おはようとおやすみを「おはよう、魈」
「!? し、鍾離様。おはよう、ござい……ます」
明け方望舒旅館へ戻ると、露台に鍾離が立っていた。なぜ、ここに。と思ったのだが、鍾離は籠を背負っており、何かのついでにここに来たのだろうとすぐに予想できた。
「タケノコを掘った帰りに挨拶がてら望舒旅館へ寄ったのだが、丁度会えて良かった」
「はい……」
「では、また」
「も、もうお戻りになるのですか!?」
「ああ」
本当に挨拶だけをする為に望舒旅館へ寄られたようで、そそくさと鍾離は階段を降りて、あっという間に帰離原を歩いている姿が見えた。
ぽつんとその場に残された魈は、鍾離の歩いていく姿をしばらく見守っていた。姿が見えなくなった頃、本当に鍾離は挨拶だけをしにここに来たのだということを、やっと飲み込めていた。
「魈、息災であったか?」
「はい、変わりありません」
次の日のことだ。だいぶ夜も更け、そろそろ降魔へ行くべきかと思っていた頃、またもや鍾離が望舒旅館に訪れていた。
「そうか。では」
「え、あ、はい……」
「おやすみ、魈」
「おやすみなさいませ……」
今日は籠を持っておらず、何かのついでではなさそうだった。それに、昨日も会ったばかりなのだ。息災かと尋ねるのは些か不自然な気もした。
鍾離は魈の表情を見ては頷き、また数刻と経たず旅館を去ってしまった。鍾離の真意とは、一体なんなのだろうか。届けられる薬は定期的に飲んでいるし、特段体調が悪い訳ではない。鍾離の心労を掛けるような事柄もないように思う。だいたいのことは鍾離が璃月港にいながらでも把握できるはずだ。では、一体何だと言うのだろう。
疑問には思ったが、既に鍾離の姿は見えなくなっていた。
そんな事柄が数日続いた。朝、又は晩に鍾離が望舒旅館へ来ては、おはよう又はおやすみとだけ挨拶をして帰っていく。ここのところ毎日のように鍾離に会っている。はっきりと言ってこれは異常である。鍾離は何か自分に言いたいことがあるのだろうかと恐怖すら感じる。いつも微笑みながら挨拶をされるのだが、その裏に隠された何かがわからず恐ろしくなる。気になって仕方がないが、あまりにそそくさと鍾離が帰ってしまうので、何も理由を聞くことができていなかった。
いっそはっきりと聞くべきかと思い、今日は魈が璃月港の鍾離の邸宅へと来ていた。真夜中、或いは早朝ならば人目にもつきにくいだろう。一晩ここで待っていても構わない。鍾離が言い難かったであろう何かを聞き出すのだ。緊張してぎゅっとなる心臓を押さえた。
「魈、どうした? 今日はお前の方からおやすみを言いに来てくれたのか?」
ゆっくりと戸が開いて、鍾離が顔を覗かせた。魈がすぐ傍まで来ていたのはとっくにわかっていたようだ。鍾離は明け方に今日は望舒旅館へ行こうとしていたのだろう。睡衣ではなく、今から出掛けんばかりに、いつもの衣服をきちっと着こなしていた。
「いえ……そうではありません」
「ほう。ならば何か火急の用でもあったか?」
「……今日は……鍾離様が我に本当に言いたいことを、聞きに来ました」
「……どういうことだ?」
まぁ、中に入りなさいと案内され、鍾離の邸宅へ入った。茶を用意するからと座るよう促されてしまった。そのように呑気にしている場合ではないのだが、すっかりもてなしを受けている。
「誰かの入れ知恵か?」
「……特に、そうではないのですが……鍾離様が毎日望舒旅館へ来て、我に挨拶をしてすぐにお帰りになるのには、何か理由があると思ったのです」
「なるほど。確かにそうだ」
「気付くのが遅くなり……申し訳ございません。しかし、真意がわからず……我にもし、何か言いにくいことがあるのならば、気にせずお伝えいただければと思います」
「……なるほど」
鍾離は茶を一口飲んで、しばらく口を閉じてしまった。そんなにおはようとおやすみの裏に言いにくい何かが潜んでいたとは、何も気付いておらず大層申し訳ない気持ちになった。
「……俺は、お前の顔を見に行っていた」
「…………っ……?」
顔……?
