【長月】 照りつける陽射しはまだ暑く秋なんて名ばかりで、じっとりと汗をかけば手が滑る。僅かに気が逸れたと自覚する前に、左肩に受けた打撃を流しきれずに不様に転がった。
「ちっいっ」
「重心は下げて。瞬発力を鍛えた方が堅実だね」
淡々とわかりきった事を告げる様子に、嘲りや侮蔑は入らず、事実だけを伝える。力の差が歴然といる私にもそれだけはわかった。大丈夫かよ、と心配そうな表情で近付いてきたパンダに、ひらりと手を振って大事ないことを合図した。
「そう簡単には」
「そうだろうね。積み重ねの鍛練だし。筋トレも大切だけど、体幹を鍛えた方がいいかな」
強かにうった腰を擦りながら起き上がると、離れて見ていた悟が近づいてきた。木陰から出た途端、きらきらと髪が光を集めて反射して眩しいぐらいだ。見た目も特級なだけある。
「転がっただけで、何ともなさそうだね、真希。傑相手に善処と言いたいけれど、呪霊相手だとそんな甘いコトも言ってられないからねぇ」
へらりと笑った口元と言葉はふざけているとしか思えないけれど、それだけではないことは付き合いの中で学んでいる。そう、見た目だけではなかったな。そんな事を思いながら眺めていたら、くるりとこちらに背を向けた。
「久しぶりに手合わせする、傑」
えっ
思わずハモったのは悠仁で瞳を輝かせている辺り単純で、恵はイヤそうな表情を浮かべている。付き合いも長いらしいし、苦い思い出も多々あるのだろう。
珍しい。
視線を合わせた、夏油先生には同じように歯が立たない棘は、驚きの表情を浮かべている。
「そうだね、たまには本気で動いた方がいいし、お願いできるかい」
これは、みものだ。
照りつける陽射しも、背中を伝う汗の不快感も、一気に飛んだ。
相対するふたりは、別段、常と変わらず談笑したままなのに、見ている私たちはぴりりと緊張と警戒が高まる。体術の訓練だから獲物はなく、当然術式も使用せず体ひとつだ。身長はあっても、体の厚みを考えれば、夏油先生に軍配が上がりそうだが、最強の名を冠する悟は伊達じゃない。程なく先ほどの私たちのように、距離を開けて向かいあった。
微笑を浮かべたまま、睨みあいが続くかと思われたけれど、悟がにやりと三日月形に唇を象ると、それが合図となった。
「やっぱり、先生たち、バケモノじゃん」
「しゃけ、しゃけ」
少しでも盗もうとした技は、目が追えない速さで参考にするには強過ぎた。手を抜いて私たちの相手をしていたのは当たり前で、けれど、それすらも、落ち込む事すらできない闘いを見せられて、ぐうの音も出やしない。
「少しは勉強になったかな」
得意満面な悟は息も乱さず、ハイテンションで私たちを見下ろした。ハーフアップにした髪を乱したぐらいで、同じように疲れを見せない夏油先生の背中に寄り掛かるようにして楽しそうなのがムカつくほどだ。
「せんせー、早過ぎてわからなかったトコあるんですけど」
はーいと意気良いよく手を挙げた悠仁に、後で聞いてあげるよとひらひらと手を振り返す。
「さすが暑いし」
「上着、脱いだ方がよくないですか」
「おっ、悠仁、そーだね」
いや、その前に、そのべったりとくっついているのを離れたら、風も抜けていくだろと突っ込みを入れたが、あっさりと無視された。ああ、そうだろうな。
今度は恵と悠仁、パンダと野薔薇で始めた対戦を見るとはなしに見ていたが、さすがに扱かれた後は暑いし、体に着いた砂埃も気持ちが悪い。先ほどの木陰で談笑し始めた先生たちと少し離れた日陰に身を置いた。
「悟、後で背中拭いてよ。傷に汗が染みて痛い」
「えっ。あぁぁ、ごめん」
「ふふ。いいよ。残してくれた方が嬉しいし」
ふたりの潜めた声はそれでも風に乗って聞こえてきて、どことなくうっすらと甘く、安いオレンジジュースのようだ。
夏油先生の黒いTシャツを覗き込むと、束の間、首筋に顔を埋めた悟は身を離した。
「汗拭きシートぐらい、恵が持ってるでしょ」
そう言って走り出したところに近寄っていった。生徒の鍛錬中に手を止めさせるなよ。
「汗拭きシート」
「あ、真希。サンキュー。ってフローラルな香りとか」
「私がすると思うか。無香料だよ」
だよねーって、背後に響く返事に、何気にそれも失礼な気もすると、突っ込みを入れようとしたところで声が掛かった。
「悟、その言い方は女の子にどうかと思うよ」
「えー、そう」
その辺は夏油先生は常識あるんだよな、と珍しいTシャツ姿のふたりを振り返って、目にしてしまった。
たくし上げた黒いTシャツの下、広い背中に走った数本の赤く長い引っかき傷と、その背中を拭く悟の緩く開いたTシャツの首周りに、散らばる花びらのような鬱血。
こいつら。
「職務室にでも戻ってやれよ」
忠告をしようと思った言葉は、口の中で転がして本人たちには届かない。詳しい事は知らないけれど、ずいぶん昔のこの時期に、大変だったと何となく漏れ聞いてはいるので、見逃す気になった。
深いため息は、多少の涼を呼ぶ風に溶けて消えていった。