端っこのあか 天衡山の上から璃月港を見下ろす。
一番高いところから下り始めた陽に照らされた璃月港は慌ただしさが引き、何処か緩慢さを感じさせた。その緩慢さは言い換えれば穏やかさで、その為に自分はこの場に不適だという考えが纏わりつく。己の芯のざらつきを無理やりに均しながら、街を眺め続ける。
そしてこの場所にも探し人が居ないことをすぐに悟る。ここにも居ないのかと胸の内でぼやきながら、やはり居ないのだと納得している自分もまた同時に感じた。
この数日、帝君を探しているが、その姿が見つからない。
丁度良く街の中に旅人と、その旅人と旅を共にする空飛ぶ小さな生き物の姿を発見する。二人に帝君の居所を訊ねようかという考えが過り、やはり訊ねるべきではないと思い直し、けれど二人であればと更に思い直した。
天衡山から跳ねると二人を目指して更に跳ぶ。
「お前たち、帝君の居所を知らないか?」
歩く二人の進路を妨げるように降り立つ。
「わあ」
そう声を上げながら、大きく後ずさり両手を上げる。
「び、びっくりした」
目も口も大きく開き、二人とも同じような顔をしている。まだ焦点の合わない目でありながらも自分を懸命に見る。
「魈じゃないか」
「もう体は大丈夫なのか?」
「問題ない」
「そうか。なら良かったぞ」
落ち着きを取り戻したかと思えば、二人はくしゃりと顔を綻ばす。
「帝君が何処に居るか、お前たちは知っているか」
改めてそう言うと、今度は違う形で目を大きくした。ころころと変わっていく表情。
「鍾離先生の? 魈なら先生の居所は分かるんじゃないの? 気とか? 探ってさ」
空が軽く手を広げながら、こちらをじっと見る。その目を自分も見つめ返した。しばしそのまま見つめ合う。僅かに口から息を吐く。
「分からない、今は」
平常それを探ることはない。市井において帝君は、群衆に紛れるようにその気配を潜めていた。それが意味することを考えれば、探ることは憚られた。何より、それをする必要を今まで感じたことはない。けれど今はそれを必要としたので、探った。引かれた線を踏み越えようとも今はそれが必要だった。しかしそうして探っても、気配が今はしない。だからこうして直に探しに来たが、見つからない。
空は自分の言葉に今度は眉を寄せた。表情がまた変わる。
「どうせ街中をぶらぶらしているだろ? それか何処かでまたお茶を飲んでいるんじゃないか?」
「けど、先生の姿を最近見たかな?」
パイモンが割って入るように言って、それに対して空が重ねるように問いかける。問われたパイモンは空中で腕を組んだ。
「うーん、確かにあれから見てないけど」
二人は首を傾げた。あれから、という言葉にこの二人は何処かでは会ってはいるのだと察する。
二人で少しやり取りをした後、揃ってこちらに向き直る。
「先生に何かあったかもしれないってこと?」
「いや、そんなことはない。それはない」
そんな不安は抱えていない。
「ただ我が、あの方を探している」
二人の目がまた大きくなる。けれどそれも一瞬だった。
「俺が胡桃に聞いてみようか?」
空が片手をひらりと出した。
胡桃のもとへ行って、話をすれば事は容易に済むだろうとは思うが、話をすれば事が少し大きくなる。この二人に訊ねることは許容だが、それ以上は許容できるものではない。あの娘がどれだけ分別を弁えようとも、やはりそもそもの前提が崩れる。
「それには及ばない」
「いいのか? 鍾離に用があるんなら早い方がいいだろ?」
パイモンが声を大きくする。
「いや――」
気配が全くしないということはない、あり得ない。全くしない、のであれば、それは全くしないようにする意思が存在していることの証明に他ならない。あの方は意図して姿を晦ましているのではないか。
「自力で探す。急ぐ理由もない」
その意図が何なのかは分からないが、その可能性がある限り、やはりこれ以上は自分一人で探す方が良い。二人に訊ねた時点で矛盾はするが、こうして話すことで自分の中で明確になるものがあった。
「お前がそう言うならいいけどな」
そう言いながらも完全には納得していない顔をする。
「まぁ魈が本気を出せばすぐだよ」
「だといいが」
