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    せんべい

    チラシの裏に描くようならくがきを置いてます。
    せんべい(@senbei_gomai)

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    せんべい

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    翼を広げてる(人の姿のまま)お話。というお題をいただき書いた話です。鍾魈の二次創作小説です。沢山の捏造設定を含みます。矛盾点などあるかと思います。申し訳ありません。雰囲気で読んでいただけると助かります。お題、ありがとうございました!!

    はねる.






    「このような事態になり申し訳ございません。暫くこちらでお世話になります」
     そう言って魈は腰を折り曲げて深々と頭を下げた。それは対面する鍾離から背中が見えるほどの深さで、鍾離の視線は自然とその背中へ向かった。魈の装束は背中の、肩甲骨の間が菱形に布がなく、そこから露出した肌が見える。けれど今は魈の髪と同じ色の羽のようなものがその肌を隠す。鍾離はその根元を束の間観察した。
    「そのように頭を下げるな。そう畏まられては円滑に行くものも行かなくなる。このような事態ではあるが、要はただの共同生活だ、普段通りにしていれば良い」
    「は、はい」
     魈は緊張の面持ちで顔を上げた。まるでその魈の機微に呼応するかのように背中のハネもまた小さく折り畳まれ、じっと身を潜めていた。魈が上半身を起こしたことで見るものを失った鍾離はほんの一瞬視線を彷徨わせるが、すぐに気を取り直して魈の目に視線を定める。
    「どのようになるか分からないが、俺としても善処しよう。一先ずよろしく頼む、魈」
     魈の背中にあるハネが一度ばさりと動いた。緊張の面持ちの魈とは違い、そのハネはその一瞬は伸び伸びとハネを伸ばす。
     鍾離は思わず、魈の目から視線を外してハネを見た。
     それは美しく、間近で観察出来るのであれば、こうした事態も悪くないと思っていた。



     鍾離はその日、いつものように三杯酔で茶を飲み、講談を聞いていた。講談師は近頃よく見る鍾離の顔を覚えており、その日もいつもと同じ席に座っている鍾離を見つけると、会釈するでもないがほんのわずかに頭を傾けながら一瞥をして定位置へと着いた。そして一声発し、鍾離や周りの他の客の視線が自分へと集まったことを確認すると、すっと息を吸い話し始める。
     定位置に着く前の様子から、今日は何処か意気込んだ気配を感じていたが、それは気のせいではなかったかもしれない。今日の彼の講談は出だしこそ以前に聞いた話と酷似していて、てっきり同じ話をするのだと思っていたがそうではなかった。途中からの展開が以前とは様変わりして、以前の話を記憶していた分、思いがけない驚きをくれた。また初めて聞く者にとってはただただ新鮮に聞こえてくるだろう。はねるような心地を感じる。
    「先生!」
    「鍾離!」
     ひとつの話が終わり、講談師がいなくなるとそれを待っていたと言わんばかりのタイミングでその賑やかな、けれど何処か差し迫ったものを感じさせる声がした。鍾離は最後の一口になった茶をゆっくりと飲み、その杯を静かに卓の上に置くとそちらに首だけを動かして視線を向ける。丁度良く鍾離の前には一人の少年が立っており、その傍らには小さな体の生き物が宙をふわりふわりと浮いていた。異邦の旅人である空と、本人の言葉を借りるのであれば相棒のパイモンだ。
    「やっぱりここにいたぞ。思った通りだ!」
     空中で身を翻しながらパイモンは言った。
    「先生、探してたんだ」
    「俺に何か用だったか?」
    「相談したいことがあって」
    「相談?」
     その言葉だけを言ってその先を促した。
    「それがその、少し説明が難しくて」
     空は眉を下げる。
    「一先ず見てもらいたいんだけど、ここではまずくて、場所を移動してもらうことは出来る?」
     空は歯切れ悪くそう続けて、落ち着かない様子でちらりと辺りを見回した。
    「ああ、そんなことなら構わないが」
     鍾離は腰を浮かせながら答える。
    「本当? ありがとう、先生。町の外までお願い」
     鍾離は空の後をついて三杯酔のすぐ南側にある橋を渡る。そのまま西へ歩き続ければ、天衡山の麓、夜叉石像の前に着く。その橋の中ほどで空は一度足を止める。
    「先に言っておくけど、この先で魈が待っていてくれているんだ。その、俺のお願いを聞いてくれていれば、の話にはなるけど」
    「魈が?」
     今ここで出てくるには意外と思えたその名前に鍾離が問い返すと、空とパイモンは力強く頷いた。
    「そう、魈だぞ」
     パイモンが言う。
    「つまり、困ったこととは魈のことか?」
     鍾離は少しばかり眉を寄せた。
     魈が何らかのトラブルに見舞われることはとても稀で、それは魈自身の能力が高い故であるが、その魈がトラブルに見舞われたということは事態が深刻なのではないかとそんな考えが頭を過った。実際、過去にはそういったことがあった。鍾離の顔は自然と険しくなる。空はその表情に気付き、慌てて胸の前で両手を振って見せた。
    「誤解しないで! 何かその、大怪我をしたとかじゃなくて、結論から言えば魈はピンピンしてる。本人は全く無自覚で、俺がおかしいって言っても全然信じてくれない状況というか。いや、今の時点では俺がおかしい可能性もあるわけで――」
    「実際オイラは空が言っていることが良く分からない」
     パイモンは両手を上げた。
    「ふむ」
    「俺がおかしいだけかもしれない。けどそうじゃないかもしれない。だから先生に相談したんだ。けど魈には先生を連れてくるっていうのは内緒にしてる」
    「それは何故だ?」
    「だって本当のことを言ったら、鍾離様のお手を煩わせるとは何事だ! って帰っちゃうよ、多分」
     空は肩を竦めた。
    「彼はそのように言うのか?」
    「言うよ!」
    「言うぞ!」
    「なるほど」
     鍾離にはその姿が想像できなかった。
    「お前の言いたいことは分かった。まずは魈と会い、状況を見て欲しいという訳だな。説明が難しいのであれば、これ以上の言葉は不要だ。何らか先入観があっては事を見誤る可能性もある。あとはそうだな、俺の姿を見て魈が帰らないように善処しよう」
    「先生!」
    「鍾離!」
     二人は目を輝かせた。
    「ありがとう、やっぱり先生に相談して良かった!」
     空が再び先導し、魈との待ち合わせ場所へと向かう。
     鍾離はふと思い立って気を巡らせてみたが、魈の気配は感じられなかった。恐ろしく気配を消しているのか、それとも待たずに去ってしまったのか。けれど空がこうして動いているのを無下にする彼ではない、鍾離は前者の答えが正解だろうと思った。それから歩き続けて数秒後、突然魈の気配が感じられるようになった。向こうもこちらに気付いたのだと分かり、鍾離は空に視線を送った。
    「彼はお前をちゃんと待っているようだ」
     そう言うと空は嬉しそうに顔を綻ばせた。
    「俺は走るけど、先生はゆっくり歩いて大丈夫だから」
     鍾離が頷くと、空はパイモンに目配せし駆け出して、パイモンもその後に続く。二人はあっと言う間に夜叉石像の前に着き、石像と石像の間を抜け、続く斜面を駆け上がって行く。鍾離はそのまま歩いて二人の後を追った。少し遅れて鍾離が石像の間を抜けて見上げれば、斜面の中ほどに空とパイモン、そして魈の姿があった。鍾離はその姿を視界に入れて、少しばかり目を見張る。確かに空が言う通り、そこに異変はあった。けれど自分の姿を見た瞬間、その異変が異変として如実になると共に、目を丸くする魈を見て、一先ずその指摘を控えた。斜面もゆっくりと歩いて登っていく。
    「鍾離様」
     魈は呼びかけるでもなくそう声を上げると一度頭を下げる。鍾離はそれに顎を引くようにして応えた。
    「久方ぶりだ」
     鍾離は魈に向かい合うように空の隣に並び、出迎える様に見上げた空にも目で応える。
    「お久しぶりです」
     魈はまたもう一度だけ頭を下げると、上げるタイミングで空へと体の向きを変える。
    「空、何故隠し立てをするような真似をした」
    「別に隠した訳ではなくて」
     空は歯切れ悪くそう言った。実際の所、隠し立て以外の何物でもなかった。
    「こやつが何を言ったのかは分かりませぬが、我は何ともありません」
    「……魈」
     弱弱しく空は声を上げ、魈はちらりとその空を見る。空は眉をこれ以上にないほどに下げて魈を見ていた。魈は微かに鼻から息を吐き、肩を竦める。
    「万が一にでも我に問題があるのであれば、我自身でなんとかいたします。鍾離様のお手を煩わせる訳にはいきません」
     そうすぐさま鍾離に向き直って続ける。
     空とパイモンは魈の視界から逃れる様にすっと移動すると「言った通りでしょう?」「言った通りだろう?」という意味の視線を鍾離に送った。その二人の息の合った動きは小気味よく、そして実際耳にする魈のその物言いは新鮮で、鍾離は少しばかり頬を緩める。
    「なるほど、お前は本当にそのように言うのだな」
    「わ、我は何かおかしなことを言いましたか」
    「おかしなことはないが、愉快ではある」
    「ど、どういった意味でしょうか」
     魈は慌てた様子ですぐに続けた。
    「まぁ何にせよ、近々お前を訪ねようとは本当に思っていた。こうした機会を得られて俺としては都合が良い。彼らに感謝をしなければな」
     そう言うと空とパイモンに軽く微笑んで見せる。二人はぱっと笑み、魈はすっと静かになった。
    「さて」
     と、一度言葉を置く。
    「お前、何ともないと言ったが、何も感じてはいないのか?」
    「それはどういった意味でしょうか」
     魈は堪らずまた同じ言葉を口にする。
    「先生にも見える?」
     空ははっとしたように目を見開き、一歩前へ出ると鍾離を見つめる。
    「一体何が、何だと言うのですか?」
     魈は空を見て、最後に鍾離を見る。
    「お前の背に、翼が、ハネがある」
    「……鍾離様までそのようなことを」
     魈は困ったように眉を寄せ、横に控える空は声こそ出さないものの首を二度三度縦に振った。
    「我にはそのようなものは感じませんし、見えませぬ」
    「ふむ」
     鍾離は自分の顎に手を添えた。しかしすぐにそれを魈へと伸ばす。
    「お前の頭のここから、下はここまで、今は休むように折り畳まれているが、確かに俺の目には見える。鳥の仙獣でもあるお前だ。背中からハネを生やしても、極論おかしいことはない。しかし当のお前がそのように言うのでは、やはりこれは異変と言えるだろうな」
    「俺も同じだよ。やっぱりあのことが魈に良くないことを起こしているのかもしれない。まずは先生に聞いてもらおうよ」
    「しかし」
    「これに至る経緯があるなら聞こう。しかしここで立ち話というのも落ち着かない。折角だ、天衡山の上で話すのではどうだろうか」
