015_白露(9月8日頃) 秋の虫が鳴き始めていた。つい一週間前にはセミが鳴いていた気がするが、気づけばセミは仰向けになって道路に転がるようになっていた。仕事終わりに上司に連れられて繁華街へ向かう途中でも、街路の茂みからかすかに虫が鳴いているのを聞きつけたが、風見にはスズムシではないことが分かるだけで、何が鳴いているのか区別がつかない。かといって上司に「なんか鳴いてますね」と声を掛けるのも、幼稚な気がして結局黙って歩くほかなかった。
ギラギラと周囲を照らす看板の立ち並ぶ道を上司に付いて進んでいるうちに、目当ての店に着いた。歓楽街の中にあるにしては落ち着いた雰囲気の小料理屋で、風見は身内の話もできる類の店なのだと一目で理解した。一方で、秘密の話ができるようなところに連れてこられた自分が叱られるのか褒められるのか、見当がつかなかった。数十分前に風見を誘った降谷は、特別に機嫌がいいというわけでも何か言いたいことがありそうだというわけでもなかった。何を考えているのか読めない顔。それゆえに、風見は降谷の意図が分からず、やや緊張していた。普段、降谷と訪れる店が相席を装えるような大衆的な店ばかりだったというのも、その要因の一つだった。
「どうも」
がらりと引き戸を開けて暖簾をくぐると、にこやかに上司が言う。女将は彼を「降谷」でも「安室」でもない名で呼ぶと、二言三言交わして二階へ案内した。どうやら予約していたらしい。
カウンターの横を通って、左へ九十度折れ曲がった階段を上ると個室にたどり着く。襖があるが、二階はこの個室だけのようだった。
革靴を並べて畳へ上がる。スーツのジャケットをハンガーへ掛けながら降谷が風見を振り返った。
「もしかして緊張してる?」
その通りだった風見は「はい」と答えるしかなかった。
「別に説教しようとか思ってないぞ」
その言葉を聞いて安心したが、褒められるようなことをした覚えもない。相変わらず風見には降谷の思考は読めなかった。そんな風見をよそに、降谷は風見を自分の向かいに座らせ、メニューも見ずに注文を終えてしまった。ひとまずビールで乾杯するらしい。降谷に倣って、風見もジャケットを脱ぐ。
「これくらいの時期になると、ここの栗ごはんが恋しくなるんだ」
そう言いながらネクタイを緩める上司を横目に、机上のおしぼりを取る。降谷なら自分でも栗ごはんくらい作れるだろうに、わざわざ食べに来たということは相当旨いのだろう。または彼好みの味付けなのか。風見はお目当ての栗ごはん以外にもお気に入りがあるのだろうと予想した。
当たり障りのない会話をしているうちに、陶器のビールグラスと小鉢がいくつか運ばれてくる。中瓶に手を伸ばす上司を遮って、風見は紺色の陶器にビールを注ごうとした。降谷は「僕がやるのに」とやや不服そうな顔で子供じみたことを言う。そして風見の所作を眺めつつ、酒の席でのマナーについて語り始めた。やりづらさを感じながらも無事注ぎ終えた風見がグラスを手に取ると、降谷も軽くグラスを持ち上げる。「まあ楽しく飲めればいいんだ」とまとめた降谷が、簡単な労いの言葉とともに、自身のグラスを風見のそれにコツンと当てた。
風見は本格的に食事が始まれば何かしら仕事の話をするものだと思っていたが、降谷の話は巷の話題や潜入先の喫茶店での出来事などに留まっている。暗号の類だろうかと予想もしてみたが、今までこのような方法で情報をやり取りしたことはなかったし、わざわざ雰囲気のある店を選ぶ必要性もない気がした。これは単純に食事を楽しんでいいやつか、と風見はやっと判断した。
「ここの料理、旨いだろ?」
しばらく並んだ料理に舌鼓を打ったあと、後から注文した焼酎をちびちびと舐めながら降谷が言う。風見には目の前にある茄子の揚げびたしやだし巻きと、降谷が以前振る舞ってくれた食事は大差ないように思われた。素直にそれを伝えると、「僕なんてまだまだだよ」など笑みを浮かべる。さらりとこぼれた髪を耳に掛ける動作は照れ隠しのようにも見えた。微妙な沈黙が訪れたところで襖ががたがたと揺れ、丸盆を持った女将が現れた。漆塗の盆には、徳利と猪口、黄色い菊が一輪載っている。
「重陽ですか」
風見が聞くと、降谷は口許を緩めた。
「縁起がいいだろう? 菊酒を漬けても良かったんだが、せっかくだし旨い飯と加賀の菊酒を飲みたくてな」
ビールの時に風見に出番を奪われてしまったためか、丸盆を自身の近くに置いていた降谷がお酌する。風見も今度はおとなしく従うことにした。
「お供に選んでいただけて光栄です」
軽く猪口を上げて、乾杯の意を表す。降谷も同じように猪口を上げた。しかしすぐには飲もうとせず、風見に先に飲めと言いたいらしかった。上司より先に口をつけるのは気が引けたが、風見は降谷の意を汲んで先にいただくことにした。雑味のない、芳醇な味が口内に広がる。利き酒などできない風見にも、相当良い酒だということが分かる。
「旨いですね……」
思わず感嘆の声を挙げた風見に、降谷が食事を追加するか尋ねてくる。刺身も天ぷらも合いそうだ。そう降谷に伝えると、「締めの栗ごはんの腹を空けておかないと」と前置きをしながらも風見の要望を控えめな量で注文した。礼を言って、目当ての一つだっただろう菊酒にまだ口をつけていない上司に、酒を勧めた。
手持無沙汰になった風見は、何とはなしに降谷が猪口を口に運ぶのを見た。透き通った液体が降谷の唇を濡らす。わずかに開いた唇の隙間から淡い粘膜が見え、風見は思わず自分の手元に視線をやった。なぜだか分からないが、見てはいけないものを見てしまったような気がしたからだ。風見の動揺とは対照的に、菊酒は静かに揺れている。思わず一気に呷ると、「味わって飲めよ」と小言が飛んできた。澄んだ香りが鼻を抜けるが、アルコールを一気に流し込んだためさすがに喉が熱くなる。思わずむせてしまい、降谷に笑われた。
風見はなんとなく居心地が悪くなって、追加の注文などどうでもいいから早く栗ごはんにたどり着きたいと思った。そんなことは露知らず、降谷は笑いを抑えながら風見の猪口に酒を注ぐ。
酒が入っているせいか降谷の声はいつもより低く、くつくつと笑う声がいやに響いて、しばらく耳から離れそうになかった。