鶯は梅に帰らない ア、無理だ。
遠くを見つめてミスタはスコンと表情を落っことした。その青い視線の先にいるのはひとりの女。彼の夫たるヴォックス・アクマの、数えて三人目の妻になる女である。濡羽色の髪と瞳の美しい人…。
くるりと踵を返して、部屋まで早足で戻る。苛烈なまでに叩き込まれた礼儀作法と少しの理性でなんとか走ることはしなかったが、それでも脚に絡みつく朱色の着物の裾が バサバサ揺れるのが煩わしかった。裸足の足裏に汗が滲み、板張りの廊下によく滑る。襖を震える手で締めて、ペタンと畳に膝を折った。毒を太い注射針で流し込まれているように脳の奥がジクジク痛んだ。もう駄目だ。
ミスタとヴォックスの結婚は、いわゆる政略結婚だった。ミスタの父親は出世のためにアクマ家の歴史が、ヴォックスは一族の再興のためリアス家の資金力が欲しかった。しかし、リアス家にはヴォックスと釣り合う年齢の娘はいない。ヴォックスはただリアス家の人間との縁故があればいい。それが男であり、跡継ぎを産めないミスタがヴォックスに嫁いだ理由だ。至極簡単かつありふれた話である。が、アクマ家は、資金という最後のピースを得てヴォックスの悪魔的な手腕によって、この五年足らずで大きく成長した。…三年前にはすでにリアス家の助力を必要としない程度には。なれば、形ばかりの男の嫁など邪魔くさいばかりだ。
屋敷でのミスタの肩身は日を追うごとにどんどん狭くなり、年寄り共の御膳立てでヴォックスが女の嫁(変な言葉だ)を迎えたのが二年と半月前。懐妊の直後に突然の病に倒れてそのまま死んだ。老体の勢いは止まらず、執念 く二人目を呼び寄せ、それも貝だか魚だかにアタって死んだ。おかげでミスタが嫉妬に狂った果てに手にかけたのだとまことしやかに囁かれる始末。
それでもヴォックスはミスタを離さない。ミスタの心が揺らぐたび、底なしの愛でもってミスタの目と耳を塞ぐのだ。
「気にするな」「有象無象が何を言おうと、俺はお前を愛しているよ」「お前の望むようにすればいい」
…もう、自由にしてほしい。いっそ殺してほしい。ヴォックスがお前などいらない、愛したことなどないと叩き出してくれたらどんなに良かったろう。彼の瞳を、声を、仕草を、ぜんぶ嘘だと思えたならどんなに良かったろう。昨日だって確かに彼の腕に抱かれて眠ったのに、もう千年前の出来事のようだった。…陳腐で愚かな、恋の夢を見ていた。
「……はなれなきゃ」
遠く、とおく、離れて、逃げて、それで、
「なにから」
鋭い鼈甲色の視線がミスタの青白いうなじを焼く。耳鳴りがしそうな越天楽の幻聴が頭蓋骨にわんわん響いた。背骨が一本の氷柱になった気分だった。
ヴォックスが一歩踏み出すたびに、シャラシャラと軽い音が鳴る。それは首輪の鈴の音か、はたまた足枷の鎖の音か。どちらにせよ存在しない。ヴォックスが暴力や道具でミスタを引き止めたこ となんて、ただの一度もなかった。
「なにから」
再び問われる。有無を言わさぬ王の口ぶりを許されるだけの実績と自信が彼にはある。 …ミスタは答えない。
「……、なにから」
大きく一拍置いて、三度。ミスタは喉の奥で「おまえから」と筋肉の震えだけで呟いた。畳に落ちるヴォックスの異様に長く大きな影をジッと見つめて、朱色の袖を噛む。
「なあ」
「………………」
「ミスタ、」
「………………」
優しい、モルヒネの声。耳から染み入って、脳から全身に回って動けなくなる。何も見えない、何も聴こえない、ぬるい泥濘に引きずり込もうとする、甘くて美しい毒。おれのぜんぶがだめになる。
「俺がお前を愛しているんだよ。何を不安に思う必要がある?何故、俺以外の人間の言葉に心を動かす?お前は何も悪くないのに、」
「みんなが!」