     魈は何かを言いたげに鍾離を見たが、見るだけで何も言うことはなかった。そしてその鍾離の提案に異論を唱える者は当然おらず、一行は天衡山の頂上へと場所を移した。
    「つまり」
     皆の話を聞いた後、鍾離はそう切り出した。
     天衡山の上に人の姿はなく、屯するヒルチャールは空と魈の手で一掃された。辺りは静かになり、落ち着いて話をするには申し分なくなった。草木が茂る原の中で大小の岩が集まる場所を見つけ、その一つに鍾離は腰掛け、空も同じように岩の上に座ると足を伸ばした。魈は立ったままその輪の中に入り、パイモンは大きな岩の上にちょこんと身を据えた。そうして腰を落ち着けたところで、空、パイモン、魈がこの事態の経緯を鍾離に説明した。
    「空とパイモンはアビスの動向を探っていて、魈は魈で不穏を感じてその原因を探っていた。結果としてお前たちの目的としていたものは一緒で、その目的、原因とも言えるアビスらの根城を見つけたところで相まみえ、そこからは協力体制をとってその根城に入っていったと」
    「そうだぞ。今回はオイラと空、魈の三人で一緒に頑張ったんだ」
     パイモンが答える。空は頷くと共に「パイモンは口を出していただけだけど」と小さな声で言い、「おい!」とそこに更にパイモンが付け加える。
    「それで俺たちは奥へと向かった。魈がいてくれたおかげでその道中は問題もなく、順調に進んでいったんだ。けどアビスの魔術師をついに追い詰めたと思ったところで、俺がそいつの罠に嵌って、立っていた床が崩れて……」
     空は申し訳なさそうに一瞬言い淀んだ。
    「空はそのまま宙に投げ出されちゃったんだ。オイラも間に合わなくて……それを魈が飛び出して助けてくれて、けどアビスはすぐに攻撃をしかけてきたから魈がその攻撃を背中で受けて」
    「俺を庇ってくれたんだ。俺が気を抜かず罠に気付いていれば」
    「お前はまだそんなことを言っているのか。あんなことは何でもない」
     今まで黙っていた魈が口を開く。
    「罠に気付いていなかったのは我も同じ。お前が気にすることではない」
    「けど」
    「反省をするならそれは良い心掛けだ。けれど空、お前も知っているだろうが、彼はこういう気質の持ち主だ。魈の言うようにもう必要以上に気にすることはないだろう」
     その経緯、また鍾離のもとへやって来た時の空の様子を思えば、空がこの事態に重く責任を感じていることが分かる。鍾離はそれを慮り言葉を送り、合わせて魈へ目配せした。魈はきまりが悪そうにそれから目を逸らす。背中のハネは少し動いた。その動きを空は見逃し、鍾離だけが気付く。そのハネは最初見た時も一瞬動いた。見間違いかと思ったが、そうではないらしい。
     魈が珍しく咳払いをする。
    「鍾離様の仰る通りだ。我は何も気にしていない。反省をするのであれば、次からは我を最前に置け」
    「だそうだ」
    「分かったよ。ありがとう」
     空は素直に頭を下げた。
    「それで、その後は?」
    「その後は……俺は全然周りが見えてなくて」
     空はパイモンを見る。
    「その後は大変だったぞ。二人はそのまま落下していって、けどすぐに魈が空を抱えて上がってきた。アビスの魔術師もそれに気付いて次の攻撃をこう、杖を構えて準備していたんだけど、それよりも先に空と魈が駆け出してって、二人でアビスをびゅん、バシバシって一気に倒したんだ。けど倒したと思ったら今度は別の奴が沢山現れて、そこからはもう何が何だかって状況で、けど魈も空も強いからな! 二人の力で無事倒し切ったんだぞ」
     パイモンは身振り手振りを交えて話した。
    「そのアビスの意図することは分かったのか?」
     鍾離は少しばかり目を細める。それには魈がすぐに答えた。
    「この地に蔓延る魔神の怨念を利用する算段をしておりましたが」
    「前に奴らはオセルを利用しようとしていた。きっと今回も似たようなことだと思う」
    「穏やかな話ではないな。しかしお前たちのお陰でこの国の平穏は保たれた、感謝する。今の俺が言っても何にもならないが」
    「へへ、鍾離に感謝されるのはとってもいい気分だぞ!」
     パイモンは体を浮かせると鍾離の前で一度身を翻した。そのまま空の近くへと場所を変える。空はパイモンに一つ頷いてから、自分も同じ気持ちであるという意味で鍾離へ向かって笑顔を見せ、そしてまた表情を戻すと続けた。
    「それで落ち着いたところで魈の姿を見たら、その、背中にハネがあった、という訳で。これが何か悪いものじゃないかと心配なんだ。背中で攻撃を受けていたし」
    「けどオイラにはそんなものは見えない」
     パイモンは肩を竦めた。
    「俺には見える。その他の者は?」
     鍾離は三人に視線を送った。パイモンはそもそも見えておらず、その判断がつかないので空に視線を送った。空はその事態から自分以外が魈と対面している場面に遭遇しておらず、判断がつかなかったので魈を見た。視線を受けた魈はまた息から静かに息を吐き出すと口を開いた。
    「くだんの件から一度旅館に立ち寄りましたが、特に指摘は受けておりません」
    「些か根拠としては心許ないが、実際に俺と空には見えていて、パイモンや恐らく旅館の者には見えていない訳だから、見える者は限られているということだろう」
     鍾離はちらりと魈の背中を見る。そこにハネはある。
    「一先ず今の話からすれば、魈の異変はそのアビスの魔術師からの攻撃を受けたことによって起こったと考えるべきか。魈、俺のそばに。背中を見せてくれないか」
    「はい」
     魈は鍾離へ背中を見せるように立つ。一瞬ふわりとハネが動く。今度はそうして動くのを空も見逃さなかった。空が驚いたように目を広げる。その様子に、ここに至るまでは動いていなかったのだろうと感じ取った。
     鍾離はまずはハネには触れず、ハネの全体を見た。魈の背中の布のない部分から生えており、座っている鍾離からは顎を少し上げるだけでそれを丁度良く見ることができる。魈の髪と同じような色彩を持ち、深い緑と、明るい青緑が混じるハネ、その色彩は魈の本来の姿に酷似していた。今はまるで人が肘を曲げ、指を拳の中に握り込むかのように小さく折り畳まれている。加えて仄かに光っているように感じられた。
    「こう近くで見れば、お前の本来の翼とは似ていても少し違うようだ。それはそれでまたおかしな点だな。けれど悪いものである印象は受けない」
     今度は対になるハネの間に顔を置くと生え際を注視する。皮膚とハネが繋がっているというよりは皮膚から突然ハネが生えている状態だった。ではこれは魈から生えている訳ではないのだろうか、鍾離は生え際にある飛び出る羽根に指で触れる。ハネに実体はなく、触れて感じるのは元素の力で、それは風の元素だった。ハネの先にも触れるとそこも同様の力を感じた。そしてそれは魈の風を感じさせる。
    「魔術師の元素は?」
    「氷だった」
     空が答える。
     鍾離は魈の背に生える二対のハネの間で、肌に触れるか触れないかの距離で撫でる様に手を動かす。
    「それらしいものは全く感じない。そしてこのハネからは風元素を感じる。感じると言うよりも、まるでこれ自体が風元素そのもの、神の目のようだ。今度はお前の神の目を見せてくれ」
    「……はい」
     魈はほんの僅かな逡巡を見せ、今度は体の正面を鍾離へと向けると神の目がある左腕を見易いように持ち上げる。鍾離は魈の手を取って更に自分の体へ寄せた。
    「確かお前は何ともないと?」
     鍾離は上目で魈を見る。
    「体は何ともありませぬ」
    「よもやお前からそんな屁理屈が聞けるとは」
    「何? 何かあるの?」
     空は声を上げた。
    「神の目から力が殆ど感じられない。今のお前は風の力が使えないのではないか?」
    「お、おい! それって」
    「それって、すごくまずいんじゃ……」
     空とパイモンは過去に出会った神の目を失った人の惨状を思い出す。
    「魈は神の目の力を失ったの?」
     鍾離は二人からの訴えは一先ず置いて、魈をじっと見つめ、視線で以って先程の問いの答えを促す。
    「確かに、使うことはできません。しかしながら、我の身体に異常はありません」
    「ふむ」
     この期に及んでも頑なな態度の魈が何故かまた愉快で、鍾離は人知れずまた頬を緩めた。そのまま空とパイモンへ顔を傾ける。
    「本来、仙人――仙獣は神の目を持たない。神の目を持たずともそれと同質の力を扱うことができる。勿論、本来的には仙獣である魈もその例に漏れない。だから神の目の力を失ったからと言って、後天的に神の目を与えられる存在である人と同じような事態にはならないだろう」
     空たちが不安に思う事柄を察し、言った。
    「しかし、こうしてお前が人の形を取っている中では神の目はただの飾りではない。こうして力がないということはお前の中の異変を示す根拠としては十分だ」
     鍾離は柔らかに言ったが、魈は緊張の面持ちで押し黙る。
    「つまりどういうことだ? 魈は大丈夫なのか?」
     鍾離は二人を見て、それから自分の前で立ったままでいる魈へ視線を向けた。そうすると二人も魈を見る。そして皆の視線を集める魈は鍾離を見た。
    「憶測の域を出ないが」
     と、まずは言葉を切る。
    「一時的に風の力が封じられているのではないかと思う。よもや一介のアビスの魔術師如きに、この璃月を護りし夜叉の力を永続的に封じるだけの力量はないと思っての話ではあるが――話を聞く限り、その咄嗟の場面で空を助け、庇うように攻撃を受けたのであれば、無意識化で一種の防御壁を作った可能性もあるし、空を助けようとした際の飛び出す力がそのままハネの形を持って固定されただけの可能性もある。どちらも魈の本来的な力と一致しないので荒唐無稽ではあるが、ただこのハネは魈の本来の翼に酷似している、その点は加味すべきだ」
    「つ、つまり?」
     空が小さな声で言った。
    「このハネを見られる者が限られるという点も気になる。神の目の力がこうして人々に認知されているのは神の目という媒体を通しているからで、だから神の目を持たない、必要としない仙人の力は人々の目に容易に触れない。それから仙人は神の目を持たずとも、その力を認知することができる。今、魈は神の目は力を失われている、と仮定するが、その為に持たざる者には認知できない状態なのかもしれない。俺は神の座は降りたものの、しかし仙人という力は失ってはいないので認知できる。空、お前はこの世界の理から外れる者、神の目を必要とせず元素の力を使い、そしてその身で風の元素を有したこともある。だからこのハネを見ることが出来る。あと風の神の目を持つ者であれば認知できるかもしれないが、璃月に風の神の目を持つ者は極めて少ない。もしこの道理で合っていれば、このハネを見ることが出来る者は相当限られるだろうな。そして魈、お前は自分の力として封じられている為に認知することが出来ない。まぁ全ては俺の推測でしかないが」
    「ええと、ええと、だから、つまり?」
     空とパイモンは思い切り眉を寄せる。
    「俺の考えでは、このハネは害ではなく、魈の風の力そのものであり、力を失った訳ではなく、形を変え、ここにあるのではないかと」
    「じゃあウェンティに聞いた方が良いってこと?」
     空がそう言うと、鍾離はほんの一瞬、目を見張った。
