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    まほやく世界における言語と魔法と魔法科学(とムル・ハート)について一考

    ##mhyk

    20220211 前賢者いわく、「劣化版ほんやくコンニャクを食べたみたいなもの」。
     とは、ヒースクリフから聞いた話だ。
    「前の賢者様も、俺たちと会話ができるのを不思議がっていました。賢者様の世界には、たくさんの種類の言葉……『言語』があるんですよね。過去の賢者の書は、その色々な言語で書かれているのだから、色々な言語を話す賢者がいたはずなのに、誰も彼も言葉に困らなかったのはおかしい、っておっしゃってました」
    「誰かが、言葉が通じるようになる魔法をかけてあげたわけではないんですか?」
    「いえ、そういう話は聞かないし、魔法の気配もなかったので。俺が気づかなかっただけかもしれませんが……。そもそも、この世界にはひとつの言葉しかないので、ええと、その、『ほんやく』が賢者様には必要だなんて、昔からの賢者の魔法使いでもなければ思いつきもしないんじゃないかな。……よし、完成です」
     ヒースクリフの指先に指揮されていた調理器具たちが去っていった後には、見た目かんぺきな「おじや」が鍋で湯気を立てていた。ぴかぴかの勤勉な働き手の気配がなくなったキッチンは、思いのほか広い。
    「きちんとできているといいんですけど。一緒に味見していただけますか」
    「もちろんです」
     結局ヒースクリフに任せきりになってしまった朝食は、見たことも聞いたこともない食材から作られたはずなのに、舌に馴染んだ紛れもないおじやだった。
    「言葉が通じるのは、賢者の特別な力のひとつなのかもしれませんね。理由はよくわかりませんが、俺は、賢者様とこうして言葉で通じ合えて嬉しいです」
     あまりにきれいな顔と言葉にぽかんとしていると、出過ぎたことを言ってしまったかという風にヒースクリフが顔を曇らせたので、慌てて自分も同じ気持ちだ、と微笑み返す。大輪の薔薇のような容姿の印象に反して、話してみればカスミソウなんかが似合いそうな子だ。



     「劣化版」のほうの意味が身に染みて理解できたのは、魔法使いたちと任務に出るようになってからだ。
     なるほど、文字が読めないというのはたいへん不便だ。
     街中には文字が溢れている。道路脇の看板に標識、市場の値札に商品説明。もちろん、口から音にして発する言葉は通じるので、隣にいる魔法使いたちに聞けば、(意地悪な幾人かを除いて)何が書いてあるのかすぐに教えてくれる。それでも、みんなが自力でできることが、自分は頼んで他人の力を借りなければできない、というのはストレスだった。
     依頼書を読むのも、報告書を書くのも同様だった。これについては、クックロビンが翻訳を請け負っていた。
    「これまで、賢者様や、賢者の魔法使いのみなさんが、魔法管理省とやりとりする機会はほとんどなかったんです。大いなる厄災の影響で異変が多発して、年中対処しなければならないなんていうのは初めてのことで」
    「そうか、今までは一年に一晩だけ戦えばよかったんですもんね」
    「はい、そうなんです。ですから、これは賢者様の仕事と決まっているものではないですし、こういうもののために俺が派遣されたんですから、任せていただいていいんです」
     それに、とクックロビンは申し訳なさそうに付け足す。
    「実は、報告書を求められたとき、俺、反対もせずに承諾してしまったんです。俺が記録して伝えるだけじゃなくて、みなさんの言葉が直接届いたら、賢者様や魔法使いさんたちのこと、もっとよく知ってもらえるんじゃないかなって思って。無意識に人間側の都合を優先してしまったって後悔していたんです。賢者様が文字を読めないと知ってからはなおさら」 
    「そんな……。あの、こう言ってはなんですけど、クックロビンさんが反対してくださっても、その、聞き入れてくれる方たちばかりではない気もしますし」
    「あはは、そうですね。あっ、今のは内緒にしてください、叱られてしまいます」
     とはいえ、読み上げられた依頼書の内容をメモしたり、事前にしたためた報告書を読み上げて書き起こしてもらったりしていると、二度手間だなあ、と思うのは避けられない。会話が問題ないだけに、余計にそう感じるのかもしれなかった。