今のこの瞬間、この街中の何処かに紛れて居てもおかしくはない。そんな予感だけはしている。けれど見つけることが出来ない。
帝君の時代から好んで人の生活に触れていた方が、今それを存分に謳歌している。しかし自分は、その方がどう謳歌しているのかは知らない。何をして、日頃過ごしているのかを知らない。だからどう探していいのか分からない。また少し迷ったが、二人に訊ねることにする。
「もうひとつ訊ねたいのだが……帝君は」
「おうおうなんだ?」
パイモンがこちらの言葉が終わるのを待たずにまた大きな声を上げる。
「鍾離がどうかしたか?」
目を輝かせて頬の前で丸めた手を揺らした。自分が思っていなかったその反応に、続けようとした言葉が出てこない。
「パイモン、魈が驚いてるじゃないか」
「オ、オイラが悪いのか」
「それで鍾離先生が? 何が聞きたいの?」
慌てた様子のパイモンを置いて、空が言葉の続きを促す。今度は二人が揃ってこちらに大きな目を向ける。鍾離が、鍾離先生がと言って、自分の次に出てくる言葉を今か今かと待つ姿に、こちらの口はなかなか開かない。
「……鍾離様は、普段、どのようにされているのか」
少し自分が思っているものとは違う声が出た。
気配で探れないのであれば、目視で探すしかない。
毎日、璃月中のあらゆる場所を巡った。
「町を出て散歩をしているかもしれないよ」
と、二人は言った。そうしたことに日々の時間を費やして楽しんでいるのだと言う。もう十分に国を見てきたのではないか、隅々まで誰よりも。自分には帝君の、いや、鍾離様のことが理解できなかった。
漉華の池を一望したのち、帰離原を歩く。帰離原を歩くと、やはりあの方もこうして歩いたのではと予感がする。ある日は瑶光の浜に歩く人影がいないかと丘の上から眺める。そして砂浜を歩く。ここでもやはりあの方はここを歩いたのではないかと思えて、ではどう歩くだろうと存在しない足跡をなぞった。落ちている貝殻を拾おうとした手を仕舞う。これは今は必要ないだろう。
奥蔵山、慶雲頂、琥牢山を翔けて、華光の林の石峰の上に立って三つの山に一様に眺める。ここ一帯には来ていないかもしれない。石峰から降りて水辺に立つ。澄んだ水に浮かぶ蓮の花が石峰の間を吹き抜ける風に揺れる。あの方は花が好きだったと思う。ならこの蓮の花は眺めただろうか。分からない。暫く蓮の花を眺めたのち、風が示すままに南天門へ向けて歩いていく。石峰を縫うような道が終わり、開けた場所に出ると大樹が見える。大樹の下で佇む帝君を、過去に何度か見た。見ているだけで傍に寄ったことはない。今、帝君が立っていた場所の近くに立ってみる。こうした想像の中でも自分は距離を置く。今度は大樹を暫く見上げて、そして離れる。
また別の日は石門の高い場所からモンドの方角を見渡しもする。けれどきっとモンドへは行っていない。そのまま軽策荘へ向かう。竹林の道を丘から眺めたのち、自分の足でその道をゆっくり歩いた。緩やかな石の階段を上り、短い吊り橋を渡り、段々畑が見えてくるところで足を止める。この景色を、あの方は見たか。見たのではないか、とても色鮮やかだから。
その場所場所で足を止める。
都度探している存在が今しがたまでここに居たのではないかと予感がする。またはこの視線の先に、今にも現れるのではないかと期待している。
拾うものはなく、疑うものはなく、顧みることなく、責務だと心を奮う訳でもなく、何処かに居るだろうその存在を探している。今までもずっと探していたものがあった。けれどそれとこれはまた違い、この先はいつもぼんやりと明るい。
そして日に一度は璃月港を天衡山の上から眺めた。一日一日と見る限りでは特に変化も感じられない町並み。夜は鍾離様もこの町に戻って眠っているのだろうか。だから夜はこの町には近付かない。
その日は荻花洲を歩いた。望舒旅館の上からでも見渡せるその場所を自分の足を歩く。碧水川の変わらぬ緩やかな流れに合わせるように実にゆっくりと歩いた。
そして風に揺れる荻花の中に佇むあの方を見つける。
「ここに居られたのですか」
「いよいよ見つかってしまったか」
その言葉にやはりと思った。
