猫は眠れない 午後は柔らかな陽光に春の気配を知るような穏やかさだった。いつもは障子紙に日が透けるのを見ながら微睡んでいるはずの南泉一文字は今日は炬燵を抜け出し、膝を揃えて正座している。思わず肩を内に寄せて縮こまってしまうのは仕方のないことだろう。ちらりと上目で窺う相手は、そんな南泉を気にも留めず窓枠にもたれて外をぼんやり眺めている。
普段なら、そこにいては身体が冷えるから、などと言って自分も炬燵に潜り込むのだが、今はそういう軽口を挟めそうにない。南泉がつい他に比べて気安い口をきいてしまうのをいつも鷹揚に赦してくれるこの相手は現在、物思いに沈んでいるらしい。
長い睫毛で重そうな目蓋から覗く薄い色の瞳が物憂げなのは普段と変わりない。いつもはその下の口許が不敵に弧を描いていて、そのアンバランスさが顔の中で不思議に調和して納まっている。南泉はその思慮深さと軽妙さの均衡を保った喰えない性格を含めて、この「じじぃ」を自称する刀を敬愛している。敬愛しているから、いつもの笑みを引っ込めて目の前で黙り込んでいる一文字則宗に口を挟めないでいる。
長い睫毛がゆっくり下りたと思うと、また緩やかに持ち上げられた。光の加減で見え方の変わる薄い色の瞳は、先ほどからずっと庭を見下ろしている。本丸の中でも新しい居住棟の二階にあてがわれた部屋から則宗の瞳が何を見ているのか、南泉は訊こうとはしていない。
春先の優しい日和を束ねたような睫毛も陽光に透けて光の灯ったように白い。それがまた下ろされ、持ち上げられ、そうするとそれまでだんまりだった則宗が短く息を吐いた。
「最近の若いのには、僕のやり方はもう通じないのかねぇ」
憂いに沈み込む横顔の美しさを目にすると、南泉はきゅうっと締めつけられるのを感じる。
何が締めつけられているのか? 胃である。
一文字の刀たちの中でこの本丸にいる期間が一番長いのは南泉である。あとからやって来た目上の刀たちの役に立てるのは南泉としても嬉しいし誇らしい。だから、南泉は自分の敬愛する刀たちに不自由のないようになるべく気を配って過ごしている。
そうして暮らしているから、この「御前」の執心事にも気付いていた。気付いてはいたが、これに関して何か手を回そうという気はなかった。隠居の身と称する則宗自身がそれを望まないだろうと考えたからでもあったし、執心の相手がこの本丸一番の古株でもあったからだ。一文字の序列は南泉にとって不動のものだが、だからといって本丸に出来上がっている慣例においそれとして手を加えられるわけではない。無理にそうしようというのは、上手い手とは思えない。
そもそも、ここにある慣例自体そう息苦しいものではない。なんだかそういう空気があるな、という雰囲気みたいなもので、明確にそれを強制されるわけではないのだ。例えば部隊の編成について意見を言いたいならへし切長谷部をあたれだとか、本丸での生活について困り事があるならまず堀川国広に話してみろだとか、「古参に相談すると上手く解決しやすいぞ」というその程度の話である。そしてその古参中の古参が、加州清光なのだ。よく皆の話を聞いてくれる刀ではあるが、身内をもっと気にかけてくれとわざわざ頼みにいくのは、やはり勝手が過ぎる。
先の特命調査でその加州とこの則宗の間にどういうやりとりがあったのか、南泉は知らない。詳しく追及する気もない。加州の「くそじじい」呼びには未だに血の気の引く思いがするが、他でもない御前がそれを赦している以上、南泉が口を挟むことではない。
だから則宗の大きな「うはは」という笑い声が本丸に響いても、南泉はそれをちらりと窺いはするが、それだけだ。そもそも則宗自身が「好きにやる」と言ってきたのだ。大きな面倒が起きないように目を光らせてはいるが、それ自体はそんなに苦しいわけではない。同胞が気になって目を配ってしまうのはどの刀たちも同じだろうし、その刀が新参ならなおさらだ。