     そんな事情があったので、リケも文字を読めず、これから勉強するつもりだと知ったときは、彼のこれまでの境遇への憂慮とともに、ひとりではなかったという安堵が沸き上がった。すぐに現役教師のルチルがふたりの指南役を買って出てくれて、カインに「励ましあったり競い合ったりして一緒に走る仲間がいるといいんじゃないか」と言われたリケ当人にも期待のこもった目で振り向かれて、賢者にとっては渡りに船である。
     ところが、上達速度にはそれはもう圧倒的な差があった。
    「うう……自信失くす……」
    「まあ、賢者様、ご自分でもおっしゃったじゃないですか。発音がわからないんですから、難しいのは当然ですよ」
     そう、ここにきて、「劣化版ほんやくコンニャク」が裏目に出ていた。喋った内容が勝手に通訳されるということは、つまり発音を知り得ないということで、文字の学習とは名ばかり、その実態は、未知の記号の羅列の暗記だったのだ。
     お互いの名前を書けるようにしましょう、リケにとっては復習だね、というのがルチル先生の第一回目の授業だった。横並びに座ったリケと賢者の前で、ルチルは黒板に大きく、二行の文字列を書き、先端に色のついた指示棒でその一部を示しながら、「こっちが、リ、ケ。こっちが、ま、さ、き、あ、き、ら」と説明した――ようだった。目に映る文字の数と、ルチルの指示棒が横に滑るスピードと、耳から入ってくる音数とが、全く一致していない。
     さすがと言うべきか、ルチルはこの「ついてこれていない」生徒を目ざとく見つけて、賢者様どうしました、と水を向けた。しどろもどろになりながら自分にだけ起きているらしい事態を説明すると、ルチルは少し宙を見て考えた後、
    「でしたら、次からは、別々の内容を別々の順番で勉強したほうが良いかもしれませんね。みなさんにも相談して、賢者様にあう方法をちょっと考えてみます」
     とあっさり方針変更を宣言した。そして今度は、「何かが引っかかっている」様子の隣の生徒に話しかける。
    「リケも、ちょっと残念だけど、それでいいかな。……リケ?」
     リケは二度目でようやく呼びかけられていることに気づいて、茫洋としていた目はルチルに焦点を結んだ。
    「僕もそれで大丈夫です」
    「……何か別のことが気になってる?」
     促されて、言葉を探すためか、意を決するためか、彼にしてはたっぷり時間をとってから、リケは口を開いた。
    「不思議な力で『ほんやく』というものがされているのなら、僕の言葉は、僕が伝えたいままに賢者様に届いているのかしらと、少し不安に思ってしまったんです。その反対も。僕は、賢者様の言葉を、賢者様が伝えたい通りに受け取れているんでしょうか。どこかで意味が歪んで、欠けたり付け足されたりしていないかと……」
     幼げに目をぱちくりとさせて、ルチルは「リケはすごいね」と感嘆した。
    「その通りだね。リケの疑問の答えを私は知らないけれど……。でも、同じ言葉を使っていても、伝えたい通りが伝わらないことがあるでしょう。だから、逆に、違う言葉を使っていても、伝えたい通りに伝える方法があるんじゃないかなあ」
    「よくわかりません」
    「ふふ、私もよくわかっていないのかも」
     信じていたいだけなのかも。ルチルの呟きは、リケの傾いだ首の角度をさらに大きくした。
    「――さて、今日はとりあえず、予定通り自分の名前と相手の名前の書き方をおぼえましょう。名前は大事だからね」
    「ルチル、ルチルの名前の書き方も教えてください」
    「もちろん」
    「あと、あの、ミチルの名前も、もう一回」
    「もちろん!」
     リケは、国別の訓練に呼ばれるまでに、自分と賢者の名前に加えて、ルチルとミチル、中央の魔法使いたちの名前をノートに書き連ねていった。
     自分の名前の綴りすら怪しい賢者は、リケを失望させないために、必ず次回までにリケの名前だけはおぼえよう、と決意した。