やはりこの方はこの数日、意図的に姿を隠していたのだ。その意図を問い質したかったが、躊躇われる。けれどこのまま何も聞かずに進めもせず、暫し沈黙の形を取ることになった。一度その形を取ってしまうと、今度はその形をどう壊そうかと自分は考え出す。
「体は?」
先に声を出したのは帝君だった。
「問題ありません」
「そうか」
ふっと空気が一瞬緩んだのが分かる。そしてまた戻っていく。重くはないが、緩みのない沈黙。次はお前の番だと言われているような気がしてならない。静かに息を吐く。そして吸う。
「何故、姿を隠されていたのですか」
「理由は幾つかあるが、さほど重要な理由はない」
空気の変化は感じられない。肩越しの景色をじっと見つめた。その端で耳飾りが揺れる。それに視線を奪われないように意識している。意識的に視線を外す。肩越しの景色を見続ける。
このまま何も答えをくれないのだろうと諦めることは容易だったが、このまま引き下がる訳にはいかなかった。意識的に視線を外す位なら真正面からこの方を見据えたいと自棄を起こしかけている。肩越しの景色をこの寸時で見飽きている。
「てい――」
言いかけて、すぐに口を噤む。
「鍾離様」
と、呼び掛ける。
またふっと空気が緩んだのが分かる。今度は一瞬ではなく、戻っていかずに、緩んだままだ。揺れる耳飾りを見つめる。
「何も変わらなかった今日を、昨日と同じように享受していただけだ」
こちらに背中を向けたままそう言ったのち、ゆっくり向き直る。自分は鍾離様を真正面から見据えることができた。そしてその目を見て、既視感を覚える。何故だ、何を、何と、いやどこで、と頭の中で記憶をひっくり返した。そうか、軽策荘で見た色鮮やかな段々畑だ。記憶を辿っている隙に自分を見据える鍾離様は片手を上げてみせる。
「そういう格好を取っていた、と言った方が正確かもしれないな。変化を待ち侘びながら、その一方で何も変わらないことに喜ぶ。都合よく主観を変えて」
そこで言葉を切って鍾離様は顎を引いた。
「大概その先にあるのは矛盾だ。あまり、慣れていない事柄だった。これを受け入れるには整理が必要、そして整理には時間が必要となる」
この方の考えていることは分からないと思う。けれどこの方がその身の中に矛盾を抱えていたのなら、それはとても稀有なことだということは分かる。矛盾はこの方の存在の真逆にあるもののひとつだろう。
「だから姿を隠していたと?」
「理由のひとつは」
ではその他の理由は。
「それで、俺に何か用だったか?」
自分が言葉を発しようとする前に更に問いが被せられる。浮かんだ言葉を口にする機会を逸した。自分はすぐに切り替え、姿勢を正しその問いに答える準備をする。
「勝手を言い、守るべき地を離れました。こうして戻った折、貴方に対して言葉もないのは義理を欠きます」
「……殊勝なことだ」
言葉の質に合わず、また一段と空気が緩む。
「何より今回は、貴方の力添えがなければ……」
旅人たちの前では言えた言葉も、この方の前では上手く言葉に出来ない。
「今の自分は、ありません。おそらくは」
何とか形にしたが、それはいつからの話を指すのだと、言ってから眩暈を覚え、喉元が締まった。これ以上をどんな形の言葉にすれば良いのか分からない。その癖、おそらくは、とくだらない意地が張る。至極堪らなくなって目も逸らす。空気は緩いままでそれも容易だ。
鍾離様の影が動く。その姿を視界の隅に入れると右腕を胸の高さまで上げていた。
「お前が求めていたものは見つかったのか」
「……はい」
「この地を離れ、そして戻ったことに足るものだったか?」
「はい」
「であれば、良い。これ以上言葉を重ねる必要はない」
礼は不要であるということだと受け取る。
「しかし」喉元を開いて引っ張り出す。「結局は貴方の手を煩わせました。そのことに対して、詫び言を述べるべきかとは思っています」
逸らしていた視線を戻し、言った。食い下がる様な格好になった。鍾離様の顔が少し柔らかくなった気がしたが、気のせいかもしれない。
「詫びか、なるほど。礼を言われればはぐらかすことは容易いが、詫びをあしらうことは難しい」
鍾離様は腕を組んで片方の手を顎に当てる。
「けれどお前は罰を受けることも、許しを乞いているようにも見えないが」