ミスタはそこで初めて声を荒げた。唾液と涙がひっからまって、ガラガラの汚い、情けない可哀想な声だった。厭だ。これじゃ同情を買おうとしているみたいじゃないか。
なるたけ憐れっぽくならないように、迫り上げてくる嗚咽を呑み下して、眉に力を入れる。恐れているのと反対に、涙は滲んできもしなかった。
「みんなが、…みんながおまえみたいに、強く生きられるわけじゃないんだよ……」
言ってしまった。
ヴォックスはいきなり殴られたみたいな顔をして木偶の棒のように突っ立っていた。
ヴォックスは、自分がミスタを愛しているから大丈夫だと言うけれど、それは裏を返せばヴォックスの寵愛を失えば死を免れないことと同じで。そんな脆いものを一生信じられるほどミスタは楽天的でも純粋でもなかった。次々に迎えられる美しい女たちを見るたびに、なけなしの自信はみるみる削がれていって、ヴォックスの手しか縋るものが無いのだと気付いた瞬間のどうしようもない不安と絶望。この腕の外に1歩でも出てしまえば、そこいらで野垂れ死んでもおかしくないのだ。
…こいつは何もかも捨てておれと逃げるなんてことはしてくれない、しちゃいけない、できないのだ。こいつの愛のぜんぶはおれのものではないから。
「…………ほっといてよ」
「 何を言って、」
「おまえが飽きるまではおまえのものでいるからさ、ほっといてよ。お願い。やだよ、もう」
「ミスタ。聞きなさい」
「もう、つかれたの」
庭の梅の香が夕暮れの風に乗って薫る。ゆっくりと覆い被さる闇が重たい。
……こいつは、一族の主である限り嫁をとり続けるし、おれはその度に掻き乱されて枕を濡 らし続ける。仕方ない仕方ない。お家の存続のため、秀でた血を残すため。こいつだって種馬のように扱われることに自尊心を傷つけられているだろう。その痛みや重責は、おれには想像もできない。けれど、もう、疲れてしまった。息ができなくなるまで泣くのも、血が出るまで爪を噛むのも、ぜんぶ。
ゆらりと立ち上がって部屋を出ていったミスタの衣擦れの音が去るまで、ヴォックスはその場から動けなかった。
……別に、リアス家でなくとも良かったのだ。他にも資産家の家は多くあるし、ヴォッ クスの美貌と話術をもってすれば大抵の人間は籠絡できるのだから、わざわざ男であるミスタを娶る必要はなかった。それでも、ミスタが欲しかった。父親の隣に物言わぬ人形のように薄っぺらな微笑を貼り付けて佇んでいる彼の虚なビードロの瞳に自分が、自分だけが映ったらどんなに良いだろうと思った。だから年寄り連中の反対を悉くねじ伏せて、婚姻まで半ば強引に漕ぎ着けたのだ。
己が一族の長であるうちは、誰がなんと言おうとミスタをそばに置けよう。しかしそれ故に跡継ぎの問題がついて回る。何かを得るためには何かを失わなければならない。それが世の道理だ。今までだって一族のために両手じゃ足りない数のものを諦めてきたのに、今になってどうしようもなく怖くなってしまった。ミスタと一族。同じくらい大切で愛しくて、生涯を賭して守ると誓った。 他は全部捨ててしまったから、そのふたつしかヴォックスの手の中には残っていなくて、 どちらも絶対に失いたくなくて半端に行動した結果がこれだ。己はこの世でいちばん狡くて卑怯だと思った。
……この家に連れて来られてきて、ミスタは、一瞬でも幸せだっただろうか。心のままに笑えた日があっただろうか。馬鹿のひとつ覚えのように繰り返した「大丈夫」をどんな気持ちで聞いていたのだろうか。幸せにできるだなんてそんな、思い上がりを。当主の座にあれば、どちらも守れると思っていた。なんと不甲斐ない。結局すべて掌からこぼれ落ちてゆく。……それなら、いっそ、
「すべて、投げ出して。いっしょに逃げてしまおうか」
そう、言って欲しかったのかと、今さら思った。
背後で鳥が羽ばたいて行く音がした。独りだ。