桜伐る馬鹿梅伐らぬ馬鹿 1べちゃりと嫌な音がして薄く目を開く。温かいが変にねっとりとしていて気持ちが悪い。
目を覚ます夢を見たのだろうと目をきちんと開き、身体に纏わりつく何かに視線を寄越す。透明な粘液質の何かなのはわかったのだが、自分はそういった特殊な思想や願望を持った人間だっただろうか。
否、夢でしかないのでどんなものを見ようとそれは脳が睡眠中に整頓している情報の中から無作為に得た情報などを映し出して物語のように仕立てているだけなのだ。昔に見たお笑い番組でローションまみれで必死に走る芸人の情報でも拾ったのだろう。
うんうんと目を閉じながらそのように結論付け、身体を起こそうとすれば、粘液質の何かが掛かっている部分が辛く痛みを訴え始める。それを実感した途端、鼻が酸の匂いを拾い出した。
「…いたい…。」
ふとまた目を開けば、皮膚が赤く炎症反応を起こしているように見えた。愛用の着心地とデザインのいい上品で多少色気のあるパジャマワンピースにもそれは付着していて、なんと溶け始めているではないか。
慌ててその液体を振り払おうと座る姿勢になった途端、柔らかい何かに額を強かにぶつけた。
ねちゃ、と音を立てたのでもしかすると鯨の腹の中にいる夢でも見ているのかもしれないと仮説を立てながらぶつかった何かに目を遣る。位置として人ではないのは確かだ。
自分に跨っていでもすれば人かもしれないが、感触と言い位置と言い、高さのない鯨の胃袋なのかもしれないと入ったことも見たこともない鯨の胃袋を想像しながら見上げたのは、白い何かだった。
「………。」
頻りにこちらのにおいを嗅いでいる様子の白い生き物は、口を半開きにして唾液を垂らした。
粘液質の何かの正体はこれだったのだ。
「わぁ………。」
死ぬのか。死ぬ夢というのは吉兆だったかそうでなかったか、判断に苦しむが、死ぬという経験を味わってからも意識があるという不可思議な事態に陥るのが夢だ。醍醐味である。もう少し現実味もあれば怖がることが出来ただろう。否、目の前の怪物は十二分に恐ろしい。目は退化しているのだろう、多少長すぎるような気もする頭はつるりと丸く白い。薄く開いた口の中は人間で言う過剰歯、別の生き物で言えばコブダイのように、歯並びの良くないそれという表現が似合うのだろう。
これに噛み砕かれて強酸性であろう唾液や胃液で溶けて死ぬところまで意識があるのだろうか。大抵の夢というのは喰われる寸前や喰われた瞬間に現実に引き戻されるものだ。
一先ず夢とは言え経験するに越したことはない。目の前の白い生き物の口の上、鼻があるのだろう窪みを避けて触れてみればやはり粘液に覆われていて、なんだか柔らかい。
一瞬沈黙されたように感じたが、怪物も面食らう事があるのだろうか。
少しの間触っていれば、遂に相手の口が裂けるように大きく開いた。そっと手を引いて観察をする。
なんともグロテスクな膨れた歯茎に並ぶ疎らな歯。これはかなり痛そうだ。舌もしっかりある。
歯並び以外は人間とそう変わらなさそうだ。否、病気にかかると人間もこうなる。口内炎はできるのだろうか。
そんなことを考えながら上半身から丸飲みにできそうな状況をただ見上げていた。筈だった。
「……あれ…、」
雄叫びを上げた男性二人が目の前の白い怪物に武器を突き立てたではないか。死ぬ夢と見せかけてお姫様展開とは何とも邪が極まったことだ。
自分の上から飛び退った怪物は、重い音を立てかなりの距離を取るも、一人が行動を読んでいたように突進して双剣が光を反射して輝いたのが眼球に焼き付いて暫し留まる。座った姿勢のまま、恐らく酸性の強い唾液まみれにされた手で目を擦るのは大変危険であるため、動けはしない。その間も衣服は溶け肌の灼けも酷くなってゆく。
突進していった男性が大きな声を上げ、もう一方の男性が慌てた風に何かを言いながら緑色の液体の入った瓶の蓋を開けて差し出してくる。
これを飲めと言うことなのだろうか。
怪訝な顔を隠しもしなかったためか、更に慌てた風な男性はまた何かを言いながら顎に手を添え、その液体を飲ませようと唇に瓶の縁を付けた。