どうだと言わんばかりに顎に当てていた手を開いてみせる。揺ぎ無く見透かした視線が自分を捉える。居心地が悪い。
「そんなことは」
そんなことは、あるのだと、認めなければならないと思った。この方が、何処か期待を寄せる様な目で自分を見ている。それが自分の芯をざらざら擦る。均していく余裕もない。落ち着かない手を強く握って誤魔化した。
「そんなことは、ありません」
そして今、目の前の方の口角がぐっと上がる。
「お前がそう言うのなら、言葉のまま受け取ろう」
鍾離様は頷いた。
まだ視線の色は変わらない。自分も落ち着かない。
「魈」
「はい」
「詫び入るお前に俺から頼みがひとつ」
「何でしょうか」
自然と自分は身構えた。
「俺はこの国をただ見て回っている。それを好んでいる。きっとお前は今更何を見ているのかと思うだろうが」
「……いえ」
見透かされている。
「鍾離の視点で見るものは今までとは違う。主観を持って見る景色はこうも違うものかと驚くこともある。もう広がることのないと思っていたが、おかしな話だ」
そう話しながら鍾離様の顔が緩む。
「だからお前が好んでいる場所を案内してもらいたい」
「は? なにを」
予想外の言葉に思わず情けない声が出る。何が、だから、なのか分からなかった。
あまりにも情けなかったのだろう。鍾離様ははっと短く、息を吐くように笑った。
「よもや閑人の戯言と片付けられては敵わない。俺は本気だ」
「戯言などとは思っておりません。ただ我は……」
頭を抱える思いで額に指を添えた。自然と顔は俯く。
「そのような考えを持っておりません」
「なら今から考えることだ」
「無理難題かと」
「案ずることはない」
鍾離様が時間をかけ、ゆっくりとこちらへ歩を進める。そして自分の傍で止まる。顎を上げて見上げると鍾離様の顔があり、すぐ目の前には手が差し出された。この距離で見ればやはり間違いなく、鍾離様の表情は柔い。
「時間は与えてやろう、いくらでも」
「……時間が解決できるのであれば良いですが」
それしか言いようがなく、また額を押さえた。
「そうしたお前を見るのは愉快だな」
「からかわれては困ります」
眉間に皺が寄せながら鍾離様を見ると、自分とは真逆の顔をしていて確かに愉快そうだった。やり込められている感が否めず、それに反発したい気持ちも否めない。
「丁度いい。望舒旅館へ行こう。お前の話が聞きたい。問題はあるか?」
鍾離様は望舒旅館へ手を向けた。
「いえ、ありません」
自分はそれに従った。鍾離様は満足そうに頷く。
緩み切った空気。全てに緩慢さを感じる。この空気と、期待を寄せる様な視線とで、自分の芯はささくれて幾重にも分かれていく。あらゆるものに当たる面が増えて、いつもは耐えられるものも過敏になって耐えられず、人の子が寒さで体をぶるりと震わせる様に、自分の芯もぶるりと震える思いがした。
「鍾離様」
歩き出そうとする前に、呼び止めた。
「姿を隠されていたのは、他にどのような理由があったのですか」
そう問うと、じっと鍾離様が自分を見る。深い視線。自分もその目を見つめ返す。値踏みをされているのか、試されているのか、見定めようとした。どちらだ。いや、どちらでもない、ように感じる。深く鮮やかな目の中にはただ自分が映っている。
「風が吹くと心地がよい」
大分遅れて答えがやってくる。
鍾離様が微かに笑う。
「日に二度もお前から問われるとはな」
「申し訳ありません」
「いや」
言葉少なにそれだけを言って、また自分を見る。
「俺も聞きたい。何故、お前は俺をこうして探してくれたのか?」
「……理由などありません」
ここまでの会話で自分はこの方に全てを見抜かれているような気分だった。今更ここで義理立てする為、詫びを入れる為、もしくは、そうもしくは礼を言う為、と言った所で、上滑りし自分がまた足を掬われるのではと思えてならなかった。
「ただ貴方を探していたのです」
鍾離様の顔がまた柔く変化する。
「良い答えが聞けた」
岩神の面影もないその柔さに、自分も心地よさを得る。
やはり掬われたように思えてならなかった。
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