マングースとうさぎはニライカナイの夢を見るか朝。
寝床から抜け出した直後、触れる空気の冷ややかさに長い耳が先っぽまでぴゃっと震えた。からだを包む柔らかな毛がぶわわっと膨らみ、うさぎはまるで小さな毛糸玉のようになった。
遅れて起き出してきたうさぎの飼い主も、すぐさま寝巻きの上へ一枚羽織りものを着て、まだ眠たそうな顔で二の腕をさする。
「また急に冷えこんできたな」
飼い主の人間が呟く。
これは仕度を急がなければ、とうさぎは思う。
秋も深まってきたある日のことだ。うさぎのカオルは飼い主の帰りを待ちながら、ひとりテレビを見ていた。カオルには少し難しい漢字を使った字幕のついた、外国語の番組だった。
俺のように目を悪くしてからでは遅いからな、と飼い主――字を書く仕事をしている、薫という名前の人間に何度も何度も口を酸っぱくして言い聞かされた通り、きちんと十分な距離を取ったところから、食い入るように画面を見つめるレモン色の目に、こんなテロップが写った。
――このように動物たちは、長く厳しい冬の寒さをじっと眠って乗り越えるのです。
冬眠、というのだそうだ。
衝撃だった。思わず耳がぴくんと跳ねた。
初めて知った。動物は、冬から春まで何も食べず、遊びもせずに眠って過ごすだなんて。
薫に飼われるようになるまでどこでどうやって過ごしていたのか、実のところあまり良く覚えてはいないのだが、そんなにも長い間眠っていた記憶はさすがにない。
まさかおれは。今まで、動物として間違った冬の過ごし方をしていたんじゃないだろうか。
ほんの少しショックをうけたが、いいやとカオルは頭をふるふる振った。
今までがなんだ。大事なのはこれからだ。これから正しく過ごせば、何も問題はない。
そうだ、今年はちゃんと冬眠しよう。
カオルは決意し、速やかに準備に取り掛かった。
冬眠用の寝床は、奥の部屋の押し入れの中に決めた。
日頃出入りが少ない場所なので、ずっとカオルが眠っていても薫の邪魔にはならないだろう。下の段の中身をちまちまと動かし、場所を入れ替えてやれば、隅の方に程よい空間が出来た。下の段を選んだのは、冬眠から目覚めた後、寝ぼけて落ちたりしないようにだ。いつも一緒に遊ぶマングースのコジロウが、よく寝床のベッドからころりと床に落っこちているのを思い出し、同じことにはならないようにと考えた末の結論だ。反面教師、というやつである。うさぎのカオルは身軽で高いところもへいちゃらだ。押入れの上の段くらいからなら、落ちてもきっと上手に受け身を取れるだろう。けれど今回は初めての冬眠なのだから、用心するに越したことはない。
用意した場所は、暗くて静かでがらんと広すぎることもなく、長い時間ぐっすり眠るには申し分ない環境だった。我ながら目の付け所がよかったなと満足しつつ、カオルはそこへクッションや毛布を運び入れていった。大事なにんじんのカーラは、最後の最後、冬眠を始める日に持ってくることにした。
もうひとつ、とても大事なことがあった。
ご飯である。
動物たちは眠り始める前、たくさん餌を食べて栄養を蓄えるものらしい。確かに、まだ寒い間にお腹がぺこぺこになって目が覚めては大変だ。冬眠するなら、しっかりたっぷり、栄養満点のご飯を食べてからでなくてはならない。
ご飯のことを頼む相手は他でもない、コジロウの飼い主の人間――大きな大きな虎次郎である。
薫がカオルのために用意してくれるご飯にも取り立てて不満はないのだけれど、虎次郎が手ずから作るご飯はそれはもう段違いに美味しいのだ。
彼がカオルたちの家に泊まりにくる日はお祭りのように嬉しくなってしまうし(コジロウも一緒に連れられてくるからなおのことだ)、時々何日も仕事部屋に引き篭ってはオバケみたいな顔をしている人間の薫が、そのままオバケになってしまわないようにと、タッパーやランチボックスにたくさんのおかずを詰めて持ってきてくれるのも――薫にはちょっと悪いけれど――楽しみのひとつだ。
冬眠してしまえば、あの美味しいご飯をしばらく食べられなくなってしまう。いっぺんにきゅう、と切なくなった小さな胸とお腹を両手で押さえながら、思い残すことなく冬眠出来るよう、カオルは最後になんとしても食べておきたいメニューを何日もかけて考え、冬が来たら作ってくれ、と虎次郎に頼んだのだった。
しばらくして、虎次郎がカオルたちの家にやってきた。もちろん、マングースのコジロウも一緒だ。久しぶりに会う嬉しさからか、力いっぱい飛びかかってくるコジロウを受け止めながら、お前ら本当に仲良いなぁ、と紅茶色の目を細くしてにこにこ笑う人間の虎次郎をちらりと見る。脇に抱えた大きなバッグの中には、緑色の葉っぱがのぞいていた。
