やまわらう 最初に異変に気付いたのは山姥切長義だった。本丸の位置する里山の、ひとつ向こうの山の頂上に、不自然にゆらゆらと揺れる影を見たのだという。
「通りすぎていくだけかもしれないが、警戒しておくに越したことはないだろう」
加州清光にそう伝えると、自身はへし切長谷部とともに審神者の短い帰省についていった。忠告はすれど本丸には残らないあたり、そこまで危険には思っていないのだろう。
俺も主についていきたかったな〜と思いながら、加州は何振りかに長義からの忠告を共有することにした。審神者が出かけるときは、古参の加州と長谷部のどちらかが本丸に残り、本丸運営の指揮を執ることが慣例になっている。今回は加州がじゃんけんで負けた。
「……で、一応気をつけておいてほしいんですけど」
「ありゃ〜、斬ろうか?」
「お兄ちゃん、話聞いてた?」
すっと刀を取り出している髭切にそう言うと、言われた方は「あはは」と笑いながら刀を置く。冗談なのか本気なのか、付き合いが長くなった今になってもよく分からない。
「気にしといてくれるだけでいいからね、まじで」
「はあい」
返事はしっかりしているが、分かっているのか、いないのか。大体今日はもう少ししっかり話を聞いてくれるはずの片割れがいない。兄弟で使っているはずの部屋の前、庭を眺めて座っていたのは髭切だけだった。
「膝丸はどうしたの」
「弟はさっきお茶を淹れにいって……あ、戻ってきたよ」
髭切が加州越しに廊下の向こうを見る。ちょうど角から膝丸がやって来たところだった。
「どうかしたか?」
訊ねながら兄に湯呑みを差出し、自分の湯呑みを加州に渡そうとするのを手で固辞する。伝達に来ただけだ、長居するつもりはなかった。
加州は手早く、先ほど髭切にしたのと同じ説明を繰り返した。膝丸は加州の目を見て頷きながら話を聞くと、「なるほど」と一息ついた。
「よし、斬るか?」
「あんたらほんとそっくりだよね〜」
刀を取り出しながらそう言うのでつい呆れた声をあげてしまうと、膝丸は「えっ」と虚をつかれたような声を出し、顔を赤らめた。
「うむ、まあ、それはそうだろう、我々は本当に仲のいい兄弟なのだし……」
「うんうん、斬った方が早いよねえ」
「お兄ちゃーん、さっきも言ったでしょ。てか話聞いてた?」
「兄者は俺の兄者であって君の兄ではないが?」
「分かっているよ〜、弟さんも落ち着いてね〜」
加州は面倒臭くなってきていた。話は右往左往、伝えるべきことはもう伝えたはずなのに何かの拍子に妙な方向へ転がっていく。疲れる。
安定早く帰ってこないかなぁ。出陣している古馴染みを思い起こしながら、加州はつい遠い目をした。今はあの、何を考えているのか顔に出る素直さが無性に恋しかった。
ともかく、伝えるべきことは伝えたのだ。ならばここにいる必要はない。
「じゃ、俺、三条の方にも行かなきゃいけないから」
「石切丸ならさっき広間で饅頭を食べていたぞ」
「お、さんきゅ。そっちから行くわ」
加州はそそくさと立ち上がると早足で広間へと向かった。石切丸ものんびりしているがこの兄弟よりはこちらの話を聞いてくれるはずだ。あと、饅頭も分けてくれるかもしれない。
どこか浮き足立った足取りで去っていくはじまりの一振りの細い背中を見送ってから、膝丸は自分の湯呑みに茶を注いだ。
「しかし、影か」
「ここ、よく溜まるもんねえ」
立ち上がりながら言う髭切に膝丸も頷いた。本丸のある里山はのどかで豊かで、そういうものもよく沸いた。大して問題にならなかったのは御神刀たちが年中祭祀を丁寧に執り行い、髭切や膝丸が睨みをきかせていたからだった。
沸きやすく溜まりやすいのは仕方がない。そういう土地なのだ。そういう土地だからこそ、この本丸が豊かなのかもしれなかった。
気候と同じだ。うまく付き合っていくしかない。警戒しつつやり過ごすのだってその方法のひとつだ。しかし。
「斬った方が早いのにねえ」
以前膝丸が隠したはずの一口羊羹を勝手に開けながら、髭切が呟いた。今まさに膝丸が考えていたことだった。