「だいたいの事はここにいてもわかるが、実際に顔を見なければ詳細はわからない」
「……えっと……」
「誰かにおはようと言いおやすみと言う生活は、なぜだかそれだけで心が満たされる。お前は、ここ数日俺が言葉を掛けることによって、何か変化はなかったか……?」
微笑みながら挨拶をしていた鍾離は、ただ心が満たされていただけだったのか……? つまり、そこに隠された真意はなかったということなのか……?
「……正直に申し上げますと、挨拶の裏に隠された真実が何かと、怯えていました」
「ううむ……それは、失策であった。悪いことをした」
「鍾離様が謝ることでは……」
またしばし沈黙の時間が流れた。自分の発言のせいで、鍾離が気落ちしているようにも見える。ただ挨拶に来ていたということは、思いもしていなかったのだ。
「理由は……我の顔を見に来た……だけなのでしょうか」
「そうだ。好いている者の顔を見たいと思うことに、他の真意など何もない」
「なっ!?」
魈は驚いて腰を引いてしまい、椅子がガタッと音を立てた。
「何か理由があると思った。とお前が言ったので、てっきり気付かれてしまったのかと思ったぞ。言いにくい? 当たり前だ。俺とてお前のことを好きだと言うには勇気がいる。好意を伝えて断られたらと思うと、どうしたら良いかわからないものだ」
「わ、我が断るなど……我は、あなたのことをずっと……お慕いしております」
魈が断るということを鍾離が想像することもあるのかと驚いてしまった。孤雲閣がひっくり返ってもありえないだろう。
「そうか。ならば良かった。今日はおはようを言いに望舒旅館へ行こうと思っていたのだが、このままおやすみを言って、朝もまたおはようと言ってもいいだろうか?」
「それは……つまり……」
「せっかく魈が来てくれたんだ。今日は泊まっていってくれないか」
「……ぁ……えと……はい……我で良ければ……」
「はは。むしろ、お前じゃないと困るな」
鍾離が微笑んでいる。望舒旅館で見ていたのと同じ笑みだ。裏の真意は何もなく、ただ嬉しくて笑っているのだと今更だが気付いた。
鍾離の家には当たり前だが寝台は一つしかなく、寝台の下で座して眠ろうとしたが鍾離に止められてしまい、一緒の布団で眠ることになってしまった。睡衣も鍾離の家にあるのを借りてしまう始末だ。
「おやすみ、魈」
「おやすみなさいませ、鍾離様」
挨拶はしたものの、先程の会話を思い出しながら今の状況を頭の中で整理していると、全く以て眠ることができなかった。つまり先ほど鍾離に好意を伝えられ、自分も好意を伝えてしまったということになる。これはどういうことなのかと思ったが、魈の腹に乗せられている鍾離の腕が、答えということになるのだろう。このまま朝を迎え、おはようと挨拶をするのだ。それだけで心が満たされると鍾離は言っていたが、魈はまだ緊張してそれどころではない。しかし、突然それをこれから他に何の真意もなく、伝える関係になってしまったのだ。まだ理解が追いついていなかった。
「おはよう。魈」
「おはようございます、鍾離様」
結局朝になったが、目を閉じたまま眠ることはできなかった。鍾離が起きると同時に即座に身を起こして挨拶をする。鍾離の家で一晩過ごすのも初めてであったし、挨拶をするのも初めてだ。この後は即刻この場を立ち去って良いものか、どうすれば良いのかがわからない。
「もう出るか?」
魈の心の内を読んだかのように、鍾離が尋ねてきた。
「……そうですね。行きます」
「うん。俺も、いつまでもお前がここにいると、仕事に行く気をなくしてしまいそうだ」
そう笑う鍾離は、大層嬉しそうな顔をしていた。その顔を見ると、魈の胸の中にも何か温かいものが溢れてきそうになる。
「いってらっしゃい、魈」
「はい。鍾離様もお気をつけて」
手早く衣服を着替え、礼をしてその場を去った。今日はおはようのその先の挨拶までしてしまった。楽しそうな鍾離の顔を見る為に行動するのはやぶさかではない。
今度は自分からおやすみを言いに行ってみようかと少し思う。その時に鍾離が笑ってくれるのならば、それだけで良いと思った。