     リケと賢者が文字を勉強している話は瞬く間に魔法舎を駆け抜けていき、臨時講師たちが多数誕生した。意外にも、熱心で勤務時間が長いのは、実年齢と外見が一致している若い魔法使いたちだった。彼らは、近い過去に学校で文字教育を受けた経験があり、生徒にとって呑み込みやすい教え方も、生徒が躓きやすいポイントも、何となく見当がつくらしかった。
     だが、賢者の悩みを力技で解決したのは、年嵩の、先生役と呼ばれる魔法使いたちである。
    「賢者」
     談話室で報告書の下書きを作っていると、珍しくファウストがやって来た。
    「はい、どうしました」
    「これを。書き物をしているならちょうどよかった」
     手渡されたのは、透明軸の万年筆のような見た目のペンだった。充てんされたインクが透けて見える。
    「文字が読み書きできなくて困っているんだろう。それを使えばきみひとりで報告書が書ける。いま時間があるなら、使い方を教えていくが、どうする」
    「ぜひお願いします!」
     一も二もなく飛びつくと、ファウストは一瞬やはり立ち去るべきかという表情を浮かべたが、賢者は見なかったことにした。
    「そのペンで何か文章を書いてみてくれ。きみの世界の言葉で」
     使っていた紙を裏返して、日本語で「私の名前は真木晶です」と書く。
    「書きました」
    「次に、紙に手を触れた状態で、書いた文章を声に出して読んでみてくれ」
     指示された通りに、一文を読み上げる。すると、インクの文字がぺりぺりと紙から離れ、微かな光を放ちながら空中に躍り出て、バラバラに分解されて細切れの線になった後、今度はくっついて長い一本の糸になり、それがまたぶちぶちと細断されて、形を変え別の文字に組み立てられて、元いた紙に染みこんで戻っていった。この間、わずか数秒。文中に、先日ルチルに教わったこちらの世界の『真木晶』が鎮座しているのがわかった。
    「千と千尋の神隠しだ!」
    「は?」
     思わず故郷の大ヒットアニメ映画のタイトルを叫ぶ。
    「今からお前の名前は千だ!」
    「は?」
     ファウストがやはり立ち去るべきだなという表情を浮かべたのを見て、賢者は我に返った。
    「すみません、つい、興奮してしまって……」
    「きみ、そろそろ魔法に慣れたほうがいいんじゃないか……」
    「いえ、今回は特別で……」
     天使が通ったというには気まずい沈黙が流れた。
    「……本題に戻るが……」
    「はい……」
    「何らかの力のおかげで口頭でのやりとりに問題がないのなら、文字に書かれた言葉を声に出された言葉に変換するのが手っ取り早いし正確だろう。読み上げる必要があったのはそういう理由だ。だが、慣れてくれば、黙読や、書いている内容に意識を向けて文章を書くだけでも問題なくなるはずだ。その筆記具は、僕たち魔法使いの誰かが『通訳』をしているようなものだ」
    「すごい、ありがとうございますファウスト」
    「発案者はぼくじゃない」
     ファウストが言うには、ルチルが先日の授業のことをフィガロに相談して、フィガロがそれをシャイロックのバーで飲んでいた各国の先生陣に議題として持ち込んだところ、スノウとホワイトが、魂が砕ける前のムルが過去の賢者に絡んで、ホンヤクだツウヤクだとはしゃいでいた時期があったはずだと思い出したのだという。
    「それで、シャイロックが当時ムルが使っていた魔法をおぼえていたから、僕はそれを教えてもらってペンの形に落とし込んだだけだ」
     関係者の名前を余さず伝えるあたりが、なんとも律儀なファウストらしかった。
    「十分すごいですよ。これなら使いやすいですし、とっても助かります。ありがとうございます」
    「いや。それならよかった。そういう経緯だから、もしペンに何か問題が起きたら僕でなくとも、彼らに頼んで、新しいものを作ってもらうなり直してもらうなりすればいい。インクは、元はただのインクだから、切れたら好きなものを補充して使っていいが、そのあたりの連中に魔力を込めてもらうよう頼んでくれ」
     じゃあ僕はこれで、と扉へ向かったファウストが途中で振り向いた。
    「言い忘れていたが、魔法をかけた人物によって多少書きぶりが変わるから、うっかり適当なやつに頼まないほうがいいかもな」
    「えっ」



