花より他に知るものもなし 執務室からは淡く映った梅の色は、囲まれて見れば冴々として凛々しかった。香りもほのかに辺りを漂い、気乗りしていなかった散歩だが思っていたより楽しいと清光は感じ始めていた。
「花は桜木とは言われるが、やはり梅も見事なものだな」
清光を散歩に誘い出したご隠居は数歩先、畳んだ扇子を口許に当てながら目を細めている。花を愛でているだけでやたらと絵になるものだ。梅林に佇む一文字則宗も悪くない。そう思うと寒い中連れ出されたことも許しそうになる。
清光だって美しいものは嫌いではない。ただ、喰えない性格も知っているためにいけ好かないとも感じるだけだ。
安定に持たされた菓子の小包を持って則宗の部屋を訪れると思いの外嬉しそうな顔を見せたので、菓子を持ってきた清光の方が驚いた。
「茶を持ってくるからお前さんもつまんでいけ」
「どーも」
則宗の部屋は未だに殺風景だ。備え付けの箪笥や棚以外に増えたのは壁に寄せて置かれた寝台だけだった。以前街を案内したときに買い求めたものだ。深い艶を返す濃い色の木枠は、落ち着いた赤のカバーにもよく合っている。
つまり、茶を用意するにも座卓すらないのだ。別に床に座ってそのまま食べるのでも構わないのだが、その日は安定の「いつもお菓子貰ってくるんだからちゃんとしないと」という言葉がちらついた。
茶をもらいにいった則宗を見送った後、清光も一番近い納戸に向かう。共用の掃除用具の他、折り畳みの小さい座卓なども置いてあるのだ。これだけ刀剣たちが増えたのなら部屋に集まるときに必要になるかもしれないから、ということで各階に一、二個用意したのだった。
目当ての座卓を持ってきて組み立てたとき、則宗が急須の載った盆を手に戻ってきた。
「お、卓なんてどこにあったんだ」
「納戸。返さなきゃいけないけどね」
部屋に何を揃えるかはその部屋の主の自由だ。自分好みの調度を吟味して揃えるのもいれば、布団だけあれば十分なんて極端なのもいる。
つまり、必要になったらその度納戸から借りてくればいいのだから部屋に座卓を置いていなくても何も困りはしないのだ。しかし清光の美意識にはそれが引っ掛かる。この部屋に、部屋の主と寝台によく似合う家具を揃えてみたくなる。
そう思いはするが、そもそも則宗は本丸にやって来てまだ二週間も経っていない。そのうち自分で揃えるつもりで、寝台だけ先に求めたのだろう。
自分で持ってきた饅頭を頬張りながらさりげなく部屋を眺めていた清光は、目の前で熱い番茶を啜る則宗を見ながら「紅茶とかも似合いそうなんだけどこうしてみるとやっぱり年寄りくさいな」と考えていた。
その熱い番茶を置いて、饅頭の包みを剥がし始めた則宗が思いついたように切り出した。
「立春の日には景趣が変わるらしいな?」
「ん? ああ、そうだよ」
この本丸では割りとこまめに景趣が変えられるのだ。ひとえに審神者の趣味のためだが、季節の花が楽しめて飽きないので刀剣たちにも好評だった。
「どんな庭になるんだ」
「梅。一面梅林になる」
景趣システムは何度見ても不思議だった。庭の広さも変わっている気がする。
「あ、そうだ。多分朝一番で変わるけど、じじい、ちゃんと本丸の中にいろよな」
清光の言葉に則宗の目が丸くなる。その目の色が、続きを促していた。
「切り替わるときに庭にいると、その景趣に置いてかれるんだよ。前にかくれんぼしてた短刀が何振りか置いてかれたことがあったの」
「ほう、そういう事故もあるわけか」
そのときはすぐ気付くことができたために大事にはならなかったが、それ以来景趣の変更日はあらかじめ周知されることとなった。執務室に貼り出された予定表にもしっかり明記されているはずだ。
気をつけよう、と則宗は素直に頷いた。一仕事終えたような気分で清光も番茶を手に取る。もうそろそろ飲みやすい温度になっているはずだ。
同じように番茶に口をつけていた則宗が、ちらりと清光の顔色を窺うように上目になったのはこのときだった。
「……梅林と言っていたな」
「うん」
「それは見事だろうな」
「そりゃね、まだ寒いのにじいさんたちがわざわざ縁側でお茶するくらいには」
「ほほぅ、そうかそうか」
湯呑みを置いた則宗はにっこりと微笑んだ。
「僕もその梅林に散歩にいきたい」
「あっそ、いってらっしゃい」
「なんだ坊主、冷たいなぁ」
「まだ冬だしね」
にべもない清光の返しに則宗はわざとらしく悲しそうな顔をしてみせた。そのわざとらしさに少し苛ついて、清光もやり返してやろうと思ったのだ。
「何、じじいはひとりじゃ散歩もできないってわけ? 誰かにいてもらわなきゃ不安?」
煽るように嫌味ったらしく笑ってやったつもりだった。則宗はきょとんと目を丸くして清光の顔を見つめると、それまでの幼げな顔が嘘のようにニッと目を細めた。清光に負けないほど、嫌味ったらしく唇に弧を描いて。
