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    ma99_jimbaride

    成人/二次創作
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    蔵▷ https://galleria.emotionflow.com/s/121109/

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    ma99_jimbaride

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    則清の現パロです
    驚いたことにVDネタをこれしか書いたことがないことに今気がつきました

    スイート・ビター・スイート 練習を始めたらしい野球部の掛け声や吹奏楽部の楽器の音が外から聞こえてくる。もう放課後か、とようやく思い出したように清光は顔を上げた。窓の外の日は確かに傾き出している。
     廊下は寒いんだし、とマフラーを持ってきてよかった。そこまで長く座っていたつもりはなかったが、身体は冷えきっている。
     普段過ごしていた教室を離れ、美術室や音楽室などの特別教室しかない最上階へ向かう階段に座り込んでいれば、通い慣れた学校はよく知らない誰かのようなよそよそしさを見せた。三年過ごしてきた校舎であっても静まりかえっているのは新鮮に感じたが、余所者じみているのは本当は自分の方だったのかもしれない。実際、あと二週間で余所者になるのだ。
     大学の合格通知を受け取り、これで解放される……と喜んだのは確かだが、実際時間ができると持て余してしまった。自由登校になって以来人気のなくなった教室で同じような境遇の他の生徒と互いの三年間の話をして時間を潰したり、これまでと変わらず「眠いよなー」なんてどうでもいいことを駄弁って時間を潰したりして、毎日は過ぎた。
     春からの新生活への準備がまったくなかったわけではない。それでも、自由登校になってからもわざわざできる限り学校に顔を出していたのには理由がある。
    「……どうすっかなー、これ」
     ずっと手に持っていた紙袋を目の位置まで上げて清光は呻いた。つやのある白い袋に流麗に垂れ下がる真紅と細い金のリボンを組み合わせた飾りは、袋自体の小ささもあって華やかだが上品だ。中に入れてあるトリュフも、腐れ縁で親友の安定に付き合ってもらって何度も練習した。美味しくできた自信はあるし、普段容赦ない感想を浴びせる安定も最終的には親指を立ててゴーサインを出した。これが今清光が用意できる渾身の愛の形だ。
     世はバレンタインデー、そこら中で愛が交わされ愛にあふれる日。学校に用のない清光がわざわざ寒い中登校してきたのも、これを渡したい相手がいるからなのだ。

     一年生のときの五月、空き教室を見つけた清光は適当な机に腰かけてぼんやりしていた。他の教室からは授業を進める教員の声がさざめきのように聞こえてくる。テレビの砂嵐を遠くから聞くのに似ていた。窓の外で風に揺すられる木々の葉の擦れる音にたやすく掻き消される、その程度の音だった。
     自分のクラスの授業に、出なくてはいけなかったのだろう。生徒とはそういうものだ。まだ昼前なのだし、次の時間から出た方がいい。そうは思ったが、窓の向こうの五月の眩しさが遠いのを眺めているしかできなかった。
     この頃の清光には、自分がぐらぐらとして安らがない感覚がいつもあった。高校に入学して、新しいクラスメイトと上手くいっていないとか、家に帰るのがつらいとか、そういう分かりやすい理由があったわけではなかった。きちんとやって来ていた学校での毎日が楽しくないわけでもない。しかし、何もない大穴がいつも自分のすぐそばにあるような不安感がつきまとった。ほんの少しのきっかけで、その大穴の「向こう」へ行ってしまいそうな曖昧だが確かにある感覚が拭えず、その真っ暗な「向こう」を意識するとき、現実だとか将来だとかはただ自分を上滑りしていく何かでしかなかった。地面についているはずの足許は、その実いつも覚束なかった。
     確かこのときも「向こう」がちらついてしまったのだ。五月の眩しさを暗い教室から眺めていると、楽しげに過ごす他の生徒のように生きられない疎外感が、滲み出るようにわいてきた。
