はじめの怪異田中一は孤独だった。
人に心を開きづらく、どこまで踏み込んでいいのか分からない。
日々をやり過ごすのに苦労はしないが、深い仲を築くことはできない。
友達と呼べる相手がいるかと問われても名を挙げられない。
たまたま縁ができてもその内うやむやとなり消え去ってしまう。
田中一は孤独だった。
しかしそれはとてもありふれた孤独だった。
そんな孤独を打ち明けたところで誰も顧みる者はいない。
いっそう寂しさが募るだけだ。
ところが、最近風向きが変わった。
「おにーさん」
振り返ると予想したとおり、ツインテールの少女がいた。
「今帰るところですか?」
「……ああ」
「じゃあ一緒に帰りましょ!」
そう言って田中の腕に抱きつく少女。
「一緒に帰るって、おまえの家じゃないだろ」
田中が振り放そうとする素振りを見せても少女は離れようとしない。
「もう私の家みたいなものだもん」
あまり乱暴にすることもできず、青年はため息をつく。
妙な縁で「さくら」と名乗るこの少女に出会い、何故か懐かれるようになった。
端的に言ってなめられているのだろうとは思う。
20代の独身男性の家に入り浸り、気安くスキンシップを取ってきて、まるで危機感がない。
年は18だと言っていたが、見た目も振る舞いも不相応に幼いのだ。
年頃の女性がそんな態度を取っていては勘違いされるぞと注意してみても聞こうとしない。
「こんな態度取るのはおにーさんだけだから大丈夫」
そう言うと返事も聞かずに駆け出し、玄関の前に辿り着いて「はやくはやく」と田中を急かす。
青年は再びため息をつく。
「ただいま~」
家主よりも先に部屋に入っていく少女。
本当は自分がもっと厳しい態度を取らねばならないのだろう、と男は思う。
こんな思わせぶりなことを続けても平気だと学習して、痛い目にあう恐れがあるのは彼女なのだ。
本当に手ひどい目に合う前に自分が脅かしてやめさせたほうがいい。
それができないのは優しさではなく未練だ。
さくらに嫌われてまた一人ぼっちになることを怖れている。
自分が拒絶されることを怖れている。
「おにーさん、唐揚げ温めてもいいですか?」
「駄目って言っても温めるんだろ」
「ありがとう!」
やかんで湯を沸かそうとすると「またカップラーメン?」とさくらが尋ねる。
「毎日カップラーメンじゃ栄養偏っちゃうよ」
「唐揚げしか食べないやつに言われたくない」
「私だって唐揚げ以外も食べますー」
そう言われて思い出すのは、田中の食べているものを横取りしようとする姿ばかりだ。
口に含んで満足そうに悪戯な笑みを浮かべたあの顔。
どういうつもりであんな表情を自分に対して向けてきたのか。
期待するな。
またいつもの失望を味わうだけだ。
誰も俺に対して特別な感情を向けたりしない。
思い出はいつも空虚で俺の側には誰もいなかった。
誰も……。
「おにーさん、お湯沸いたみたいだよ」
さくらが男の顔を覗き込んでいた。
確かに台所でやかんがしゅうしゅうと音を立てていたのだが、彼は動かなかった。
「おにーさん?」
男は目の前の少女へ手をのばし、その手は少女の両頬に触れた。
そして彼女の方へと顔を近づけて―
「だめだよ、はじめちゃん。私たちは友達なんだから」
小さな子をたしなめるような口調だった。
その瞬間、走馬灯のようにこれまでの記憶が蘇る。
「センパイ」と呼んで懐いてくる後輩。
「はじめくん」と呼んで懐いてくる同級生。先輩。
そして「はじめちゃん」と呼んで仲良くしてくれた年上のおねーさん。
人と関係をうまく築けない自分に唯一親しくしてくれた少女。
そのどれもが、目の前にいるさくらだった。
どうして。
どうして今まで忘れていたのか。
どうしてさくらは同じ姿のままなのか。
しゅる、と首に巻きついたものがあった。
振り向く間もなく巻きつけられた縄で強く締め上げられる。
かくん
「おにーさん」と声をかけられ彼は目を覚ます。
いつのまにか居眠りをしていたようだった。
「おにーさん、お湯沸いてるよ」
慌てて彼は台所へと駆け出す。
「火ぐらい止めといてくれたっていいだろ!」
見ていた夢のことなどすっかり消え失せ、それが本当に夢だったのかと疑問を抱くことはついになかった。
田中一に最後に訪れた幸運は美しい桜の見える病室があてがわれたことだと言えるだろう。
あの桜が全て散るころに自分も死ぬのだ、などと言ってみたところで老いさらばえた自分に同情が集まることなどないに違いない。
若い頃の無茶な働き方や不摂生を思えばよく生きたほうだ。
「はじめちゃん」
可愛らしい少女の声が彼の意識を自嘲から引き戻した。
「……さくらおねーさん」
昨日まで「おじーちゃん」と呼びかけてきていた彼女の変化をくみ取り、彼もそれに合わせた呼び方をする。
「思い出した?」
「何もかも。最初に出会った公園。二人だけのかくれんぼ。『一生の友だちになって』と約束したこと。……何度も殺されて記憶を消されたことも」
「だってそうしないと友達のままじゃいられなかったでしょ? 今までの友だち、私が年を取らないと分かったら怖がって逃げてしまったから」
「じゃあまた僕を殺すのかい?」
「ううん。もうその必要はないから」
「……そうか」
さくらの寂しそうな笑顔を見て、一は了解した。
今まで思い出せなかった記憶を今朝全て思い出せたのも、もう忘れさせる必要がないからだろう。
走馬灯のように次々と現れた記憶は昨日までと姿を変えた。
孤独だと思っていた一の側にはいつもさくらがいたのだ。
寂寥の記憶は全て温かな思い出に変わった。
あるべき姿に戻ったというべきか。
「じゃあね、はじめちゃん。楽しかったよ。生まれ変わったらまた友だちになろうね」
その言葉は呪いなのか祝福なのか、考える時間はもう一には残っていなかった。