真綿で包んだ牙を剥く 細く入り組んだ汚い路地の先にあるのは殺人と暴力と酒とクスリと病気である。つまりは一生足を向けない方がいい。ここに来るのはマフィアかジャンキーかどうしようもなく行き場の無い浮浪者だけだ。全員薄汚れて歯の抜けた口から濁ったヨダレを垂らして「あー」とか「ウー」とか言いながらゾンビのように彷徨っている。
その中に、やけに綺麗な顔の男がいた。シアンの毛先をぐしゃぐしゃに乱して、落ち窪んだヘーゼルの瞳で、黒ずんだ足の爪の先に転がる半分溶けたネズミの死骸やマリファナの匂いのするポルノ雑誌をジッと見つめている。痩せ細って関節の目立つ手は曲げた膝の上に置いたメモにずっと何かを書き込んでおり、手元に目を落とすどころか瞬きひとつしない様子は悪魔にでも憑かれたかのようだった。
隣で見知らぬ老人が達磨にされた子供の背中に折れた注射針で聖書の文句を刻んでいるのも、焼け爛れた顔の女が窓から上半身を投げ出して「お姉ちゃァアーーーーアン」 とサイレンのような声で叫ぶのも目耳に入らず、一心不乱に彼は書く。書き続ける。ガラス質の眼球が伸びた前髪の下でピカピカ光っていた。乾涸びた唇の隙間からヒュ、ヒュ、と肺病みのような息をする。
アイクがここを訪れたのは一ヶ月前のことである。
新作の地下街の描写に行き詰まり、気晴らしに普段行かない場所に足を伸ばした末に 見つけた太陽の存在しない街の入り口。買える情報だけでは物足りなくなり、わざと身体を壊して潜り込んだのだ。病的とも言える執筆への熱から生じる脳が破壊されるほどの衝動に突き動かされた結果なのだが、今日まで四肢のひとつも失わずにこれたのは奇跡に等しい。
「ね、ねねえぇえ」
「………………」
「あは、うふふう、はっ、は、えは」
奇妙に長い腕と首を前後左右に大きく揺らしながらヨタヨタ歩いてきたのは、“天秤”と呼ばれる男だ。いつもこうしてアイクのそばに寄ってきては、キッカリ2m先で止まって不気味な赤子のような顔でヘラヘラユラユラしているだけの生き物だった。
今日も今日とてキッカリ2m離れたところでピタッと爪先を揃えてグラングランと揺れている。左足の下で踏み潰されたネズミの死骸がグチュグチュ言っていた。しばらくすればまたアハアハ笑いながら去って行くので放置しているのだが、3時間、4時間 経ってもまだヘラヘラユラユラしている。
「ききき聞けよおおお」
「エ、」
突如、2mの境界線を越えてニュウッと伸びてきた異様に長い指がアイクの顔面を握る。鼻と口を塞がれ、息苦しさに生理的な涙が滲んでそこでようやっとアイクは瞬きをした。絡まった睫毛がパサパサと手のひらに触れるたびに天秤は「くすすぐったあいい」 とケラケラ笑った。必死にもがいたが腹を踏みつけられ身動きができない。汚れたシャツに腐った肉片がドロリと垂れた。見開いた目のすぐ先で天秤の指の内側に彫られた杭を打たれた目玉のタトゥーがボヤけている。顔中の骨が軋む音が内側から耳に響いた。脳の血管がキュゥっと細くなる。
「めめめめ目、きれれいだねねね」
剥がれた爪の痕のある指先が限界まで引き絞られた瞳孔に触れる寸前、ドンッと胃を揺るがす銃声と共に天秤の縦に長い身体が横向きに倒れた。次いで2発、3発、4発。執拗に弾丸が撃ち込まれるたびに天秤はビクン!と陸の魚のように痙攣し、6発目で動かなくなった。よく磨かれた革靴が死体を踏み越えて近づいてくる。
「満足した?」
「………………」
「もういいだろ」
「………………ルカ……」
1ヶ月ぶりに使う声帯を無理矢理動かして恋人の名前を呼ぶ。ルカは俯いていた顎を上げ、誰かの血痕と吐瀉物のこびりついた地面に転がったままのアイクを静かに見据えた。金色の奥でアメジストが冷たく発光している。
その目線に射抜かれた瞬間、アイクの全身にゾクリと鳥肌が立った。リヒテンベルクの紋様が背骨を走る。身体中に氾濫した川のように血液がドオッと流れて、黒っぽく汚れた頬が紅潮した。虹彩がギラギラと獣染みた光を帯びる。そう、あの目だ。
アイクは息だけで「だって」と呟いた。口角がゆるゆると上がり、慈母の雰囲気すら漂う。だって、悔しいじゃないか。
“マフィアのボスのルカ・カネシロ”を僕が知らないだなんて。向けられる視線の鋭さを、皮肉げに歪んだ唇の形を、振り下ろされる足の重みを、吐く言葉の傲慢さをこの僕が知ることができないだなんて!
アイクはルカが自分に監視をつけさせていることを知っていたし、ルカはアイクがそれを知っていることに気づいていた。その上で毎度危険な場所に出向くのだからしょうのないことだ。
「アイク」
真っ直ぐな声だ。アイクはもつれた睫毛をパチッと上向けてルカの顔をまともに見た。固く引き結ばれた唇の端が震えていて、下瞼をギュウと持ち上げているのが痛々しい。 怒ろうか泣こうか迷っている子供のような表情だった。激しい後悔がアイクの靄がかかった脳味噌をガン!と殴った。肺を半分落としたような気分になってハッと息を呑み、栄養失調で重たい身体をどうにか地面から引き剥がす。ずいぶん密度の減った骨がカラカラ音を立てた。
「る、ルカ、ごめんね、ごめん。かえろう……。泣かないで……」
「……泣いてないよ」
「嗚呼………」
ルカは紙の人形のようなアイクの身体をそっと抱きしめた。いつもより少しだけ低い体温が伝わってきて、飾りだった内臓が機能してゆく。……泣いていたのはアイクの方だった。湿った鼻先を柔らかな冷えた金髪に埋めて、深く呼吸をする。かなしい硝煙の匂いがした。嗚咽が澱んだ空気のカタマリになってルカの肩口に吸い込まれてゆく。目が融解しそうなほど熱い水滴が白いジャケットにシミを作った。
「……オレがその気になればキミをずっと閉じ込めておくことだってできるんだ。忘れるなよ」
「………………ウン。ごめんね」
それは世界でいちばん優しい脅迫だった。
泣きながら自分の手足を縛るルカを想像して、それも良いなと思ったのは内緒だ。
ルカは一瞬泡を吐くように微笑んだアイクを見て、全く懲りちゃいないなと腕に込めた力を強めた。惚れた弱みだ。大人しく首輪をつけて腹を見せ、獅子は眠っている。お姫さまはそれを見て無邪気に笑うのだ。自分の足元にいるのが獰猛な獣であることも忘れて。
胸元にアイクの形の良い頭をシッカリ抱き込んで、もう一度「忘れるなよ」と鉄を流して固めるように言った。牙はまだ鈍っていない。