    「向こう」を思うのは、高いところに上ったときにやたらと遠い地面ばかりが気になるのに似ていた。重力に従うようにこのまま吸い寄せられていくのではないか――漠然とある感覚は予感じみていた。足を滑らせれてしまえば、帰ってこれない。
    「――坊主、サボりか?」
     無為に画面の砂嵐を眺めているような現実に、意味の分かる言葉を投げかけられたのは、もう倒れ込んでしまいたいと思い始めたときだった。
     教室の入口に微笑んでいる男には見覚えがあった。入学式やらオリエンテーションやらで見かけた際「よく目立つ教員だなー」と感じたから、「一文字則宗」という名前も覚えていた。元々ここの教員はやたらとクセが強いのばかりだと感じてはいたからか、淡い金髪の下で笑みを絶やさない男から清光はすぐに興味を失っていた。関わりがなかったからだ。
     それにしても、坊主とは。
    「……すみませーん」
     坊主呼びに少しムッとしたが、サボりを見つかってしまったのは仕方がない。おざなりだが謝罪を口にして、清光はその教員の横を通り抜けようとした。
     それを留めたのは、首元にぬっと差し出された扇子だった。
     畳まれたそれは黒い親骨がつやつやとしていた。もう少しで顎に触れそうな位置を固定している手を見てから、清光はそろりと教員の顔を窺う。薄い色の目はじっと清光を見下ろしていた。得体の知れなさはあっても、不思議と怖くはなかった。
     長い睫毛で重そうな目蓋が一度、その目を覆った。
    「……うん、体調が悪いようだな。次の授業まで休んでいくといい」
     さぁこっちだ、と返事も待たず歩いていく。その背中を見ながらしばらく呆然としていた清光は、教員の申出に従うことにした。見逃してくれるなら、そっちの方がいい。
     階を上がり、突き当たりに向かう足取りに迷いはない。保健室に連れていかれるのだと思っていた清光は少し心配になってきた。どこに向かっているのだろう。
     職員室でないことは確実だが、この先には美術室しかない。廊下まで油絵具の強い匂いが漂っている。
     頭を疑問でいっぱいにしている清光をよそに、則宗は美術準備室の戸をノックした。「はーい」と間延びした声だけが返ってくる。それを待っていたのか、戸を開ける。
    「美術室を少し借りるぞ」
     おーいいよ、と軽い返事も聞こえた。そんな感じでいいのかよと新しい疑問が清光の頭には浮かんだが、則宗はやはり笑って手招きし、清光を美術室に迎え入れた。
     美術室には制作途中らしい画用紙の載ったイーゼルが四つほど、弧を描くように置かれていた。それに対するように、石膏像がひとつ鎮座している。
     他のものはすべて壁際に寄せられて雑然としていたが、さっきの教室と違い机も椅子もないから広々としていた。あちこち絵具のついた床に、このがらんとした教室に積み重なった誰かの過ごしてきた時間があった。その真ん中で、石膏像とイーゼルたちは開けた空間を贅沢に使っていた。誰もいないために電気もつけられていない教室は最上階にあるとはいえ薄暗く、それまでの清光が知らなかった類いの静けさを持っていた。
    「これ、誰か分かるか?」
     イーゼルたちに崇められる位置にある石膏像を扇子で指し示し、則宗は訊ねてきた。厳めしい表情にボリュームのある髭、清光には男ということしか分からない。
    「……わかんない、です」
     清光の正直な応えに則宗は笑った。なんだか嬉しそうに見えた。
    「ホーマーという。聞いたことは?」
    「多分、ない……」
    「うんうん、そうか。ホーマーという呼び方よりホメロスという方がよく知られているな」
     よく知られていると言われても、清光にはやはりピンとこない。則宗はトロイア戦争だとかイリアス、オデュッセイアだとかを並べ立てている。
     内容についていけない清光にまた微笑むと、畳んだままの扇子を口許に当てて小首を傾げる。
    「石膏が何でできているかは知っているか」
    「……知らない」
     知るはずがない。そもそも、なぜいきなり石膏の材料の話になるのか。
    「うん、主成分は硫酸カルシウムだ。同じ石膏と呼ばれるものでもこうして彫刻に使われてきたものもあれば、豆腐の凝固剤として使われるものもある」
