鍾タルワンライ「喧嘩」「HP低下ボイス」死と言うものは意外とすぐ傍にあるものだ。
転んで打ち所が悪ければ死ぬし、夕飯に当って死ぬ事だってある。今日が命日になるかもしれないし、数十年先の未来で命日を迎えるかもしれない。そこは誰も通らないような秘境の奥地かもしれないし、柔らかな布団の上かもしれない。
それは今も尚、元気に璃月港で高額な買い物をしたり、談義に花を咲かせている元神も例外ではないと言っていた。
『生きていれば、誰にだって等しく死は訪れる』
これはタルタリヤにとって、今日がその日になるかもしれないだけの話だ。
◇◇◇
がたがた、と噛み合わない歯の擦れる音が脳裏に響いて煩い。震える身体とは裏腹に、先ほどまで全身を襲っていた突き刺さるような痛みと寒さは失われ、腹から下は真っ赤に染まって感覚がなくなっていた。唇からは、ひゅ、と空気が漏れるような浅く短い呼吸が零れている。
このまま放っておけば死ぬのは時間の問題だろうが、あいにくとやり遺したことは山ほどある。家族との約束や、相棒と釣りに行く約束だとか、あとは部下の結婚祝いを選びに行かないといけないのを思い出した。こんなところで死にかける無様を晒している暇などない。何とかして処置をしたいものだが、既に霞んでろくに見えない視界では生存に必要なものを探すのも難しそうな状況だ。
事はドラゴンスパインの調査を命じられた部下の様子を見に来たことから始まる。雪深い山奥で、宝盗団と出くわし、なんだかんだと揉めている間に雪崩に巻き込まれたのだ。咄嗟に空鯨で自身を包んだことで運良く即死は避けられたが、どこかに引っかけて腹を盛大に破いた。中身が飛び出ていないだけマシだが、悪名高い執行官のひとりが強者との戦いの中で命を落とすどころか、雪崩による失血死寸前とは。散兵辺りが聞いたら高笑いするに違いない。ああ、困ったな。家族に「近いうちに帰るよ」と手紙を送ったばかりなのに。
医者に診せられたら最高だが、ここは山奥。都合よく医者が行き交う事もなければ運よく出くわす可能性も――人生、なにがあるか分からないものだ。全くないとは言わないが、残念ながら今はその時ではないようだ。残るは自分で手当てをする事だが、支給された応急セットは部下の背負った荷物の中と来た。横着したのが裏目に出た。せめて火か、火を起こせる組み木があればと思ったが、道中それも見つからない。正確に言えば、ありはしたがヒルチャールが暖を取っていた。いつもなら蹴散らすだけだが、今の状況ではその前に死ぬ可能性が高い。さて、どうするかと思っている間に痛覚が鈍り、視覚は霞んで、聴覚も段々と周囲の音を拾わなくなってきて、今に至ると言うわけだ。確実な死の音に、思考に焦りが滲む。死にたくない。
古い記憶が浮かんでは消えていく。ああ、ちくしょう。走馬灯まで見始めるとは。まだ死ぬつもりはないんだ。さっさと散ってくれと願っても在りもしない過去の幻想は次々と脳裏に浮かぶだけだった。
流れていく記憶の中に、やたらお綺麗な顔の男が浮かび上がる。そうだ。まだ、あの男の顔面をぶん殴っていないじゃないか。なおさら死ねたもんじゃない。
「――ん、……せ」
「随分と派手な装いをしているじゃないか、公子殿」
知らずに零れた名にならない音に、応じる声がある。最期に呼ぶのが、あの男の名前と言うのも我ながら笑えるが、それに応じる幻聴まで聞こえるとは。
それに好きで派手に装っているわけじゃない。記憶の中でも偉そうだな、この男。突っ立っている暇があるなら、この怪我をどうにかして欲しいものだ。
「俺に怪我を癒すと言うことは出来ない。それは天の理に反することだ。出来ることは苦痛を早く楽にさせてやる事くらいだな」
役立たずにも程がある。
じゃあ、せめて火の元を見つけるか、今すぐ近くに火を用意するくらいなら出来るだろう。なんならヒルチャールを蹴散らしてくれるだけでも良い。
「火? ……ああ、なるほど。承った。対価は後払いにしておいてやろう」
瞬きひとつ。いつの間にか閉じていたらしい瞼をゆるゆると開くと近くにぱちりと火の粉を散らす組み木があった。どういう事かと考えるが、難しいことは全部、後だ。
震える手で何とか短剣を取り出した。火に近付けると刃の部分に熱が伝い、赤く染まっていく。シャツとジャケットを手繰り上げ、口の中に詰め込むと、ふ、ふ、と緊張で荒い呼吸が零れた。晒された腹部にある傷を確認すると、奥歯で物を噛みしめる。脂汗が額から頬を伝い零れるが、構ってなどいられない。長く深い息を吐きだした後、タルタリヤは自身の傷口へと灼熱の塊を押し付けた。
◇◇◇
「……と言う訳で、瀕死の状態で何とか下山して、目を覚ましたのが、ついさっき」
ず、と茶を啜る音が響く。
目の前の相手は明らかに聞き流していて、こちらに一瞥を向ける事もない。
「で、その時に出来た傷がコレ」
「姜老が泣きそうな顔で探し回っていたのはお前か。彼は足腰が強くないんだ。早く戻ってやらねば、今度は彼が寝込む事になるぞ」
「俺をベッドの上に戻したいなら、これがどういう事か。さっさと教えてくれる?」
これと示した先は腹部の傷口。本来なら焼いて止血した際の火傷と、引き攣った痕が残るはずだ。だが、傷口は鈍い黄金で覆われていた。異国で言う、金継ぎのような様相をしている。
鍾離が一瞥すると、ほう、と感心の吐息を零した。
「なかなかに見ごたえのある形になったな」
「そんなことを聞いてるんじゃないんだよ、先生」
「それだけ目立つ傷跡があれば自戒になるだろう。暫くは大人しく過ごして、日頃の行いを改めることだ」
「分かってないなぁ。ギリギリの勝負で勝つ方が気持ち良いだろ。それに瀬戸際は俺の得意分野でね」
「敗けそうになって死にかけていたと、自ら口にしたのはどこの誰だったか」
愉しげな様子のタルタリヤに、鍾離が静かに言葉を返す。互いの視線が、ぎ、と絡み合って、まるで火花を散らすようだ。あと数秒もすれば苛烈な舌戦が始まることだろう。
今日も璃月では平和な時間が続いていく。
ふ、と笑いを零した鍾離に対して、空鯨が落ちるまで、あと少し。