卓に出しておくと即食べられてしまうから隠しておいたはずの羊羹だが、それはこの際いい。膝丸は湯呑みを置くと、ちらりと兄を見た。髭切も、同じように弟を見た。
「斬るか」
「斬ろうか」
「斬ろう」
「斬ろう」
そういうことになった。
草木の精気でむせかえるような山中を兄弟は進んだ。道中迷うことはなかった。風もないのに草木が鳴ったり、まだ青いはずの実が落ちてきたりしたからだ。導かれるままに行けばよかった。
「こうも協力的なのは驚くな」
「よっぽど困っていたんだねえ」
よしよし、と髭切がその辺にあった木肌を撫でる。膝丸はその木をつい睨みつけた。協力的なのはいいが、無闇に兄を気に入られるのは困る。自慢の兄を気に入らないというのもそれはそれで癪だが。
そうこうしながら頂上近くなったとき、山が急に大人しくなった。膝丸の耳許に口を寄せ、髭切が囁く。
「いいかい、三時の方向だ。お前が斬ってしまってもいいけれど、この地形だ、木はなるべく避けてやって、頂上の方に追い立てておいで。本丸から見ても分かる通り、少し開けていただろう。僕はそこにいるから」
「――心得た」
兄の柔らかな声の、しかし冴えた指示に神経を昂らせながら三時の方角を伺っていた膝丸は、話が終わるや否や、兄を置いて駆け出した。
「……で、どうしてこのどんちゃん騒ぎなんだ」
「俺のせいじゃないでーす」
口調は軽いが加州は疲れた顔をしている。長義も彼を責めるつもりはなかった。
審神者の帰省は元々一泊の予定だった。その一晩が明けて帰ってきたら、本丸は宴をやっていた。
隣では長谷部が渋い顔をしながら報告書を読んでいる。正規の部隊ではないが勝手に出陣の真似事をしたことへの反省文も兼ねた書面だった。長義もそれを覗き込んだ。
――あやかしは木々を飛び移り撹乱するも、相成らず。追い立て、急かし、頂きに追い込めば、髭切これを一刀のもとに斬り伏す。跡形も残らず。
「……ほとんど膝丸が書いているな」
「そうだな……」
長谷部と長義はそろって溜息をついた。加州も乾いた笑い声を漏らした。あの二振りにとりあえず報告書のようなものは書かせたあたり、さすがは最古参である。
「一応訊くが、この宴は」
「山に入って何やら斬ったからにはちゃんとお祀りしておこうって石切丸の提案で、昨日から朝まであの山で祝詞あげてた。今日はもう寝てる。その間本丸でも念の為一晩中皆で起きてたんだよね。で、今は後夜祭」
「後夜祭」
長義がつい復唱したとき、長谷部が「石切丸には今度特別手当をつけてやろう」と頷いた。長義も異論はなかった。外泊のついでに、古馴染みとお茶をするときにでも食べようとちょっといい菓子を買ってきたが、石切丸を誘ってもいいかもしれない。彼は甘いものを喜んでくれるはずだ。
「それで、下手人どもはどうした」
長谷部の言い草に思わず笑いかけたのをごまかそうと、長義は咳払いした。しかし大した意味はなかったかもしれない。相変わらず加州も疲れを隠さないまま笑っていたからである。
「あーあれ物忌みっていうのかな、精進落としか? 俺くわしくないからよく分かんないけど、穢れが落ちるまでって太郎太刀に離れに押し込められてさ……」
加州がそこまで言いかけたとき、わっと笑い声があがった。本丸の庭に毛氈と明かりを出し、祭りさながらの賑わいを見せる向こうに離れが見える。その小さな窓からも明かりが漏れていた。
庭の笑い声がやや引いたとき、その離れの窓から聞き慣れた二振りの声があがった。
「源氏ばんざい!」
庭はまたどっと沸く。加州はやはり呆れたような、しかしもうどこか仕方ないものを見るような柔らかさも浮かべた笑いで、バカ騒ぎの庭を眺めた。
「昨日からずっと飲んで騒いで、あんな感じ」
庭の面々の中にはいつの間にか審神者が混じって酒を煽っている。長谷部がそれを見つけて額を押さえたのと、長義が今度こそ笑いをごまかせなかったのは同時だった。
「ま、離れから出てきたときには一ヶ月遠征シャトルランしてもらおうと思うからさ、今日はもうとりあえず飲もうぜ」
そうして三振りも宴の席に加わった。夜はまだ更け始めたところだった。