     ますます話の行先が見えない。一方的に講釈を垂れ流されて、憮然とした顔つきになった自覚はあった。
     すると、則宗はそれまでの楽しげなものとは違う笑みを浮かべた。
    「いやぁ、世界は広いなぁ坊主。石膏像ひとつにもどれだけの知識が詰まっているのか……世界は知らないことだらけだ。そして知らないものだらけの中にいるというのは、恐ろしい」
     それまで立っていたイーゼルの前を横切ると、則宗は窓を開けた。どこか青い五月の風が教室に吹き込んで、デッサン途中の紙たちがばたばたと音を立てた。
    「知らないことに囲まれているときやそれに立ち向かわなければならないとき、楽しく感じられないことについて自分を責める必要はない。ただ、知らないことというのは、いくつになってもなくならない。むしろ知れば知るほど増えるばかりだ……だから、その中にあっても恐怖で自分を損なってしまわないよう、戦わなければならない」
     別に誰かをやっつけろってんじゃないぞ、とおどけたように付け足していたが、その顔も優しかった。
    「生きることは戦うことだ。そして、考えることは戦いの手段だ。生きる限りは考えなければいけない。どう戦いたいか、どう戦うべきか――学校というのは、その考えることを教えてくれる場所だ」
     風がおさまり、やかましかった画用紙も大人しくなった。好き勝手に跳ねているように見える金髪の下で、目は真っ直ぐに清光を見ていた。
    「ま、もう少し僕たち教員を利用してみるといい。生徒の特権だ。困ったら相談するなり甘えるなりやってみて、やはり合わないとなるならそれでいい。別に学校だけが世界ではないのだからな。……それに、知るということは楽しい。ソクラテスは驚きは哲学の始まりだと語ったとプラトンが書いているが、知ることを愛し求め、考えてしまうのは僕らの性だ。皆多かれ少なかれ、何かを理解したい。そういう気持ちもまた愛だ、誰もが愛の許に生きることからは逃れられない――人生をどう戦うかは自由だ。自由は野放図とは別物というのが大事なところだが、お前さんはきっと、自分で思っているよりずっと自由だぞ」
     そう言い切って「うはは」と顔の造りに似つかわしくない豪快な笑い声が響いたことに、どうしようもなく安心してしまったのを覚えている。
     随分な量の、そしてすぐには飲み下せない内容の言葉を突然に与えられて面喰らいはしたが、不思議とその言葉たちは静かに、ゆっくり染み入ってきた。激しい勢いで焚き付けるのではなく、ただ背中に手を添えるように、そのときの則宗の声は清光に寄り添ってくれた。
     このとき、ずっと自分を覆っていた砂嵐は遠くなった。現実が確かなものとして目の前で形を成しているのに気付いたが、それは歩くのに困るほど暗くはないようだし、目を開けていられないほど眩しすぎるものでもないようだった。実際そこに、しっかりと自分の足で立っている人間がいて、その人は微笑をたたえて清光に真っ直ぐ向き合ってくれていた。
     ほっとしてしまうと、授業をサボっていたことが拗ねた子どものわがままな振舞いに思えてきて、途端に恥ずかしくなってきた。そのいたたまれなさをごまかすように、清光は髪をいじりながら何となく切り出した。
    「……あー、せんせーって、美術の先生だっけ」
    「いや? 僕は国語だ」
     えっ、と目を瞠ると、則宗はそれはそれは愉快そうに笑った。
     あとはもう、今日まで流れるように日々が過ぎた。則宗は本当に国語の教員だったし、美術部の顧問ですらなかった。吹奏楽部で笑顔のまま厳しい指導をすることで有名だとか、文化祭での演奏会で指揮を執る姿に根強いファンがいるとか、いろんなことを知った。練習ではたまに指揮棒ではなく扇子で指揮を取り出すと聞いたときは「それはどうなの」と笑ったが、そういう馬鹿げた話ですら、好きになった相手について知るのは嬉しかった。
     則宗の言った通り、知ることは楽しかった。自分であっても身の回りのことであっても理解しようとするのはまったくもって容易ではなかったが、知ろうとして考える限り小さくとも何らかの手応えはあったし、その手応えは着実に清光に「自分の戦い方」を教えてくれた。
