映画を観ないと出られない部屋に閉じ込められたコラロの話一歩足を踏み入れたその部屋は、まったくの「白」だった。壁、床、天井と完全な一色に染め上げられた小部屋に、視覚が一瞬、空間を見失いかける。極度に広くも、あるいは狭くも感じる。中央には目印のように小テーブルが一つ、その上に埃を被った映像電伝虫が置かれている。その隣には一人掛けの巨大なソファが、こちらに背を向ける形で二脚並んでいる。
——なんだ?この部屋は
話を昨夜に巻き戻す。
激しい嵐に見舞われたうえ、所属不明の海軍船に追われたロー達のポーラータング号は、航路を逸れて近くの小島に避難した。島影に船を隠し、さらなる危険がないかと、ローは一人探索に出たのだが、どうやらここは随分昔に打ち棄てられた島らしい。すでに住民の姿はなく、森の中に廃墟が点在していた。この部屋は、その奥まった一角に比較的保存状態の良い建物として残されていた。
見た限りの危険はないように思えるが、同時に得られるものもなさそうだ。部屋を出ようとドアノブに手を掛けたところで、扉が開かなくなっていることに気づく。対面にあるもう一つのドアも同様に、ロックされてしまっている。
「——無駄だよ、一度入ったら出られん仕組みだ」
不意に声がした。反射的にローは鬼哭を構える。
気配を消しきった何者かが、ソファに掛けていた——立ち上がった人物の姿に、ローは我が目を疑う。声にならない声が溢れて、足元に点々と転がった。
「——コラ、さん」
他の何を見失っても、この人だけは見誤るものか。一瞬たりと忘れた日はなかった。
——この身に今の自由を与え、引き換えにその命を差し出した大恩人と、同じ顔をした『海兵』がそこに立っていた。
装いから将校だと分かる。『海兵』は思いきり怪訝な顔をした。
「あ?誰だそりゃ」
張り手を返されたような心地だ。ローの喉で二の句が詰まる。俺に気付いていないのか。それとも。
コラソン——の顔をした海兵は咥えた煙草を揺らして、
「俺は本部中佐、『ロシナンテ』」
海賊に名乗るのも癪だが、と頭抜けて高い場所から不敵に笑った。
ローは暴れる鼓動を押さえつけて、『ロシナンテ』を見つめた。見れば見るほど、目の前の男は記憶の『コラさん』と同化していく。
別人の可能性は捨てきれない。顔は少し変化した気もするが、年齢相応とも言えるし、声や背格好まで同じ別人というのは、可能性としてかなり低い。
コラさんはともかく、ローはかなり幼いころに彼のもとを離れているので、著しく成長した自分を認識できないのは無理もないとは思うが、いずれにしてもこの様子では、確かめようもない。
ローの険しい表情の前で、ロシナンテは指を左右に振った。
「トラファルガー、端的に言うが、お前とここでやり合う気はねえ」
億越えの海賊相手にサシで無謀になれるほど若くもねえしな、と頭を掻く。
——嵐で海に投げ出されかけていた部下を助けた代わりに海に落ち、ここに漂着したのだという。
いずれ島から脱出するために体力は残しておきたい、ひとまずは休戦だと深くソファに掛け直した。
「第一、ここは『ジョークルーム』だ」
「…ジョークルーム?」
ああ、と頷いてロシナンテは辺りを見渡した。
「政府のイカレ科学者が、大昔に新世界中にばら撒いた、質の悪い悪戯部屋だな」
一度入室したが最後、部屋ごとにランダムで設定された条件を満たさない限り、決して外に出ることができない。そのうえ一面に特殊加工された海楼石が仕込まれている。
「隠すこともねえ、俺も能力者だが、ここじゃ何の意味もねえってことだ」
それは当然、ローも同様ということになる。
「その、条件てのは、なんなんだ?」
「殺し合い」
顔色を変えたローに、ロシナンテは両手を上げる。
「冗談だ」
これだよ、と例の古ぼけた電伝虫をつつく。
「記録用の電伝虫だな、こいつに入っている映像を見る…ってことくらいしか思いつかねえ」