そういうわけで、則宗が加州を「坊主」と呼んで、暇さえあれば探しているように見えるだとか、非番の日が合うときに一緒に出掛けられないか伺っているのを見かけただとか、何かあれば南泉に訊きにくるのが加州がどこにいるかだとか、そういうのすべてに察するところがあっても一切を飲み込んできたのである。ようやく約束を取りつけられたらしい則宗が加州を隣に出掛けていくときに浮かべていた笑みの甘さは見なかったことにしたし、南泉がたまに頼まれるおつかいの茶菓子が誰に消費されているのかも考えないようにしている。茶菓子は別にひとりだけに消費されているわけではないだろうし。いや考えてはいない、本当に。
以前より加州に対する距離が近い気がするだとか、すぐ髪とか手とか触ってんな、えっ今ほっぺた触った? だとか、南泉は何も言う気はないのだ。実際何も言っていないし、則宗も何も言ってこない。あからさまに距離を詰めている則宗を涼しい顔で流し続ける加州にも、何も言う気はないし、そもそも何を言えばいいのか分からない。
何も言わないと決めてはいるがやはり動向は気になるもので、目を配るようにはしていた。山鳥毛は出陣、日光一文字は遠征に出て南泉は非番の今日、部屋に遊びに来ないかと誘われて断るという発想が出ないくらいには、南泉にとって一文字則宗は大切な存在なのである。
南泉を呼び出したその則宗は、茶請けとして一応カステラを出しはしたが、自身はずっと窓の向こうに目を落としている。南泉は自分がおつかいで買ってきたその菓子に手もつけられないまま、淡い金色の髪が陽光に透けて白んでいるのや重そうな睫毛に縁取られて憂いをたたえている瞳の美しいのを居心地悪く見守っていた。その中でやっと出たのが、先の発言である。
絞られた雑巾のように胃が縮む感じがする。ひとりごとのようなもので何かしら応えを求められているわけではないと分かっていても、無言で押し通すには沈黙が重すぎる。終わろうとする冬に憂いを抱え込む横顔は、あまりにも美しい。
それにしてもこの状況は何なのか? 口を挟ませる気なんてないだろうに、なぜ今日に限って則宗はわざわざ呼び出した南泉をほったらかしにして庭を見つめているのか……非番にあたって他の一文字の予定を確かめに当番表を見にいったから、今日の庭掃除が沖田総司の刀たちなのは知っている。ちょうど今の時間は、則宗が目を落としている辺りにいるだろう。
縮みあがる胃を気にしながら、南泉は頭を回している。お頭は出陣、日光の兄貴は遠征、御前と自分は非番。加州清光は大和守安定と庭掃除。
半ば現実逃避のような気分で、南泉は予定表のことを考え出した。細かい予定はいつも一週間分貼り出されている。
窓を額縁に、切り取られた冬を背にした則宗は麗人そのものといった佇まいである。この金の髪には、春の陽気もよく似合うだろう。春――そろそろ立春である。例年なら、その頃審神者が景趣を今の雪のものから変えるはずだ。予定表にもそうあった。
立春の日は南泉含め一文字たちは皆非番だった。全員の非番が被ったのなら、おそらく一文字で集まって新しい景趣を眺めながら茶でも飲もうという話になるだろう。そう考えて、午後には茶菓子を探しに……と思っていたのが今朝、則宗に呼ばれる前だ。
このとき、南泉の頭は出陣のときのような早さで回った。戦況を一目で理解するように、予定表の立春の日に何が書かれていたのかを思い出したのだ。加州も非番だった。ただし、午後から。
そろそろ沈黙に堪えきれなくなっていた南泉は、意を決して口を開いた。
「御前」
「ん?」
わずかに顔をこちらへ向ける口許は微笑んで優しい。きっと近い春、桜を背にしてもよく絵になるだろう。そう確信しながら、南泉は春霞の空のような色の瞳を見た。
「立春の日は、景趣が変わる、にゃ」
「ほう」
「その日はお頭も兄貴も非番だから、多分昼から簡単に茶会でも開くと思うんだけど」
「うん」
「御前の予定を訊いておきたい、にゃ」
「ふうん……」
溜息のような相槌を打つと、則宗はまた視線をついとずらし、庭を見下ろす。視線の定まったところでその横顔に華やいだ笑みが浮かんだ。手を小さく振った後、満足げに南泉に振り返る。