     五月の教室で話して以来、則宗は清光をよく目にかけてくれていた、と今思い返しても感じる。授業を担当しているわけでもない、部活に所属しているわけでもない生徒に対して則宗は、廊下で行き合えば少し口角を上げてみせ、昼休みに購買のパンを買い求めるのに「もっと食べないか」と苦言を呈し、進路相談の名目で職員室に足を運べばじっくりと話を聞いてくれた。他の生徒や教員のいないところでだけ、ふざけて清光を坊主と呼び出すのにも、呼び方は可愛くないがなんだか特別な感じがして悪くないとまで思うほどだった。恋することは苦しくもあったが、それ以上に大事で仕方なかった。
     初めて会ったときも「戦え、考えろ」と言っていた。その教えは清光を支えてきた。戦うために自分が置かれている状況をなるべく正確に、できるだけ楽観も悲観も交えないで判断する癖もついた。そうして鍛え上げられてきた清光の観察眼はいつからか、「どうして俺は子どもなんだろう」と清光を悲しませるようになった。
     教師と生徒という立場の違いは、隣に立っていてもどうしても越えられない一線だった。春になる度則宗が違う学校に移ってしまわないかを心配したり、気安い態度で話しかけてくる割には一切手にも触れないのを徹底していることに気付いて寂しくなったり、それでいてそういう線引きをしっかりしているところが好きなのだから始末に負えなかった。そもそも清光がここの生徒でなければ、教師である則宗に会うことはなかったのだ。
     せめて可愛い生徒でいようと、わざと困らせるようなことはしないようにしてきた。ただし好意を隠せていた自信もなかった。どこにいても則宗の姿を探してしまったし、いつもどう話すかを考えていた。目が合ったときに息を飲んでしまうのを、どうやって止められたというのだろう。
     年齢差も変えられなければ立場も変えられない。憂鬱はただ堂々巡りして清光を悩ませたが、自分にはどうにもできないことに対して思い悩むのは徒労だと清光に教えたのも則宗で、清光は歯を食い縛りながら自分の足で立ち上がるより他なかった。生きることは戦うことだ。ならば恋することも、戦いに違いなかった。
     戦うより愛されてぇ、と正直な気持ちが顔を出すことも多々あったが、できる限り自分の足で立ち上がれることが大人になるということなのかもしれない。実際春になれば、名目上は生徒ではなくなるのだ。かつて教師と生徒だった、ただの他人同士になる――そう思うと最後の最後、可愛い教え子という立場を少しくらい利用してもいいだろうと思えた。
     三年間お世話になったお礼だと言えばいいのだ。バレンタインデー、愛の日だ、これほど相応しい日はあるまい。これまでにも清光が持ってきていた細々した菓子を一緒につまんだことはある、甘いものは嫌いではないのは知っていた。
     好きだと、今の自分があるのはあんたのおかげだと伝えて何が悪い。そういうつもりで菓子作りに精を出し、ラッピングも則宗によく似合いそうなものを吟味し、今できる全力で、渾身の愛を形にしてみせたのだ。きっと気持ちには応えてくれなくても、受け取るぐらいはしてくれるだろう――一抹の苦さを抱えながら、清光はこの日を待っていた。
     それが今、どうしてこんな寒々とした階段に座り込んでいるのか。

     御用改である、とでも言い出しかねない鬼気迫る空気をまとい、清光は学校を訪れた。他の在校生は「あの三年生、受験大変なんだな」なんて思ったかもしれない。それくらい清光は、今日を決戦と定めていた。
     とはいえ殺気だったまま職員室に乗り込むわけにもいかない。
     往時と違って同級生のほとんどいない教室で、清光は静かにそのときを待った。生徒がいるなら暖房を使っていいのだからこの時期の教室は時間を潰すのに最適だった。その快適な室温の中、紙袋を机に置いたまま呼吸を整えている清光に感じるところがあったのか、クラスメートの国広は自販機で買ってきた温かい飲物を「陣中見舞だ」とおごってくれた。「さんきゅ」という清光の素っ気ない感謝にも微笑みだけ返し、寒空に美しい金髪を晒しながら帰っていった。
     陣中見舞をありがたくいただきながら、清光はそのときを迎えた。五限目の授業が終わった休み時間、則宗が職員室に戻ろうとしてくる。そのときなら、チョコを渡せるはずだ。
     討入りだ。物騒さは結局隠せそうになかったが、清光は目当ての場所に向かった。向かいつつある先には、果たして教材を小脇に抱えた則宗の姿が見えた。よし、と腹を決め、後ろ手に紙袋を持ちながら声をかけようとしたときだった。
