加減しらず よく晴れた秋の昼下がりのことだった。
髭切は鶯丸に連れてこられた手入れ部屋を覗き、その中にいるものを確かめるとわずかに目を見開いて固まった。しかしそれもほんの少しの間のことで、普段より低い声で鶯丸に確認した。
「……よくあるやつだね?」
「ああ、よくあるやつだ」
どこかおもしろがっているようにも聞こえた、と後に語ったのは室内でふたりを待っていた大包平だ。手入れ部屋で起きた異変に最初に気付いたのが古備前のふたりだったため、鶯丸は髭切を呼びにいき、大包平はその場に残ったのだ。その異変、ふたりの言う“よくあるやつ”のために。
そのよくある異変の当事者は、それまで大包平を盾にするようにしてじっとしていたのに、髭切の声に「あにじゃ?」と反応した。
舌足らずにも聞こえた呼び方に髭切はふにゃりと笑うと、その場にしゃがんだ。
「そうだよ。おいで、弟」
言うが早いか大包平の背後から飛び出してくる影があった。その小さな影はぶつかる勢いで髭切の目の前にやって来ると、髭切と揃いの色をした目を輝かせた。
「おれのあにじゃだ!」
「ふふ、そうだよ。お前は随分とかわいらしくなってしまったねえ」
ぷにぷにだ、と頬をつつくとその手を払い除けようとしながらけらけら笑っている。まるで人間の子どもだ。思考も姿の年齢に準じているようだ。
バグとか不具合とか呼ばれるよくある異変——様々な事例が報告されているが、今回は膝丸が幼くなってしまったらしい。
幼くなってしまった膝丸は兄にべったりで、それは特に驚くことではなかったが、皆がぎょっとしたのはその兄が小さな弟には大甘なことだった。決して普段が冷淡だったわけではないが、それにしてもここまでデレッと相好を崩すのは見たことがない。
普段から薄く笑みを浮かべている顔も、高い声で「あにじゃ」と呼ばれれば一層甘やかに目を細める。弟を抱き上げて、首に短い腕を回されると小さな頭に頬擦りする。いつもは弟が兄を探していたのに、今はその必要はなさそうだった。膝丸が兄にべったりというより、髭切が弟にべったりしているのかもしれない。
「大抵は一日で治まるんだがなあ」
「今回のは長いな」
竜胆の咲く庭を手を繋いで散歩する兄弟を見やって、鶯丸と大包平はそんなことを話した。ふたりが時間を過ぎても手入れ部屋から出てこない膝丸を見にいって異変に気付いたのが三日前、幼い膝丸を「よくあるやつ」ですんなりと受け入れた刀たちでも少し心配になってくる頃だ。
「一番長いのはどれだったか」
「お前が一週間本当にウグイスになったときだ。昨日長谷部が言っていた」
「それはそれは。お前が少し丈が縮んだときは、半日もなかったからなあ……」
鶯丸がそうこぼした視線の先で、髭切が膝丸を抱き上げた。抱き上げられた膝丸はむすっとした顔をしている。今は抱っこされたい気分ではなかったようだ。対する兄は、むくれる弟にとろけたような笑顔だ。
「……髭切がああなるのは意外だったな」
半ば呆れたような声で大包平がこぼす。
「そうか?」
「意外ではないか? 鬼丸国綱もあの状態の髭切を見て顔を引き攣らせていたぞ」
「ははあ、そういうものか」
抱っこに不服そうだった膝丸は何か気が逸れたのか、遠くを指差して兄に一生懸命話しかけている。髭切はそれに応えると、じっとそのどこかを眺める弟の顔を見つめている。
「いつも、ああいう感じだと思うがなあ」
鶯丸の言葉に大包平は首を捻った。鶯丸は同胞の不可解そうな表情に少し笑うと、一面の竜胆の中に佇む兄弟へと視線を戻した。
「……随分とかわいがっているな」