    「彼を頼ることはない。魈は璃月の仙人だ、俺がなんとかしよう」
     その言葉に今度は魈が目を見張る。
    「なんとか、とは……鍾離様、お言葉を返す様ですが、我の事は我でなんとかします」
    「なんとかとは?」
    「それは……これから考えます」
    「ならば俺がこれから考えても同じことだろう」
    「鍾離様の貴重なお時間を割いていただく必要はありません」
    「役目を終えた俺には少しばかり耳が痛い言葉だ。俺の時間は貴ぶ必要もないほどにある」
     鍾離は片手を軽く上げて見せる。
    「そのようなつもりで申し上げた訳では」
     魈は慌てて続いた。鍾離はまた頬を緩める。
     その様子を見ていたパイモンが堪らずといった様子で吹き出す。
    「なんだか鍾離は楽しそうだな」
    「楽しそう?」
     鍾離もまた息を吐くように微かに笑う。
    「その意見は貴重だ。魈、お前も聞いていたか?」
     魈は何も答えず、眉だけを寄せた。それは降伏の形だった。
    「俺は煩わしく感じていない。尚且つ、お前の今の置かれている状況に興味がある。そして時間もある。あとは、この俺を差し置いてあの風神の彼を頼られては困る。俺がなんとかしない理由が見つからない。どのように思う?」
     空とパイモンは拳を握って鍾離と魈を見た。
    「鍾離様のご随意に」
     空とパイモンは拳を解くと拍手をした。
    「さすがの魈も鍾離には敵わないな」
    「けど先生、なんとかするって具体的にはどうするの? 何か手伝えることがあるなら言って」
    「まずは様子を見る。魈には暫く俺の傍に居てもらう」
     魈はまた目を見張った。
    「傍ってどういうこと? その、つまり、一緒に生活するってこと?」
     空が魈の代わりとでもいう様に聞き返す。
    「なるほど、生活か。確かにそのように言えば良かったな」
     鍾離は顔を綻ばせた。
    「暫く一緒に生活をすることにしよう」
     


    「このような事態になり申し訳ございません。暫くこちらでお世話になります」
     そう言って魈は腰を折り曲げて深々と頭を下げた。
     最早何を言っても無駄だと思っているのか、何かを反故にすると重く捉えているのかは分からない。けれどその姿に鍾離は、頑なものから柔和なものへの変化を感じ取った。その様子に何処か満足する。
    「そのように頭を下げるな。そう畏まられては円滑に行くものも行かなくなる。このような事態ではあるが、要はただの共同生活だ、普段通りにしていれば良い」
    「は、はい」
    「どのようになるか分からないが、俺としても善処しよう。一先ずよろしく頼む、魈」
     背中にあるハネが一度ばさりと動いた。緊張の面持ちの魈とは違い、そのハネはその一瞬は伸び伸びとハネを伸ばす。そうして動くハネを見て、もしやこれに意識があるのかと鍾離は頭の隅で考える。
    「はい、鍾離様」
     魈は静かに空気を吸うと、鍾離を見上げる。
    「それで……我はどのようにすれば……」
     魈は小さな声を出した。
    「一緒に茶でも、と言いたいところだが、まずは先程よりもきちんとそれを見たい。座ってもらえるか」
    「畏まりました」
     鍾離は先に椅子に腰掛け、対になる椅子を指し示した。魈は背中を見せる為、後ろ向きに静かに腰かける。座面が丸い木製の椅子で、まだ痛みはなく表面は艶やかさを保っている。鍾離は座面を滑りながら足が当たらぬように大きく開き体を少し前へ出すと、魈へと更に寄った。さっきまで伸びていたハネはまた折り畳まれており、それが魈の背中を覆い隠す。けれど対になるハネの間に入れば、露出した背中の肌は見える。
     鍾離はもう一度、ハネをまじまじと観察する。そして触れてみる。実体があれば羽根の一枚一枚に触れて深く見ることが出来るが、これは出来ない。触れて感じるのはやはり風の元素だけだった。
     そうしてハネの至る所を観察しては触れた。
    「お前のことだから二人の手前、あの場では言わずまだ何か隠しているのではないかと思っての確認だが、本当に体に異常はないのか?」
     暫くの観察の後、そう切り出す。鍾離は魈の体が僅かに力むのが分かった。この距離でなければそれには気付けない。
    「異常、と言う程のことではありませんが、平常よりは体は重く感じます。痛みも少しばかり強く」
    「やはりそうか」
     風の力だけが封じられているだけと言っても、それも仙人としての力の一つであることに違いはない、何らかの体への影響があるだろうと鍾離は思っていた。あの場でそこまでの言及しなかったのは空とパイモンの不安をあれ以上煽らない為と、何より魈がそれを望んでいないことを察したからだ。
    「けれど降魔に支障があるほどではありません」
    「その際は俺も同行しよう」
     ハネがびくりと動いた。かと思ったが、動いたのは魈だった。魈から生えている訳でもないこのハネも、そうした微小な動きに合わせてくるようだ。そして風が吹く。髪が靡いて、戻ってくる頃には魈がこちらに半身を向けていた。翼が顔や頭をすり抜けていくとまるで小さなつむじ風が起こったようになる。
    「その必要はありません」
    「今のお前は完全ではない」
     鍾離はそう言ってからすぐに首を傾げた。
    「いや、この言葉は適していないな。完全ではないお前でもそれらは問題ないだろう。けれど何処かに不便はあるだろうから、その不便を確認したい。平常のお前を見ているだけではなく、そうした所を見極めることも解決に繋がる可能性がある」
     どうだと言わんばかりに鍾離は自分を直視しようとしない魈に言葉を投げる。魈は何か言いたげにしつつも、黙って頷いた。
    「それからお前たちが言っていたアビスの魔術師がいた場所も案内してくれ」
    「それは、はい。ご案内いたします。すぐに向かわれますか」
     そう言ってやっと鍾離と目を合わせる。
    「時間が経てば痕跡は薄くなる。すぐに行こう」
    「承知しました」
     魈はすっと腰を浮かせ、椅子を退けて鍾離の前に立つ。ハネが小さく羽ばたいた。
    「我はいつでも」
     鍾離も立ち上がり、魈に応える。
     立ち上がった鍾離を魈は指示を待つように見上げる。鍾離が見下ろして見つめると、その顔の左右でハネがまた微かに動いていた。ハネの仄かな光が、魈の髪と共鳴するように光って見えた。
     魈の案内でアビスの根城だった場所へ立ち入る。そこは地が大きく割け、遥か昔に地上にあった古い遺跡が地下へと沈み込んだ場所で、遺跡の柱や通路、もしくは屋根であったであろう大きな石片がそこかしこに散らばって割けた大地の壁面にめり込み、所々露出していた。それが上手い具合に足場になるように地下深くへと続く。暗く冷たい空気、元素の濃度も濃く、異質な空気が流れる。どこに隠れていたのか、ヒルチャールの残党が再び現れた訪問者に対して威嚇をするものの、魈によって襲い掛かる余地も与えられずその場に倒れる。
     鍾離は魈に先導され、魈らが一度通ったであろう道を辿る。話にあった崩れた床もここだろうとすぐに見当が付いた。魈は己の身体能力だけで大きく跳ねて飛び越え、鍾離は自ら生成した岩の橋でもって歩いてそこを越える。遺跡の一室がそのまま地中に埋まったような四角く区切られた広場に辿り着き、そこで魈が振り返った。
    「ここでアビスは倒れました」
    「なかなか良い場所を見つけたものだ。元素濃度が濃くて、アビスの気配など容易に隠せる」
     儀式を思わせる痕跡を見つけ、鍾離はそこへと足を進める。そうした痕跡の一つ一つを確認して回ったが、それらは残骸でしかなく、儀式は成せず失敗に終わったという形がそこに残っているだけだった。そして微かに魔神の怨念の残滓とも呼べる気配を感じる。呼び寄せていたのは間違いがないようだ。
    「お前、体は?」
     鍾離の言葉の意図を魈はすぐに汲み取る。
    「耐えられぬものではありません」
    「結論から言えば、ここにはそれほど意味があるものが残っていない。さっと調べる。早々にここを出よう」
     そう言うと魈は頷いた。
     鍾離はもう一度その周辺に調べる。魈はその後ろを付いて歩いた。アビスが倒れたという場所を最後に念入りに調べたが、そこに残る元素のエネルギーに特別なものは感じない。今や風前の灯火と言えるその力の強さはやはり強大とは言えず、魈の力を完全に封じるのに足りるものとは思えなかった。やはりこの現象は一時的なものではないか。しかしそれを楽観的に明言するには時期尚早と胸の内で留める。
    「この場所に祓いは必要ですか」
     そう聞いてくるということは魈自身、必要でないと考えているということだろうと分かる。
    「必要はないだろう」
     すぐに魈は頷いた。今は微かな不穏な気配は漂っているが、それは自然ではない力で呼び出されただけのもの、時間の経過によってまた本来の形に戻っていく。下手に祓い過ぎても形として歪になるだけの恐れがあった。
    「出よう」
    「はい」
     今度は地下深くから地上を目指して登っていく。そして外へ出て久方ぶりの陽の光、と言ってもそれも大分傾いて弱弱しいものになってしまったが、それを浴びながら鍾離は入り口に簡易的な封印を施した。万が一侵入者があればすぐに分かる。
    「我もこの場所は気にかけておきます」
    「ああ、頼む」
     封印が終わり振り返って魈を見る。傾く陽の光を背中に受けて立つ魈の頭の左右には陽の光とは別の淡い光を放つハネがある。二つの光が交じり合い、拡散し合うそれはきらきらと光る。少しばかし眩しく感じる程だった。鍾離はさっと視線を下げる。魈の影が伸びているのを見て、別のことが気になった。
    「そうだ、魈――」
     ハネがばさっと一度動く。光も舞う。
    「一つ確認がある」
    「何でしょうか?」
    「お前は布団に入って眠るのか?」
    「それは、どういった意味でしょうか」
    「言葉の意味のままだが……お前は寝る時、布団を必要とするか?」
    「我は、布団を必要とはいたしません」
    「そうか、ならば良かった。あの部屋には布団がひとつしかない。お前が必要というなら、急ぎ用意しなければならないからな」
     魈は目をこれ以上にない程に丸くする。ハネもピンと伸びる。この時ばかりは実にシンクロしているように見えた。
    「ま、まさかとは思いますが、我が鍾離様の部屋で休むというお話をされているのでしょうか」
    「そう話をしている」
     これ以上にない程丸かった目が今度は横一線になった。そして眉を寄せる。
    「鍾離様がお休みになられる時、我も失礼いたします。なので、そういったお気遣いは不要です」
    「お前が休む時、そのハネがどのようになるかも確認したいのだが」
    「え、あ、いや、しかし……そもそも我は、休息を必要としません」
     魈は歯切れ悪く言った。
    「今のお前には休息は必要だ。先程の場所も負担であったはず、帰ったらお前の為に薬を煎じよう。そしてよく眠ると良い」
    「そのように――」
    「用は済んだ。帰ろう」そう魈の言葉を遮る。
     魈は鍾離から視線を外し、僅かに顎を引く。
    「承知しました」
