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    ma99_jimbaride

    成人/二次創作
    箱▷ https://odaibako.net/u/ma99_jimbaride
    蔵▷ https://galleria.emotionflow.com/s/121109/

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    ma99_jimbaride

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    膝髭、現パロ、よりを戻すふたり。
    「不在の春」(https://galleria.emotionflow.com/s/121109/637561.html に収録されています)の三年後です。

    六年半ほど前の話を思い立って書いてしまうのですからこのふたり(二振り)はすごいぜ……。

    ポケットにその鍵を 兄と再会した夜はひどい雨だった。
     天気予報は何日も前から荒天を主張し続けていた。膝丸だってせっかくの週末に嵐の中を出歩く予定はなかったのだが、突然の報せが届いた。何年も顔を見ていない親族の死だった。
    「嵐になるって予報だろう、無理に来なくていいと言われているのだけれど……お前はどうする?」
     電話越しの兄の声は三年前と変わらず柔らかかった。その変わらなさと、もう三年も経っていることに膝丸は静かに驚いて、それを兄に悟られまいとして息を止めながら窓の外を見た。雨は降り出しているが、まだ打ちつけるような激しさはない。
    「……俺も行こう」
     そう応えたとき、兄が息を飲んだ音が聞こえた気がした。気がしたというのは、自分の願望が勝手にそう聞き分けたことを否定できないからだ。
     兄は膝丸の返事に一言「そうか」とこぼして、あとは互いの予定を擦り合わせるためにてきぱきと話を進めた。落ち合う時刻と場所を決めてしまえば話はそれで済んで、通話を切ったときには五分も経っていなかった。
     膝丸はまた窓の向こうに目をやった。まだ昼過ぎだというのに厚い雲に覆われているせいで、日没後のように暗い。冬の終わりの枯れ枝は強くなり始めた風に微かに揺れていた。
     膝丸が通夜への出席を断っても、この暗い道を兄はひとりで親族の住む街へと出掛けただろう。兄はそういう人で、膝丸が同行を申し出たのは、それが気に入らなかったからだ。兄がひとりで、暗く荒れた冬の道を歩いていくということが。
     未だに兄が自分に赦す優しさを、身勝手に憎んでいた。兄に別れを告げて三年、一緒に住んだ家を出てきた日に思ったように兄の暮らしは変わりないようだったが、それは自分も同じだった。拍子抜けするほど生活は淡々と続けることができた。それこそ、寂しくなるほどに。
     兄のいないことより兄がいなくても生きていけることが寂しかった。そう思うとともにまた自分の身勝手さを嗤うときには、いつも同じ文庫本の赤い背表紙が目に入った。兄とは違い、そう多くの本を部屋に置かない膝丸の手許に唯一ある小説。
     たったひとつの兄のよすがを自分はずっと手許に残していたが、兄は抜き取られた一冊の隙間をどうしただろう。手に馴染みきった柔らかな表紙を撫でる度に考えてしまうことだったが、確かめる術も勇気もなかった。

     件の親族の家は隣県で、膝丸は電話で聞いた駅で兄と待ち合わせをした。離れて住んでいるといってもそう遠くはないのだから互いの家の近くで落ち合ってもよかったのに、兄はそれを提案しなかったし、膝丸もそれを指摘しなかった。兄と暮らした家を離れて三年経っても、三年前のように、あるいはそれよりもっと前の、無邪気に兄を慕った頃のようには戻れなかった。
