとあの手この手と奮闘する彼の母君の姿を想像し、やるせない気持ちを抱いたものだ。
未だ陽の気が冷めやらないまま、人参を一つ摘まんで口へ運ぶ。音を立てて折れるそれをゆっくりと味わいながら咀嚼する。
こんなにおいしいのに。
ぼんやりする頭で思考を巡らせた。
本の世界の住民と化した今なら何を食べても味なんてわからないのではないか?
一口食べて、気にならないようであれば。もしかしたら。
それに、せっかく二人きりでいるというのに、もうずっとほったらかしにされている。
行秋の好き嫌いを克服する為のきっかけ、そして本より自分に関心を向けさせる為の案が頭に浮かぶ。普段なら決して仕掛けることはないそれは、果たして観察行為に飽きたからか、または魔が差したとでも言うべき拙い悪戯か。名案だと思っているのは重雲だけであり、そしてそれが‘悪手’であることに、残念ながら気付けない。
一口で収まる程度の人参を口に含んだまま重雲は椅子から立ち上がり、相変わらず長椅子でくつろいだままの行秋に近付く。
行秋と本の間に身体を滑り込ませ、呆けて半開きになった唇に己のそれを重ね合わせた。
一気に現実に戻されたのと、どれだけ思い返してもほぼ無いに等しい‘重雲からのお誘い’に目を瞬かせた行秋だったが、さすがに本にのめり込みすぎたかとすぐに我に返った。
お詫びの意とこれより始まる甘美な時間に心を躍らせつつ、押し付けられた柔らかなそれに応えようとして――口の中に押し込まれた固形物に目を見開いた。
噛まずとも何が押し込まれたかなどは匂いですぐにわかる。差し込んできた張本人に押し返そうにも受け入れてもらえず、互いの舌が絡み合い唾液が口の端から零れ落ちるままに。
甘く蕩けた薄水色の瞳はそれでも「口内のものが無くなるまで放さない」と言わんばかりにじっと見つめてくる。半ば観念したように、行秋は口の中の人参を噛まずに飲み込んだ。中途半端に焚きつけられた身体の熱とは裏腹に、気分は最悪だ。
拘束が解かれた身体を起こし椅子から立ち上がると、まだ口をつけていないグラスを呷り、解けかかった氷によって色味が薄まった葡萄ジュースを一気に流し込む。
「……そんなに嫌いなのか、人参」
そんな行秋の背中を、彼のぬくもりが残る長椅子に身を横たえたまま眺めていた重雲が口を開いた。
――ピクリと反応し、ゆっくりと振り向く行秋。その目が完全に据わっていることに気付いた重雲は、逆上せた頭で踏んではならない地雷を踏み抜いてしまったことに漸く気が付いた。
「……僕に構ってほしくて誘ってくれたと思ったのに」
半分はそれもある。と言おうとしても、「言い訳は聞かないよ」と仰向けにさせられ、長椅子に縫い付けられる。
――僕を怒らせたらどうなるか、知らない君じゃないだろう。
覚えの悪い方士様にはどうやらお仕置きが必要なようだね?
目だけが笑っていない微笑みのまま耳元でそう囁かれ、これから人参を見る度に今日の出来事を思い出す羽目になるのだろうか、などと考えていた重雲だったが、濡れそぼった唇を貪られ、身につけていた服が寛げられるのを火照った肌で感じ取ると、思考は甘い痺れと共に徐々に波に攫われていった。
水音と二人分の熱が部屋を満たすまで、そう時間はかからない――。