     それ以上言葉を多くすることはなかった。けれど何かを言いたげにしていることは明確で、先程遮った言葉の続きも予測はついた。頑なに一度は拒む。鍾離は一瞬の思考の中で、今までにそうして拒むような態度を魈から受けたことがないなと改めて思う。まだ決まりが悪そうに自分の次の行動を待つ魈を少しばかり観察をする。何かを言いたげにしながらも何も言わない魈の代わりに、ハネはさわさわと今は動いている。この動きは何だろうか。こうして時々ハネは動く。
    「魈、嫌だったか?」
    「え?」
     鍾離の言葉に驚いて顔を上げる。
    「お前が独りを好むことは分かっている。強いるつもりはない」
    「いえ、いいえ。そうしたことはありませぬ」
     ハネはまた動かなくなり、折り畳まれる。
    「何か解決の一助になるのであれば……」
     そう言って魈は大人しくなった。


     
    「これを」
     鍾離は魈へ椀を手渡した。椀の中には薬を煎じた湯が入っている。魈はそれを両手に受け取った。今は軽装になっている。
    「これは気を鎮める。痛みを和らげ、同時にお前も眠りに落ちるだろう」
     そうして魈に残る気の干渉を受けないと分かる状態時のハネを観察したかった。加えて魈に休息を与えることも出来る。
    「はい」
    「今夜は静かなものだ。朝までゆっくりと休むと良い」
    「あ、りがとうございます」
     魈はたどたどしくそう零した。
     その場から離れ、暫くしてから戻ると部屋の片隅で膝を丸めて眠る夜叉を見つける。
     夜の暗闇の中で魈の背中のハネは仄かではなく明確に光を放ち、折り畳まれているものの、魈の肩を抱くように少し広がっていた。膝を丸める姿勢と相まって、まるで首を窄めて眠る鳥のようだった。ハネの、ぼやけるような、溶け込むようなふわりとした光に包まれて魈は眠る。ハネも当の本人に合わせて休んでいるのだろうか。
     暫く立ったまま、音を立てないようにその姿を観察する。けれど動きはない。魈も深い眠りに落ちている様子だった。静かに近づいて傍らに立つ。起きる様子はない。そっとそこに腰を下ろした。少しばかり物音がしたが、起きる様子もなければ、ハネも動かない。魈と同じように床に座り込んで、間近でまた観察をした。そうして長いこと眺めていたが、やはり動きはない。今日半日の観察の中では、この時間があれば確実に動く瞬間があった。けれど魈が眠っているこの時間、動きはない。それはこのハネが魈の何かに通じて連動していることを意味するのか、まだはっきりとは分からないものの、方向性としてその考えを推す結果となった。ハネは魈の封じられた風の力で、その風の力は当の魈とは完全には切り離されてはいない、のでないか、だとすれば深刻さはかなり緩和される。あとは同様の状況を数多く見る必要がある。また違う状況との比較も。けれど今夜得られるものはもうないと思われた。
     鍾離は窓へと視線を向ける。まだ日の出までは時間がありそうだった。
     また静かに腰を浮かせると、膝を立てながら魈へと近付く。丸めた膝の下に手を差し入れ、そして背中へもう片方の手を回す。起きる様子はない。更に差し入れ力を込めて自身の体へ引き寄せる様にすると、立ち上がりながら抱え上げる。こうした時はハネに実体がなくて良かったと思う。どのように抱えるべきかと頭を悩ませただろう。こうして抱えても起きる様子はない。本人は些細だと言うが、やはり体への負担は大きいのだと分かる。間近で魈の寝顔を見る。少年仙人とはよく言ったもので、その寝顔を見れば実にあどけない。こんな顔を見るのは何千年か振りだ。その平穏を崩さぬように静かに抱いて、寝台へと移動する。
     仰向けに寝かせるのも何処か忍びなく横向きに横たわらせる。靴を履いたままだったが、そのままにした。ハネの一部は寝台へと消えていったが、それ以外は相変わらず少し広がって魈を包む。薄い布を一枚、体に掛けてやって、もう一度魈の顔を見た。よく眠っている。自分が乱してしまった髪が気になって、顔には触れないように気を遣いながら髪だけに触れて直してやる。さらりとした、これまた風を感じさせる髪。
     椅子を一脚、寝台の傍へ持ってくる。灯りを消してそこに腰掛けた。
     そうして魈と、その背中のハネを見る。ハネと布団にくるまれて眠る夜叉を眺めることは、陽が海に沈む時の刻一刻と色を変えていく空を眺めているような、そんな情感に似ていた。魈が目覚めるまでこうして観察していても悪くないだろう。
     けれどすぐに、これは観察ではなく鑑賞だなと気付き、呆れた。呆れながらも自然と頬が緩んだ。
     ただ目覚めた魈が何故知らない布団に横たわっているのかと疑問の目で自分を見てきたら、横たわらせて観察をしていたのだと言うしかない。そんな言い訳を考えていることも何処か愉快だった。そしてやはりこの事態は悪くないと改めて鍾離は感じた。
    「何故? ここに?」
     朝、目覚めた魈は開口一番、掠れた声で言った。
    「ハネをよく観察したかったので、横たわらせた」
     鍾離は考えていた言い訳がそのまま使えたことに満足した。
    「鍾離様はどこでお休みになられたのですか?」
    「朝食にしよう。起きられるか?」
     魈の問いには答えずそう言って立ち上がり、隣の部屋へと向かう。魈は慌てた様子で寝台から降りると鍾離の後を追ってきた。
    「鍾離様」
     先程の質問の答えに対しての呼び掛けであることはすぐに分かる。
    「今朝の体の調子はどうだ?」
    「……体の調子は昨日に比べ、とても良いです。我は随分と深く眠っていたのですね」
     移動させられても気付かないほどに、と言いたげだった。
    「魈」
    「はい」
     ハネが動いた。今日はこれがまず一回目だ。鍾離はそう頭に記憶していった。
    「ゆっくり眠れたのなら良い」
     事の始まり、空とパイモンが懸念していた事柄が頭を過る。当初鍾離は自分の手を煩わせると主張する魈をイメージできなかったが、今はそれがよく分かる。鍾離の言葉に対して、すぐに返しが出てこない様子で魈は喉を隆起させながら押し黙る。
    「は、い」
     また魈は大人しくなった。
     大人しくなった魈と朝食を共にする。
    「今日は何処かへ行くか?」
    「はい。昨日のこともあります、気に掛かる場所がありますので見て回ろうかと」
     魈は幾つかの地名を挙げ、そしてその中の一つを更に細かく説明した。
    「堂主にひと声かけていく。現地で会おう」
     鍾離の言葉に魈は頷く。頷いてから、少し間をおいて控えめに口を開いた。
    「あやつは貴方に無礼を働いていませんか?」
    「お前も知っている通り、彼女は往生堂の堂主として恥じない人格を持っている。けれどそれに嵌るだけではなく、彼女は彼女らしくもあり、俺はそんな彼女に良くしてもらっている」
    「だから心配なのです」
     その言い様に少し顔が綻んだ。
    「では我は先に参ります」
     身支度を済ませた魈が言う。
    「鍾離様、それから――」
     ちらりと鍾離を見る。
    「今朝はありがとうございました」
     そしてすっと姿を消した。そういった力には影響がないようだ。加えてその瞬間もハネは動かなかった。気に連動している訳ではないのだろうか。頭には魈の言い逃げる様な姿だけが記憶される。
     鍾離もその後すぐに部屋を出て、その足で往生堂へと向かう。入口前にいる渡し守に声をかけると堂主である胡桃は不在で、暫く戻らないとのことだった。
    「俺も少しばかり出掛けてくる。日中は街にいない」
    「左様ですか。それではそのようにお伝えしておきます」
     渡し守は抑揚のない声を出す。
    「ああ、それから一つ頼まれてくれないか?」
     鍾離はそう加えて言うと、渡し守はほんの少し首を傾げた。
     そうして言付けとちょっとした依頼をして璃月港を出る。普段の散歩と変わらない形で魈の示した場所まで歩いて行く。程近くまで来ると魈の気配を感じたので、今度はその気配を目指して歩いた。まだ中には入っていない様子で、恐らく自分を待っているのだと分かる。姿を目視できるところまで来ると魈もこちらへ寄って来た。その背中のハネが少し開いていて、さわさわと動く。記憶する。
    「待たせてしまったな」
    「いえ。先に周辺を調べておりました。けれどもう終わりましたので、いつでも」
    「そうか、では行こう」
     深くは追求せず、その言葉を素直に受け取る。
     鍾離と魈はその地から繋がる洞天へと入っていく。洞天の中には高い空があるが空の色をせず、地面こそないがその場所を歩くことができる。明るくも薄暗い、現実ではありえない景色がそこには広がっている。
    「どうだ?」
     一見して異変を感じない鍾離は魈へと問いかける。
    「以前から大きな変化はないようです」
     魈はこうした洞天も折を見て巡回していた。
     璃月に蔓延る怨念はこの数千年をかけて弱まったとはいえ、まだ消えてはいない。主のない洞天は気が乱れやすく、邪を寄せ付けやすい。放っておけば害を為す。昨日の件がこういった洞天に影響を及ぼすことが考えられた。最悪、同じようなことがここでも行われているかもしれない。可能性で言えば、いくらでも考えられた。
    「しかし念の為、最深まで様子を見に行こうと思います。よろしいですか?」
    「ああ、もちろんだ」
     魈が先導し、最深を目指す。
     奥へと進むと、洞天の力に吸い寄せられたのか、引きずり込まれたのか、妖魔に憑かれたヒルチャールが数体いた。それらも掃いながら進んでいく。鍾離は少し後ろを歩きながら、そうして戦う魈の背中のハネを観察した。昨日と変わらず戦闘時も動きはない。魈が防御の形を取る時も変化はない。自衛の意思もないのだろうか。危機的状況になれば動く可能性もあるが、けれどその状況が生まれることは望むところではない。
     文字通り道なき道を進んでいき、何もない道から石の板とも言える足場がある広場へと辿り着く。けれどそれ以上先の道はどこにもないようだった。
    「行き止まりか?」
    「そのようです。以前とは形が変わっています」
     魈は周囲に視線を巡らせた。
    「少し調べます」
     そう言ってその広場の端へと歩いていった。鍾離はまたその逆の端へ足を進める。
     形が変わっただけであれば何処かに歪みがあるはずと、その場所を探す。ゆっくりと違和感を探しながら歩いて行くと、極小の空間の歪みを見つける。試しに少し力を込めるとその歪みが整っていくのを感じ、そしてその向こう側の空間が広がるのが分かる。
    「魈」
     呼ぶと魈は振り返って、すぐに鍾離のもとへ戻ってきた。
    「はい、鍾離様」
     ハネが動いてばさりと開く。飛び立ちそうだなと思った。
    「ここから道を繋ぐことが出来そうだ」
     鍾離がその場所を示しながら、また力を込める。霧が晴れる様にその向こう側の空間が現れ、道なき道も繋がった。
     魈は恐縮したように頭を下げ、そしてまたいつの間にかハネが折り畳まれている。記憶する。
     その後は何事もなく最深へと辿り着き、そこにも大きな異変がないことを確認する。鍾離はそれを確認した魈が短く息を吐くのを斜め後ろから見ていた。肩も少しばかり下がる。耳を隠す様に垂れた髪が揺れた。その髪に隠れて表情は見えない。けれど次の瞬間には魈が向き直って鍾離を見上げるので、その目が良く見える。