     鈍行列車に揺られて辿り着いた小さな駅の改札口はひとつだけで、膝丸はこぢんまりとした境界の向こうにすぐ兄を見つけた。兄はとっくに弟に気付いていたらしく、片手をひらりと上げた。通夜に出るのだから当たり前だが黒いコートを羽織っている。膝丸は淡い色の服を着ていることの多かった兄の珍しい色合いの姿にどうしようもない違和感を覚えた。思えば喪服姿なんて、自分たちの両親を見送ったとき以来かもしれない。
    「風も出てきたし、もうタクシーで行こうか」
     バスはすぐ来ないみたいなんだよねえ、と兄が懐かしい調子で駅の外を指差して、膝丸はその声に懐かしいと思うことに内心動揺しながら「今夜が一番荒れるのだろう」と何でもないふうを装って世間話を振った。
    「そうだったっけ。帰れるかな」
    「どうだろうな」
     どうだろう。帰れるか、戻れるか、荒れる夜の中を。今は死を悼むために暗い道を行きながら、タクシーで並んで座った兄の気配をずっと意識せずにはいられなかった。三年はあっという間に過ぎていたのに、兄との距離感を測り直すにはあまりにも長かった。
     通夜の席で久々に顔を合わせた親族は自分たちの両親が亡くなったときには親身になってくれた人たちばかりだった。膝丸は記憶より年老いたその人たちの姿にまだ十代だった時分を思い起こして、同時にそれからずっと顔を見せなかった自分の不義理を少し恥じた。
     隣で兄は何でもないように彼らに挨拶し、世間話に乗り、その懐かしい顔触れを笑わせた。それに合わせるように膝丸も受け応えしながら、かつて兄と喪服を着て並んで立っていたときの日のことを思い出した。家族が兄だけになってしまってから、自分たちにはもう互いしかいないのだと悲痛な気持ちで覚悟したつもりだったが、今考えればそれは自惚れにも似た悲痛さだった。現に兄はひとりで暮らし、誰かとやりとりし、そしてそれは自分も同じだからだ。兄とふたりで暮らすまでにも、まだ若い自分たちを気にかけてくれる人はいた。
     思えば親族からの連絡はいつも兄へと入った。当時すでに就職し自活していたとはいえ今の自分よりも年若かったのに、兄はそういう付き合いを軽々とこなしてしまっていた。もっともそれに潜む大変さも、自分は何も気がつかなかっただけなのかもしれない。
     兄は兄で自分は弟であるという当たり前のことを感じているうちに通夜は終わり、挨拶もそこそこに帰路についたときにはいよいよ嵐だった。行きと同じく鈍行列車に乗り、窓に雨が強く打ちつけるのを見ながらいくつか駅を過ぎたとき、隣に座っていた兄がふと笑った。
    「久しぶりだね」
    「……今さらではないか?」
    「いや、そうなんだけど、こうしてふたりそろって何もしない時間というのがね」
     車両のやたらと白い明かりに照らされて兄の顔色は青褪めて見えた。食事中にいくらか酒を飲んでいたはずなのに、酔わなければ顔にも出ないのは相変わらずだった。その兄と揃いの体質で、わずかに自分の吐息に酒精が残っているのを感じながら膝丸はドアの上の路線図を見上げた。行きにも何度も確かめた駅名がやがてターミナル駅へと続いている。そこからもおそらく兄と並んで特急電車に乗り込んで、そして、別々の家に帰る——何もおかしいことはないのに、ボタンを掛け違えたような違和感がある。この三年間、ずっと抱え続けた違和感でもあった。
     自分たち以外乗客のいなくなった鈍行が終着駅に滑り込み、乗り換えのために改札へ向かおうとしたとき、膝丸の前で兄が「ありゃ」と声をあげた。幼い頃から聞き慣れた響きに嫌な予感を覚えた膝丸も兄の視線を追った。
    「倒木かあ、大変だね」
     電光掲示板にはこれから乗る予定だった路線が今晩運休することが表示されていた。のんびりした声の兄を隣に、膝丸は言葉が出なかった。帰り道での兄との別離に気を取られていたが、まさかその帰り道がなくなるとは。
    「ま、そういうこともあるよね」