飲んでやらなかった場合どうなるのだろうと思い、不安げな男性が瓶をゆっくりと傾ける中で唇を真一文字に引き締める。そうすればまた男性は困惑して何かを伝えようと語り掛けてくる。が、やはり言葉はわからないままだ。
夢の中で言語が通じないという体験は今までなかったので新鮮であるが、情けない声音でいまだに怪物と対峙している男性に向かって叫ぶ。
その衝撃で手が揺れたのか、液体が漏れて口周りや胸元を濡らす。また表情を隠しもせず嫌な顔をすれば、手振りで口を開けるように促される。その男性の姿と来たら失礼ながら大変滑稽である。
致し方なしに口を薄く開き液体を口の中に受け入れれば、どこか翼を授けてくれるらしい飲み物にスパイスを山ほど仕込んで、蜂蜜で誤魔化したような絶妙に不味いと言い切れない不味さを味蕾がその身一杯に受け止めてしまい、ある程度体内に流し込んだものの思わず咽せ返ってしまう。
「…おぇ……ウゥ……。」
また目の前の男性がその液体を飲むよう促すので、再度その液体を口に含む。その間も何か喋っている様子だが、彼が何を言っているのか全くわからない。
断じて、決して、自分の名誉の為にと心の中で唱える。
理解しようとしていないわけではないのだが、何せ彼がどこの国の言葉を用いて語り掛けているのか、本当にわからないのだ。そもそも自分に母国語以上を習得する語学力などないのはそうであるが、今までなんとなしに教育チャンネル等で聴き流していた世界共通語である英語や中韓の言語、他のあらゆる言語ともまた違っているように思えてならない。
夢のくせに随分と凝っているなと考えながら飲み干した薬品のようなものが着いた口元を拭って貰い、いつの間にか白い怪物を仕留めていたらしい双剣の男性がこちらを繁々と見つめる。
顔面分析なら負ける事はない。薬品の男性は如何にも高校球児のような短髪に垂れた眦、たまにベンチから呼び出されて嬉々としてグラウンドに出るタイプだろう。そもそも怪物と戦う時点で野球少年ではないのだが、比喩であるため許されたい。
そしてぼっち顔面分析大会の元凶である双剣の男性は綺麗にセットされたコスプレイヤーのような髪型、口元は鎖帷子のようなもので隠されていたのがたった今露になり、こちらの彼も多少垂れ目なのだろうか、眉を顰める程度には整った顔立ちに左の頬に傷がある。二人とも体格に恵まれており圧迫感があるが、双剣の男性は顔を切り抜いてコラージュすれば所謂細マッチョの体型の方が似合うのではないだろうか。
無論年齢など知る所ではないが、両名はどうも対等の立場には見えない。見るに高校球児の彼が下だろう。
犬のような格付けまで始めた所で助けて貰った事実を思い返し、流石に夢の中ででも品性は失うべきではないと礼を述べると、不思議そうな顔をされた。
当然である。彼等の言葉が自分にはわからないように、自分の言葉は彼等にはわからないのだ。頭を下げれば理解はできたようで、双剣の男性は柔らかい笑顔で頭を撫でてきた。さてはパーソナルスペースの個体距離が東京ドーム五個分くらいはあるのだろう。
自分には平均程度しかないので初対面でこのような扱いを受ける事に抵抗感があり、下を向けばなんということだ。
服が殆ど溶けてしまっている。
「うわぁ……。」
先程飲まされた薬品は即効性なのか、痛みが薄かった為に失念していた。夢で羞恥心を掻き立てられるとは自分はまさか厄介な性癖でも持ち合わせているのではと勘繰ってしまう。そんな中で双剣の男性は薬品の男性に指示を出し、薬品の男性は自分に構うようだ。
相変わらず言葉はわからないが、陽気そうで軽やかな声音に害意が含まれていない事はわかった。
ほぼ全裸に近い自分に首に緩く巻かれている外套と言うには鉢巻に近い布で手際良く見られては恥ずかしい部分を隠してくれているが、この布は溶けないのだろうか。すみませんと言ったところで通じる訳はないのだが、声音でわかったのか再度頭に手を置かれ、抱き上げられた。
自分がこんな妄想を繰り広げられる痴女だと信じたくはないが、これは脳が見せる架空の世界である。
自分の意思で何もかもが操作できる明晰夢とは違うのだ。致し方ないだろう。