    「問題はないようです」
     頷くだけでその言葉に応える。
    「もう一か所、見て回りたいと思っているのですが……」
    「そちらも同行しよう」
     今度は魈が頷いて応える。さわさわとハネが動く。
     


    「鍾離様。その、もし……見辛いとのことでしたら床に横になりますので、仰って下さい」
     魈は何と言ったものかと頭を悩ませるように、歯切れ悪く今夜の寝方について鍾離に訊ねた。
    「そうだな――」
     鍾離は勿体ぶって顎に手を添える。
    「出来ればよく観察していたい。今夜眠る時は寝台の傍で横になってくれないか?」
    「寝台の傍ですか? しかしそれは鍾離様がお休みになられる妨げになりませんか」
     魈がまた目を丸くして顎を上げる。
    「その心配はない。昨日のお前はとても静かなものだった」
    「音の問題ではなく……」
    「傍で眠ってもらえれば、俺もそのまますぐに休める」
    「は、はぁ」
     それは今まで聞いたこともないような、実に曖昧で空気が抜けるような返事で、あまりに不釣り合いなその声色に鍾離の頬は思わず緩んだ。
    「では、その……端の床で、休ませていただきます」
     小さな声で言う。
    「ああ、そうしてくれ。あとそれから」
     鍾離は一度その場を離れた。魈は落ち着かない様子で鍾離の動きを目で追った。
    「今日は布団を用意した。と言ってもこれは掛ける布団で敷くものでないが、くるまるには丁度良い」
     厚手の布を抱えて戻る。街を出る前に渡し守に頼んでいたものだった。それを魈の前に差し出す。魈の視線はその布団と鍾離の顔を二度往復し、そして恐る恐るといった様子でそれを受け取り、両腕で抱えた。この一枚の布の方が魈の頑なさを柔くし、包めるような気がして、わざと掛布団だけにした。
    「あり、がとうございます」
    「お前が眠りたい場所に置いてきてくれ。そのあと夕食にしよう」
    「はい」
     魈が背中を見せて寝台のある部屋へと向かった。ハネが少し動いた様に見えたが、ハネ自体が動いたのか、魈の動きについていっただけなのかは分からない。僅かな時間の後、魈は戻ってきてそのまま夕食をとる。夕食と言っても、魈はあまりものを口にしない。礼儀と思って席に着いているのだと分かる。
    「ではこれを」
     昨日と同じく薬を煎じた湯を魈へと手渡す。それをまた両手で受け取り、ゆっくりと飲み干した。
    「鍾離様、先に休ませていただきます」
    「今夜もゆっくり休むと良い」
     そう言うと深く頭を下げる。それから獣が巣に帰る時のように落ち着かず警戒するように魈は自分で決めた場所へ向かっていった。その光景も何処か見慣れず愉快で、鍾離の頬はまた緩む。
     魈の眠りが深くなる頃合いをみて鍾離も休むために移動する。部屋に入ると部屋の端に大きな布の塊があるのを見つける。そして暗闇の中でその布から生えたようなハネがぼうっと光っていた。己の存在を消すかのように綺麗に布団にくるまって、辛うじて見えるのはつま先だけで、今夜は靴を脱いで、それは傍らに揃えて置いてある。もしハネがなければ、魈が何処を向いて寝ているのか分かりもしない。ハネを見るに、寝台に背を向け、壁を見る様に眠っていたのだろう。その意図は容易に想像できる。
     鍾離は寝台に腰掛けて、また暫くそのハネが生えた大きな布の塊を眺めた。
     やはり今夜も動きはない。
     鍾離は寝台に横向きに寝そべり、肘をついて手のひらに頭をのせる。その格好でまた魈を眺めた。今夜もそうして鑑賞する。ハネは闇夜の中で控えめに美しく光る。魈は身動ぎのひとつもなく眠り続けた。その布の中で、小さく身を丸めているのだろうか。それを想像する。想像をして、今夜は大人しく魈と共に眠ることにする。鍾離はついた肘を曲げると手首を枕にするようにして眠りについた。



    「今日は何処に?」
     そう鍾離が尋ねると魈は地名を一つ挙げた。
    「今日も同行して下さるのですか?」
    「そのつもりだ」
     昨日璃月港に戻ってきたタイミングで渡し守には明日の予定を確認していた。問題がなさそうだったのでまた出掛ける旨は伝えてある。鍾離が答えると、魈は決まりが悪そうしながら続ける。
    「昨日は結局のところ何もありませんでした。今日も同じような結果になるかもしれません」
    「構わない。それに何よりそうした結果であることが好ましい」
     そう言うと魈は安心したように頷く。
    「ありが、とうございます。では、我は先に行っておりますので」
     そして早くも身を翻して部屋を出て行こうとする。
    「いや、魈、待ってくれ」
    「はい」
     魈はたっと駆けてくる。
    「如何しましたか」
     そして駆けてくると共に、ハネも大きく開く。
     ハネが動いたと記憶をしながら、同時にその光景にひっかかりを覚えた。
    「今日はこのまま同行する」
    「し、失礼しました」
     傍へと来た魈は鍾離を見上げ、そして慌てた様子を見せる。開いたハネは少しずつまた小さくなっていった。少し間を経て落ち着きを取り戻すと、更に続けた。
    「承知しました。では……我は、鍾離様の準備が整うまで控えております」
     魈はすっと背筋を伸ばすと頭を下げて、鍾離の傍から離れる。離れ、背中を見せる頃にはハネはまた折り畳まれ、いつもの形に戻っていた。ひっかかりはそこまでがセットだ。鍾離は知らず知らずの内に唇を押さえ、そして腕を組んでいた。一つ、試したいことができ、それをどのように試そうか何がひっかかっているかの解明よりも先に考え始める。
    「準備は完了だ。向かおう」
     実際準備という準備はなく、先程のやり取りの後からあまり時間を置かず部屋を後にする。
    「どのように向かわれますか? 我がお運びしてよろしいでしょうか」
    「天気も良い。歩いて向かわないか? お前の力も、今はあまり使いたくない」
     本来的には力を使い、その際の変化を見るべきではあった。しかし、それよりも先程思いついたことを試してみることを優先する。それに今日は本当に良い天気で、散歩しなければ勿体ないと思わせる空の青さだった。それから昨晩見たハネの生えた大きな布の塊を思い出すと、何故だかあまり力は使わせたくないなと思う。
    「どうだ?」
     首を縦にも横にも振らない魈に鍾離は尋ねる。
    「鍾離様がそのように仰るのなら……」
     そう言う声も、どちらにも寄らないたどたどしさを有していた。そうした時、今度は初日に見たあどけない寝顔を思い出す。
    「たまにこうして歩くのも悪くない」
     魈は何かを言いたげに鍾離は見上げた。
    「お前には退屈だろうが」
    「いえ、そうではなく、その――」
     目が少し泳ぐ。
    「これは散歩ですか?」
     思いがけないその質問に、すぐに言葉が出てこなかった。魈は丸い目をして、初めて口にしたのではないかと思える単語を発する。何故そんなことを尋ねてくるのか理由は分からないが、そうして普段使わないであろう単語を口にする魈はまた何処か愉快だ。何故そのようなことを尋ねるかと問い返すのは野暮だろう。
    「ああ、そうだな。目的地こそあれ、道中は散歩だ」
    「そうですか」
     ハネがさわさわと動く。それは何故動くのかよく分からなかった。
     目的としていた場所へと到着し、昨日と同じように最深を目指す。今日も大きな問題は起きず、事なきを得て璃月港へと戻った。そして問題が起きなかったことに安堵しながらも、肩身が狭そうに落ち着かない様子を魈は見せる。なので鍾離は「何事もなく良かった」と魈へ声をかけた。そう言うと魈の肩の力が少しばかり抜け、なだらかになり、高さが変わる。どのくらいの幅だっただろうか。その下がった幅ほど、自分という存在と行動を共にすることを重く感じているということだろうか。重く感じるそれと、軽やかなハネは何処か反するなと鍾離はまた別のことを考える。
     魈はあまりものを口にしないが、それでも何か旨いものを食べさせてやろうと部屋に戻る前に万民堂へと立ち寄る。香菱の姿はない。肉ではなく野菜料理にし、味の濃いものでは薄いものを頼んだ。その方が口に合うような気がした。持ち帰れるように包んでもらい、それを受け取る。温かいうちに帰ろうと少しばかり歩幅を大きくする。
     部屋に戻り、扉を上げると、すぐ目の前にハネが生えた魈が立っていた。直立不動の立ち姿にリラックスしている様子は全く感じらない。それは初日から変わらない。
    「魈」
     部屋に入り、扉を閉める。魈の傍らに寄って呼びかけた。ハネがばさりと開く。
    「はい、鍾離様」
     そして見上げてくる。
    「少し早いが、夕食にしよう」
    「何かできることはありますか?」
    「ただこれを置くだけだ」
     鍾離は手に持っている料理の包みを掲げると、首を振った。魈はその包みをじっと見つめる。見つめて、見つめたまま動かない。
    「……いや、大事なことを忘れていた。椅子を二脚、整えておいてくれないか?」
    「畏まりました」
     そう言って軽く頭を下げた。そのまま椅子のある場所へと向かおうとするだろうと思い、頭が上がり切る前に「それから」と声を掛ける。
    「ハネが時たま動くのだが、お前にその自覚はあるか?」
    「いえ、我にはやはり何も感じませぬ。どのような時に動くのですか?」
    「脈絡もなく動いているのか、法則性があるのかはまだ分からない。もう少し様子を見てみたいところだな」
     そう言うと魈は頷いた。
    「お前も何か感じたら教えてもらえるか。いいか、魈」
     ハネがまたバサリと動く。
    「はい、承知しました」
     背筋を伸ばして見上げる。その姿勢に応える意味で鍾離もまた頷く。鍾離は自分を見上げる魈を見つめた。見つめながら、広がるハネを視界に入れる。ゆっくりと時間をかけてそれは閉じられていく。
    「では椅子を整えてまいります」
    「ああ、頼む」
     背中を見せる頃にはハネは折り畳まれる。
     おそらく。
     名前を呼ぶと、ハネが動く。
     おそらく。
     それは間違いがない。
     おそらく、と付けるのは、それの意味がまだ分からないからだ。
    「今夜もこれを」
     そしてまた今夜も薬を煎じた湯を魈へと渡す。
    「はい、いただきます」
     そう言うとゆっくりと湯を飲み干し、少しの時間が経った頃、「先に休ませていただきます」と言って寝床へと足音を立てずに向かっていく。時間を置いて様子を見に行くとハネの生えた大きな布の塊がまたそっと部屋の端にあった。今夜は足の甲が布から出ていた。傍らには靴が揃えて置かれている。そしてまた寝台に腰掛けて、それを眺める。今夜もハネに動きはない。それは想定内だ。
    「魈」
     と、寝ている魈に向かって呼びかける。
     それは夜に消えていくだけだった。ハネに動きはない。
     もう一度だけ呼んでみても、やはり動きはない。鍾離は腕を組んで自分の顎に手を添える。魈が起きている時、こうして呼べばおおよその場合、ハネは動く。深い眠りに落ちている今は動かない。道理としてあり得ないが、万が一ハネ自体に意識があるのなら、今こうして名を呼べば動くだろう。つまり、やはりこれは魈と通じていて、かつ同調しているということで間違いがないのではないか。名前を呼ばれることで魈が反応し、それを受けてハネが動く。けれど、本人はその自覚がない。