     そう言われると試したくなるのが人間の性というもので、最近の賢者の趣味は「魔法のペン集め」である。
     先生たちはもちろん、彼ら以外にも、長生きで経験豊富な魔法使いたちは、先生陣の誰かから仕組みを説明されれば魔法のペンを作ることができた。
     魔法舎の備品を壊した始末書を、ペンを変えて書き比べたものを肴に、フィガロはかわいい生徒たちから隠れてこっそりお酒を飲んでいる。
    「賢者様は面白いことを考えるね」
    「元居た世界ではたくさんの言語があったので、似たような遊びをする人たちがいたんです」
     ある言語を機械翻訳にかけて別の言語に変換し、もう一度もとの言語に戻す。思いもよらない意味不明な文章ができあがって、これがなかなか笑えるのだ。
    「でも、途中で気づいたんですけど、結局こちらの世界の文字は読めないままなので、自分で比べて楽しむことができないなあって」
    「それで人に見せてまわってるの?」
    「そうなんです。反応が面白くて。誰のペンでしょう、ってクイズを出しても盛り上がるんです」
     楽しんでるね、とグラス越しにフィガロは唇の端を上げる。
    「そうだ、教えてほしいことがあるんですけど、いいですか」
    「もちろんいいよ。俺が力になれることならね」
     世界で最も力ある魔法使いのひとりが嘯く。
     この異世界の仕組みについて知りたいとき、賢者の足が向くのはフィガロかファウストであることが多い。今のところ、過不足ない答えが返ってくる確率が一番高いのだ。特に予定がないときに顔を出すのも、もっぱら南か東の授業だ。
     中央の国は、アーサーが魔法舎を留守にしがちなこともあって、授業が不定期で、開催されているときも魔法の実地訓練が多い。先生役のオズは、たいていのことには聞けば嫌な顔もせず答えてくれるのだが、本人の魔力が高すぎるせいか言語化が独特で、こちらの理解の及ばないことがある。
     北の国は授業など行う気もないし、あの面子では行えない。スノウとホワイトは気が向けばわかりやすく説明してくれるが、そうでないときは、誰それちゃんに聞くといいよ、と丸投げして終わる。
     西の国は、先生と生徒たち、というよりは、クロエと専属家庭教師三人、といった体である。シャイロックをはじめとする家庭教師陣は博識ぞろいだが、答えを得た後、話がどこへ向かうか全く予想ができないので、後に予定がある時は博打になる。
     というわけで、南か東、フィガロかファウストである。常識的な時間に常識的な授業。他の国の若い魔法使いたちも参加しているのをよく見かける。
    「この魔法のペンって、魔法道具だって聞きましたけど、魔法科学道具ではないんですか?」
     自分が扱えるのだから、てっきり魔法科学道具かと思っていたら、どうやらそうではないらしいのだ。
    「そうだね、これは魔法道具だ。賢者様は、魔法道具と魔法科学道具って何が違うと思う?」
    「ええっと、魔法使いが使うか、人間が使うかでしょうか」
    「巷説にはそう言われるんだけど、実はちょっと違うんだよね。人間でも使える魔法道具はあるし、魔法使いが魔法科学道具を使うこともある。魔法道具であり、魔法科学道具であるものもある」
    「……ちょっと混乱してきました」
    「はは、そうだよね。順番に行こう」
     ここからは授業だよ、と仕切りなおすようにフィガロはアルコールを一口呷った。
    「まず、魔法道具は二種類に分けることができる。原動力になる魔力が充填されているやつと、されていないやつだ。充填されてるやつは人間でも使えるけど、魔力は使ったら使った分だけ減るし、魔力をひとところに留めておくのは難しいから、時間の経過でも減る」
    「このペンはそれってことですね」
    「正解! 魔力が充填されてないほうは、魔法が――つまり、魔力の使い方の指示が刻まれているだけだから、使い手が魔力を流し込まなきゃいけないんだ。こっちのほうが数としては多い。それに、ふつう魔法使いは人間の手に魔法道具が渡るような真似はしないし、人間には魔力の有無なんてわからないから、魔法道具は魔法使いしか使えない、ってイメージがついたんだろうね」
     あれ、と思い件のペンに目を落とす。胴軸に詰まったインクが透けて見えて、これが魔力の残量を表しているはずなのだ。
    「ああ、それは最初のペンを作ったファウストが、きみのためにわざわざこういう、魔力の残りの量がわかるつくりにしたんだね」 
     賢者の視線を読んで、フィガロが先回りして答えた。
     唐突に、ファウストの堂に入った先生っぷりは、フィガロから受け継いだものなのかもしれないなあ、と腑に落ちる。
     人間とは異なる時の流れを生きる彼らには、外の空気に触れる表層とは別に、目で捉えられない深い流れがあって、時にそれが水に浸した足の先で感じ取れる。そういう時、彼らに近づいた嬉しさと、秘密を覗いてしまった後ろめたさと、未知を知った興奮と、流れの源も行き着く先も知らずに終わるだろう寂しさとが、全部綯交ぜになって溢れだしそうになる。
     嫌な顔をするだろうからファウストには言えないにしても、フィガロには、フィガロ自身が追うのをやめてしまった流れがどこへ辿りついたのか伝えたい気がしたが、そんなことは知る由もない当のフィガロは、「じゃあ、続き」と授業を再開してしまった。
    「さて、魔法科学道具のほうは、名前の通り、魔法科学技術が使われた道具のことだ。ではその魔法科学技術とは? はい、賢者様」
     急に指名されて、慌てて記憶を掘り起こす。シャイロックの冷めたため息が浮かんだ。
    「ええーっと、マナ石を原動力にして魔法を使う技術、でしょうか」
    「うん、その通り。賢者様、この世界にだいぶ詳しくなったね。さっき教えた魔力がこめられていない魔法道具、これに魔法科学技術を使ってマナ石で魔力をこめられるようにすれば、人間でも使える魔法道具の出来上がり。最初に言った魔法道具であり魔法科学道具でもあるがあるっていうのも、こういうわけさ」
    「なるほど……」
    「マナ石って、昔は、何かのエネルギーに変えようと思ったら、魔法使いが食べて魔力にするしかなかったんだよね。人間からしたら使い道のない、屑石だったわけだ。それが今や……、まあ、この前のトビカゲリ事件で見た通りだね」
     フィガロはおもむろに杯を傾けて酒で喉を潤した。それを合図に「先生」は幕内に去り、憂いと諦めを同居させた男が顔を出す。
     彼が魔法使い狩りへの懸念を示していたことを思い出して、途端、はしゃいでいた自分の浅慮が恥ずかしくなる。
    「あの、深く考えずにこのペンでずいぶん遊んじゃいましたけど、魔法を乱用するみたいでよくなかったですよね。ごめんなさい」
    「えっ? あー、いやいや、そういうつもりで言ったんじゃないよ。ごめんごめん」
     でも、と言い募る賢者を宥めるように続ける。
    「俺としては、このペンのおかげかは知らないけど、賢者様が何が何でも文字をおぼえるんだ! って言い出さなくてよかったと思ってるくらいなんだ」
     発言の意図がわからず首を傾げる。
    「俺は、賢者様がこの世界の言葉をそのまま受け取れないのには、意味があるんじゃないかと思ってる。きっと、賢者様がちゃんと元の世界に戻れるように、この世界の理に組み込まれないように、守られてるってことなんじゃない? だから、そこを捻じ曲げて、言葉を習得するのはよくないんじゃないかと思ってさ」
     何に守られてるのかはわからないけどね。
    「ま、文字がそのまま見えるってことは、文字だけじゃ影響はないとは思うけど。それにさ、順調にいけば、一年もしないで元の世界に帰れるはずなんだろう? 文字をおぼえるの、無駄じゃない?」
    「……今のはちょっと傷つきました」
    「えっ? なんで?」