夕飯のときにたまたま席が兄弟の近くになった鬼丸国綱は、弟の方を一瞥してから顔見知りの兄にそんなふうに声をかけた。兄の膝の上に座らされていた弟は鬼丸に見下ろされてびくりと身をすくめ、兄のシャツの袖を小さな手で握り締めた。しかし目は逸らず、鬼丸をじっと見つめている。
「いやあ、つい、ね」
髭切がのんびりと応えるまでに、鬼丸は「もう、そんなふうに上から話したら怖がられちゃうよ」と乱藤四郎に小言をもらっている。その乱が鬼丸の向こうから膝丸に手を振ると、緊張の面持ちだった膝丸の頬が緩んだ。それを見た髭切の目尻も下がる。
「……そっくりだな」
「ほんと、小さい膝丸さん、笑うと髭切さんにそっくり」
「ええ〜、そうかなあ〜?」
満更でもない様子で髭切が笑う、兄が嬉しそうで膝丸もつられて笑う。またその弟の笑顔につられて兄が相好を崩す……辺りがほわほわとでも効果音のつけられそうな空気に満ちてきたとき、乱がにこにこしながら言った。
「本当にかわいいよね、小さい膝丸さん。いつものキリッとしてるのももちろん格好いいけど、小さいと髭切さんにぴったりくっついちゃって」
「そうなんだよねえ、こんなに甘やかしたくなるなんて僕もびっくりしたなあ。でもほんと、かわいいなあ」
そうして弟の頭を一撫ですると、ここ一番のデレッとした笑顔で続けた。
「あんまりかわいいから、食べちゃおうかなあ」
その瞬間、それまでにこにこしていた膝丸の顔が固くなり、おやと思う間に唇が震え目が潤んだ。まずい、と思ったときには、大音量で泣き声が響き始めた。
「——なんだ、騒々しい」
「普段のお前も十分騒々しいぞ」
「やかましい!」
丁々発止のやりとりで大包平と鶯丸がやって来ると、膝丸は兄の膝から転がり落ちるように去り、大包平の長い脚に抱きついた。
「おい、どうした」
「これはこれは」
「こら、よじのぼるな」
大包平の脚に巻きつきながら這い上がろうとする膝丸に大包平が下がるズボンを引っ張って応戦する。鶯丸はそれを楽しげに見届けたあと、大包平の脚から膝丸をどうにか剥ぎ取った。涙やら鼻水やらの跡のついたズボンを見てまた楽しそうな顔をしながら、膝丸の背中をぽんぽんを叩いてあやす。騒音じみた泣き声は既に止んでいた。
自分のズボンの惨状に溜息を吐いてから、切り替えるように「おい、髭切」と話を聞こうとした大包平は、二の句が告げられなかった。
「……こいつの真顔は本当に久しぶりに見るな」
「膝丸さんに振られちゃったの、そんなにショックだったんだね……」
「むしろ初めてなんじゃないか」
「そっかあ」
鬼丸と乱が好き好きにそう言う間で、髭切が弟の小さな背中を見つめながら固まっていた。
夕飯が済んでも膝丸は髭切ではなく大包平にべったりだった。兄を見つけるとさっと顔を隠すようにして大包平にしがみつく。大包平はもう諦めたような顔をしたまま、ずっと膝丸を抱えている。
「ねえ、弟……」
髭切が回り込むようにして顔を覗こうとしても逸される。覗いては逸らされ、覗いては逸らされ、ぐるぐると髭切に周回される大包平の図を鶯丸は楽しくて仕方ないという心地で堪能した。皆もう寝間着姿で、あとは眠るばかりである。
結構な時間髭切は大包平と膝丸の周りをうろうろとしていたが、諦めそうにない髭切に大包平が限界を迎えた。
「髭切、今日はもう諦めろ。こいつはちゃんと預かって寝かせておく」
「えー」
髭切の不服そうな顔も珍しいものだが、そんなことよりも早寝早起きの大包平はさっさと自分の部屋に引っ込みたかった。それを分かっている鶯丸は面白いものを堪能できて大層ご機嫌だったので、兄弟分に助け舟を出した。
「なに、膝丸がこうなって最初に話したのも大包平だしな、お前の次に安心するんだろう。心配するな」
「えー、でも僕がいるのに……」