     ばさりとハネが開くのは威嚇なのか。しかし、そういった印象は受けない。当の本人、魈の様子を思い返してもそうは思えない。最初の印象からすれば、鳥が飛び立つ直前に翼を広げるそれに似ている。
     ハネの生えた大きな布の塊である魈をじっと見る。
     飛び立つイメージが頭にあるこの瞬間はそれがまるで卵のように見える。孵ったら、飛び立つのだろうか。この考えはあまり論理的ではない。けれど、妙に湿り、吸い付いて離れない。
     魈という名前を与えた日の空気の匂いを感じる。気分の良くない匂いの中に紛れる澄んだ風の匂い、混沌としている。あれは卵から孵ったのだろうか。それとも還ったのだろうか。滴る様な思考がぽつりと落ちる。はっと我に返った。闇の中で光るハネを見ていて、少しばかりトリップしたのかもしれない。まさかこれに催眠効果はないだろうなと更に非論理的な発想を持ち出して、冷静さを取り戻す。
     腰を浮かせて立ち上がり、魈の近くまで寄って膝を突く。もう一度だけ呼びかけてみようかと思ったが、もしかしたらこの三回目で魈が起きてしまうかもしれないと思うと出来なくなった。起きるはずがないと思いながら、やはり躊躇われる。代わりにハネに鼻孔を寄せてみる。それは澄んだ風の匂いがする。
     ほっと安堵した時のなだらかになる肩、飛び立とうするようなハネ、呼ぶと慌てたように駆け寄ってくる魈、何か強いているのだろうか。いや、強いていることは最初から分かっていることだなと思い直す。魈は独りを好む。
     そのまま近くで眺める。眺めていると、布が動いた。震える様に動いて、何事かと思うと魈が小さな声で呻いた。魘されている。ハネもそれに合わせて震えていた。魈が悪い夢に囚われていることは知っている。悪い夢を見ないようにすることは出来なかったようだ。
     こうして触れられる距離にいるものに、触れてはいけない道理はないだろうと今決めて、手を伸ばして、頭があるだろう場所に手を置く。横にずらす様にだけ、一度撫でる。その終わりに丁度耳があった。耳の上に手を置いて、そのまま震えが止まるのを待つ。



    「魈」
     ハネがばさりと動く。やはりそのまま飛び立つのではないか。
     飛び立ちたいのだろうか。そんな考えがまた過った。
     名前を呼ぶと、飛び立とうとする。
    「はい、鍾離様」
    「今日は同行できない」
    「承知しました」
     そう言う魈の顔を見ながら、その背後にあるハネをちらりと見る。今またゆっくりと閉じられていく最中だった。
    「今は動いておりますか?」
     鍾離の目が自身の後ろを見ていることに気付いて魈が言った。
    「いや、今は動いていない。動くかと観察している時は動かないものだなと見ていた」
    「確かに、そういったことはままあります」
     着地点を定められず、嘘をついた。
     そのやり取りの後、魈は部屋を出ていき、その暫くの後、鍾離も部屋を出た。
     鍾離は何人かに言付けながら、空を探した。
    「先生、俺を探してるって聞いたけど、何かあったの?」
     数時間後、三杯酔で茶を飲みながら待っているといつかのように背後から声をかけられる。振り返れば空がいて、少しばかり不安げな目をしている。
    「心配事の相談ではない」
     鍾離は向かいの椅子を指し示した。空はほっと顔を緩ませたのち、その椅子へと腰掛ける。
    「お前は魈が好むものを知っているか? 彼が喜ぶような」
     空は思いがけない問いに驚いてぴたりと動きを止める。
    「それなら一つ、間違えないものを知っている」
     けれどすぐに満面の笑みを浮かべた。
    「それは何だ?」
    「杏仁豆腐だよ」
    「彼はそれを好むのか?」
    「きっと喜んで食べてくれるはずだよ。けど、いきなりどうしたの?」
    「彼の機嫌を取りたくてな」
    「先生が魈の機嫌を?」
     そう言って首を傾げる。
    「先生と一緒にいる魈は機嫌が悪いの? 機嫌良くしていると思っていたけど、照れてるのかな。魈って案外かわいいところがあるよね」
    「何故機嫌が良いと?」
     可愛いという表現は耳慣れず、新鮮だった。けれど今は一先ずそれは置いておく。
    「何故って……」
     空は返答に困り、額を掻いた。
    「うーん、本人がいない所で言っていいものか」
    「何か不都合なことでもあるのか?」
    「いや、別に不都合なことはないけど……まぁ、そうだよね。不都合なことはない。けど魈には内緒だよ」
    「承知した」
     鍾離が頷くと、空もまた頷いて応える。
    「前に魈から、鍾離先生は普段何をしているのかって聞かれたからさ。帝君が、じゃないよ、鍾離先生が、だよ。魈は先生のことが気になるんだなって感じたのをよく覚えているよ。それって帝君だからとか関係なく先生は魈にとって好意的な存在ってことでしょう? 今回のことも、実は嬉しいんじゃないかと思っていたんだけどな。それにしてもまさか先生もそんな風に言うなんて……そういうの、先生は分かっているんだと思っていたよ」
    「そういうの、というのは?」
    「だから、魈から特別慕われているっていう自覚」
     空の声は少しばかり強くなった。
    「自覚があるから、今回もこんな強引なことをしたのかと思ってた」
    「確かに強引だった。それは反省すべき点だと今は思っている。しかし、特別慕われているかは分からない。彼はそういったものを俺には見せないからな。先日もそうだが、お前から聞く魈の話は俺にとって新鮮だ。それで、お前は何と答えたんだ? お前の目の付け所は面白い、俺は普段何をしているように見えていた?」
    「先生は普段、鳥の散歩、花見、骨董鑑賞をしているよって答えたよ。合ってた? 魈は、一体どんな深意が……って難しい顔をしてた。なんていうか普通の、困った顔をしててさ」
     空はその時の魈を真似てみせ、そして顔を綻ばせる。
    「彼はお前には随分馴染んでいるようだ」
    「そうかもしれないけど、けどそれよりも先生の話題だからじゃないかな。先生に関する他の話をした時は少し怒られたし、いつもより感情的になるというか」
    「その際はどのような話を?」
    「これは駄目。本当に内緒だよ」
    「残念だ」
     鍾離は肩を竦めてみせる。
    「けど、先生。先生もこうして魈が気になるんだね」
    「俺は彼をずっと気にしている」
    「……あっそ」
     空は一瞬口を尖らせた。
    「けど、気にしていると気になるは違う」
     そう言って小さく首を振った。
    「つまり?」
     鍾離は小首を傾げる。空は腕を組んで暫し俯いて、そして閃いたとばかりに顔を上げる。
    「先生は璃月を気にしてはいるけど、気になってはいない」
    「なるほど」鍾離は口角を上げて笑った。「やはりお前の目の付け所は面白い」と付け加える。
    「それで先生、その後、問題はない? 大丈夫?」
    「今のところ、問題はない。まだ力は戻らないが、事態は深刻ではないだろうと俺は考えている」
    「そっか、なら安心した。また何か聞きたいことがあったら何でも聞いてよ」
     他愛もないやり取りをした後、空は去って行った。その空を見送り、また一杯だけ茶を飲んでから席を立つ。幾つかの用事を済ませて部屋へと戻った。
    「只今戻りました」
     そして夕食の時間となる頃、魈がそう言って律儀に伺いを立てた後、部屋の扉を開け戻って来た。
    「何事もなかったか?」
    「はい、何事もありません」
    「それは良かった。そうだ、魈」
     呼びかけるとまたハネがバサリと動く。
    「何でしょうか」
    「人から杏仁豆腐を貰ったのだが、夕食の際にどうだ?」
    「杏仁豆腐、ですか?」
     魈は眉を寄せた。きゅっと唇に力が入る。鍾離はその表情におやっと思う。
    「好まないか?」
    「いえ」
     この夜叉が分かり易く喜ぶとは思ってはいなかったが、好物なのであればいつもの表情を少しばかり緩めることが出来るのではと期待していた。けれどいつも以上に緊張した表情をしている。
    「そのようなことはありません」
     緊張した顔をする魈の背中でハネがさわさわと動き出した。
    「椅子を整えてまいります」
     そう言って背中を見せる。やはりハネは動いていた。
     緊張、拒絶、そういった機微に反応して動くのだろうか。離れていく背中を見ながら鍾離は腕組みをする。けれど空が嘘を言う道理はない、杏仁豆腐を好むのは間違いがないはずだった。何かまた自分が強いているのだろうかと考えを巡らせたが、該当するものが今は見つからない。
     夕食の支度をして、魈が整えた椅子のひとつに座る。座ったのを見て、魈もその向かいに座った。魈の前にだけ、杏仁豆腐は置いてある。
    「鍾離様は召し上がらないのですか?」
     自分の方にだけ置いてあるそれにすぐに気付いた魈が膝に置いてある手を動かす前に言った。
    「俺は他のものを食べる。それはお前が食べてくれ」
    「そう、ですか」
     魈は卓全体をちらりと見た後にまた目の前の杏仁豆腐をじっと見つめた。そしてすぐに顔を上げる。
    「失礼ながら、これは空からですか?」
    「何故そう思う?」
    「恥を承知で申し上げますが、これが凡そ人に送るものでないと知っております。それがこうして我の前だけに置かれているので、我に宛てられたのではないかと勘繰りました。また我がこれを好んで食べると知っている者は多くはありません」
     まだ今回の件で空が気を揉んでいるのかと気になる様子だった。そして鍾離にとっては魈からその問い掛けは都合が良かった。
    「杏仁豆腐はお前の好物なのか?」
    「いえ、その……」
    「実は空からお前がこれを好むと聞いて俺が用意した。お前が好むということであれば、また用意したいと思う」
     魈の顔は驚きのものへと一瞬で変わった。
    「これは、鍾離様が? 本当ですか?」
    「ああ、俺がお前の為に用意した」
     そう言うと、ハネがばさりと広がった。光が一気に舞う。
    「そ、そうでしたか。それは、大変失礼いたしました」
     あまりに美しくハネを広げるので、言葉も忘れて目を奪われそうになる。それを堪える。
    「確かに、我はこれを好んで食べます」
    「ならば良かった。お前があまり喜ばないので、好まないのかとひやひやした」
     本当に飛び立ちそうだ。
    「申し訳ありません。その、鍾離様の前で、あまり粗相をしてはならないと……」
     魈はさっと俯いて、前髪を垂れさせて顔を隠した。俯いた頭の上で、ハネがさわさわと動く。
    「その、う、嬉しく思います、とても」
     表情は見えない。けれどその髪の向こうで、見たこともない表情をしているのではと想像できる。
    「それは――良かった」
     魈はあまりものを口にしないと思っていたが、その杏仁豆腐は全て食べ切った。