     魔法使いたちと暮らしていると、元の世界なら年単位であるかないかの密度の交流や事件が日単位で発生するので、ふと立ち止まって足元を見ると、実際に彼らの隣で過ごした時間の何倍も、何十倍も、彼らへの思いが降り積もっている。きっと、この思いはこのまま地層のひとつとなって、これから先の未来にもずっと、自分の足下に存在し続けるだろう確かな予感があった。
     しかし、彼らにとってはどうなのだろう。彼らの広大な大地に降り注いだ今この時の砂は、大地の一部となる前にどこかへ吹き飛ばされて、あるいはそうでなくとも、見落とされ忘れられてしまうほどの薄っぺらさに終わってしまったりしないだろうか。そういう、不安と寂しさの混ざりあった気配が、賢者には付き纏っている。


     
     予定のない朝、夢の浅瀬で微睡んでいると、部屋の窓を固く鋭いものが叩く音がした。明らかに人為的な叩き方だったが、窓を破ろうとか悪意を伝えようとかする音色ではない。ベッドから抜け出してまで正体を確かめる気になれずに聞き流していると、窓が開いたわずかな軋みに続いて、鳥の羽ばたきが頭の横へやって来た。ようよう瞼を持ち上げた賢者と目が合うと、小鳥はくわえていたものをシーツの上に落とす。それは筒状に丸められて、刺繍糸でくくられた小さな紙だった。
     小鳥のつやつや光るなめらかな嘴が、糸の先端をくわえ、ゆるく蝶々の形に結ばれた糸をほどく。ぼやけた視界で、筒に戻ろうとする紙の一部がわずかに像を結んだ。「親愛なる」「月下」「お茶会」「今夜」「お部屋へ」。魔法使いの誰かからの招待状かしら、こんなことをするのはきっと西の魔法使いだな、と、視界と同じくぼやけた思考が形を成した数秒後、賢者はベッドから飛び起き、それに驚いた小鳥が飛び立った。

     ――手紙は「日本語で」書かれていた。

     心臓が激しく脈打ち出し、体幹に、脳に、急速に血が送り込まれていくのが身の内ではっきりと感じられた。感情は恐怖に近かった。この世に存在してはならないもの、たとえば幽霊なんかを見てしまったような感覚。
     机の角に移っていた小鳥が空気に溶けだして、またたきの間にラスティカに変身し、優雅に一礼した。
    「おはようございます、賢者様」
    「おはようございます……」
     身についた習慣、あるいはラスティカのマイペースというのは怖ろしいもので、恐慌状態にある人間でも挨拶を返すことができる。
    「なんだか不思議な気分です。いつもはクロエから目覚めを受け取っている僕が、今朝は賢者様に目覚めをお届けしている。賢者様が僕たちからの招待状にひどく驚いていらっしゃるようなので、ますます不思議な気分です」
     ラスティカのテンポに飲み込まれそうな気配を察知して、賢者は勢い込んで尋ねた。
    「これ、この、この招待状は誰が書いたんですか?」

     親愛なる賢者さま
     月下のお茶会へご招待いたします
     今夜 大いなる厄災が天の頂に近づく頃
     お部屋へお迎えに上がります

     よくよく見ると、文章は流暢な一方、文字のいくつかは、慣れない者が「記号を模写した」ような形をしていた。躓くことなく読めるものの、長年日常的に日本語を書いている者の筆跡ではない。
    「ああ、これはムルが書いてくれたんですよ。ムルが招待状を、クロエがテーブルクロスを、シャイロックがお菓子を、僕がテーブルウェアを用意しようということになって、」
    「ムル……ムルが……」
    「ええ。僕たちも中は見ていませんが、何か驚くようなことが?」
     それはもう、まさに寝耳に水、しかも雷鳴のような鉄砲水の音が飛び込んできたようなものだ。
     ――元居た世界へ戻る手がかりが現れたのだから。




