食わずには生きてゆけない 飴色の蜜がとろりと、ゆったり細く垂れ始めた。光を受けて黄金に照り返しながらこんがり焼かれた生地に辿り着き、じわじわと広がった先、生地の端からまたゆったりと垂れ落ちていく。
倒れかかるように三枚並べられたパンケーキには色とりどりのフルーツが散りばめられ、クリームも脇にたっぷり載っている。焼きたての小麦粉の匂いに、蜜のもったりした甘さがささやかに香り立つ。随分と豪勢なおやつだ。
とろとろ、とろとろ、注ぐと言ってもいいほど蜜をパンケーキに回しかけている「同僚」は、この豪華なプレートを前に妙に絵になっている。パンケーキを注視するために伏せられた目許は憂いを感じさせ、優美ですらあった。口を開けばじじいなのに、なんて考えながら声をかけたのは、手が止まる気配がなかったからだ。
「……かけすぎじゃないの」
「うん?」
目を丸くした一文字則宗は、顔を上げるのと同時にようやく手を止めた。目をしばたたかせながら清光の顔と、手許の蜜に塗れたパンケーキを見やる。まばたきする度音を立てそうな長い睫毛が持ち上がってもう一度、清光を見た。どこかあどけない、純粋な疑問が顔に浮かんでいる。
「それ、結構甘いと思うよ」
「そうなのか」
則宗は素直に蜜を置いた。一緒に頼んだ珈琲には砂糖もミルクも入れていない。下手に甘い飲み物を勧めなくてよかった、と清光は苦笑いした。
心地好い薄暗さの店内、時間のせいか客は多くない。奥まった席に通されたふたりには他の客の声もあまり聞こえない。
一文字則宗が本丸にやって来て一週間、出陣遠征演練内番、そしてそれ以外の諸々の説明を終え、もうそろそろ清光が付きっきりにならなくてもいいだろうという空気になったとき、このご隠居が言い出したのが「街に出てみたい」だった。
以前、非番の話題から街の話になったことはあった。いわゆる余暇をどう過ごすのかという流れで、本丸内でのんびり過ごすもよし、外出を届け出て街へ赴くもよし、変わり種だと山に行く奴もいる、そんな話をした。
ここで街と呼ばれる場所は万屋や他の店が集まった一帯の地区のことで、休日を過ごすには確かにうってつけだ。本丸に来たばかりなのだし、そういう場所も目新しいのだろう。
則宗が興味を持ったのには気がついたし、言外に「連れていってほしい」と望んでいるのも感じたが、清光がそのために時間を取ることはなかった。他に優先して覚えてもらうことがあったのに加え、わざわざ清光が行かなくてもそのうち一文字の刀たちが連れていくだろうと思ったからだ。余暇として過ごす場所へ本丸での仕事を教えている相手と行くのは、少し違うだろうと考えたからでもあった。用事があって向かうことになるなら、そのとき世話をすればいい。
勝手にそう思っていたが、このご隠居の街への執着は清光の予想以上だったらしい。返事を待つ薄い青の目は、落ち着いてはいるが好奇心と期待で輝いている。
「……用事もないのに行くのはなー。おつかいでもあるときまで待つか、非番の日に南泉に連れていってもらえば?」
その青い目から視線を泳がせながらの清光の応えに、則宗は「分かってないな」とでも言いたげに笑った。
「予定表を見ろ、坊主」
「はいはい、っと。で、何」
広間近くに張り出されている本丸全体の予定表、その中でも一週間分のものが印字されている紙を則宗は扇子で指し示した。
今更だけど随分数が増えたよなー、と何度目かも分からない感慨とともに、その名前だらけの紙を見る。
「この日が僕の一番近い非番だ」
「そーね」
「その日の出陣や内番の予定はこの通り」
「うん」
「お前さんは?」
にこ、と、にやり、の中間のような曖昧な笑みで、則宗は清光を見つめている。自分の想定する「正解」をお膳立てして、その上で待っている顔だ。本丸に先んじた同僚として教える立場にあるのは清光のはずなのだが、この刀はふとしたときに周りを教え導くのを当然としている年長者の振舞いを見せた。