「その弟がこうなんだから仕方ないだろう」
大包平の言う通り、膝丸はぎゅっと大包平の首許にしがみついている。ちょうど夕飯までは、髭切がそうされていたように。
悲しげに弟を見て、諦めきれないとでも言うように逡巡したあと、渋々「それじゃあ今夜は頼むよ」とだけ言うと、髭切はとぼとぼと弟と使っているはずの自室へひとり戻っていった。その意気消沈を絵にしたような後ろ姿を見送ってから、大包平は鶯丸に小さな声で話しかけた。
「お前、あれでも意外じゃないと思うのか?」
「うん? そうだなあ……」
髭切がいなくなった気配を感じたのだろう、ずっと大包平の肩口に額を押し付けていた膝丸が顔を上げた。そうして身を捩って、兄のいなくなった廊下の先を見つめる。きゅっと口許を引き締めながら。
それを横目に見て、鶯丸はひとつ頷いた。
「もう意外を通り越して愉快だな」
「お前な……」
いつもはふたつ布団を並べて眠っていたが、弟が小さくなってしまってからはひとつでよかった。膝丸は兄と一緒の布団で寝ることに嬉しそうにしたからだ。
髭切も弟に腕を回して、その弟が一日にあったことを思い出しては話すのに相槌を打った。そのうち声も話す内容もぼんやりしてきて、いつの間にか寝息になっている。安らかな寝顔を見つめてから、髭切も目を閉じる。弟ってかわいいなあ、と思いながら。
それもたった三日だけのことだ。これまでは自分よりほんの少し背丈のある弟を、かわいいと思わなかったわけではないが、こんなに甘やかしたいという気持ちになったことはなかった。普段の弟は自分の片割れとしての自負のためか、自分の世話を焼くように先んじて動いていることが多いし、あれだけ大きいと表立って甘やかすのは難しいのだ。だから、素直に自分に甘えにくる弟への物珍しさもあってか、気持ちが抑えられなかった。
そしてその素直な弟の明確な拒絶に、ここまで傷付くとは。
そもそも普段の弟にもあんなふうに拒絶されたことなんてない。もしそんなことがあったら……そこまで考えて髭切は「いけない、いけない」と思い直した。このままでは鬼になりそうだ。もっと大らかにいこう。
しかし、大らかにいこうにも、弟がいないのでは……もう何度目かの堂々巡りを繰り返す思考から抜け出せず、髭切は寝返りを打った。床についてからどれくらいだろう。膝丸があの状態の間は髭切もずっと非番の予定だが、寝不足は避けたい。
でもこういうことを考え出すと余計眠れないんだよねえ、なんて思ったとき、部屋の戸の向こうから気配がした。
相手は時間が時間だからか足音は抑えているが、別に忍んでいるつもりではなさそうだった。髭切がわざと音をたてながら身体を起こすと、小さな声で「髭切、今いいか」と声をかけてきた。
戸を開けてみればそこにいたのはやはり大包平だった。髭切は「どうかしたかい」と同じく抑えた声で訊ねようとしたが、口を開いた途端身体にぶつかってきたものがあった。
それは髭切の腰許にぎゅっと抱きついてきた。見間違えるはずのない、小さくなってしまっている片割れについ触れようとして、直前で手を止める。すると大包平の方が口を開いた。
「寝ていたのだがしばらくしたら、兄者、と泣き出したのでな」
大包平の言葉に膝丸は髭切に抱きついている腕をぎゅっと強くしたあと、絞り出すように「泣いてはない……」と言った。それも顔を髭切の寝間着に埋めているせいで、ほとんど不明瞭だったのだが。
それでも大包平には伝わったらしく、赤毛の偉丈夫は昼間そうそう見せない優しげな表情で「そうだな、悪かった」と言うと膝丸の頭をがしがしと撫でた。
「こいつを届けにきただけだ」
「そう……ありがとう」