     そう言った兄はどこかへ歩いていく。膝丸も一拍遅れてすぐそのあとを追った。兄が向かったのは駅周辺の地図の前で、しばらくそれを眺めていたと思うとある一点を指差した。
    「ここが一番近いね」
     ビジネスホテルだった。膝丸が確かめる間にも兄は出口へと向かって歩き出していた。また慌ててそれについていきながら、膝丸は外が横殴りの雨になっていることに気付いて顔をしかめた。
    「あそこの信号が変わったら走ろう」
     駅舎の屋根の下ぎりぎりでぴたりと足を止め、兄はすぐそばの歩行者用の信号を示した。向こうにはホテルの看板が見える。手に持っていた黒い傘に手を添えていたので、膝丸も同じように自分のビニール傘に手を掛けた。
    「——よし」
     ないよりはましという程度でしかなかったが、傘で雨をどうにかしのぎながら、ふたりは長い脚を駆使して手早く横断歩道を渡り切った。
     振り回されるように兄のうしろを追って、兄の言うままに動いて、まるで幼い頃に戻ったかのようだ。すっかり遠くなった情景が目蓋にちらついて膝丸はつい笑ってしまった。
     兄はそれに気付いて、傘を少し持ち上げながら目を細めた。
    「やっと笑ったね」
     その言葉に膝丸が固まったとき、唸るような音とともに強い風が吹いた。傘の向きがよかったために兄は身を縮めただけで済んだが、膝丸はそうはいかなかった。ビニール傘は無残にも一瞬でひっくり返り骨が折れ、膝丸の頭上を覆っていた薄い盾はなくなった。驚いている間にもずぶ濡れになっていく。
     兄は弟に降りかかった惨状に目を丸くしていたが、同じく呆然としていた膝丸が冬の雨の冷たさに身震いし、顔の半分に張りついた前髪をのろのろとかきあげると、思わずといった感じで「ふっ」と声を漏らした。
    「……笑うのはひどくないか?」
    「いや、だって、ここまで来てそんな……」
     ホテルは目の前である。肩を震わせながら傘で身を隠すようにする兄を促して、膝丸は開き直ってビニール傘だったものを手に提げながら残り短い道を急いだ。
     フロントの前に立っても兄は笑いが治らなかったので、膝丸が空き部屋を訊ねるはめになった。最後のひとつ、シングルだけが空いているらしい。自分たちと同じように立ち往生した客が駆け込んだのだろう。
     ふたりでシングルに泊まることについて手早く諸々の説明を受け、膝丸と兄は狭いエレベーターにふたりで乗った。相変わらず兄は笑いが止まらず身を震わせていて、膝丸はもう抗議をする気も失せていた。思えば兄はそういう人だった。普段から薄く笑みをたたえたような表情をしてはいるが、笑いのツボが妙なところにあって、そこにはまると長い。膝丸が呆れるほどずっと笑っている。
    「ふ、ふふ、先にお風呂にお入り」
    「ああ、そうする」
     フロントで渡された寝巻きとタオルは兄が持ってきてくれていた。それを受け取って、膝丸はユニットバスへと向かった。
     身体に張りつく衣類をどうにか脱いで、バスルームにあったタオルで水気をできる限り取ってから、膝丸はようやく熱いシャワーを浴び始めた。お湯の温かさにほっとすると、めちゃくちゃな日になったな、とようやくひと息つくことができた。昼過ぎには久しぶりの兄からの連絡と親族の死に、薄暗い気分になっていたのに。
     なんだか思い詰めていた自分が滑稽に思えてきて、膝丸はシャワーを浴びながら壁に額をつけた。そうするうちにも冷えきっていた手足は温まっていた。またひとつ息を吐くと、膝丸はシャワーを止めた。傘が用をなさなくなった自分の方がひどい濡れ方をしていたが、そうでなくとも雨は激しく、兄も足許はずぶ濡れだったのだ。
     バスルームを出て兄に声をかけようとしたところで、膝丸は目を瞠った。暖房のきいた狭い部屋のどこにも人影がなかったからだ。
     だが驚きも長く続かなかった。すぐに背後から鍵の開く音がして、兄がまたあの「ありゃ」という声とともに現れたからである。
    「早かったね。ほら、着替え」