    「一文字先生」
     女子生徒の声だった。清光はピタリと足を止めた。
     見つからないように物陰に寄り、状況を伺う。女子生徒たちが三人ほど、則宗にチョコを渡しにきたらしい。
     気持ちが挫かれそうになったが、「ハッピーバレンタイン!」と笑う声は明るく、どこか祭りじみた雰囲気が漂っている。そんなに深刻そうな空気じゃない。あれは義理だ、よし、と清光が気持ちを立て直そうとしたときだった。
    「すまないなぁ、今年は僕は受け取らないことにしているんだ」
     血糖値が上がってしまうからなぁ、と笑う声は普段と変わらない。立て直しかけた心はそれに大いに挫けた。女子生徒の驚きと落胆の声を背に教室に戻り、ここでこれからいくら待っても望んだタイミングはないことに気付き、ふらふらと校舎に歩き出た。まだ授業をしている教室の近くをうろつくのはさすがに気が引けて、気がつけば辿り着いたのが美術室近くの階段だった。
     心の折れるきっかけなんて些細なことだ。ただその些細なことに行き着くまでに積み重なっているものがある。則宗の言葉を会心の一撃にしたのは、それまで積もり積もってきた清光の気持ちだった。
     かつて見ていた大穴へ落ちてしまうのも、きっとそれまで「向こう」を窺っていた時間や深さが足許を掬うのだ。今はもう自分からは遠ざかった危うさを思い返し、清光はマフラーに顔を埋めると、そのまま膝の上に組んだ腕に額を載せ俯いた。向こう側へ引き寄せられそうな清光を連れ戻したのは、間違いなく則宗なのだ。
     だめだ、このままだと泣きたくなる。そう思っても顔は上げられそうにない。窓の外からはやはり野球部の掛け声と、まばらに練習をしているらしい吹奏楽部の楽器の音が聞こえてくる。顧問がいないのか、全体練習はまだ始まらないらしい。近くの美術室からも微かに鉛筆と紙が擦れる音がしている。誰かがデッサンをしているのだ。もしかしたら、あの厳めしい髭面の石膏像を。
     何を思っても、ここではすべてが則宗に繋がっていく。それに愕然として清光はひとつ大きく鼻をすすると顔を上げた。
     すると、じっと自分を見つめている薄い色の瞳と目が合った。
    「――うおおおっ」
    「お、寝ていたわけではないようだな」
     清光の喉から漏れた大声に驚く様子もなく、「見回りに来てみたら少しも気付かないから寝ているのかと思ったぞ」と則宗は笑っている。
    「……何だい、今の声は加州かい?」
     階段の上からも声がかかった。美術教員の大般若だ。清光の声に、思わず様子を伺いに美術室から出てきたらしい。
    「ああ、すまんな。僕が驚かせてしまった。なに、なんともない」
    「了解」
     ひらりと手を振って、自身こそが美術作品のような美丈夫は戻っていった。清光は未だに落ち着かない心臓を気にしながらその姿を見送り、目の前の則宗を見た。
     階段の数段下に立ち清光を覗き込んでいた則宗は、いつものように楽しそうに笑った。
    「場所を変えるか、坊主」

     引き連れられた先は、初めて会った空き教室だった。あのときとは辿った道は逆で、五月に青い葉をめいいっぱい広げていた木々は寒々しく枝振りだけを晒している。
     則宗は当時清光が腰かけていた机の辺りまで足を進めると、思い出したように振り返った。
    「そうだ、合格祝いがまだだったな」
     当然のようにそう言われたが、合格の報告をしたときに祝いの言葉はもらっていた。それ以上は欲しがろうなんて思わなかった。教師と生徒ではそれが妥当だと、清光にも分かっていた。
     なのに今、合格祝いなんて……戸惑う清光に歩み寄ると、則宗は提げていた袋に手を突っ込んだ。いつも教材を入れている袋だ。
    「ほら、坊主。おめでとう。ひとまずは、よく戦ったな」
     則宗の柔らかな声とともに、薄い箱が差し出された。高級感のあるマットな黒い箱に、つやのある深紅のリボンがかかっている。さりげないが瀟洒で、清光好みだった。
     それを両手で受け取り、まじまじと見てから、清光はぎこちなくだがようやく笑うことができた。
    「……今日もらっちゃったら、来月お返ししないといけないじゃん」
    「んん? そうか? 今でもいいぞ」
