青葉の庭 驟雨に洗われて庭の緑は溌溂としたように光っていた。
外も同じように、おそらくは本丸内よりも激しく降ったのだろう。景趣システム下でも外界から受ける影響には気温だけでなく、こういう形もあるのだ。
立夏、審神者は景趣を緑が青々と生い茂るものに変えた。花のない庭に立つのは初めてで則宗には慣れない感じがしたが、清光は違ったらしい。
「いやー、なんだかんだ言って毎年見るけど、これが一番懐かしいわ」
審神者と清光が初めて本丸に足を踏み入れてしばらくは、景趣とはこの庭でしかなかったのだという。笑い混じりに語った口調には甘い懐古の響きがあった。六年は肉を得た身には大きいらしい。その六年の間に、則宗を入れて九十を超える刀剣たちが集った。景趣だけでなく、増築された居住棟や改築された執務棟などのそれぞれに、清光たちの六年があるのだろう。
それにしても、最初の景趣がこの初夏を写しとったような緑なのは則宗にも合点がいく。過ごしやすいのだ。
暑すぎず寒すぎず、花がないのは目に寂しくもあるが今萌えんとする緑がつまらないわけではない。満ち足りようといのちを燃やすものは、それだけで美しい。
暖かさのために赤いシャツ一枚で襟元をくつろげた則宗は、窓から庭を眺めていた。遠征の打ち合わせまではまだ時間がある。給金で買った二人掛けのソファは、庭を眺めるのにちょうどいいよう窓のそばに寄せてあった。清光も一目見て「いいじゃん」と言ったこれは則宗にとっても気に入りで、部屋にいるときは大体このソファで過ごしていた。本丸は着々と則宗の居場所になっている。日々深く、根差すように。
「……あ、いる?」
出入り口からひょっこり顔を出したのは、先ほどまでも則宗の目蓋の裏にいた清光だった。則宗の姿を確認すると、勝手知ったるといった感じで部屋に上がり込んでくる。ジャケットも襟巻もない、黒いベストだけの気安い姿だ。タイすらつけていない。
「ほい、回覧」
「おお」
手渡された板には政府からの水道検査の通達が挟まれている。ある日の日中、二時間ほど水道が使えないらしい。この広さの敷地の検査が二時間で済むとは恐れ入る。則宗は思わず眉を持ち上げてそんなことを考えた。その事務的な紙面の下には審神者の字で「小満に景趣変えます」と書かれていた。ついでに、ということだろう。
報せの裏には刀たちの名前が印字された紙が挟まれている。そのずらりと並んだ名前たちから自分の名を探し、板に取り付けられたボールペンで横にある四角にチェックをつける。随分とアナログで時代錯誤だが、これがここのやり方だった。
他にチェックがつけられているのは清光と、今日近侍の山姥切国広だけだ。次はどいつに持っていけばいいんだ、と訊ねるつもりで顔を上げると、清光は則宗の前で立ったまま庭を眺めていた。晴れやかさの中にやはり懐古の甘さを含んだ横顔もだが、襟元に指を差し込んで鎖骨の辺りを掻いている隙のある仕草に、則宗の中にじわりと滲む愛しさがあった。
「……なぁ、坊主」
「ん?」
回覧板は隣に放って呼びかけると、清光は立襟から指を抜いた。さして恥ずかしがる様子はない。もうこんなことで、バツの悪い思いをする間柄ではない。
「小満に変わる景趣ってどんなやつだ」
「あー、百合だよ。結構匂いがすごい」
でもなんか神秘的で綺麗だよ、と笑う顔には緊張もない。
「また散歩にいきたい」
「いいけど、花粉つかないように気をつけてよ。百合の花粉、しぶといから」
「どの辺りまで百合になる?」
「えーと、なんか森みたいになるから……」
庭を指し示すために清光は屈み、そのまま窓枠に手をついた。手袋をしていない、爪紅で彩られた白い手。
さっきこの手が掻いていた鎖骨がどういう形をしていてどう動くのか、則宗は既に知っている。しかし知っていることは、何度でも確かめたくなる。
窓枠に預けられた手首を、則宗は包み込むように握った。清光は手を見、則宗を見たが、突き放すことはなかった。
普段は気怠げな赤い瞳が見開かれているのを見つめながら、形を確かめるように親指で手首の骨を撫でる。人差し指は袖の中へ、手首の内側を伝わせていった。
それも嫌がられないのをいいことに、清光の頬をもう片方の手で撫でるとそのまま首の後ろへ添える。自分の方へ引き寄せるために。
見開かれていた目はもう驚いていない。指先を滑らかな髪がくすぐるのを感じながら則宗は顔を寄せた――が、もう少しのところで別のものがやんわり唇を阻んだ。清光の手だ。
「仕事中」
黒子のある口許は、小憎たらしく微笑みそう諌めた。その割に目には優しい許容が浮かんでいたが、そのまま則宗の手から抜け出し、放ったままの回覧板を一瞥する。
「今から遠征の打合せでしょ? これ、ついでに持ってってよ。多分一期一振が粟田口にそのまま回してくれるから」
そう言って、何事もなかったかのように出ていこうとする。則宗の気持ちは宙ぶらりんだ。黒いベストに包まれた身体はやはり薄いのに、少しも確かめられなかった。なんとも、口惜しい。
則宗は立ち上がると大股で出入り口まで歩み寄った。薄い背中に追いつき、肩に手を置き軽い力で引き寄せる。
なんだよ、と言いたげに肩越しに振り返った顔の顎をそのまま持ち上げ、下唇を吸ってやった。また赤い目が丸くなるのが見える。
してやったりという気持ちもあって楽しくなる。ちゅ、とわざと音を立てて口を離し、顎を撫でてやる。
「それじゃあ行ってくる」
口を挟む隙を与えないまま、則宗が先に去る。ひとまずはこれで満足だ。
悠然と歩いていったつもりだが、清光は怒鳴りもしなかった。もしかしたら呆れて言葉もないのかもしれない。
まぁ、後で叱られるならそれもいい。
今回の遠征部隊は皆手練れだ、打合せはすぐ終わるだろう。出発までの時間で清光を今晩どう部屋に誘うか考えよう。
鼻歌でも口ずさみたくなる上機嫌で、打合せを行う部屋の戸に手をかけたときだった。
「……あ」
回覧板を置いてきてしまった。