     本当に好物な様子で、喜ばせることができたように思えた。そしてその時、ハネはよく動いた。つまり、ハネが動く時、魈は喜んでいるのだろうか。いたのだろうか。嬉しい時に、ハネは羽ばたくのだろうか。
    「ありがとうございます」
     湯が入った椀を渡すと両手で受け取りながら、そう口にする。そして受け取ってその椀をじっと見つめてから、顔を上げて鍾離を見た。
    「あの、鍾離様」
    「なんだ?」
    「我は……眠っている間、どのような様子ですか? 鍾離様にご迷惑をおかけしておりませんか? それから背中のものに何か変化はあるのでしょうか?」
    「眠っている間、相変わらずお前は静かなものだ。ハネに動きもない」
    「そうですか」
     ほっとしたように息を吐く。
    「魈」
     やはり何かあるのかと、少しばかり険しい視線を向けてくる。
    「おやすみ」
    「はい、先に休ませていただきます」
     険しさはすぐに消えた。
     ハネはまたばさりと開いて、さわさわと動く。そのまま今日は寝床へと向かっていった。
     名を呼ぶと、嬉しいのだろうか。そんなことが嬉しいのだろうか。
     そんなことではないことは良く分かっている。けれど、そんなことではないと言うことではない。
     そんなことではないことに耐えられる言葉でないことも分かっているが、単純にそれは嬉しかった。
     悔やむべきは見たこともない表情をやはり見るべきだったということくらい。



     神の目は人の心に強く反応する。志、夢、願い、とても強い感情、表現はいくつもあるが、要はその者の心。それに応えて、神の目が顕在する。いわば神の目はその所有者の心の在り様を示す。人の形を成す魈もその例に漏れず当てはまり、現状神の目と同質ともいえるハネが、心の在り様を示しているということだろうか。だとすれば、ああして動くことも一応は納得できる。
     杏仁豆腐を食べた夜から二晩が経った。鍾離は寝台に腰掛けて、またハネの生えた大きな布の塊を眺めていた。そうしてハネが動く理屈を考える。気を抜けば、ただ嬉しい、という感情に変えっていきそうになった。
     夜叉一族は一様にして高い戦闘能力を有している。戦渦に置いてもその力にどれ程助けられたか分からない。彼らは高潔で義理堅く、その強い力を振りかざすこともなく、多くを望むこともしない。そんな彼らの姿勢は尊敬に値する。彼らを見ていると研ぎ澄まされた刀身を見ているような気分になった。それは美しい。それは魈を見ていても同じだ。
     また眠っている魈が震えて呻く。静かに傍へと寄って膝を突いた。
     魈を最初に見た時のまるで錆び切ったような刀身が時間をかけて研ぎ澄まされ、美しく光を反射するようになっていくのを見た。そして今や、研がれに研がれたそれは研磨された結晶のように思える。硬く滑らかで、所々鋭く、内に秘めたものを覆ってそれは少し冷たい。
     また頭と思われる位置に手を置いて、横にずらす様に一度撫でる。
     だから、名を呼ぶだけで喜ぶ姿は柔らかくふかりとしている。いつまでもそこを触れたくなった。
    「鍾離様、今日は如何されますか」
     朝、魈の方からそう尋ねてきた。一昨日は同行し、昨日は同行できなかった。
    「同行しよう」
    「では控えております」
     そう言ってすぐにまた背中を見せる。鍾離もまたすぐに声を掛けた。
    「魈」
    「はい」
     ハネを広げながら、魈は鍾離へと振り返る。
    「すぐに行ける」
    「畏まりました」
     一緒に街を出て、場所まで歩いて向かう。鍾離はいつものように先導して歩く魈の後ろをついて歩きながら、合わせてそのハネを眺めていた。
    「また散歩のようなものになってしまうな」
     後ろから声を掛けるとさわさわとハネは動く。前も散歩の話をした時にこうして動いていたと記憶している。空が話していた内容と関係があるのだろうか。
    「鍾離様の時間が無駄にならないのなら」
    「言っただろう、俺の時間は余りある。加えて普段からこうして巡り歩いている。俺のいつもの日常と変わらない」
    「そうでしたか」
     言いながら、魈は立ち止まらず、前を見ながら歩き続ける。けれどハネはまたさわさわと動いた。その姿と声色からは喜びは感じられない。鍾離は名を呼びたい欲につつかれながら、それを宥めて歩く。
     人が立ち入らなくなった鉱山を有する町の一角、一度は採掘の為に掘られたが、中途半端な形で捨てられた穴がある。その穴の前で魈は一度立ち止まった。ここが目的の場所であると一度鍾離へ視線を送る。
     その穴は入口にある補強も弱くなり、所々崩れ、今や自然の重さに耐えきれず今にも塞がりそうな形をしていた。人一人がやっと通れるようなそこを好んで進んでいく人間はいない。そこに魈は躊躇わず入って行き、鍾離もその後に続いた。入口は低く、その瞬間、鍾離は屈むことを余儀なくされた。中はまだ高さが確保されており、屈む必要はなかった。穴の中の道は更に奥へと続いていたが、すぐに行き止まりになる。分かる者にしか分からないが、その行き止まりには空間の歪みがあり、それは洞天への入口だった。この穴がここで終わっているのも当然だった。
    「入ります」
     魈が鍾離へと向き直り、一度伺いを立てる。鍾離は頷いた。そうして洞天の中へと入って行く。
     洞天内は以前を知らない鍾離でも、何かしらの異変が起こったと分かる程、異様な雰囲気が漂っていた。空の色をしない空もここでは更にかけ離れて黒々とし、地面とも言えない地面は雷雲のように不穏な予感を漂わせながら、煙のように形を留めることもなく漂っていた。そして妖魔に憑かれたヒルチャールが多く屯する。
    「あまり良くないようです」
     先に魈が言った。
    「靖妖儺舞を使いますので、少し離れていてください」そう言って腰の儺面へと手を伸ばす。
    「少し待て」
     魈はぴたりと動きを止めた。少しばかり緊張した表情で鍾離を見る。
     鍾離はその魈の前へ立つと、手を魈の頭の上に置く。
    「玉璋の護りを」
     風の力がなければ靖妖儺舞の威力は大きく落ちるが、それでもこの夜叉なら、この場所を浚うことだけであれば問題ないだろう。けれど体への負担は大きくなる。それを慮る。何処までも手を差し入れられる事柄の中で、何処まで手を差し入れるかを考える。
    「……加護を賜り、感謝いたします」
     魈は深く頭を下げた。そうして手から頭が遠く離れていく。けれどハネがさわさわと動くのが良く見える。
    「では、行ってまいります」
    「ああ」
     魈は儺面を被るとその不穏の中へと身を投じていった。
     靖妖儺舞を使う時、風の力が光って散っていくが、今はそれがない。代わりに仄かに光るハネがその体を付いて回る。その光景は実に目を奪うものでもあるが、研ぎ澄まされた刀身が振り下ろされる度、その刀身が光りながらも軋んでいるのだと思うとやはり美しいと浸る気分にはなれなかった。
     魈が浚った道を辿っていく。奥まで行くと儺面を取った魈が大きく肩を揺らしながら佇んでいた。風がなく散らすことが出来なかった怨念がその体の周りをまとわりついて、離れない。けれど辛うじて玉璋がそれを防いでいた。それを見て、自分がほっと安堵し息を吐いていることに鍾離は少し遅れて気が付いた。肩はなだらかになっただろうか。そして声を掛けようとする前に、気付いた魈が振り返ってこちらへと寄って来る。一瞬で息を整えていた。
    「道中、問題ありませんでしたか」
    「お前の働きで散歩とまるで変わらない」
    「身に余るお言葉です」
     魈は夜叉たる顔をしてそう言う。そしてハネは忙しなく羽ばたく。名前を呼ばずともそうして羽ばたくかと、そのハネでうなじを撫でられているような気分になった。
    「ここは本来あるべきものではないな。あとは俺が見よう。お前は先に出ていても大丈夫だ」
    「いえ、ここでお待ちします」
     背筋をまたすっと伸ばして、鍾離の傍らに立つ。鍾離は玉璋がまだ効力を保っていることをちらりと見て確認した。
    「分かった」
     この不穏さが残る洞天の中で、不釣り合いな心地に陥る。うなじがずっと撫でられている、そんな気分のままだった。
    「鍾離様」
     外へ出て、璃月港への道に足を向けると魈が呼び止める様に声をあげた。
    「我は身を清めてから戻ります」と言って、その後「夕食も、不要です」とたどたどしく付け加えた。
     鍾離が頷くと姿を消した。
     行きに眺めていたものが帰りにはなくなって、帰りは辺りの景色を見る。ゆっくりと歩いたつもりだったが、思っていたよりも早く港に着いた。部屋に戻る前に杏仁豆腐を調達しようと思ったが、生憎それは売り切れで、別のものを買って持ち帰る。夕食は食べずとも、きっと杏仁豆腐は食べるだろうと、そして食べながらハネを伸ばすだろうと、そんな姿を頭に描いていたが、描くだけで終わってしまう。いつもの夕食の時間より少し遅い時間になって魈は戻って来た。清い水を浴びた痕跡を乾き切らない髪から見つける。けれどそれも表面的な解決でしかない。今夜も薬を飲ませる。
     その晩も魈は魘された。こうして連日魘されるのは初めて見る。
     鍾離はそっと魈の傍らで膝を突いた。また頭があるだろう場所に手を置いて、一度手をずらす様に撫でる。そして止めた。暫く経っても、震えは止まらず、魈は呻き続ける。直に触れてみようかと布の端の手をかけたが、そこから手を動かすことができない。この大きな布の塊の布を少しでも剥いでしまうことが躊躇われる。
     もし起きてしまってもそれでも構わないという気持ちをもって、また最初の晩のように魈の体を抱えた。大きな布の塊を自分の体へと寄せて、そして立ち上がる。起きない。深い眠りの中で悪い夢に囚われているのだと分かる。静かに寝台に運んで横たわらせ、その傍らに寄り添って眠る。この布の塊が温まればいいなと思う。



     朝方、目を覚ました魈が布から顔を出すと、ぎょっとして目を大きくさせた。
    「しょ、しょうりさま」
     起きる気配を感じてその間際に鍾離は体を離した。それでも寝台の上に横たわり、すぐ隣にいる存在に魈は言葉を失っていた。体を起こして布から這い出てくる。鍾離もまた同じように体を起こす。
    「何故……」
     と、零す様に言うが、すぐに視線を定めて鍾離を見る。
    「我は鍾離様の眠りを妨げる様な真似を」
     魈は自分が魘されている自覚がある。これ以上偽っても無駄であると思われた。
    「そうした状況も観察すべきであると思っている」
     本当は観察などとうにするのを忘れてしまっていたが、今はそう言うほかない。鍾離がそう言うと魈は言葉を詰まらせた。自分が魘されていたのがこの一度ではないと気付いた様子で定まった視線がまた泳ぐ。
    「まだ朝食には早い。まだ眠れるのなら、眠っていて良い」
    「いえ」
     魈は小さく首を振った。
    「なんと申し上げるべきかと、その――」顔を俯かせる。「見苦しい姿をお見せしてしまい……」
     少しの間、魈はそのまま押し黙った。鍾離は何も言わず、魈の次の言葉を待つ。
    「申し訳ありません、言葉を選べません。我は今、これ以上こちらでお世話になるべきではないと感じております」
     それを卵から孵って飛び立つのだと言えば聞こえは良い。ハネは小さく折り畳まれ、布は魈の腰をぐるりと包む。
