気まずい美味しい 次の予定があって助かった。本当に。俺たちは無言でパンを買ってから帰宅し、言葉少なに打ち合わせをする。夜、潜入の下見はこの上なくスムーズに進んだ。黒く細いチェズレイのシルエットを俺は盗み見る。ひらひらと揺れるリボンを目で追いかけた。猫なら飛びついていただろう。ため息を吐いて俺は天井裏に飛び上がる。
「やらかしたかねえ」
一人呟いて、ルートを確保。チェズレイもパスワードを手に入れたようで、タブレットに退出の信号が送られてきた。俺はするりと抜け出して、チェズレイを迎えに行く。暗がりでは、チェズレイの表情がわからない。けれど緊張した肩や、どこか上の空な気配はわかった。
怒ってるかな。俺はおどおどとチェズレイの後ろを歩く。二度目の帰宅をした瞬間、どっと疲れが出た。チェズレイは平気そうに、届いた二つの荷物を開封している。
「とりあえず腹から暖まるか……」
夕食の当番は俺だ。重い体を引きずって着替え、台所に立つ。冷凍うどんがあって助かった。ニンジンはある。長ネギは無いが玉ねぎはある。椎茸がなかったから、代わりの具材を探すしかない。油揚げの油抜きをした後に冷蔵庫を漁ると、茹でほうれん草の小分けが見つかる。チェズレイが注文していたと思しき鶏肉のパックもあった。
居間に顔を出し、チェズレイに手をふる。本を読んでいるチェズレイは、俺の存在に気がついているのに顔をあげない。
「チェズレイ、えーと、ほうれん草と鶏肉つかってもいい?」
「どうぞ」
真剣な口調に無駄はない。俺はありがと、と返して台所に戻った。
「まあ、不機嫌ってわけじゃなさそうだ」
チェズレイの不機嫌はもっと忙しないし、考え込んでいる。本に集中していただけなのだろう。
ニンジンと玉ねぎを切り鍋に放り込む。鶏肉を小さめに切って、調味料と共に煮る。
うどんももう入れていいか。凍ってるし。くたくたにしておいたほうが暖まるだろう。投入したうどんを見ながら、チェズレイのことを思い出した。箸は使えるようになったがまだ啜ることは苦手な筈だ。レンゲを用意しなければ。
ふと顔をあげた。
「……チェズレイが、本?」
小さくぺらぺらの本だった。情報収集にはタブレットを使いがちなチェズレイが、ペーパーバックの本を読んでいる。雑誌の大きさでもない。小説かなにかだ。いつの間にか取り寄せていたものが今日届いたのだろう。珍しいことがあるものだ。名作古典は一通り読んでいると言っていたが、どういう気分なのか。それとなく表紙を盗み見よう。忍びだし。
「って、あ!」
鍋の中で出汁がすっかり沸騰していた。火を弱め菜箸でかきまわすと、すっかりうどんはほぐれている。ほうれん草と油揚げを投入して味を整えた。
チェズレイが小説から手を話したのを見計らい、食卓に鍋を置く。碗を二つと箸とレンゲ。菜箸とおたま。
「おーい、夕飯にして大丈夫かい?」
「かまいませんよ」
穏やかな様子でチェズレイが立ち上がる。声の調子が戻っていた。いや、戻そうとしているのだろう。いつもの様子でいるとアピールをしたいのだ。俺もそれに合わせてやるしかない。じっくり待ってやるのが、せめて大人の男のすることだ。
「いい香りですね」
「うん、おうどんだよ。ほれ」
鍋のフタを取り、チェズレイの椀に麺と出汁をよそう。ほうれん草とニンジンを飾って、鶏肉も乗せた。自分の分をよそっていると、チェズレイがぽつりと呟いた。
「……取り分けるための箸を用意してくださるのですか」
「ん? そりゃあ、いつもそうしてるでしょ。湯豆腐の時だって、炒めものの時だって」
チェズレイは頷く。俺が手を合わせた後に、食べ始めた。
俺は七味をふったうどんをふうふうと冷ます。冷ますふりをして、チェズレイの様子を伺う。箸のように細い指が、ゆっくりと箸でうどんを持ち上げる。俺の真似をするように冷ました後、よく手入れされているのかツヤツヤの唇に、そっと触れさせた。
「ん」
チェズレイが一口食べた瞬間、うどんが滑る。逃げようとするうどんを箸で抑え込んだ。妙な力が入ったのか、途中で切れたうどんが椀の中に着地。
「……見ました?」
「あ、いや。だいぶ上手くなったなあって。俺もよくやるよ! 昔もラーメンを半裸で食べてたら」
「ごまかしは結構。私の無様な失態を見て、どのような――」
言葉が止まった。チェズレイは何かを考え込んでいる。普段であれば「どのような下劣な欲望を」とか「無垢な私に興奮して」とかを言うのだが。
俺はその躊躇に気がついて、話を反らす。
「……まあ、続き食べよ。冷めちゃうからね」
今の俺たちでエッチな言い回しをしたら、わりと洒落にならない。チェズレイは今までの言動の問題に気がついてしまったのだ。俺が笑って流さなかったら、どうしたらいいかってことに。
七味がきいていて、うどんは美味しかった。美味しかったが、味がしなかった。