それをずるく感じて面白くないような、とはいえこれだけの刀ならば当然であるとも思えるような、むずがゆい気持ちで清光の唇はへの字に曲がった。
「……非番だけど?」
「おお、非番が合ったな。それで僕は、街に行ってみたいのだが」
則宗は笑みを崩さない。ずい、と顔を近づけてきそうな雰囲気に、清光はわざと嫌そうな顔をしてやった。則宗はなおも笑顔だ。先ほどよりどこか、面白がっている色が濃く出た気はするが。
言い出されたときにはっきり断れなかった時点でこのくそじじいのペースに飲まれている。溜息とともに渋々、了承の返事を差し出さざるを得なかった。
おつかいで行くことになるだろう万屋などの店の説明をそこそこに、則宗が調度を見たいと言うのでいくつか付き合った。座り続けると尻が痛くなりそうなスツールに笑ったり、流線の優美な花入にじっと見入ったり、思うままに振舞う則宗を見るのも面白くないわけではなかったが、随分と歩かされた。
「坊主、お茶をするのにいい店は?」
図ったようなタイミングの申出だった。お買い物に付き合ってくれた礼に奢ってやろう、という言葉に甘えることにした。
そのときいたところから近くて手頃な店、そういう基準で清光が記憶の中から選んだカフェを、則宗は自分の調度を探したときと同じように随分と楽しそうな様子で見渡した。長い前髪に隠れがちな薄い色の目は、店内の暖かな色の光に本丸や外で見るのとはまた違う色合いを見せた。
清光が選んだ細長いフランボワーズのケーキを「お前さんみたいだな」と笑い、自分の許にきたプレートに感嘆の声をあげ、そうして妙に真剣な面持ちで回しかけていた蜜によって、ふっくらしたパンケーキはひたひたに黄金に濡れている。
普通に食べていては清光の皿の方が先に空になる。手慣れたような、迷いのない所作がナイフとフォークで一口ずつ生地を切り分けては口許に運んでいくのを見ながら、清光もちびちびとケーキを食べ進めた。清光が気に入っている、甘いがさっぱりとした後味。
「いい店だな」
一枚目のパンケーキを半分ほど食べ進めたあたりで、則宗はさりげなく言った。
「気に入ったんならよかったよ」
「うん。気取ったところがないのに落ち着いて食べられるのがいい」
清光が気に入っているのもそこだった。騒ぐことはできないが、落ち着いて誰かと話せたり、可愛いケーキに舌鼓が打てる。お値段もそこそこ。
「騒がしくご飯食べるのは本丸でできるからね」
「それも確かに楽しい」
思わずこぼれたといった感じの笑みが則宗の顔に浮かんだ。「じじぃ」を自称する割に、顔に表れる感情は時に驚くほど無垢なものに見えた。老獪さと純粋さは、この刀の中で反発しあうことなく納まっている。本丸に慣れるまでの教育係として毎日顔を合わせる中で、相手を試したり揶揄ったりする言動よりも、それを一番「喰えない」と感じていた。
狭いテーブルの下では膝が触れそうなほどの近い距離、奔放に跳ねた金の髪が則宗の食べるのに合わせて震えるように揺れている。黙って口許までフォークを運ぶ所作にはやはり気品があった。素直に、美しいと思えた。
一枚目のパンケーキがなくなった。清光のフランボワーズも、半分に差し掛かりつつある。
音を立てずにナイフとフォークを置いた則宗が清光を見た。
「今日は、お前さんとふたりで話がしたくてな」
「……別にいいけど。本丸でもいつも話してるじゃん」
「そういう話とは違う話だ」
「じゃあ“究極の愛され方”とか?」
我ながら皮肉っぽい言い方になったと思ったが、則宗は目を伏せ、はにかみにも似た笑みをこぼしただけだった。
「愛の話ではある」
「へぇ?」
思えば、本丸に来てからはこの刀は「愛」を口にしなかった。それに今気づいた。
「こうしてお前さんが僕に付き合ってくれるのも愛だな」
「改めて言うと大げさに聞こえるかもだけど、まぁ俺もこういう小さい積み重ねにこそ愛はあるって思うよ」
「そうだろう」
