ある男とある鬼の話 ある山奥にある、ある村では昔から森に潜む妖に困らされていた。
その村の者たちは森で採れるもので生計を立てているため、度々森へと入って行くのだが、その森で奇妙で不穏なものに巻き込まれ、精神を侵される者が極たまに出ることがあった。それでも森を必要としていた村の者たちは森に入っていった。注意深くしていれば、まだそれは避けることができていた。
しかしそれがある時代から『森に入った者が帰らない』ことが頻繁に起こるようになった。無残な姿で見つかることまであった。
その出来事は今までの奇妙で不穏なものから、酷く恐ろしいものとして語られていった。ある時代、運よく逃げ帰ってきた者は『鬼を見た』と証言した。
村の者は恐れ慄いた。
けれど生きるためには森に入らねばならなかった。
村の者はみな、この土地を愛していたので離れることをしなかった。また離れたところで人の住める場所はその一帯にはなかった。
生きていくのに最低限のものを採るためだけに森に入り、なんとか生活を保っていたが、それはとても不安定で、村の者たちは困り果てていた。
そしてこの時代、今までにない大変な不毛の時期が続き、村の者を更に悩ませていた。
今年は冬を越せないのではとみな戦々恐々としていた。
その村にある日、ある男が現れる。
そしてその男は森に入りたいと村の長に伺いを立てた。
村の長はその森で起こる奇妙な出来事を男に聞かせ、入るのは止めるべきだと男に諭した。
「なるほど」
男は重々しく頷いてみせる。
「ではこうしよう。その一件、俺にまかせてくれないか」
村の長は目を丸くして驚いた。
何がどうすればそうしようとなるのですか、と思わず口にするほどに驚いた。
そして忽ちこの話は村中に知れ渡り、村の者たちは一様にその男の無謀な行動は止めた。
しかし男は微笑むばかりでそうした言葉は聞かず、そのまま森の中に入って行った。
三日後、男は森へ入って行った時と何ら変わらない様子で戻ってきた。
村の者は男の帰還に安堵した。
「もう今までのようなことは起きないだろう」
そう男は言った。
村の者は半信半疑だったが、その男の声には妙に説得力があり、みな黙って頷いた。
村の者は一先ず男の帰還を喜ぶことにし、また久しぶりの客人ということもあって男をささやかな宴に誘った。
男は最初の内は断ったが、折角だからと村の者が言うと「では、折角だから」と男は宴の輪に入ることにした。
その日の宴は大いに盛り上がった。
そして翌日、男は村から立ち去った。
それからというもの、男が言った通り今までのようなことが起きることはなくなり、村の者はまた森に入って生計を立てることができるようになった。
蓄えをもち、その年の冬も越すことができた。
冬の、森へ入って行けない、持て余すような時間を、村の長と村の者たちはいつか訪れた男についてあれやこれやと話すことで潰した。
結局、あの方は何をしたのだろうか。
何も教えてくださらずに行ってしまわれた。
妖は本当にいたのだろうか。
鬼を見たという者もいる、きっと妖はいる。
ではあの方が払ったということだろうか。
そのような屈強な方には見えなかったが。
確かに、どちらかといえば学者然としていて。
結局、あの方は何をしたのだろうか。
何も教えてくださらずに行ってしまわれた。
あの方がこの村にとって恩人だということは間違いない。
答えのないやり取りの最後に村の長は言った。
みなは一様に頷いた。
そして村は数十年、数百年と平和なまま保たれた。
その平和の中、村の者は少しずつ減っていった。
山を下りたところに大きな町ができたために、若い者はそちらに流れていき、村は年老いた者たちだけになっていった。
そしてその年老いた者たちもいなくなると、村には誰もいなくなった。
そして村はまた数十年、数百年と静かなまま保たれた。
誰もいなくなったその村の、そこにあった家屋も形を失う頃、男はまたその場所を訪れた。
もうそこには村の長もいないため、男は何の伺いも立てずに森へと入っていった。
森の中はとても静かだった。
遠くで小動物が動いたのか一度だけガサリと音がしたが、それっきりまた何も音はしなくなった。男は一度ぐるりと辺りを見渡した。自分が以前に見た時とは見違えるほど清い空気が流れていることに安堵しながらも、胸の内は落ち着かなかった。
男はその森の中を歩き始めた。
もはや人間の立ち入らないその森は緑が生い茂り、以前には微かにあった人が作った道もすっかりなくなって、男は生い茂る草に撫でられながら歩いていく。
◆
遥か昔、この森は悪い神に憑かれていた。
その悪い神は神というにはとても非力ではあったが、ある日強い鬼を使役することに成功した。
それからはその鬼に残虐非道の役を担わせ、悪い神はただただその鬼が運んでくる人間の精神を食らう日々を謳歌していた。
男はその悪い神を滅した。
悪い神は最後、罵詈雑言を男に浴びせながら、怨念を撒き散らして消えていった。それは数百年もこの森に巣食うものであるということが男にはすぐに分かった。
悪い神がいなくなったことで鬼は正気を取り戻し、曇りのない目で男を見つめていた。
「我の首もどうか、刎ねて下さいませ」
そして鬼は首を垂れて、その首を露わにする。
男は鬼のその姿に気高さを感じた。
「お前の名は?」
「名はありません」
鬼は悪い神に名を盗られていた。