確かに、周囲にはそれ以外に条件の手がかりらしいものはない。
「ジョークルームの条件は、分かりやすい形で示されることが多いからな」
座れよ、とロシナンテは隣のソファを親指で示した。
「ただ、長くなるかもしれねえぞ」
どれほど悪趣味な映像を見せつけられるかと思いきや、電伝虫から壁に投影されたのは、古い外国映画だった。
それぞれ事情を抱えた少年たちが、家族に黙って秘密の旅に出る物語だ。彼らの抱えた苦悩や境遇は様々で、その背景が時間をかけて丁寧に紐解かれる。
少年たちは、途中幾度となく危ない目にあい、仲たがいをしたりした。子供だけの無謀な冒険だ。幼く、つたなく、少し懐かしい気もする。ローは静かに見入った。
決して同じではないけれど、俺たちが歩いてきた道も、振り返ればこんな風に見えているのだろうか。
危なっかしくて、ばかばかしく、それでいてひどく眩しい。もう帰れない、誰もが持つ遠い日の思い出そのものだ。
でも、本当は。願わくば。そんな旅路を歩いて辿り着いた今ここで強く思う。どういうわけか重なってしまった今この瞬間に、この物語を二人で眺めることで。
——俺はずっと、あんたに隣にいてほしかったよ、コラさん
あの日の約束が叶っていたら。隣の島で落ち合って、一緒に世界中から追われていたら。
でもアンタは結局、そんなことは望まないんだろうな。優しい人だったから。
誰より優しく、大好きな人だったから。
耐えかねて少し俯き、目元を押さえた。
「…なんだお前、泣いてんのか?」
「んなわけねえだろ」
ラストシーンが滲んでいくのを気取られたくなくてそっぽを向いた。流れる音楽には聞き覚えがあった。昔どこかの海で流行った曲だ。優しく悲しい。美しいとも思う。
流れていくスタッフロールさえ惜しい。もっとゆっくり、いっそ止まってしまったっていい。
海兵と海賊という立場であっても隣り合うことを許される今この瞬間を、どうしても終わらせたくない。
だが、物語は必ず終わる、終わらなければ、何も始まらない。
——なあ、俺には分かるよ。
アンタはコラさんだ。生きていたんだな。俺の事なんかすっかり忘れて、立派な海軍将校として、またこの海に戻ってきた。
生きていてくれてよかったような、嬉しい気持ちとは少し違うのは、ここを出たらまた敵同士、俺はアンタにもう一度背を向けて歩いていくと分かっているからだろう。
「なあ、コラさん」
届かないと知っていて呼びかけた。それでいい。俺がそう語りたいだけだから。
ロシナンテはローと反対の方向を向いている。
「俺はやりたいようにやってる」
アンタがくれた命一つ抱えて、後悔のない毎日を生きている。心許せる仲間もできた。
だから、心配しないでほしい。俺はこれからも思うように生きる。
鍵が開いたら、お互い反対のドアから出て行こう。
「アンタは、このまま忘れていいんだ」
その代わりに俺が覚えている。ずっとずっと、いつかどこかで、この命がなすべきことをすべて終えたその先も。
「ありがとう、コラさん」
ロシナンテは答えず、深いため息をついた。湿った音は、鼻をすすったのか。
長い間をおいて、観念したように小さくつぶやいた。
「…あのなあ、『ロー』」
名前を、呼ばれた。胸を一突きされた気がした。低い声はかすれて、
「…『忘れてる』ってことに、しといてくれよ」
——何だよ、アンタまで泣いてんのか。
ローは、ロシナンテのソファの前に回り込んで膝をついた。
すっかり大人びた自分の顔を、『コラさん』が見下ろしている。長い年月が刻まれた相手の顔を、ローが見上げる。
向かい合ったかつての『クソガキ』と、『バカコラさん』、どちらも鏡に映したようにくしゃくしゃにしお垂れている。
ごめん。分かっていても、忘れたことになんかさせたくなかった。
——それぞれの背後で、扉の開いた音がしたけれど、聞こえなかったことにした。