「いや、お前たちもさっさと寝ろよ」
そうして小さく欠伸をすると、大包平はまた足音を控えめに来た道を引き返していった。
これまでのように同じ布団に入って、ひしとしがみついてくる小さな背中を撫でていると、その手に促されるようにして膝丸はくぐもった声で「兄者は」と話し始めた。
「兄者は、俺を食べたいのか」
「……うん?」
どういうこと? と訊こうとする前に思い出すものがあった。
——あんまりかわいいから、食べちゃおうかなあ。
言ったな、そんなこと……と髭切は身体の力が抜けるのが分かった。横になっていたので大して変化はなかったが、弟の背中を撫でていた手は止まった。
ただの言葉の綾だったが、あれを真面目に受け取っちゃったのか、と髭切は自分の軽率さと、これまでも時々妙な具合に発揮されてきた弟の律儀さを思った。思い返すまでもなく、この小さな膝丸は、その髭切の無二の弟なのである。
兄の返事を待っているのか、膝丸は不安げに髭切を見つめている。自分と同じ色の目が暗闇の中で揺れているのが分かって、髭切はほのかに笑った。
「食べないよ、食べちゃいたいくらいかわいいけどね」
「やはり食べたいのか……」
「うーん」
難しいな、と髭切が次の言葉を探そうとしたところで、膝丸が「いや」と毅然とした声を出した。
「かわいいから食べたいのであれば、俺がかわいくなくなればよいのだ」
「うん?」
発想の飛躍を髭切が処理できないうちに、膝丸は勝気に眉を吊り上げて髭切に笑いかけた。
「兄者、俺はもっと勇ましく、強くなって、もう食べたいなどと思われぬようになる。手合せでもあなたに負けぬよう、すぐに追いついてみせるぞ」
「うんうん、そっかあ」
また妙な真面目を発揮し出した弟の言葉を、兄は慣れた様子で受け入れた。その様子に膝丸はやはり嬉しそうに笑って、
「そうしたら、兄者に食べられることなく、我ら兄弟はずっと一緒に並び立っていられるはずだ」
と弾んだ声を出した。
髭切は一度目を見開いたあと、それを甘やかに細めて、弟をぎゅっと抱き込んだ。弟はやはり嬉しそうな笑い声をあげて、髭切の背に細い腕を回した。
「お前は強くなるよ、僕の弟だもの」
「ああ!」
「だから、ずっと一緒にいよう」
うむ、という力強い返事を聞き届けると、髭切は弟の小さな頭に頬擦りした。
どん、と身体を押されて目が覚めた。
ぼんやりした視界は白んでいて、瞬きを繰り返すうちに朝の光が部屋に差し込んでいるのだと気がついた。布団から半分はみ出た自分の身体を起こすと、隣から「ううん」と低い声が聞こえた。
声の主である弟は寝苦しそうに眉根を寄せると、先ほどまでの髭切と同じように半分布団からはみ出た身体で寝返りを打った。長い前髪が顔の横に垂れて、形のいい額が露わになる。
今回のよくある異変は四日で終わったらしい。
髭切は弟の端正な寝顔を見下ろしながら、小さい弟かわいかったなあ、と寝起きのぼんやりした頭で思い返した。今すやすやと寝息を立てている自分より大きな弟は目を開けたらよく知った精悍な表情になって、もう昨日までのように眉を下げた笑顔を振りまいてはくれないだろう。
少し寂しいなあ、と思いながら髭切は膝丸の寝顔を見つめる。まだ安らかな眠り、上下する胸、布団の半分を占拠する長い腕と脚。
脚。
すやすやと眠る弟を見るうちに、自分が目を覚ましたきっかけが何だったのか、その理由に思い至った髭切は思わず微笑を浮かべた。
まだ眠りは深そうだが起こしてやろう。そう思って額をぺちぺちと叩いてやる。不機嫌そうな険しい表情になったがやめてやらない。
さっさと叩き起こして道場へ行くのだ。寝相で兄を足蹴にするくらい豪胆でかわいい弟と、手合わせをするために。