地下牢から見える未来 昨日、悲鳴にも似た叫び声が数分間続いていた。助けてくれ、俺は無実だと自分と同じくらいの歳の人間が泣き叫びながらこの地下牢から何処かに数人の兵士とともに消えていった。
地下牢の澱んで籠る空気はとても人間の環境に悪く、だんだん自分の体力を奪っているのは確実だ。元々、丈夫な身体とは言えない。自分の手のひらを広げてみると指一つ一つ見ても細く、たとえこの地下牢の鍵が手に入るような技術があってもここにいる憲兵たちを捩じ伏せることなど出来るはずもない。
いっそ処刑されるならこのままこの地下牢で死んでしまった方がいいのではとさえ思う。
あの日から何もかも変わってしまった。死んだはずの陛下が目を開けて、嬉しそうに笑う皇子。その手に握られていた魔石が全てを変えてしまった。
思い直すよう説得してみたもの結果なんて分かりきっていた。今の陛下と皇子はもう正気ではないという現実を突きつけるだけだった。
ノールは地下牢の空気に混じる埃を吸い込んだのか少し咳き込んだ。この肺を蝕むのは絶望しかない。こうしてただただ処刑される時間まで待ち続けるのが永遠に続くかのように思えた。
何も変化がないこの空間の遠くで大きな物音がした。この国では小さな揺れが頻繁にあったのでその類いかと一瞬思ったが自分の足元が揺れたような感覚はなかった。
規則正しい足音がする。それが次第にこちらに近づいていて、どうもそれは兵士ではないような気がして緊張が走る。
明かりを持っているのかその光が自分に向けられたとき目を疑うものをみてしまった。
「いい夜だね、ノール」
ひさしぶりに見たリオンは自分が最後に対話した時と変わらない姿で立っていた。
夜?今は夜なのか。あまり時間の感覚がわからなかった。一日に一度だけ粗末ながらも食事が出ていたのが唯一時間が分かるものだった。
「なぜこのような場所に。あなたが来るべき場所ではありません」
驚きを悟られないように静かな口調で話した。
「この国の皇子なのに入っては行けない場所があるなんて・・・まあその話はいいか。先日処刑した人間の遺体を見る機会があって、不審に思ったら居ても立っても居られなくなったからここまで来たんだ」
「不審ですか?」
地下牢の格子からリオンが見える。魔道の類いで動くものなのか炎のようには揺れないのがかえって不気味だった。
「処刑されるまでは君と同じようにここに入れられていた。それなのに処刑以外の鬱血痕や切り傷があるのはおかしいからね」
「・・・自傷したのではないのですか」
「罪人に刃物なんて持たせているなんてあり得る?君だってわかるだろう、僕だってさっき兵士に腹を割らせたんだから全て知っているんだよ」
リオンが飄々そした笑みを浮かべている。戦争が始まる前もこんな風に笑うことがあったが今はただ恐ろしい笑顔だと思った。
「戦争をしているということは心理的ストレスが大きいのです。このようなことが起きるのです。ですから私は・・・」
「罪人とはいえ地下牢に閉じ込めている人間に暴行してもいいなんて罷り通らないよ。それは秩序を乱す行為。だから僕はその場で処断した。父の目を煩わせる前に」
さっきの物音の正体。それは皇子が全てを吐かせた上でその場で兵士を殺した時の・・・。
しかしだとしたらリオンはなぜ地下牢の奥まで来たのだだろう。まるで自分に会いに来たような。
「そんな顔しないでよ、ノール。たとえ君を処刑台に送ったのが僕でも、君や君たちのおかげで魔道研究を続けられたのは感謝しているんだ。そんな人を処刑される日まで傷ついた体にされておくなんて出来ないんだ」
明かりを持っている違う手に握られているのは鍵の束だった。じゃらじゃらと音が鳴っている。
「たくさん鍵があってわからないね。殺してしまう前に聞けばよかった。これはもう一つ一つ試してみるしかないのかな」
そうして一つずつ鍵を差し込んでは鍵が回って施錠を解けるものを見つけようとしている。
「リオン様、そのようなことは不要です。あなたがいていい場所ではありません、どうかお引き取りください」
「何を言ってるの?こう見えても治癒の杖は得意じゃないけど扱えるんだよ。・・・この鍵は違う・・・。」
「・・・あなたが思うようなことはされてません。どうかお引き取りください」
「見えすぎた嘘をついたって無駄だよ。それとも僕に身体を見せるのが怖い?」
また一つ、不一致の鍵の数が減っていく。そしてまた一つ、そして一つ。違う鍵は用済みとなって床に捨てていく。捨てるたびに金属の甲高い音が鳴る。
「・・・お父上が亡くなられて以来だね。あぁこの鍵で最後。運が悪いね、最後の最後まで当たりが引けないなんて」
最後に残った一つの鍵が一致するものらしい。その最後の鍵を鍵穴に差し込むといとも容易く鍵が回り、すぐに施錠が解けてリオンが手を押すと簡単に扉があいた。
「近づかないでください。本当に私は・・・」
リオンが牢屋の中に踏み出した。笑みすら浮かべた顔なのに今はただひたすら怖い。
「僕はノールの身体、好きだよ。日の光を一度も浴びたことがないような白い肌が。傷ついているなら、僕が治してあげるよ」
そうやって自分に向かって差し出す手がとてつもなく恐ろしい。
自分はあの日からずっと悪い夢を見続けているのではないか。
いやたとえ夢でも醒めないならこれは途方もなく救いのない現実には違いない。
今この空間に生きている人間が自分とリオンしかいないのを呪うしかなかった。