世界でたったひとりに そこら中から入り込んでくる砂利のような粒に体を重くされて関節が軋む。息をするたびに喉の粘膜を削り取られるような痛みを覚え、喉から入り込んだ何かが肺の内側にびっしりと張り付く。粘り気のあるそれが空気を取り込む以前に、肺を動かすのすら阻害してくるような感覚に陥る。
虚淮が感じる苦痛と似たような症状を訴え、龍游を去る者は少なくはなくなった。幸い環境の変化に左右されずあちこち飛び回れている風息でさえ、もはや全体像を把握できなくなっているらしい。人間が龍游で開発とやらを始めてから、この土地は随分と悪くなってしまった。
まだ人の手が及ばない場所に身を置き息を潜めるしかない虚淮に、時に人里に降りながら得た情報を風息は度々伝えてくれる。いつの間にか爆発的に技術力を発展させた人間達は自らの弱さを取り繕うように、世界の形を変えようとしているらしい。
たしかに彼らは酷く脆い。少し気候が変調しただけで飢えて死んでしまうし、病にも弱く、多少の傷を自ら癒やすことも難しい。以前集落で相手をした子供が次に様子を見に行った時にはいなかったと、風息が肩を落として帰ってきたことも珍しくはなかった。
他の生き物よりも随分と弱かったが、彼らにも優れた部分はあった。それは他よりも飛び抜けて器用な手先と言語能力である。変化術の起こりを虚淮は知らなかったが、おそらく人間と接触した妖精によるものというのは想像に難くはない。
詳細なコミュニケーションを行う上で、表情と言葉が重要なことは虚淮も知っている。優れた情報伝達能力と指先だけを武器に、彼らは細々と暮らしを立ててきた。妖精である虚淮達には想像もつかない困難も多かっただろう。
虚淮達には恵みそのものである自然も、彼らにとっては同時に脅威であったのかもしれない。その自然を遠ざけ生きることができるなら、と願った者がいてもおかしくはなかった。自分達が自然と離れる影響を知らぬまま、今を生きるために彼らは森を壊し土地を崩そうとしている。
妖精のためにならぬことが、人間のためになるとも思えない。自分達の首を絞める行為に、最初風息は彼らの行動を訝しんだようだった。彼が今まで触れてきたすべての生き物は、世界に広がり繁栄するために生きてきた。栄えるためという視点では同じなのかもしれないが、彼らは自らを自然と切り離そうとしている。
一時的な行為であればそれでも問題はないだろう、と風息は結論づけたようだった。けれど、彼らはおそらく二度と森には帰ってこない。人間は誰よりも自然を恐れている。誰も森が、澄んだ空気や水がなければ生きていけないのに、彼らはそれが恐ろしくて仕方がないのだ。
月のない夜に虚淮の居場所まで出向いてきた風息はそう虚淮に語って聞かせた。今までもあちこちを見て回り、方々で話を聞いた事を風息の主観や考えで整理するために虚淮に話すことはあった。けれど、これほど体系立てて断定しようとするのは珍しい。
一度聞いたことのある内容に耳を傾けながらも、己が聞く意味はあまりないことを知っている。こういうとき、風息は自分自身に話しているのだ。自らの声を聞きながら再び考えをまとめ上げ、今いる場所から一歩先に進もうとする。ほとんど心は決まっているようなものだろうが、儀式めいた手順を必要とする気持ちも分からなくはない。
人間は自然を恐れる。そう言ってから風息はしばらく黙り込んでいた。夜を揺らすように言葉になり切らない息が風息の唇から時折零れ落ちる。
「これは、あいつらにとっては復讐でもあるのかもしれない」
何度目かの息がついに風息の喉を震わせた。まだ迷いがあるらしく、少々おぼつかなさを感じる語調だった。それでも風息は考えを形にするのを止めるつもりはないらしい。