    「ムルは今、クロエと、茶葉を調達に西の国へ出かけているんです」
     賢者とラスティカに、水蜜蜂のはちみつをたらした温かなエバーミルクを差し出して、シャイロックは眉尻を下げながら告げた。

     ――大変なことが起きた時はまず、居心地のいい空間で、信頼できる人と、おいしい飲み物をいただいて、心を落ち着けるのがいい。
     ラスティカはそう言って、声に出す前に文章をきっちり組み立てることができなくなった賢者を、魔法舎のバーへ、すなわちシャイロックの元へ連れ出したのだった。
    「つまり、こういうことですね」
     支離滅裂な賢者の話を、辛抱強くとも感じさせない、平素と変わらぬゆったりとした様子で聞き通したシャイロックは、数え切れぬほど諳んじた寝物語のようななめらかさでそれを語り直した。
    「このムルの手による招待状は、賢者様の世界に数多あるという言葉のひとつである、日本語というもので書かれているけれども、賢者様はムルに日本語を教えた記憶はお持ちでない。だから、ムルは、同じく日本語を使っていたという前の賢者様から教えを受けたか、独力で前の賢者様が残された賢者の書を読み解いて日本語を学んだかしたはず」
     前賢者の書に、魔法使いに日本語を体系的に伝授したことを窺わせる記述はなかったから、賢者自身は後者だと考えていたし、そうであってほしいとも思っていた。そのほうが都合が良い。
    「あのムルのことですから、実は賢者の魔法使いになってから歴代の賢者様相手にずっと同じことを繰り返していて、賢者様の世界の他の言葉も操れる、という可能性は確かに低くないでしょう。もし、できないとしても、賢者の書さえあれば自分で自分を教育できるというならば。過去の賢者の書――図書室の壁一面に納められている賢者の書たちも読み解くことができるはず。そうお考えなんですね」
     シャイロックの口を通して自分の仮説を聞いて、賢者はお墨付きを与えられた心持になった。彼の言葉にはそういう力があった。誰かの夢物語も、噂も、嘘も、シャイロックの言葉で語られると、この世界の確かな席を与えられて、輪郭がくっきりとしてくるのだ。
    「はい、その通りです。昔の賢者の書を調べられたら、どこかに元の世界に帰るためのヒントが書かれているのを見つけられるんじゃないかなって。ムルが帰ってきたら本人にも聞くつもりですけど、シャイロックはどう思いますか」
    「そうですね……」
     腰近くで緩く腕を組むように前腕を重ねて、シャイロックは考え込むそぶりを見せる。
    「あっ、もちろん、協力してもらえるかは、ちゃんと別にお願いするつもりです」
    「いえ、そこは心配してはおりません……が……」
     不安を先回りして解消しようと続けた賢者に返す言葉が、途中ではたと途絶えた。
     なんとも不穏な気配のする沈黙があたりを包み込んだ。シャイロックと一緒にいる時には、あまり経験することのない空気だ。シャイロックという人は、自分のいる空間全体をコントールできるし、する人で、沈黙を供するために沈黙し、無音で語る人だ。しかし、今バーに落ちたのは、シャイロックの手が入っていない沈黙だった。
     寄る辺を求めてついラスティカのほうを見てしまったが、彼はこの居心地の悪さに気づいているのかいないのか、変わらず微笑みを浮かべているだけだった。
    「……あの、シャイロック。何か気になることが?」
    「いえ……」
     これまたらしくないことに、歯切れ悪く躊躇って視線を俯かせる。耐えかねて、賢者は沈黙を破った。
    「あの、言いたくないことは言わなくていいですよ」
    「いえ……いや」
     再び水を向けられてとうとう迷いを断ち切ったのか、賢者と目を合わせるまでに、シャイロックは頭のてっぺんから指先までをすっかり自分のもとに取り戻していた。
    「申し訳ありません、賢者様。こんなあからさまに態度に出してしまっては、いくら口で気になさらないでと言ったところで、私の本心は逆の場所にあると語っているようなもの。賢者様の心にしこりを残す卑怯な真似はしたくありませんので、少々長くなりますが、話を聞いてくださいますか」
    「……はい、もちろん」
     でも、シャイロックがやっぱり話したくなくなったら、途中でやめてもいいんですからね。
     そう伝えて重ねて念押ししたかったが、思いとどまった。それはシャイロックのためではなく自分のためにしたいことで、今のシャイロックに対してひどく失礼な行為に思われた。自分の心の安寧のために何かしたい衝動は、膝の上で擦り合わせた指からどこかへ散ってくれるといい。
    「昔、ムルの魂が砕ける前のことなのですが。彼が私の店を訪ねてきて、おしゃべりしていても、会話が成り立たなくなることが時折ありました」
    「彼の思索は、僕たちが思いもよらない道を行くからね」
     シャイロックが話し出すと、これまで穏やかに佇んで聞き役に徹していたラスティカが、すっと会話に入ってきた。これには二人ともが驚いて、思わず笑いが漏れた。ついでに余計な力も抜ける。
    「いえ……そういうことではなかったんです。意見が全く食い違ったとか、ムルの話が突飛すぎて理解が及ばなかったとか、そういうことではありませんでした。言っていることが支離滅裂で、意味の通る文になっていなかったんです」
    「ふむ……。原因は何だったのかな」
    「その時はわかりませんでした。何かがおかしいと、その瞬間は恐ろしく感じたものですが、指摘するとすぐに元に戻りましたし、本人がつゆほども気にしていなかったので、深く追及しなかったんです。頻度も徐々に減っていって、いつのまにか消えていましたし。もしかしたら、ムルには自覚がなかったのかもしれません」
     話の行き先が見えなくなった。もはやシャイロックの語りに身を委ねるほかにできることはない。かつて繋がる先のわからないエレベーターに乗ってしまった時のように、不安の中にひとすじ、薄く刷かれた期待がある。
