第1話 九月一日の始業式。一通りのホームルームが終わると、
担任は朝から話題になっていた、「今日から一つ増えた机」の話を始めた。
「どうぞ、入ってきてください。」
そういうと、背の高い真新しい制服を着た女子生徒が入ってきた。
担任がカツカツと几帳面な字で黒板にその少女の名前を書いた。
「今日からみんなのクラスメートになる、✿さんだ。」
「✿です。よろしくお願いします。」
簡単な紹介ののち、✿は出席番号の一番後ろの席に座った。
今学期の目標だの、提出物だの、予定だの、配布資料だのの説明をしたのち、いつもよりだいぶ長かったホームルームが終わり、クラスは解散となる。
✿がすれ違うクラスメイトと目が合うたびに「よろしく」と軽く会釈をしながら、
荷物をまとめていると、そのうちの一人が話しかけてきた。
「✿さん」
「はい」
「俺、木暮公延。担任から校内の説明するように言われて。教室とか、施設とか案内させてほしいんだ。この後時間あるかな?」
「うん、ありがとう。よろしくお願いします。」
そういって、手早く荷物をまとめると、二人は教室を後にした。
木暮と✿は教室の近くからまわりはじめ、視聴覚室、理科室、家庭科室、美術室、音楽室など、順繰りに進んでいく。
「✿さん、前の学校では部活何やってたの?」
「剣道部だよ。」
「え、すごい、かっこいいね。有段者?」
「いやいや、素人なの。高校から始めたばかりで。基本しかできなくて」
「いいじゃないか。基本は大事だよ。」
「木暮くんは?」
「俺はね、バスケット部。」
しゅっ、とシュートフォームを見せる木暮。
「バスケットかぁー。私も実は小学校と中学はバスケやってたんだよね。」
「えっ!そうだったんだ。中学はどこだったの?」
「武石中学校って知ってる?鎌倉の方にあるの。」
「えっ…?」
✿と並んで歩いていた木暮の足が止まった。
(武石中の……バスケ部?)
「木暮君?どうかした?」
その名前を聞いて思いだすのは、あの試合、あの瞬間。
突然歩みを止めた木暮に、きょとんとして、✿も振り返る。
「いや、ごめん、何でもない…。バスケ部楽しかった?」
動揺を悟られないように装い、木暮が再び歩き始めると、✿は懐かしむように話し出した。
「楽しかったよー本当にもう青春って感じ。ずっとバスケばっかりしてたなぁ。
男女のバスケ部も仲良くて、一緒に切磋琢磨して頑張ってた。男子なんて県大会優勝して、全国大会まで行ったんだもん。あれはすごかったなぁ。」
(そうか…これは…)
新たな環境での学校生活に期待している✿に,かつてともに湘北高校に入学した、彼女の仲間たちの顛末を今、この場で語るのは木暮にはあまりに荷が重かった。
(✿さん、今の三井を見てガッカリするかな…。)
「実はうち、女バスはないんだよね。」
「そうなんだ。」
「ないっていうか部員少なくて何年か前に、潰れちゃって。」
「あらら…。」
「廃部っていうか休止に近いから何人か、バスケが好きな女子が集まれば、サークルくらいは出来るかもしれないけど。」
「サークルかぁ。気楽で良いかもね。」
「✿さん、よかったら男バスのマネージャーとかやらない?」
「マネージャー…かぁ。」
✿はふーむ、と腕を組みながら考えるそぶりを見せた。
「そうそう。今からだと冬の総体、来年のインターハイ目指してみんな頑張ってるんだ。」
話しているうちに部活棟を通り、体育館に着くと、すでにバスケ部員が二人、練習を始めていた。
「あれ、木暮さん。チュース。」
「チュース!」
体育館にいたのはボールを小脇に抱えた、髪をツーブロックに刈り上げた男子と、キャップを後ろにかぶり、きつく巻いたパーマを高めにまとめた、ジャージ姿の女子。
後輩なのか、木暮を見つけると、二人とも向き直り、体育会系のきちんと感のある挨拶を見せた。
「おす、宮城。彩子。」
「そちらの方は?」
「こちらは今日転校してきた✿さん。」
木暮の紹介を受けて、ぺこり、と頭を下げる✿。
「2年7組の✿です。」
「宮城リョータっす。1年す。」
「同じく1年の彩子です。マネージャーやってます!」
木暮は✿についてかいつまんで紹介した。
「それで、✿さん、バスケ経験者なんだって。」
「え?女バス希望なんすか?でもうちの女バス潰れたじゃねーすか。」
「別に女バス希望とか言ってないし…」
「いや、男バスマネージャーでもう1人欲しいなと思ってて全力で勧誘中ー。」
「え、勧誘してたんだ?木暮君。」
先ほどの緩い誘いは勧誘に入っているのか。
すると、ボールケースから一つ持ち出した彩子がしゅるる、とボールを回し、切り出した。