「そうさ、じじぃだからな。若いのについてきてもらわないと不安で不安で……しかし南泉の坊主は一文字の集まりがあるらしくてなぁ。もう僕にはお前さんしかいないのさ」
弱々しい語り口は表情にまったく見合っていなかったが、清光に自分の手落ちを痛感させるのにこれほど有効な組合せはなかった。「な、坊主?」と甘えるような追い打ちに「くそじじい……」と悪態を漏らしてしまったのは仕方のないことだろう。
こうして意趣返しのつもりが墓穴にはまり、立春の午後にあった清光の非番には則宗との散歩が捩じ込まれたのである。
雪はないけど冬の景趣だ、寒いんだからな、と先に釘を刺したのを覚えていたらしく、則宗は監査官として現れたときに着用していたインバネスコートを羽織っていた。その下はいつもの内番着なのでなんだかちぐはぐだったが、足許もブーツなのでボタンを閉めてしまえば違和感は少ない
まだ本丸にやって来て二週間も経っていないのだ。それなのに、随分懐かしいコート姿に感じた。思った以上に本丸に、そして清光の中にこの一文字則宗という刀は馴染んでいたらしい。
その黒いコートを翻して、則宗が振り返った。
「いやぁ、景趣とはいいなぁ坊主!」
監査官のときには見せたことない笑顔だった。いけ好かないところもあるじじいだが、そういう顔を見られるのは悪い気分ではない。
「そーね」
分け入れど分け入れど白と淡い赤の花びら、延々と花は咲き続け散り落ちることはない。約束された永遠は作り物ではあったが美しいのも確かで、自分たちの暮らす箱庭には相応しいに違いなかった。
それにしたって、柔らかな陽の下に立つ則宗の美しさはどうだろう。花々の中にあって遜色ない刀は本丸に少なくないが、それぞれ違う美しさを持つために、そのすべてを迎えてきた清光はいつも驚いてきた。その度、また我が身を思った。
それ自体は今も変わらないが、今の清光は自分が何物であるべきかを決めている。思いこそすれ、迷うことはなかった。ただ美しいものを美しいと受け入れる心があった。
方々に跳ねた髪に光を散らしながら晴れ晴れとした顔をしていた則宗はふと、慈しむような淡い笑みを浮かべた。
「白梅も似合うじゃないか」
瞳の赤が映えると、近くの枝を軽くつまんで清光の髪に寄せた。梅の香りがふわりと漂う。笑みに負けぬほど淡い色の瞳は、その香りより甘かった。
「どーも。でも、そういうのやめなね」
「ん? 何がだ」
甘い微笑に流されないように低い声で応えた清光に、則宗はなおも表情を崩さない。清光の心中に苦いものが滲んできた。
枝とともに顔に寄ってきていた手をやんわり押し返して、清光は甘やかな目から視線を外した。
「ほんと、どのじじいも若いのと見ると甘やかそうとするからなー。口説いてるように聞こえるからやめろっての」
清光が迎えてきた刀たちのうち、古い刀たちにはどうも他の刀を構うことが好きなのが多いようだった。本丸の古参として世話を焼いていればそれぞれに顔を合わせる機会も多いわけだが、皆ことある毎に出てくる言葉は甘く、可愛がろうという態度を隠そうとしない。もちろん例外もいたが、長い年月愛されてきた刀というのはそういうものなのかも知れなかった。
こちらにも相手にもその気がなくとも、甘い雰囲気に酔いそうになることはある。もしうっかり酔い潰れてしまえば、それは事故だ。少なくとも清光の認識ではそうだった。不幸な事故は避けたい。そういうわけで、危なっかしい刀に会うと清光は毎回それとなく注意をしてきた。今回もそのひとつのつもりだった。
則宗は飄々としているのもあってずっと忠告の機会を掴めなかった。乗り気ではない散歩だったが、結果的にはよかったかもしれない――そう考えて、清光はもう一度則宗の顔を見上げた。
則宗は、ぞっとするほどの無表情だった。
「――他にも、こうさせてきたと?」
押し戻した手がそのまま、清光の頬に戻ってきた。親指がゆっくり、感触を確かめるように目の下を過っていく。以前雪の中で突っ立っていたときとは違い、冷たくはなかった。
探るような視線が清光を射抜いていた。張り詰めた緊張の中で則宗の感情は読み取れなかったが、清光ももう目を逸らせなかった。
そうしてじっと淡い目が冷えきっているのを見ていると、ふと則宗の視線が緩んだ。
「……妬けるな」
目の下を滑っていった指が、清光の頬を軽くつまんだ。薄情を詰るようにそうした後、そこをくすぐるように撫でていく。寂しげな笑みを浮かべながら。
「今日はありがとう。僕はもう戻る」
横をすり抜けるように則宗は去っていった。梅の花をも一顧だにせず、振り返ることもしない背中は、やはり美しかった。
「……何なんだよ」
思わず呟いたことも、花しか知らない。