     隣にコンビニがあっただろうと笑いながら、手に持った大きなビニール袋を上げてみせる。
    「コインランドリーもこの階にあるみたいだからシャツとかは洗ってもいいかと思ったけど、寝巻きでうろつくのはさすがにねえ」
     言いながら膝丸の隣をすり抜けようとする兄の足許はやはり濡れていて、膝丸は思わず兄の腕を掴んだ。コートの袖もしっとりしていて、手に吸いつくような感触があった。
     兄はいきなり腕を掴まれたことにも大して驚いた様子はなく、首を傾げて膝丸が何か言うのを待っていた。子どもの頃にぐずる自分をあやした顔と同じだった。
    「……兄者も、早くシャワーを」
    「そうだね、そうするよ」
     兄はコンビニの袋から新品の下着を抜き取ってバスルームへ向かった。残りの荷物を受け取った膝丸はそれをデスクに置くと、兄の買ってきてくれた着替えを確認し、自分の濡れた服を部屋にあったハンガーに掛けた。そうするうちに薄い壁の向こうから、激しい風雨とは違う水音が聞こえ始めていた。
     部屋の暖房は兄がつけておいてくれたらしい。兄の好みよりも高めに設定された温度に、これなら朝までにコートも乾くだろうか、と考えながらテレビをつけた。ニュースは暴風雨に混乱する街や交通機関を映していて、その荒天の真っ只中にいる膝丸は他人事のような気分で画面を見つめていた。天気は明日の朝までには落ち着く見込みらしい。
    「……何か、面白そうな番組が?」
     軽いドアが開く音には気付いていたが振り向かずにいると、兄が訊ねてきた。相変わらず画面ではどこかの街で必死の形相で様子を伝えるアナウンサーと、夜の中で街灯に照らされた部分だけが白い線となり浮かんでは消えていく雨が映っていた。それを見ているふりをしながら、膝丸は「いや」と応えた。
     狭い室内に自分以外の気配があるのは久しぶりだった。かつては当たり前だったそれに居心地の悪さを感じながら、膝丸は兄の気配を追った。足音、衣擦れ、吐息。だんだん近付いてきたと思うと、テレビを見ている膝丸の顔の横を、兄の腕がぬっと通っていった。
    「……天気ばかりだねえ。当たり前か」
     デスクに置いてあったリモコンを手に、チャンネルを変えていく。アナウンサーの落ち着いた声もバラエティの大仰な笑い声もぶつ切りに、兄は番組を一巡すると、画面を膝丸が見ているふりをしていたニュースに戻し、またリモコンを置いた。
     膝丸は椅子の背もたれに兄の手があることばかり意識していたから、その手が離れて、兄が背後のベッドに腰掛けたのまで分かった。上背のある男ふたりで今日はそこに寝なければいけなかった。よりにもよって、他でもない兄と。
    「あ」
     背後からふいに意外なほど響いた声に膝丸もつい振り返った。声の主である兄も自分で驚いたのだろう、口に手をやりながら照れ隠しのように笑うと、シャワーの前に膝丸に預けていったビニール袋を指差した。
    「飲物も買ってきたんだった……けど、さすがにもう見たか」
    「え? ああ、いや……」
     言われてビニール袋を探ればシャツと靴下の他にお茶のペットボトルが二本と、冬季限定と書かれたチョコレート菓子が出てきた。兄が自分で摘むために買ったのだろう。兄から袋を受け取ったときに中身は見ていたが、大して気にしていなかった。そこまで頭が回らなかったのだ。
    「お前はもうこの時間は甘いものを飲まないだろう」
     兄の言う通りだった。膝丸は袋からペットボトルを片方取り出して、そこで気がついて兄の方を振り返った。わざとらしくはないだろうかと、少し不安に感じながら。
    「半分払おう」
    「え、いいよ。大した買い物ではないのだし」
    「しかし」
    「それにお前、ホテル代を払っちゃったじゃないか」
    「それはあなたが笑っていたからだろう」
    「じゃあ僕の分を出そうか?」
    「……いらぬ」
    「だろう」