「あいつらは自然に奪われたと思ってる。多くの同胞の命と可能性が自然の脅威に晒され制限されて、失われた経験があるんだ。だから、自然を自分で塗り替えないと気が済まない。多分、これが自分たちにとって良くないことだって分かっても、止められやしないはずだ」
復讐ってそういうものだろう、と風息が同意を求めるように付け加える。それが身の破滅を招こうとも、始めてしまえば最後止める訳にはいかない。
舞台に上がれば幕が下りるまで勝手に降りることは許されず、どれだけ不格好でも踊り続けなければならない。その舞台の代償が自らの、他の生物の命だと分かっていても舞台を壊す発想には行きつけなくなってしまう。
誰に強制されるものでもないはずなのに、いつの間にか思い込んで固持しようとする。風息が言うように復讐とはそういうものだ。
「それに俺達が」
言葉を紡ごうとした風息が再びぴたりと口を噤み、呼吸すらもひそやかにしてしまう。それからゆるゆると首を振って、夜に馴染みやすい色の髪が揺らいだのが分かった。ゆっくりと息を吐き出して、肺一杯に夜気を含む微かな音がやけに鮮明に聞こえる。
「……妖精が付き合ってやる謂れはない。そうだろう、虚淮」
日の下では聞いたことのない声だった。低く沈んだ声は少年期の終わりを告げていて、急に彼の背丈を意識させられてしまう。彼は虚淮の背を追い越しただけの子供でしかなかったはずなのに、気づけば自分の記憶の中にしかいない存在になり果てていたらしい。
同意を求める声と共に、風息の薄明の空の色を映したような瞳が向けられた。じっと窺うような様子で視線を寄こされて、今夜風息がようやくまともに虚淮を見たことに気がつく。
「そうだな」
一度ゆっくりと瞼を落として時間を作ってから、虚淮は風息に同意する。人間が自分達の行いをどう捉えていたとしても、それが破局に向かっているのは間違いないだろう。たった一つの種族が無数の種族を巻き込んで、合意も得ず勝手に終わりに向かおうとしている。
彼の言う通り、どうしてそれに付き合う必要があるだろうか。虚淮達は自然に対して何の恨みもないばかりか、完全な共生を構築している。守り育てられてきたものが危険に晒されているのを指を咥えて見なければならない理由などどこにもない。
「なあ虚淮、俺が何をしても許してくれるか」
脈絡を無視した突然の問いかけに、今度は虚淮が風息を見つめる番だった。いつもよりずっと光源が少ないせいで、虚淮の眼ではうまく彼の表情を捉えられない。彼の意図を読み取る手がかりは声くらいしかない状態だったが、今までの話を考えればそう難しい事でもなかった。
「構わない。そもそも、お前がやって私が許さなかったことなんてなかっただろう」
「それは言いすぎじゃないか? 大分怒られたはずだけど」
「叱るのと許さないのは別だ」
風息の指摘する通り、虚淮が風息を叱った回数は両手の指では足りなかった。けれどそれは風息のためにならないことを指摘しているだけであって、彼の行為を許さなかったわけではなかったのだ。
少しいつもの調子を取り戻したらしい彼がごにょごにょ言おうとして、いやでも、と自らを納得させようとしたようだった。理解に至るとっかかりを見つけたらしい風息を見ながら虚淮もまた考える。
虚淮と風息の間には血のつながりはないが、今彼が求めているのは人間で言うところの親のような存在なのだろう。何をしても、どんな失敗をしても決して離れて行かない誰かが今の風息には必要なのだ。
風息が何をしようとしているかくらい、虚淮にだって見当はついていた。彼は武力をもってして人間と対立するつもりだ。おそらく、多くの支持と非難を彼は一身に受けることになるだろう。そのどちらも元々風息に馴染みはしないはずで、彼の双肩にのしかかる重石にしかならない。
ただ、彼は許されたいのだ。風息が戦い始めることで引き起こされるあらゆる犠牲と痛みを、誰かに許されたいだけなのだ。それが酷く自分勝手で甘ったれた願いだと風息が分からぬはずがない。だからこそ、彼はこんな夜を選んで虚淮の元を訪れたのだろう。