    「そのあとほどなくして、ムルの魂は砕けて、彼は意味のある言葉は一語だって紡げなくなってしまったので、それどころではなくなって私も忘れていたのですが……今、賢者様のお話を伺って、かつてムルが賢者様の世界の言葉を研究していたとすれば、それが関係あるのかもしれないと」
    「……というと?」
    「思い返せば、ですが、ムルが奇妙な言葉を話した時期――正確には、その少し前――彼は確かに賢者様の世界の言葉に関心を寄せていたんです。私の店で、何度か議論の俎上に載せていました」
     彼の好奇心を刺激しないものを見つけるほうが難しいから、それだけでは、当時は特段に印象に残ることというわけでもなかったのだろう。
    「ムルの、賢者様の世界の言葉への興味が、彼の言葉の乱れに直接に関係していたのだとすれば……あの時、ムルが口にしていたのは、『めちゃくちゃな言葉』ではなく、『賢者様の世界の言葉』だったのではないでしょうか? 私が……いえ、この世界の誰もが、そうと気づけなかっただけで」
     再びバーに沈黙が満ちた。
     そんなことがありえるのだろうか? しかし、現に今、何らかの不思議の力によって、日本語の形で紡がれた賢者の言葉は、この世界の言葉に勝手に変換されているのだ。この世界の人々は、賢者の口から紡がれた日本語の響きを聞くことはできない。
     不穏な気配を伴って、フィガロの声が蘇った。
     ――俺は、賢者様がこの世界の言葉をそのまま受け取れないのには、意味があるんじゃないかと思ってる。
     ――守られてるってことなんじゃない?
    「それって……」
    「そうだとしたら、ムルの『めちゃくちゃな言葉』がだんだん少なくなったのは、ムルが賢者様の言葉を使いこなせるようになったからかな。異界の言葉という楽器に熟達して、観客が心地よく聞くことのできる、なめらかな演奏ができるようになったんだね。素晴らしい」
    「素晴らしいかはひとまずおいておきますけれど」
     他意なくムルの技術の向上を讃えているらしいラスティカに、シャイロックは苦く笑って返す。
    「でも、先ほど私が思い至ったのも、同じことでした。ムルの話す異界の言葉がめちゃくちゃだったから、私にはめちゃくちゃなこの世界の言葉に聞こえた。ムルが上手く異界の言葉を操っていたから、私にはいつも通りのムルに聞こえた」
     そこでシャイロックは一呼吸おいて、賢者と目を合わせた。言葉を用いず、ここが山場ですよ、と伝えられている。
    「そして、ここからは、ここまでよりももっと根拠のない憶測ですけれど……。賢者様の世界の言葉という道具を得たなら、ムルのことですから、確実に過去の賢者の書を研究対象にしたはずです。でも、そこに綴られた賢者と賢者の魔法使いを知ることは、大いなる厄災を知ることでもありますから……。研究を進めるうちに、月の秘密に迫りすぎて――」
    「……魂が砕けた」
     呆然とした声が賢者から零れた。
    「それって……それって、もしそうだとしたら、もう一度賢者の書を読み進めたら、ムルの魂はまた砕けちゃうってことですか……?」
    「それは……わかりません。わかりませんけれど、ありえない話ではないと思いました。魂が砕けるのは滅多にあることではありませんが、二度魂が砕けた者の例は耳にしたことすらありません。そうなってしまったら、元のムルに戻れるかどうか……」
     今朝の、元の世界に帰るための糸口を掴んだという興奮と期待は、もうどこにも残っていなかった。帰りたい。帰りたいが、わずかにも誰かを犠牲にする可能性がある道を選べるはずもない。
     無意識にすがるものを探して、ミルクの入ったカップを両の手のひらにおさめたが、磁器の温度に触れただけだった。
    「賢者様がムルに、賢者の書の解読を持ち掛ければ、きっと彼は飛びつくでしょう。彼の望みが私の望みにそぐわないからといって捻じ曲げるのは、あまりに無粋です。私自身の望みを明らかにせず、ムルの身の安全をだしにして、賢者様の優しさにつけこみ、あなたの望みを諦めさせるのもまた、卑怯な真似です。かといって、賢者様の依頼をきっかけに、ムルの魂が砕ける可能性に思い至りながら黙っているのも、不誠実極まりない」
     お話しするのを迷っていたのは、そういう相剋する考えからでした。
     そう締めくくったシャイロックの手には、いつの間にか魔道具のパイプが現れていた。心なしか普段より勢いのある吐息は、いかにも一仕事終えた後の一服という風情だ。
    「とは言え、この話をしたことで、賢者様に重荷を背負わせてしまったことに変わりはありません。申し訳ありません」
    「いえ、そんなことは……正直、あるかもですけど、知らずにいるよりよっぽどいいです。話してくださってありがとうございます。でも、どうしましょう……。招待状の件もありますし、放っておいてもムルが賢者の書を読んじゃうかもしれないですよね……だったらいっそ、止めたほうが……」
    「賢者様、そのように焦ることはありませんよ」
     賢者に続けて、ラスティカはシャイロックにもゆったりと声をかけた。そうだろう、シャイロック。
    「答えを作り上げるのは素晴らしいことですが、答えが出てくる環境を整えるのもまた、大切なことです」
     ――大変なことが起きた時はまず、居心地のいい空間で、信頼できる人と、おいしい飲み物をいただいて、心を落ち着けるのがいい。
     今朝方も聞いたセリフを繰り返して、もう一杯、温かい飲み物が欲しいな、とオーダーを入れる。
    「かしこまりました。ありがとうございます、ラスティカ。賢者様、私ももう少し時間をかけて考えたいので、今日のところはひとまず、心を休めましょう。そのうちに、ムルとクロエも帰ってきますしね」
     シャイロックの指先が指揮を始めて、彼とは長い付き合いのバー・ツールたちが動き出す。
    「おや、噂をすれば……」
     賢者の耳にも、どこからともなく、クロエがムルを制止する賑やかな声が聞こえた。
     お茶会は、予定よりだいぶ早く始まってしまいそうだった。