「お前に罪の意識があるのであれば、贖罪の役を与えよう」
男の言葉に鬼は僅かに肩を揺らした。
「もし、生き永らえることを罪だと捉えるのであれば、それを罰だと思うことだ。この森に蔓延る怨念が消えるまでの間、お前ひとり生き永らえ、怨念を祓い、清めてほしい」
鬼は垂れた首を持ち上げて、今一度男を見た。
「これは、俺からお前へ与える最初で最後の役だ。受けてもらえるか?」
それは岩のように堅く、重く科されるものだった。
けれど、それが鬼にとってはなによりの慈悲だった。
最初で最後であるというのであれば、それは一生の話だと理解できた。
男の目には断罪の鋭さも、情に満ちた憐れみの丸さもあり、そしてその黄金の色の中に限りなく自分を映され、鬼は男に屈服することを決めた。
「……拝受します」
鬼は先ほどとは違う意図でまた頭を垂れた。
「その間、人間を喰らわずに生きることはできるだろうか」
「我は……人間を喰らいません……」
聞けば、この鬼は人間を喰らわず、漏れ出すその生気だけを吸って生きているのだという。
男はその話には少しばかり驚いた。
「お前は、実に気高い」
鬼もまたその言葉に驚いて男を見た。
「いつか、お前を迎えに来よう」
「そのようなお言葉は不要です」
鬼は言葉とともに首を振って応えた。
男はしばし、鬼を見つめた。すぐにそう言って退ける鬼はやはり男の目には気高く映る。
「お前に俺から与えるものがもうひとつある」
鬼は僅かに訝しんで男を見た。
「魈。これが今日からのお前の名だ。今一度ここに来た時に、お前を呼べなければ困ってしまう」
そう言って男は悪戯に笑ってみせる。
「俺の名は……」
「我が貴方の名を呼ぶことはありません。ですから、我にこれ以上を与えないで下さいませ」
慌てて鬼は男の言葉を遮った。
鬼はその名を知れば、これからの一生が苦しくなると察していた。
男はまたじっと鬼を見つめ、そしてその後にまた口を開く。
「魈。いつか、お前を迎えに来よう」
鬼は一度大きく目を見開いて、そしてその目を一瞬光らせた。しかしすぐに目を閉じ、何も言わず、また頭を垂れた。
◆
男は早足で森の奥へと進んだ。
奥の、そのまた奥へと進み、大きな樹の根に背中を預けて座る鬼の姿を見つけると、その傍へと駆け寄った。
「魈」
男は自分が与えた鬼の名を呼んだ。
「本当に、来て下さったのですか……」
鬼は男の姿を横目で捉えると、弱弱しく言葉を紡いだ。
「すまなかった。遅くなってしまって」
男は傍へと寄り、膝をつくと、鬼の耳元に口を寄せ静かに零す。鬼は微かに首を振った。
「こうして来て頂けただけで、我は嬉しいです、とても、本当に」
鬼は見るからに弱っていた。
遥か昔の言葉を思い出す。この鬼は人間から漏れ出す生気だけを吸って生きている。もはや人間のいなくなったこの一帯ではそれもない。鬼が飢餓の状態であることは明らかだった。
鬼はここ何百年もそうして、そしてそうした中でもこの森でひとり、怨念を払っていた。
「この日が、ついぞ訪れました」
鬼は自分が死んでいく日と、今一度男に会えた日が重なったことに無上の思いを巡らせ、僅かばかり笑った。
「お前を迎えに来た」
「我の還るべき場所は、他にあります」
鬼は息を吐くようにして言葉を漏らした。
「やはり、お前は気高い」
男は力の抜けた鬼の体に手を回すと、そっと抱き寄せた。
「俺はお前を欲している。だから、手に入れる」
男は鬼に口付けて、そして人間の生気よりも強い気を鬼に与えた。忽ち鬼の弱っていた体はその力を取り戻していき、そしてその白い肌にも僅かに赤みが差していった。
「やはりあなたは、あの存在と同じ位の方なのですね」
鬼はじっと男の目を見据えて言った。
「もはやその位はないが」
男は以前訪れた時は神と呼べる存在であったが、今は神ではなかった。
「もう立てるか?」
片方の手で背中を支えながら、鬼を起こす様にもう一方の手で鬼の手を掴んだ。
「我はここを離れても良いのですか?」
「お前の担うべき贖罪はもうとうの昔に終わっている」
「本当ですか」
鬼は目を瞬かせた。
「ひとり、辛かっただろう」
「もう辛さは忘れました」
男は鬼の体に十分に力が巡ったことが分かると、鬼の背中を支えていた手を今度は頬に当て、そして優しく撫でた。鬼は男の言葉に否定する様にも、またその手に頬を擦る様にも、その手の中で僅かに首を振ってみせた。
「一緒に帰ろう、魈」
「本当に、本当に、良いのですか……?」
「ああ。お前が良ければ、だが」
男はいつかの日のように悪戯に笑ってみせる。
鬼もまたいつかの日のように目を一瞬光らせた。
「はい……」
鬼は口を開いたまま、目を泳がせ、そして男を見た。
「鍾離だ」
その意図をすぐに汲み、男は自分の名を鬼に教えた。
「はい、鍾離様」
鬼は片膝をつく男の前で、両膝をついて座り直すと、この頭を深く垂れた。
「どうか、鍾離様と一緒に」
「これからは一緒に居て下さるのですか?」
森を出るその手前で、鬼は今一度、男に問いかけた。
鬼には森を出た瞬間にこれが夢のように消えるのではと思えた。
「少なくとも、お前がここでひとりで居た時間よりは長く、一緒にいるつもりだ」
「それは……とても、長い時間です」
「ああ。とてもとても長い時間、一緒にいよう」
男に手を引かれ、そして鬼は森を出る。
その後ふたりは、幸せに暮らした。
そしてそれはまた別のお話。
・・・・・