     兄は笑った。弟のことなどお見通しだとでも言いたげな顔で。
    「ホテル代に比べれば随分とかわいいものだよ。そうだ、明日帰る前にご飯でも食べていこうか。僕が出すよ」
     どこかはしゃいでいるような調子で兄は言葉を続けた。話が明日の予定にまで及んでいったのを止めようとして、しかし何を言うべきか分からず、膝丸は俯いた。
    「兄者は勝手だ……」
     よりにもよって出てきた言葉はこんなもので、しかも自分でも意外なほど拗ねた響きになったものだから、膝丸は顔を上げられなくなった。兄を勝手だなど、どの口が言うのか——身勝手を赦してもらってきたのは自分なのに。
     窓には雨がばたばたと音を立てて叩きつけられている。風もごうごうと鳴り続けていた。小さな部屋にはしばらく外の音が満ちていたが、ふと兄が息を漏らすのが聞こえた。
    「そういうところが嫌になったのかい」
     聞き違えでなければ、漏れた息は自嘲のそれだった。思わず顔を上げると兄は微笑んでいた。わずかに眉を下げた、寂しげな顔で。
     信じられない思いで膝丸は口を開いて何かを言おうとしたが、やはり言葉は見つからず、ただ呆然と目の前の兄を見つめるばかりだった。そんなはずがない。自分が兄を嫌うなんて、そんなはずはないのだ。
     分かりきったことなのに、どうして口に出せないのだろう。嫌になったのは兄ではなく自分なのだ。嫌なのは自分が兄から奪ってしまうことで、そういう自分の身勝手を兄が赦してしまうことだった。
     赦すことは諦めることとどう違うだろう。自分のために兄が諦めていると考えるのは恐ろしかった。自分が弟だから、兄はそうしてしまうのだろうかと。
     膝丸の逡巡を何も言わずに見守っていた兄は、ふと立ち上がると膝丸のすぐそばにあったビニール袋から茶と菓子を取り出した。膝丸が先ほど取り出したのと同じパッケージのペットボトルがふたつ、狭いデスクの上に並んだ。
    「お前がいなくなってから、僕も甘いものはあまり飲まなくなってしまったよ」
    「……菓子は買うのにか?」
    「お前と食べようかと思って。……浮かれていたね、通夜の帰りなのに」
     俯こうとしていた顔がどういう表情をしていたのかは見れなかった。膝丸が立ち上がって、髭切を抱き締めたからだ。
    「すまない」
    「うん」
    「すまない……」
    「うん……馬鹿だね」
     僕たちは本当に馬鹿だ、と言った髭切の声も震えていた。膝丸は幼い頃によくそうしたように、兄にすがって泣きながら、自分の背に兄の腕が回るのを感じていた。
     髭切が兄であることと、自分が弟であること、そのために兄が自分を赦すのをかつての膝丸は憎んだが、結局は兄以外にも弟以外にもなれなかった。それはどうしようもなかったし、それでよかった。いずれにせよ、お互いが唯一なこともまたどうしようもなかったからだ。
     強いて何かを言うのなら、膝丸はただ、兄に自分を諦めさせるべきではなかったのである。
     兄に自分を諦めてはほしくない。あの嵐の夜に考えたことをもう一度思い出しながら、膝丸は自分のそばに積まれたいくつもの段ボールを眺めて溜息をついた。
     兄からの出奔はふたりで暮らした家に帰って元通りになるかと思われた。嵐の去った抜けるような青空の下、甘い感傷に浸ったまま懐かしい玄関を兄とともに潜った膝丸は、リビングを見て開いた口がふさがらなくなった。兄の趣味が詰まった本棚の前に、所狭しと収穫し損ねた筍のように本がいくつも積まれていたからである。
     何も言えず髭切を振り返ると、当の兄は弟と目を合わせ微笑んだ。えへへとでも言いそうなその顔に膝丸は額に手を当てた。子どもの頃からよく知っている、バツの悪さをごまかすときに兄が浮かべる笑いであり、自分はそれに滅法弱かったからである。
    「これはもうこの本棚には荷が重すぎるだろう……」
    「やっぱり?」