「ねぇ✿先輩、経験者なら、せっかくだしちょっとバスケしていきませんか?私、✿先輩のプレイ見たいです!」
「あーそうっすね、…アヤちゃん…もそういってるし?3年生は引退して、全然こねぇから、木暮さんがいいならいーんじゃねすか?」
「そーですよぉ!これも立派な勧誘です!」
はて、と今の会話の違和感に内心首をかしげる✿。
違和感の正体である「アヤちゃん」と呼ぶことにこもっていた一種の必死さから、✿はその関係性を何となく感じ取った。
「良いじゃないか、やってきなよ。✿さん。」
「でも私制服だし。。」
どうにかこうにかこの場を逃れようと、ごにょごにょと渋る✿。
「どーぞどーぞ、あたしのジャージとバッシュ、貸しますよ!」
しかし、多数決で言えば3対1。だいぶ分が悪い。
「ほい、ボール。大きいけど。」
「わわっ!」
宮城から放られたボールに、反射的に手を伸ばす。
両手で受け止めた瞬間に取った瞬間、✿は理性でも感情でもない、本能的なところで沸き立つ何かを感じた。
「……じゃあ、少しだけ、ね?」
「やった!女性更衣室こっちですよ!」
Tシャツにバスパンとスパッツ、ややきついバッシュと、上から下まで借り物のウェアをまとった✿はセンターラインに立っていた。
(もう、バスケはしないって決めたはずなのにな…。)
それでも、ボールの表面を指でなぞるだけで、純粋な喜びがこみ上げる。
ダン、ダン、とバウンドしたボールのなかで反響する音も心地いい。
(ああ、どうしよう。私、こんなに嬉しい。)
正直、わくわくして、鳥肌が立ってくる。✿は浮き立つ気持ちのまま、ウオームアップを始めた。
腰を落とした時の重心のかけ方、ボールをつくときの強さと跳ね返りの調節。すべて体が覚えている。
ドリブルチェンジ、クロス、レッグスルー。
たっ、とゴールに向かって駆け出すと軽やかな踏切でシュートを決めた。
パサ、と乾いた音が✿の耳から心に落ちる。
「ナイッシュー!」
拾ったボールを持って立ち尽くしていた✿は木暮の声ではっと我に返った。
「✿さん、何中でしたっけ?」
彩子からタオルと紙コップのドリンクを渡され、ありがとうと口をつける。
「中学?武石中だよ。」
「知ってる!ディフェンスめっちゃ上手いとこですよね!」
「あはは、よく知ってるね。そうなの。監督の方針でね。彩子ちゃんは中学どこ?」
「富が丘中です!」
「あれ、もしかして私対戦したことあるかも…!」
中学時代、✿のいた武石中学女子バスケット部は、彼女にとって最後の夏に県内ベスト4まで記録を更新させた。
もう既におぼろげな記憶を手繰り寄せると、確かにそのいつだったかの試合で、富が丘中学校と対戦したような気がする。
「ね、私もそんな気がします!」
「彩子ちゃん、富が丘中のユニフォーム何色だった?」
「ピンクですピンク!アルファベット横文字で。」
「うちはね、薄いピンクのベースに青文字。なんか覚えてる気がするなあ。逆にオフェンス強いところじゃなかった?」
「そうですそうです!こんな縁もあるんですね。」
そうだ、と手をたたき思いついたしぐさをして、彩子が提案する。
「✿先輩、今度は1on1しません?うちのリョータ貸しますよ?」
「へ?お、俺?ちょ、ちょっとアヤちゃん…!」
テンションの上がった彩子にぐいぐいと押し出され、その上「うちのリョータ」発言に思わず耳まで真っ赤になる宮城。
なるほど、宮城君、やっぱりそういうことなのか、と内心にやりとする✿。
「でも現役選手と対戦とか、さすがに無理だって…。私ブランクあるんだし…。」
「いいじゃないか、うちのリョータ、素早いぞ、✿さん。宮城、接待バスケで頼むな」
「…はは、木暮さんが言うならしょーがねぇな」
「ええー?」
第二ラウンドも多数決で押し切られ、✿は宮城の後を追いコートに戻った。
「✿先輩からでいっすよ。」
「ごめんね、ほんとは私じゃなくて彩子ちゃんとワンオンがいいよね…。」
「へ!?ちょ、何言ってんすか!」
「え、言っちゃダメだったこの話?」
先制のボールを受け取り、✿が謝ると、また赤くなって慌てる宮城。
そのかわいらしさに思わずにやける✿だったが、ドリブルを始めると、二人の表情はさっと真剣なそれに代わった。
宮城は、女子にしては背の高いほうの✿と上背はそう変わらない。
ただ、フットワークの切れの良さから、ディフェンスも固く、気を抜けばボールを取られそうになる。
しばらく攻めあぐねていたが、ミドルレンジの距離から✿のサイドステップで一瞬のスキができた。
(ここだ!)