カオルにはひと目でわかった。あれはにんじんの葉っぱだ。
果たしてその夜のテーブルには、カオルがリクエストしたメニューがずらりと並んだ。シャキシャキのにんじんがたっぷりのサラダに、ミートローフへ添えられたきゅんきゅんと甘いグラッセ。舌触りも滑らかな、オレンジ色のにんじんポタージュ。頬っぺたが落ちそうに美味しい虎次郎のご飯を、カオルはいつも以上に時間をかけてじっくりと味わった。せっかくだからと、スープは2回もお代わりをした。ぽっこりまあるくなった小さなお腹を、カオルは満足げにさすった。これだけ食べればきっと春まで保つだろう。
支度は万事整った。
いざ冬眠だ。
桜屋敷邸の大きな湯船に浸かり、耳の先までぽかぽかになったカオルは、にんじんのカーラを胸に抱えた。折りよく昨日洗われたばかりのそれは、ほんのりと柔軟剤の匂いがする。一面のお花畑にいる夢が見られそうだった。
それからあくびをしながらぽてぽてと寝室に向かうコジロウに追いつくと、腕をめいっぱい伸ばして、同じくお風呂上がりの友だちの身体をぎゅうっと抱きしめた。
「えっ? えっ……?」
照れ屋で恥ずかしがりなカオルの、いつにない大胆な行動に、コジロウは眠そうにしていた目をはっと見開いた。
「ど、どうしたんだよ、カオル?」
「おやすみ、コジロウ」
「……うん、おやすみカオル」
不思議そうにしながら、コジロウもカオルをぎゅっと抱きしめて返してきた。ぴったりくっつきあった拍子に、頬っぺたにもコジロウの毛並みが触れる。なごり惜しむように、カオルのそれより少しごわごわした感触にすり、と頬擦りする。
「春になったら、また一緒に遊ぼう」
「うん。……うん?」
手のひらをぽすんと包み込んでしまうカオルの柔らかな被毛をさわさわ撫でながら、コジロウは首を傾げた。紅茶色の目はお皿みたいにまんまるで、頭の上に大きなはてなマークが浮かんでいる。
「春になったら、ってなんでだ? カオル、どっか行っちゃうのか?」
「ちがう。おれ、今日から冬眠するんだ」
「とう、みん……」
ますます首を斜めにするコジロウに、カオルは冬眠について知っていることをすっかり話してやった。
「へえ……あっちのかおるとこじろうも、冬眠? てやつ、するのかな?」
「しないんじゃないか?」
だって冬眠は動物たちがすることなのだ。あっちの薫と虎次郎はれっきとした人間だから、きっと冬眠はしない。
「コジロウはしないのか?」
「おれ? うーん、冬眠かぁ。そんなの知らなかったけど……したほうがいいのかな?」
「おまえは動物だから、したほうがいいんじゃないか」
「そっか。でもおれ、なんにも準備してないなぁ」
困ったように太いまゆげをハの字にするコジロウの手を、カオルはくい、と引っ張った。
「ついてこい」
そうしてコジロウを連れて行ったのは、自分の冬眠用に整えた、押し入れの奥の寝床だ。
運び込んでいた懐中電灯で中を照らしてやると、コジロウはうわぁと感嘆の声を上げた。
「すごいな、秘密基地みたいだ! これ、カオルがひとりでやったのか?」
「そうだ」
寒い冬の間、快適に眠っていられるよう、一生懸命に工夫をこらしたのだ。すごいすごいと、コジロウが手放しで褒めるので、カオルは鼻高々だった。
「あのな、コジロウ」
「んー?」
「コジロウも、ここで一緒に冬眠すればいい」
そんなに広くはない寝床だが、コジロウ1匹くらいなら、横に並んで寝られる場所はある。それにコジロウも、晩ご飯はしっかりたっぷり食べていたから、このまま冬眠したって大丈夫なはずだ。
大きなクッションに頭からダイブしてふかふか具合を楽しんでいたコジロウが、ぴたりと動きを止めてカオルを見た。目尻の垂れたこぼれ落ちそうな目が、懐中電灯の灯りの中でしぱしぱと瞬きをする。
名案だと思ったのだが、コジロウはぽかんとしてすぐに返事をしない。カオルはふつふつと不安になってきた。もしかして。
「……いや、だったか?」
「! ううん、そんなことない!」
コジロウは慌てた様子でぶんぶん頭を横に振った。
「うん……きめた。おれも、カオルとここで冬眠する」
「……ほんとに?」
「ほんとにほんとだ。春まで一緒にいる」
「……!」
にっこりとお日様みたいにコジロウが笑うので、カオルはほっと胸を撫で下ろした。
「でも、ちょっとだけ待ってて。すぐ戻ってくるから」
眠かったら先に寝てても大丈夫だぞ、と元気よく言って、コジロウは押し入れを出てどこかへ走っていった。ぱたぱたと、廊下を聴き慣れた足音が忙しく遠ざかっていく。