    「新しい本棚を……いややはり減らさねば」
     かつて膝丸が使っていた部屋に本を詰め込んでしまえばよかったものを、髭切はその部屋を膝丸が出ていったときのままにしていた。少しくすぐったい気分でそれを確かめてから、膝丸は本棚をもう一度改めた。そして、あの見慣れた赤い背表紙の並んだ部分に、不自然に一冊分だけ開いた隙間を見つけた。
    「うーん、減らすのはなあ……」
     髭切ののんびりした声を聞きながら、膝丸はその隙間に手を伸ばそうとして、やめた。兄はここから消えた一冊に気付いただろう。でもきっと、膝丸には何も言わない。
     だから膝丸も、この一筋の不在に何を思ったかはきっと一生訊かない。
     そう決めて手を引っ込めると、代わりに膝丸は笑い混じりに懐かしい冗談を言った。
    「本当にねじれた家になりそうだな……」
     建物の丈夫さに感謝しなければ、と思いながら呟いた言葉に、膝丸の後ろで髭切は手を打った。
    「よし、じゃあ引越そう」
     膝丸は目を丸くした。それを見て、髭切はにっこりと笑った。
     この一言で、膝丸は兄の許へと帰るのではなく、兄と共に新しい住処へと移ることになったのである。
     自分の引越し準備はかつてと同じくすぐに終わったが兄の方はそうは行かず、膝丸はその後の休日は兄の荷造りの手伝いに追われることとなった。そしてあの蔵書のほとんどを箱詰めしたのも膝丸だったため、荷解きの番も回ってきたのである。
    「よくもまあこんなに揃ったものだな……」
     まだいくつも残っている段ボール箱のひとつを新しく開きながら、膝丸は埋まりつつある本棚を眺めた。建物の強度も申し分なし、丈夫な本棚を用意したから、すべての本が問題なくこの中に居所を見つけるはずだ。
    「そろそろ休憩にしないか?」
     書斎の入口から兄が声を掛けてくる。振り返れば髭切は見慣れたコーヒーカップを両手に持っていて、それを少し上げてみせた。
    「今行く」
     微笑む髭切に笑みを返して膝丸は立ち上がった。そして振り返るときに、あの赤い背表紙の文庫本が並んだ一角を見た。今はあの揃いの背表紙すべてが、隙間なく本棚の中に収まっていた。
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    ma99_jimbaride

    PASTへし切長谷部の駈込み訴え。
    ミュの配信見ていて長谷部よかったな……すごくよかった……となったので引張り出してきました。中身はもうまったく関係ないです。本当に。
    しかしきっとこの長谷部も「忘れることにしたからあの方は俺の執着で汚されることはない」と考えているでしょう。

    アーカイブ配信を待って暮らします……。
    哀訴嘆願 申し上げます。申し上げます。主。あの男は、酷い。酷い。はい。厭な奴です。悪い男です。ああ。我慢ならない。死んで当たり前だ。
     はい、はい。落ち着いて申し上げます。あの男は、死んで当然だったのです。狼藉ばかりの男だ。言うまでもない、恨まれていた。多くの人間から、恨みを買っていたのです。いつ死んでもおかしくなかった。
     確かにあの男は俺の主でした。俺に名前を付けた男です。俺を俺たらしめる、最初の符丁を与えた男です。しかし、それが何だというのです。あの男は、自分が名付けた物を、そうして周りから選り分けた特別を、簡単に手放してしまえる男だった。俺に「俺」という枷を与えておいて、俺を突き放した。
     ええ、あの男は俺の主でした。その頃慕ったことがなかったと言っては嘘になる。しかし、刀などというのは皆そういうものです。持ち主に何らかの想いを抱かずにはいられない。それが敬愛であれ、憎悪であれ、愉悦であれ。俺たちはそういうものだ。よくご存じでしょう。
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