「――ありがとう。虚淮がいいって言ってくれるなら俺は大丈夫だ」
随分と柔らかくなった声でそう言った風息が本当に大丈夫だったのか、彼から直接聞く機会はそれから半世紀も経たないうちに失われてしまった。氷雲城なんて字面だけ見れば虚淮にお似合いの牢獄で、風息が死んだと聞いたのは彼を最後に見てから実に半年が過ぎてからのことだった。
館が意図的に虚淮に情報を伏せたわけではなかったのだろう。妖精というものは得てして死からほど遠い存在であり、死んだと思われていてもただ深く眠っていただけだったり、飲まず食わずで姿を隠していただけだったりなんてこともある。
今回の事件が他の妖精に影響を与えたのは間違いない。館に迎合していない妖精達をむやみに刺激する結果にならないよう、じっくり時間をかけて調べ上げてようやく辿り着いた結論なのだろう。
おそらくその結論が覆ることは今後ないはずだ。もう風息はどこにでもいて、どこにもいない存在になってしまった。ひょっとしたらこの瞬間虚淮の隣にいるかもしれないし、この星どころか宇宙のどこを探しても見つからないのかもしれない。その答えを見つける方法をこの世界の生命はまだ得てはいなかった。
風息が死んだ。そう、喉を震わせないまま虚淮は口にする。ひそやかなそれが施設の者によって記録されているのを何とはなしに意識しながら、あの暗がりで聞こえた安堵の音を思い出す。それから表情を思い起こそうとして、暗闇ばかりしか思い出せないのに気がついた。
今思えば、風息があの日を選んだのは偶然ではなかったのだろう。虚淮が得られる情報を制限して、一方的に様子を窺いながら風息は話を進めたかったのかもしれない。当時はそんな簡単な事すら分からないくらいに虚淮も追い詰められてしまっていたらしかった。
風息が何をしても許すと、確かにあの時自分は認めてしまった。そう、じわりと滲んだ悔恨を虚淮はすぐにすり潰してしまう。あの時の風息が求めた許しは命を傷つけ、他の妖精との対立を招くことについてのはずだった。
あの段階で風息が自死までを選択肢に含めていたとは考え難かった。自分達はまだ龍游にいたし、館とあそこまで致命的な決裂を迎えると思ってはいなかったのだ。闇夜に溶けたあの吐息はおしまいを許された事実に対してのものではなかった、はずだ。
けれど。けれど、と虚淮は思う。風息はあの夜のことを思い出しはしなかっただろうか。虚淮から遠い場所で風息が幕引きを選んだ瞬間、自身を貫かせながら伸ばした木々に囲まれながら。虚淮が随分気楽に応じてしまった答えを、頼りにしてはしてはいなかったか。
彼は、風息はたったひとりに許されたがっていた。館からの話を聞く限り風息は妖精を傷つけ、子猫の命を奪う選択をしたことを許されるつもりはないようだった。
けれどあの島を離れた直後に、確かに風息は虚淮に許しを求めたのだ。あの時虚淮が首を横に振れば、風息は計画の継続を躊躇ったかもしれない。
その風息が終わりを選び取ったとき、いったい何を思ったのか。もし、風息が何もかもを残してひとりで先に行こうとしたその瞬間に、改めて虚淮の許しを請うていたとしたら。その瞬間、虚淮が彼の側にいれたならば。虚淮はあの時のように構わないと言ってやれただろうか。
きっと風息は虚淮を連れて行ってはくれなかったはずだ。彼の言葉をかき消しながら天を目指す木々は虚淮をのけ者にして、風息をひとりきりにしてしまうのだろう。虚淮は風息がひとりだけで龍游で眠ることを認め、送り出してやることができただろうか。彼の気が充満する空間で、彼が生命を分け与えた樹の幹に触れて。
たった一言口にするだけだ。虚淮はそっと唇を開いたが、声は一向に言葉にならなかった。