     ある賢者に、ムル・ハートが語ったところによると。
    「ねえ賢者様、俺たちは言葉のおかげで、自分の目よりも耳よりも遠くのものを見聞きしたり、自分の頭の中にあるものを取り出したり他人の頭の中を覗いたりできるようになったけど……」
    「世界を知るために言葉を得たのに、いつの間にか、言葉を通してしか世界を知れなくなっちゃった。賢者様も、頭の中で何かを考える時、言葉を使うでしょ? かつて俺たちを自由にしたはずの言葉が、今では俺たちを縛ってる。まるで、この世界の秘密に、誰も辿り着かないようにしてるみたいに」
    「賢者様は、何かに失敗したら次はどうする? 俺はね、別の方法を探すよ。それもだめなら、また別のやつ。そうやってずっと繰り返していくんだ」
    「俺は今『この言葉』で実験してる。もう一度世界と出会い直してるんだ。だから、俺にいっぱい世界を見せてね!」
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    mavi

    DOODLEモクチェズ版ワンドロワンライ【キャラブックネタ】【野花】
    先週書き上げられなかった分(【ティータイム】)を合体させたのでワンドロではなくほぼツードロです
    20220508 晩酌がモクマの領分なら、ティータイムはチェズレイの領分。
     申し合わせたわけではないのだけれど、気がつけばそうなっていた。

     いちばん初めのきっかけはなんだっただろうか。
     たしか、チームBONDとしての、ミカグラ島での最後のミッションを終えて、同道の約束を交わして。その約束に差し込んだいくつかの条件、そのひとつ、「時々は晩酌を共に」が初めて実現した翌日のことだった。
     チェズレイは酒を嗜まないので、自然、酒やつまみはモクマが見繕うことになる。そもそも酒を飲んだ経験がほとんどないと言われれば、いっとう美味いものから紹介したいと思うのが人情というものだ。あれやこれやと集めるうちに、テーブルはちょっとしたホテルのミニバーもかくやという賑やかさになってしまった。部屋に通されたチェズレイはそれを見て、ちょっと驚いたように目を見張り、続けて、おやおや、とでも言いたげな揶揄いの目配せをモクマに寄越した。しかし結局何も言わず、自分はこのようなもてなしを受けて当然の人間だという風な、悠々とした動きでモクマの隣に座った。その晩、モクマの、アーロンには及ばずとも常人に比べればうんとよく見える目は、チェズレイの、度々卓上に向けられる目線も、その度に喜びが溢れるようにきゅっと持ち上がる口角も捉えていたけれど、先ほどの沈黙への礼として、それを指摘することはなかった。
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