    「まだ治っていない。体への負担はあるだろう」
    「それは、耐えられます。問題ありません」
     今度は俯きながら首を振った。
    「魈」
     俯いた頭の裏でハネがさわさわと動く。
    「お前にとって、この生活は居心地が良くなかったか?」
    「そうではありません」やっと顔を上げる。「そういったことは、ありません」
     鍾離はひとつ頷く。
    「俺も存外居心地が良い。同じく言葉を選ばなくても良ければ、今回こうした機会を得られて良かったと心底感じているところだ」
     魈の顔は強張り、ぴくりとも動かなくなった。けれどその背中でハネが動く。
    「出来れば、お前の状態が戻るまではここに居てくれると良いのだが」
    「鍾離様にそのように仰っていただけるとは思わず……失礼ながら、何とお返事すべきか分かりません」
     また少しの硬直の後、絞り出すように声を出す。絶えず動き続けるハネの羽ばたきは街で見る小動物の尾を思わせた。
    「お前との時間は楽しい」
    「……我は、楽しませることが出来る者ではありませぬ」
    「そんなことはない。散歩もとても楽しいものだった」
     今度はばさりばさりと動き、光が拡散し舞う。眩しい。
    「そ、そうですか」
     魈は顔を俯かせると、垂れた前髪で顔を隠す。
     その垂れた前髪に触れた。魈がほんの僅かに揺れるが、構わず手を差し入れて、そのまま魈の耳の後ろに流す。見たこともない表情をついに見ることができた。見たこともない表情をした魈の背中ではハネがまた大きく羽ばたく。このままでは本当に、飛んでいってしまいそうだ。魈が顔を伏せたまま、目だけをこちらに投げてくる。
    「ああ、そうだ」
     布越しに触れた耳に直に触れる。触れるとハネがピンと伸びて、開いて光る。それはとても美しい。けれどそれよりも、大きく開かれた魈の目が濡れて光っていく様から目が離せない。それが何よりも美しい。布にくるんでしまって仕舞いたくなる。得体の知れない何かがぶわりと背中をなぞっていった。まるで自分にもハネが生えたのかと思ったが、当然そんな訳はない。岩は飛べたりしないのだ。飛べないので体を寄せる。ハネを広げられないので顔を寄せる。触れてみるといつまでも触れていたくなる。もっと触れてみたくなって唇を寄せた。
     そうして触れてから、鍾離の頭に空の「自覚があるから、今回もこんな強引なことをしたのかと思ってた」という声が過った。確かに、今は、自覚があるのかもしれない。ただ自覚があるからした訳ではないと頭の中の空に説明をした。
     顔を離して魈を見る。魈はその美しい目でまだじっと見ていた。その目尻をすっと撫でる。撫でるとまた刻むように羽ばたいた。そのやり取りを繰り返す。もう一度だけ触れてもいいだろうかと顔を少し傾ける。その時ばかりは魈が少し揺れた。
    「今、思いついたのだが」
     と、揺れる魈について行こうとして、別の考えがぱっと浮かぶ。
    「気を送り込んでの反応が見たい」
    「どういうことでしょうか?」
    「お前の気は今弱まっている。それは封じられているからだと当たり前に思っていたが、その気を戻すということを全く考えていなかった」
     魈はまだ話の論点が分からないという顔をする。
    「俺からお前に気を与える。それでお前の気を高めよう。口を少し開けてもらえるか」
     そこまで言うと話を理解し、ひとつ頷くと微かに口を開いて止まった。俯き加減のその顎に手を添えて少し上げる。そして今度は先程とは違う加減で口を合わせる。
     そのままゆっくり気を送り込んでみる。ハネが光を強めた、ように見えた。
    「ハネに僅かながらに反応があるようにみえるが、お前は何か感じるか?」
    「……最中は、はい。背中に感じるものが、あります」
    「それは良い傾向だ。これから暫く続けてみることにしよう」
     やはり通じており、このハネは魈の体にある気の高まりにも呼応する。であれば、まずこのまま気を高めていき、様子を見てもいいだろう。鍾離の提案に、魈は一度下げた顎をもう一度上げる。
    「は、い」
     また絞り出すような声で言った。ハネは閉じることもなく、開いて止まったままだ。今のこの瞬間は、それが魈の何かしらの機微を表しているのか、気に反応しただけなのかが分からない。少しやきもきとする。
     その日から、気を送るという日課が増えた。
    「魈」
     と呼ぶと、もう室内では駆け寄っては来ず、ゆっくりと歩いてくる。けれどハネはばさりと一度開く。それから本当に小さく羽ばたく。椅子を示すとそこに座るので、その前に立つ。鍾離は腰を折って、魈の顔へ自身の顔を近付けた。
    「口を少し」
     それに応えて魈は小さく口を開く。鍾離もまたその形に合わせて口を開いて、そこに重ねる。
     もっと別のやり方もあっただろうが、と口に触れる前には毎回頭を過るが、触れるとやはりこれが一番理に適っているのだという結論に至らせる。道具を何も必要とせず、加えて加減が利き、加えてその反応をすぐに見ることも出来る。加えて、魈の肩が上がりなだらかにならず、ハネが小さく羽ばたくのが見られる。
    「あ、りがとう、ございます」
     加えて、顔を離すとあの美しい目が見上げてくる。
     やはりこうした事態は悪くない。
    「鍾離様、その、薬はもう、不要です。申し訳ありません」
     ある晩、魈が実に歯切れ悪くそう言った。魈にも保ちたい面子というものがある、無理強いはせずその言葉を受け入れ、薬を与えるのを止めた。
     夜更けに寝台へと向かうと、いつものように部屋の端にハネの生えた大きな布の塊を見つける。靴は脱いで傍らに揃えてある。寝台には腰掛けず、すぐに横になった。そして目を閉じる。眠らなければ悪い夢を見ることもなく、魘されて声を上げることもない。魈がただ丸まってそこに居るのだとすぐに分かった。あの柔らかいものに触れる機会を失ってしまったが、この時間も悪くない。二人で寝たふりをして一緒の時間を過ごす。
     気を送り、魈の体の気が高まる程にハネが動かくなっていく。それは良い傾向だと日々また観察した。当初の目的へと帰っていき、その代わり、ただ魈を観賞することが増える。
    「魈、どうだ? 何か変化は?」
     ついに名前を呼んでもハネはぴくりとも動かなくなった。
     夜叉たる顔をした魈が少しばかり鋭い目をし、背筋を伸ばして鍾離を見上げる。
    「鍾離様のお力添えで、十分な気の巡りを感じております。背中のものは、形こそ仰っているようなものと認知できませんが、そこに封じられているのだと今ははっきりと分かります」
    「そうか」
    「今までは我の力が弱まっていた故、それを解消することが出来ませんでしたが、それも今は可能です」
    「ではもう必要ないだろうか?」
     そう言うと魈は黙り込んだ。「いえ、あと少し」とても小さな声で訴える。夜叉たる色が薄くなったその姿は何処かまたふかりとしている。鍾離は魈へと手のひらを向けた。
    「こちらへ」
     消えそうな訴えを留めておきたくてすぐに呼び寄せる。ふかりとしたまま、魈は口を開き、顎を上げた。それに触れたくなってまた前髪を流して耳に触れる。ハネはもう動かないが、魈の肩はなだらかではなく、その目は相変わらず美しいままだ。
     静かに口を重ねて気を送ると、魈の背中のハネが変化する。そのまま消えていくのかと思ったが、それは実体をもってそこに残った。魈の髪と同じ色をした羽、深い緑から明るい青緑、羽の先は煌めくような黄金の色をしている、魈の本来の羽だ。
    「少し飛び出てしまいました」
     そう真面目な顔で零すのが少し可笑しい。
    「久方ぶりに見る」手を滑らせるように羽を撫でる。「確かにこれは、お前の羽だ」
    「我もこのような姿になるのは、数百年振りです」
    「魈」
     ハネはやはりもう動かない。
    「はい」
    「折角だ、飛ぶ姿を見せてくれないか」
     魈は目を丸くした。
    「見てもつまらぬかと思いますが」
    「この美しい羽が空を舞う姿が見たい」
     鍾離は含んだ笑みを浮かべ、一切の譲歩を見せずに言った。魈は強く口を結ぶ。そして目を閉じ、眉を寄せた。けれどそれも一瞬で、すぐに目を開くと鍾離の目をじっと見る。
    「鍾離様、花はお好きですか?」
    「ああ、好きだ」
    「では、何処か高い場所に咲く花を一輪、摘んでまいります」
    「それは――良いな」
     戦うことしか知らなかった夜叉のその趣に、言葉にし難い、無上のものを感じた。
     頭は趣のない性急さでその花を生ける花瓶の算段をし始めた。見合う一等のものを。
     鍾離は露台へ続く扉を開けて、魈を促す格好を取る。魈が先に露台へと出て、鍾離はその後に続く。
    「行ってまいります」
    「ああ」
     飛び立つ前に振り返ってそう言って、羽を大きく広げる。その場で一度ばさりと羽ばたかせると魈はふわりと浮いた。それに風の力を合わせてぐんぐん上昇していく。そして空の高い所で留まると、その後は旋回し始めた。花を探しているのだろうと分かる。彩度の低い青で占められた空を、煌めく様な緑色と黄金が彩り、光って舞う風が魈の後を追って靡く。素直にそれに目を奪われ、そして素直にそれを美しいと思う。
     その姿が一度視界から消えていったが、またすぐに現れ、そしてこちらへと真っ直ぐに戻って来る。その光景もまた言葉にし難いものを感じさせてくれる。鍾離は露台の手摺の傍へと寄って、魈の帰りを待った。
     魈は露台へと足を着けようとする際、翼を大きく開き、そして着地の衝撃を相殺する為に風を起こす。しかしバランスを崩した。鍾離はその体に手を伸ばして支える。腰を両手に掴んで支えたが、今は重さが殆ど感じられない。
    「す、すみません」
    「止まり木にはなれたか?」
    「このように大きく盤石である止まり木などありません」
    「では仮住まい?」
     おどけて言うと、魈の羽が小さく跳ねる。
    「いつでも、ここに来ると良い」
     魈の頬を撫でる。
    「約束をすれば、それを果たさねばなりません。だから、お約束は出来ません」
     その言い回しに思えず笑みが零れた。
    「では、願っておくことにしよう」
     魈は分かり易く困ったという顔をして、とても分かりにくく頬を緩めた。
     もうハネもなく、その機微がまた奥へと仕舞われてしまったが、それでも以前よりは触れることができる。
    「これを。どうぞ」
     一輪の白い花。
    「美しい花だ」
     それを受け取る。そしてまた魈の頬を撫でる。
    「ああ、そうだ。空たちを探そう。会って、もう問題ないと伝えなければ」
    「はい」
    「それまではその姿のままで」
     魈は僅かに首を傾げる。
    「何故ですか?」
    「お前のその美しい羽を彼らにも見せてあげなければ」
    「……見ても、つまらぬと思います」
     また同じように言って、顔を伏せた。
     なるほど、と鍾離は思った。この彼は可愛いのだな、と空の言葉がまた頭を過る。
     その日から、時たま花が置いてある。美しくも可愛い花。













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