シュートモーションに入る瞬間、✿にぞっと悪寒が走った。
「っ…!」
思わず✿の足が止まる。
強引に頭の中をこじ開けるように、思い出される記憶。
ぐしゃぐしゃにされた、自分の大切なものたち。
誰も彼も自分をあざけっているような絶望感。
真っ暗で底なしの穴に落下する感覚。
『ここには、アンタの居場所なんて、ないから。』
「たりゃ!」
動きの止まった✿からボールをタップで奪うと、攻守逆転した宮城がゴールへ詰める。
ぱさり、と乾いた音をたて、宮城のドライブシュートが決まった。
「っしゃー一本!」
「…✿さん?」
「✿先輩!?」
ボールを奪われた✿はそのままがくり、と膝をつき、へたり込んでいた。その異常な様子を見て、慌てて駆け寄ってくる宮城と彩子。
「先輩!✿先輩!しっかり!」
座り込んだまま、目の焦点が合わない✿の頬をぺちぺちと彩子がたたくと、何度か瞬きをして、正気に返ったようだ。
「ぇ…ぁ…」
「大丈夫!?ごめんね、どこかぶつかった??痛くねぇすか??」
「ちょっと、何やってんのよ宮城リョータ!」
「あ、いや、その俺は…」
転校初日に先輩に怪我をさせたとあっては大変だと、二人もだいぶ慌てている。その様子を見て、逆に落ち着きを取り戻した✿はどうにか笑顔を作り立ち上がった。
「うん、大丈夫。ごめんね…ただの立ちくらみみたい。貧血かなぁ。あの日とかかも…。」
「ごめんなさい✿先輩…あたしたちが無理強いしたからよね…。」
先程の快活さがみる影もなく、しおしおと謝る彩子に、慌てて✿はぶんぶん手を振って否定する。
「いやいや、気にしないで!久しぶりにバスケ出来て、とっても楽しかった。本当だよ!」
心配そうに✿を見る宮城に向き直り、
「せっかく相手してもらったのに、下手でごめんね。でも、本当にありがとう。すごく上手なんだね、宮城君。シュート、カッコよかったよ。」
「いや、俺はそんな…」気まずそうにに、首すじをがりがりと掻く宮城。
話していると、バスケ部の練習の時間になり、彩子は準備があるからとその場を離れ、✿も身支度を整えることにした。
心配だからとついてくる宮城と木暮にここでいいのに、いや昇降口まで送るよというやりとりを繰り返しながら✿は何度も頭を下げる。
「今日はありがとう。今度、練習見に来てもいい?邪魔じゃなければ、だけど。」
「もちろんっす、ありがとうございました。」
「木暮くんも、長々と校内の案内ありがとう。部活頑張ってね!」
「うん、気をつけて帰ってね、✿さん。」
何度も振り返り手を振る✿を見送りながら、宮城は木暮の横でぽつりとつぶやいた。
「バスケ、上手い人っすね。」
「そうだな。武石中は確か女バスもなかなか強かったはずだからな。」
「あんなに活き活きとバスケしてたら、プレイヤー向きって感じっすね。乗り気じゃないなら、マネージャーは無理強いしない方がいいのかも。本人次第っすけど…。」
「そうだな…どうしたものかな…。」
✿は自分の部屋に戻り、真新しい制服から私服に着替えると、ぼふっとベッドに倒れこんだ。
「ふ~~~…」
(やっぱり初日は忙しかったな…。緊張するし。でも自分で選んだことだから、後悔ではない、かも。)
かつて住んでいた自分の家ではなく、祖母の家ではあるがそれでも慣れ親しんだ土地というだけでもだいぶ居心地がいい。
(あと、久しぶりのバスケ、楽しかったなぁ。)
寝転んだまま、片手でくんっとボールを放る仕草をする。頭に描いた空想のボールがぱつん、とネットを揺らした。
(不思議。あんなことがあったから、2度とバスケなんてやるもんかって本気で思っていたのに。)
宮城とのワンオンワンで起きたのはおそらくフラッシュバックと呼ばれる類のもの。病名が英語で何と言ったか思い出せないが、その一つの過去のつらい出来事が瞬間的に思い出される症状だという。幸い、今は何ともなく、落ち着いている。