本丸では主相手に何の話をしていたのだったか――そうだ、美しいものの話をしていた。自分にないものだからこそ、美しく見えると。
その考えには清光も同意だった。自分にはないと意識してしまうものほど焦がれる。羨ましく、尊く、美しく見える。
それをこの刀が言うというのが、「喰えない」とは感じるが。
「そこかしこに愛はある。それが自分の望む形ではなかったとしても」
言いながら清光を見つめる細められた目には、もう先ほどのはにかみはなかった。まばたきする間に、表情が変わる。清光は警戒するつもりで、自分の持っていた小さなフォークを置いて聞く姿勢をとった。
則宗の純粋な言動に油断していると、すぐ老獪さが顔を出す。こういう些細だが急激な変化に追いつけないでいると、相手のペースに飲まれてしまう。やはり、喰えない。
「愛は鎖だが、力だ――僕らは、与えられれば食っていくしかない。どう食っていくかにも違いはあるだろうが……食わずには生きていけないからな」
こう言うと人間にも似ているな、と軽口を叩く笑顔の明るさが癇に障る。内心で「くそじじい」と思いながら、清光は応えるつもりでじっと目を睨みながら微笑んでみせた。則宗はそれに、耽溺するような甘い笑みを返した。
「それで、望まないものも食わずにはいられなかったあんたは、結局俺に何の話がしたいわけ?」
「うん? 僕はただ、お前さんと話したかっただけだからなぁ……」
きょとんとした顔は、蜜をかけるのを止められたときと同じく幼かった。だがそうした顔は一瞬で、すぐに唇にはいつもの不敵な笑みが浮かんだ。
「そうだなぁ、強いて言うなら……もっとお前さんの愛が知りたい」
「……うーわ」
年寄りどものこういうところが一番いけ好かなかった。老獪さについてくる面倒な物言いの奥から、本当に時々、真っ直ぐに言葉を投げ掛けてくる。歳月に洗われた端麗さでもって飾らないものを寄越してくるのは、単純にたちが悪かった。ずるいと感じるくらい響いてくるからだ。
清光が苦々しく顔を歪めるのに、則宗は嬉しそうに笑った。そういえば歪なものがいいとも言ってたな、とどこか冷えた頭が考えていた。
「望む形、意図しないものをも受け取り遺されるのは僕ら皆の宿命だ……しかし、今は自分から望むこともできるわけだ。受け入れるという形だけでなく、与えることができるのは気分がいい。求めることができるというのも」
止まっていた手はまた優美に動き出した。無駄な音を立てることなく、パンケーキは一口の大きさに切り分けられ、蜜を絡められるとクリームをたっぷり載せられる。
黄金に輝く蜜、垂れ流されたものを注がれる前に戻すことはできない。ひたひたに濡れたパンケーキはつやつやと飴色に輝いている。
ついと持ち上げられたフォークは清光の鼻先で止まった。
「お前さんの愛はどういう味だろうな?」
うっそりと微笑む則宗の差し出すパンケーキからは今にも蜜が滴り落ちようとしている。てらてらと輝く飴色が下へ流れていくのが分かる。
――やっぱり、こうやって仕掛けてくるのは気に入らない。
最初の一滴が垂れ落ちてしまう直前、身を乗り出した清光の唇と舌がその蜜を受けた。口の端にとろりと逃げていくのがあるのを感じながら、パンケーキをフォークから引き取る。自分の手から食べ物を受け入れる清光を見る則宗の目は、歪なほど強く輝いていた。それを見ると、なんともいけ好かないが、嫌って遠ざけてしまうこともできないと思い知った。
この刀の、歪を愛でる心こそ――そう思いながら、口の端に垂れたシロップを指で拭い、舐めとる。クリームのふくよかさと口の中でももったりと広がる蜜の風味が後を引いた。
「……あっま……」
「うはは、坊主の言った通りだった。甘くしすぎた」
快活に笑う顔には先ほどの異常な目の光はなかった。「しょうがないじじいだな」と悪態を吐きながら、清光は口の中の甘ったるい後味を流し込むために自分の珈琲を手に取った。