【薄桜】 花びら 自動制御で空調は効くけれど、僅かに開けた窓から夜の香りと共に束の間だけ喧騒が漂った。予想通りの発生元だとすれば、そろそろ上がってくるだろう。そう踏めば、違わずスマホが震えた。ただ、画面には傑ではなく、悠仁の名が表記されている。まあ、傑だけならスマホは鳴らないよな。
「おつかれ」
「おつかれっす。すいません、夏油さん、飲ませ過ぎちゃいました」
「いいよ、いいよ。悠仁が飲ませたわけじゃないだろうし。今、開けるね」
喋りながらドアを開けると、東堂に左肩を半分抱き抱えられるようにして連れられた傑がいた。隣には傑の荷物を持った悠仁が申し訳なさそうな表情で、スマホを手に立っている。
「あっ、さとるぅ~~」
ふにゃりと笑うと、組まれた肩を振り払うようにして、危なげな足取りで俺に向かって両腕を伸ばす。慌てて近付くとそのまま覆い被さるように抱き着かれた。たたらを踏むようにして、酒と煙草の匂いを纏った酔っ払いを支える。
「さとるだぁ」
「はいはい。さとるだよ。おかえり」
首筋に顔を埋めるようにして懐かれて、ハーフアップにした艶やかな黒髪に指を絡ませわしゃわしゃと撫でる。甘やかしているのは、百も承知だ。張り付いたままの傑はそのままに、肩越しに手間を掛けた後輩に礼を言う。
「悠仁と東堂、傑が迷惑かけてごめんね。お茶でも飲んでく」
「迷惑なんて。いつも面倒見て貰ってるんで」
一旦言葉を切った悠仁は隣に並ぶ東堂とアイコンタクトを取ると頷いた。
「今日は夏油さんもお疲れだし、帰ります。でも、こんなに酔うのは珍しいっすね」
「五条、悪いことは言わない。この時期だけは夏油と一緒にいた方がいい。俺らは兎も角、先輩たちは多少の無理も押し通せるだけの力があるんだから」
「俺としたら年中傑と一緒にいたいけど、冥さんの仕事の取ってき方、エグいからね」
傑の肩をぽんぽんとあやしながら冗談半分に嘆くと、珍しく東堂が渋い顔をしてみせた。
「ほろ酔いのころは、悟がね、悟はね、って五条さんの話ばかりしながら楽しそうだったんです。それでも途中で寂しくなったみたいで。さとるすきだよ~って俺らに間違えて言ってるから、申し訳なくて」
頭を搔きながら首を傾げた悠仁に、ごめんねと手刀を切っても、抱きかかえた体は剥がさないのだから、俺も大概だとわかってはいるだろう。
「先輩たち、仲良しですよね」
そう言って朗らかに笑ってくれる気のいい悠仁たちを見送ると、傑を部屋に招き入れた。
「さとるぅ~」
にこにことご機嫌でソファに腰掛けて、俺の腰を抱いたまま離さない傑は大型犬のようで、ぴんっと立った耳と大きく揺れる尻尾が見えるようだ。
「傑がこんなに酔ってるの、珍しいな」
もう好きにさせればいいやと、懐かれるままに、ぽやぽやとご機嫌な頭や肩を撫でていく。
「だってさ、今生もその前も、さとると出逢ったのって、桜の時期だよ」
そう。桜に彩られた学校で、どちらの生でも出逢った。墨絵に桜だけ淡く色付けされたような、そんな掛け軸画のような、凛とした美しさと強さを兼ね備えたような雰囲気を纏った男が、にこやかに微笑んだのだ。
「だからさ、桜の時期は嬉しいじゃない。それなのに今日は花見なのに、悟居ないし」
拗ねたような傑がかわいくてあやしながら、無駄だと思いつつ主張はしておく。
「今日はピンの仕事入ってたし、傑が夜の酔っ払いもいる公園に、途中からひとりで参加なんて、危ないから家で待ってろって言ったんだろ」
「そりゃね、私が迎えに行くんじゃなきゃ、行かせられないし」
「傑、過保護過ぎない」
「悟が警戒しなさ過ぎるんだよ」
「女の子じゃないんだから」
「そんなの知ってるよ。私の悟に指先でも触れる奴がいたら、許さない」
ぷんすか、そんな表現が似合いそうな、剣呑ではなく、子どもの独占欲に近いものを感じられて口元が緩んでしまう。
「ふふ、さとる、かあぁいぃ」
「傑もかわいいよ」
「さとる、すき」
マシュマロのように甘くやわらかな声が、耳から溶かすようにとろりと流し込まれる。その度に、とくん、と跳ねる心臓を、傑はしらない。俺がどんなに嬉しいのか。それでもそんな思いを押し殺して、あたり前のような顔で受け止める。
「しってるよ」
「さとる」
潜めた声と共に寄せられた顔に、反射的に目を閉じた。それを見ていたかのように、唇に優しくてあたたかな感触が重なり合う。何も言わずに目を閉じたまま、何度も触れるだけのキスを繰り返す。その度に跳ねる心臓を、何とかして欲しい。
「さとる、すき。さとるは」
「……。 うん」
「うん。うれしい。さとる、すき」
するりと大型犬から猫のようにすり寄って大人しくなると、肩に頭を乗せられ重みが、一気に増した。そして静かな寝息が聞こえてきた。そっと膝枕にすれば黒髪にひとひら、桜の花びらが彩を添えていた。
いい加減、素面の時に告白しろよ。
キスまでして、憶えてないとか、今日こそ言わせない。
俺から告白なんて、するもんか。
起きたら傑から好きって言わせてやるんだ。
だから、寝落ちなんてしてないで、早く起きてよ、傑。
そう思いながら、とくとくと速まる心音を宥めすかして、俺から唇を合せた。