割れ鍋に綴じ蓋「Hi,sweet. ご機嫌如何かな」
ニコニコニコニコ、朗らかに上機嫌に笑ってヴォックスは湯気の立つ粥の載った膳を床に置いた。ミスタは座敷牢の丹塗りの格子の奥に老いた犬のようにノッタリ転がって、眼球すら動かさずに粘つく舌をモタモタ持ち上げて、口の中で何事か不明瞭に呟いた。 細い手首には布を巻いた上に螺鈿蒔絵を施した木板の手枷が嵌められており、わずかな呼吸に合わせて燭台の火にキラキラ光っている。
ヴォックスはさらに深く笑って、格子の中に腰をかがめて入ってきた。遥か頭上の小窓から差し込む青い弱光がヴォックスの顔の陰翳を若干強める。羽織の裾風で火が掻き消えた。天井から降ってきた闇がふたりを覆い、重たく濃い黒の中で血の気の無い真白い顔ばかりが月のようにボウッと明るい。
ヴォックスは低くきらきら星を口遊みながら、ボーッとヴォックスの骨のガッシリした 白い足首を眺めているミスタを抱き起こし、粥を匙で掬ってミスタの薄く開いたままの唇に運ぶ。ほとんど潰れた米粒が削げた顎にダラダラ流れ、半分も食べられていない。それでもヴォックスは人形の世話を焼く童女のように粥を掬ってはミスタに食べさせるのを繰り返した。それなりにガタイの良い成人男性であるミスタが粥の一杯(半杯)で満腹になるわけはないのだが、すべて食べ切らないうちに筋張った首をヴォックスの腕の外に傾けて止めてしまう。よく手入れされたサンディブロントが一房垂れて長く濃い睫毛に絡まる。ヴォックスはしょうのないお転婆を見るような顔でそれを耳にかけ直してやり、脱皮を終えたばかりの蛇のようにグタリと脱力した身体を抱え直して背中をやわく叩きながら前後に揺らしてやる。雨の匂いが分厚い石の壁から染みてくる。生ぬるい、羊水のような雨だ。
ミスタはされるがまま頭をユラユラさせながら、畳の縁を遣う太った毛虫を伽藍堂の目で食い入るように見ていた。
あれはおれだ。手足も翅もなく、無様にのたうち回るしかできなくて、育っても蛹の、この檻の中でどろどろに溶けて死んでゆく。……こいつはおれが死んだらおれを食うだろうか。一片の骨も、一筋の髪も残さずに。…食わないだ ろうな。きっと。来世の幸せでも願って、庭の椿の下にでも埋めるだろう。生意気にも泣きながら。
畳はミスタがずっと転がっている場所だけが日焼けせずに白くって、実は自分はもう死んでいて、あれはおれの魂の染みついた痕なのではないかと思った。今おれをあやしている鬼も、格子も手枷も毛虫もぜんぶマボロシで、おれはどこにもいなくて何でもないのではないか。と。
…………家畜にすらなれないおれはなんなのだ。
悔しくて、情けなくって、目から熱いものが後から後から溢れてくる。それはほとんど反射だった。色の違うだけの流血であった。食べられもせず、交わることもなく、ただただ飯を与えられ生かされている。人間でいるのはとうに諦めた。ペットでも家畜でもないおれはなんなのだ。
ヴォックスは雨と同じ静けさで声無くシトシト泣くミスタの冷えた髪に額に瞼に何度も口付けて、「どうしたの」「何が悲しいんだ」「黙って泣くのはよせと言ったろ可愛い子」 と息の合間に呟く。
ヴォックスはここに来るとき、いつも鍵をかけない。逃げようと思えば逃げられるのだ。枷を取り去り、明るい陽の下を闊歩できるのだ。しかしミスタは、背を撫でる震える 手を、怖がるように細められる目を知っている。これがストックホルムの病だろうと、 ミスタはこの哀れないきものを捨ててゆくことなどできなかった。現状にいくら不条理を感じて怒ろうと、強く美しい誇り高い狼のような男が、ミスタを自分から解放しようとしていながら、ミスタが消えるいつかの日に怯えている自己矛盾が不思議で、可愛ゆく思えてしまうのだった。仮に非情になれたとして、クローゼットの暗がりに、裏路地の間に、自分の影に、いつも彼を見るだろう。そんな日々を過ごすのは御免だ。
結局はどちらも気の狂った化け物で、爪より刃を突き立てて消えない傷を残し合うのを愛と呼んでいるのだ。お互いがお互いの生きた証であり生まれてきた意味なのだとぐちゃぐちゃに叫んでいるのだ。
気づくとヴォックスも泣いていた。張り詰めた涙の膜が虹彩の真ん中に集まって、まるい水滴になってボタリ、ボタリと落ちる。雨粒が葉の先端に滑ってしたたってゆくような温度の無い涙だった。
ふたりの化け物は違う向きに頬を濡らして、ジッと雨が止むのを待った。雨が止んだ らどうするかなんて考えちゃいないのに、雨が止んだらぜんぶ解決しているような気がした。
ミスタはボロボロ泣いたままヴォックスの着物の袂からくくられた両手で器用に煙草の箱を取り出し、しけた中から一本抜いて咥えた。ヴォックスも涙の粒を頬に滑らせたまま、黙ってジッポーで火をつけた。一息吸って、すぐに中指と薬指で挟んだそれをヴォックスの唇に強引にねじ込む。熱い紫煙がヴォックスの耳の横をすり抜け、ミスタの鼻先を掠めて毛虫に覆いかぶさり畳に澱んだ。こんなときでもヤニは美味いのだから、もうどうしようもない。どこで間違えたかなんて考えたって仕方がない。だってもうどっちも何処にも行けないのだから。どうにもならない不道徳を掲げて生きてゆくのだ。
雨はまだ止まない。