「立春は朝しか空いていないな、僕は」
「わ、分かりました。……にゃ」
一仕事終えた……それを確信した南泉は静かに息を吐いた。その気苦労を知ってか知らずか、「カステラ、手をつけてないじゃないか」と笑った則宗は、それまでの憂い顔とはうって変わって上機嫌で庭を眺め始めた。
「こら、さぼるんじゃない!」
「さぼってないっつーの。……ほら、あそこ」
「うん?」
促されて見上げた先には、ここ最近よく清光のそばに見かける金色があった。陽光に輝いている髪の下で、機嫌よさそうな笑みを浮かべているのが見える。
安定も笑って手を振ると、手を振り返してくれる。何がそんなに楽しいのか、一文字のご隠居はにこにことふたりを見下ろしている。
「何があんなに楽しいのかね……」
清光は半ば呆れたような声で、掃き集めた落ち葉をゴミ袋に入れ始めた。安定も則宗から視線を外し、それを手伝う。
則宗はふたりを見下ろして笑っている。それは間違いではない。でも実のところ、本当は少し違うと思う。
安定はちらりと自分の半身のような相手を窺う。表立って言うことはないが、代えのきかない相棒。似ていないけれど、自分と同じ太刀筋。
「則宗さん、よく見つけるなぁ……」
思わずもれた言葉は、ここ最近実感していたことだ。
「そーね」
落ち葉から視線を上げないまま、清光も同意を寄越した。
「清光、よくお菓子貰ってくるもんね」
「お前も食べるだろ」
「食べるけどさ。……そろそろお礼買いにいかなきゃね」
「えーっ」
めんどくさい、と言いたげに顔を歪める相方に「当たり前だろ」と釘を刺す。口をへの字にしているが、これはちゃんと安定の買い物についてくるだろう。
ゴミ袋の口をしっかり縛って、庭掃除の仕事は終わりだ。あとは納屋に箒を片付けて、その近くのゴミ捨て場にこの袋を置いておけばいい。
「でもさぁ、ほんと、たまに大丈夫なのかな、とは思うんだよな」
「何が?」
安定がゴミ袋を持つ代わりにふたつの箒をまとめて持った清光が歯切れのよくない口調でこぼしたのに、安定は首を傾げる。清光はまた渋い顔をした。言葉を探しているらしい。
「……他の年寄り連中もだけど、すぐお菓子やら何やらくれたり、やたらと距離近かったり、勘違いさせそうなこと言うじゃん」
「あー……」
勘違いじゃないんじゃないの、と言うのは簡単だが、それを納得させるのは難しい。実際言葉遊びとして口説くようなことを言う古い刀たちがここにいるのは事実だし、清光は初日からそういう刀たちを古株として往なしてきたのである。それはもう、年寄りのあしらい方が上手くなってしまった。
しかし、相手の髪をかきあげるついでに指の背で頬を撫でていくのは冗談なのか? 冗談で、あんなにとろけたような笑みを浮かべるのだろうか?
安定は押し黙った。長い睫毛に縁取られた目に浮かんだ甘い色が、偽物とは思えない。
「……何、どうしたの」
黙り込んだ安定を不審に思ったのか、清光が覗き込んでくる。赤い目には少しの心配が滲んでいる。
すぐ不平を言うし、好きな仕事じゃないと明らかにやる気がないし、そういう部分はよく目について実際注意もするけれど、だからといってこの相方が気に入らないわけじゃない。なるべく毎日を楽しく過ごしていてくれないと嫌なくらいには、安定にとっても大事な刀だ。
だから、あのご隠居が清光を大事にしてくれるなら安定としてもやぶさかではないのだけれど……当の清光がこれでは。
「難しいなぁ……」
「ん? 確かにじじいたちは面倒ね」
「うーん、面倒は確かに面倒かな……」
今度は安定の真意を図りかねた清光が首を捻った。しかしすぐ、まぁいいか、とでもいうように持ち直す。この切り替えの早さは、これまでの本丸運営で培われたものだ。
納屋に着いた。あとはゴミを捨てれば終わりだ。今日は他にやることはないから、この後はさっき言っていたお礼を買いにいこう。そしてそれを清光に持っていってもらおう。
いつも美味しいお菓子を貰っているお礼だ、それくらいならいいだろう。そう決めて、安定は頷いた。