カオルは用意していた寝床の中に潜り込んだ。もちろん、にんじんのカーラも一緒だ。後からコジロウも来てくれるというから、なんだか嬉しくなってくふくふと笑った。
ぱち、と懐中電灯のスイッチを切ると、押し入れの中は真っ暗になった。少しすると真っ暗な中に、色んなものの輪郭がぼんやりと浮かんで見える。そこへカオル自身の心臓がとくとく鳴る音が、サイコロ型のお砂糖が溶けるように拡がっていく。
コジロウはなにをしに行ったんだろう。
何分、何秒すぎたか分からないけれど、カオルにはもうずいぶん長くかかっているように感じられた。締め切った押し入れの中では、時間は外よりもゆっくり流れるのかもしれない。待ちわびる春も、きっとここへはゆっくりゆっくりやってくるのだ。抱えたカーラに鼻先を押し付け、くん、と動かす。柔軟剤の花の香りは、さっきより少し薄く遠くなったような気がした。
そのうちに、じんわりとまぶたが重たくなってくる。まだ、コジロウが戻ってくるまでは我慢をするのだと、ぐずぐずカーラに懐いていると急に二本の耳がぴくんと動いた。音が近づいてきて、すっと光がひと筋、押し入れの中に差し込む。
「ごめんな、カオル! ……もう寝ちゃったか?」
用事を終わって戻ってきたコジロウは、ひとり残ったカオルが静かにじっとしているのに気付くと、ひそひそ話をする声になった。
カオルは小さく頭を揺らした。
「……まだ起きてる」
「そっか。ありがとな」
戻ってくるのをカオルが待っていたことを、コジロウはちゃんと分かっていた。そばで柔らかく囁くものだから、カオルの耳は羽でくすぐられたようにこそばゆくなってしまう。
「あったかいなぁ、ここ。ぐっすり眠れそうだな」
嬉しそうに言いながら、コジロウが隣へ潜り込んできた。
「カオル、せまくないか? もっとこっち来て大丈夫だぞ」
「ん……」
2匹とカーラがいっぺんに並ぶと、さすがに狭い気がした。コジロウとの間に挟んでいては、春までにカーラがすっかりぺしゃんこになってしまうかもしれない。そうなっては大変なので、カオルはカーラに壁際を譲り、出来るだけコジロウのそばによった。コジロウの手足は、廊下を行って帰ってきたからか、少しひんやりとしていたが、ぴったりくっついているとすぐにまたぽかぽかになった。
「……わかった。カオルがあったかいんだ」
コジロウがくふくふ笑った。
コジロウだって同じようにあったかいのだと教えてやるため、カオルはつま先でコジロウのつま先に触れた。チョコレート色の毛皮の奥にいる心臓が、とくとくと鳴る。その心地よい音が、押し入れの中の暗がりへとろりと溶けて拡がっていく様子を、敏感なうさぎの耳はつぶさに拾っていた。
手足のあたたかさは、あっという間に眠気を2匹のまぶたの上に連れてきた。
「……コジロウ、あのな」
「……んー?」
冬眠はきっと必要なことなのだけれど、ひとつだけカオルには心配があった。春まで眠っている間に、いろんな大事なことを忘れてしまったりしないだろうか。
「……そんなに……ながくねむっているのは、おれ、はじめて、だから……」
重たいまぶたの下、ぽつぽつとカオルは呟く。むにゃむにゃと口元を動かしていたコジロウは、しばらくして、ふんにゃりした声で大丈夫だよ、と言った。
「ねるまでのあいだ、わすれないように……おもいだしてれば……だいじょうぶ」
「…………うん、そうだな」
名案だと思った。こそこそと、カオルはコジロウの手を探り当てて、教えてくれてありがとう、という気持ちを込めてきゅっと握った。へへ、と笑いながらコジロウはその手を握り返してくれた。
「……コジロウ、また――」
春に、とカオルが言うよりより先に、コジロウが
「夢のなかでも、いっしょにあそぼうな」
と口にした。もちろん、異論はない。カオルはゆらゆら頷いた。
それからカオルは、忘れては困るいろんな大事なことを、ひとつひとつ思い出していた。
厳しくもかしこく頼もしい薫の声、いつも気持ちよく撫でて抱き上げてくれる虎次郎の腕、お腹も心も幸せで満たしてくれる美味しいご飯の味、安全で快適なお家のお気に入りの場所、それから……それから――。
これは大丈夫だ。今までないくらい長い間眠っていても、きっと忘れない。だって春までずっと一緒なのだから。
小さな鼻をくん、と動かし、唯一無二の友だちの日だまりみたいな匂いを吸い込む。コジロウと一緒なら、お花畑じゃなくても……たとえば砂浜なんかで遊ぶのもいいかもしれない。そんなことを考えながらくふくふ笑うかすかな声が、やがて安らかな寝息に変わり、先に聞こえだしていたものとふたつ、綺麗に重なっていった。