     そう言って、則宗は清光に合格祝いを渡した手のひらで催促の形をとった。顔にはいつも見てきた楽しげな笑みがある。清光もようやく調子が戻ってきた。
    「血糖値上がるから受け取らないって聞いたんですけど?」
    「ほう、どいつがそんなことを言ったのかね」
     こうやってじゃれついて往なされて、何か軽い言葉を則宗が投げて寄越すのを清光が打ち返して、そういう何でもないやりとりが楽しくて仕方なかった。人を煙に巻くような言葉の向こうに、決して嘘ではない則宗の人間性が透けて見えるときがあって、それに気付く度もっと知りたくなった。そういう気持ちからはどうしても逃れられないまま、今日になった。
    「……ま、確かに他のは受け取らなかった。どこかの坊主が僕にとっておきを用意してくれていると、タレコミがあったんでね」
    「……安定の野郎……」
    「こらこら、今他の奴に余所見するな」
     よく似た軽口は今までも聞いてきたが、今日はそれまでと違う日だった。ひくりと清光の口が動いてしまったのが目に留まったのだろう、則宗の頬も少し強張るのが分かった。
     清光はそれには気付かなかったふりをして、笑ってやった。
    「俺、三倍返しがいいんだけど」
    「おお、いいぞ。よぉ~く考えて、お返しを選んでおこう」
     これまで、好意を隠せたとは思っていない。それでも則宗は清光を遠ざけることはなかったし、諭すこともしなかった。ただ、清光の好意に徹底して触れなかっただけだ。
     教師と生徒だ、細心の注意を払って懐いてきた清光を見守ってくれたことだろう。一線を越えてしまわないように、世間に間違いとして受け止められる「恋」で自分と清光を潰してしまわないように。毎日が結構な戦いだったはずだ。
     その戦いの中で、清光もまた則宗の気持ちを見抜いていたのを、この男も本当は気付いているんだろう。
     本当に応えるつもりがないなら、もっと早いうちにさっさと遠ざけておいてほしかった。頬の強張りなんかに気付かせないでほしかったし、来月の約束ともとれる言葉に安堵も寂しさも滲ませないでほしかった。
     戦うことも、考えることも苦しい。そしてそれは、揺るがず立っているとかつて思っていた目の前の「先生」も同じだった。それを知ってしまったから、もう何も言えない。
     無性に寂しいのを腹立たしいのだとごまかして、清光は用意したチョコを押し付ける形で則宗の脇腹を小突いた。その甘えた行動に則宗はやはり笑って、受け取るときに軽く手を握ると、また俯いてしまった清光の頭を優しく撫でた。
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    ma99_jimbaride

    PASTへし切長谷部の駈込み訴え。
    ミュの配信見ていて長谷部よかったな……すごくよかった……となったので引張り出してきました。中身はもうまったく関係ないです。本当に。
    しかしきっとこの長谷部も「忘れることにしたからあの方は俺の執着で汚されることはない」と考えているでしょう。

    アーカイブ配信を待って暮らします……。
    哀訴嘆願 申し上げます。申し上げます。主。あの男は、酷い。酷い。はい。厭な奴です。悪い男です。ああ。我慢ならない。死んで当たり前だ。
     はい、はい。落ち着いて申し上げます。あの男は、死んで当然だったのです。狼藉ばかりの男だ。言うまでもない、恨まれていた。多くの人間から、恨みを買っていたのです。いつ死んでもおかしくなかった。
     確かにあの男は俺の主でした。俺に名前を付けた男です。俺を俺たらしめる、最初の符丁を与えた男です。しかし、それが何だというのです。あの男は、自分が名付けた物を、そうして周りから選り分けた特別を、簡単に手放してしまえる男だった。俺に「俺」という枷を与えておいて、俺を突き放した。
     ええ、あの男は俺の主でした。その頃慕ったことがなかったと言っては嘘になる。しかし、刀などというのは皆そういうものです。持ち主に何らかの想いを抱かずにはいられない。それが敬愛であれ、憎悪であれ、愉悦であれ。俺たちはそういうものだ。よくご存じでしょう。
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