ベッドから立ち上がり、机の上に放られたスナップ写真が目に止まる。
引っ越しの荷解きのなかでしまう場所に困り、机に放置していたものだ。
手に取ると、青い文字で「武石中 四番」と書かれたユニフォームを着ている✿が写っている。
悔しがっている顔、喜んでいる顔、真剣な顔。男女のバスケ部の合同練習の様子。応援合戦。見るだけで、これがいつの、何の試合だったかも思い出せそうなほどに、中身の濃かった三年間だった。
一時はボールを見るだけで辛かったのに、今はこの写真を見ることは不思議と辛くはなく、写真の中で笑っている自分を懐かしむことができた。
(どうせなら、楽しかった思い出ばっかり思い出せればいいのにな…。)
翌日。
✿が登校すると、教室の前で1人の生徒が待っていた。
「✿ちゃん!」
「♦︎ちゃん…」
目の前の同級生、♦︎はぎゅうと全力で✿を抱きしめた。
「会いたかった!会いたかったよー!」
「い、痛い痛い。力強いって…。ありがとう…私も会いたかったよ。」
「手紙ありがとね、辛かったよね!もう大丈夫だからね!私が✿ちゃんを守るからね!大船に着いたつもりでいてね!」
「あ、ありがとう…?」
ん?今のは地名?
胸をどんとたたく愛らしくて勇ましいナイトの宣言もそこそこに、同じ中学出身の2人は、思い出話に花が咲いていた。
「武石中のみんなは元気?」
「うん、有元くんは高校からサックス始めてね。ジャズ部入って頑張ってるよ。関くんはモテたいって言って大所帯のサッカー部入ってる。」
名前の上がった有元三吉も関健太郎も、✿や♦︎と同じバスケット部の仲間だった。
他の部も同様だったが二人のいた武石中学校では、男女のバスケ部は体育館の面積の都合もあり、合同練習を多く取り入れていた。そのため、男女合わせた部内の仲もよかったのだ。
「あー、あの2人もここだったんだね。進学先なんてもう♦︎ちゃんのしか覚えてなくて。」
「あとね、三井くん。みっちゃん。」
「三井?」
✿には三井、と言う名前に心当たりは1人しかいない。
「え、三井って三井寿?湘北だったっけ?海南とか翔陽とか、もっとバスケ強いところ行ったんじゃなかったっけ?」
そう尋ねると、♦︎はこくりとうなずき、苦しげに話を続けた。
「そう、そのみっちゃん。ここに、湘北にいるの。入学してすぐ、…膝を怪我して、もう、バスケしてないの。」
「そっか……」
あのバスケが全てだった三井が、バスケを辞めた…。
♦︎の話には続きがあり、バスケを諦め、不良とつるむようになったと。授業をサボり、喧嘩をふっかけたり、怪我したとかさせたという有様のようだ。
(なんだか、不良の出てくる少年漫画みたいだなぁ)
中学時代の三井のイメージとあまりにも乖離していて実感がわかなかったというのもあるが、三井の話を聞いて✿の中に生まれた感情は、だいぶ冷めたものだった。
事実は小説より奇なりとはよく言ったもので、その熱意があるが故に、それが絶たれた絶望から、バスケを離れてしまう。実際、そんなこともあるのかもしれないな、という達観だった。
(…私だって、ここまで来るのにそれなりに大変だったんだし。)
まるで三井の抱えたものと、自分のそれを天秤にかけて「不幸くらべ」をしているようで、そんな発想に至った自分に嫌悪感を覚えた✿は、三井のことはいったん頭の隅に追いやることにした。
時を同じくして。
形ばかりの登校をし、何本かのたばこをくゆらせた後にだらだらと繁華街へ向かっていく、学ラン姿の長身の男たちがいた。そのうちの一人は、男子にしては珍しく、肩に届きそうなほどのワンレングスの長い髪をしていた。
「そういえばよぅ、みっちゃん」
「あ?」
「二年に転校生が来たんだって。」
「男?女?」
「女だって」
「興味ねぇ」
「男だったら?」
「…興味ねぇな」
「ははっ、みっちゃんらしーな。」