死なばもろとも 彼女は暗い塔の中で暮らしていた。かつては白かったであろう立派なドレスは丁寧に縫製された後も薄汚れていて、こびり付いた泥や血の染みは到底落としきれなかった。サイズは彼女にぴったりだったが、他人の気配や面影が纏わりついて息も出来ないぐらい窮屈だ。顔を覆う白いベールに隠された瞳から流れ出る涙は一滴も無く、人形の様にぎこちなく瞬きをする。その美しい瞳は彼女の夫以外の顔を見ることはもう無い。同じ様に美しい顔の彼女の夫は狂おしいほどの愛を込めて彼女の瞳を見つめ、永遠に手に入らない恋に焦がれながら彼女を抱いた。あなたが求める全てになれたら良かったのに、と彼女は夫の顔の皮膚が時々捲れているのを見ながら願う。それか、全てに目を瞑れるほどあなたが盲目だったら良かったのに。もしこの瞳が無くなったら何処にもあなたの望む“姫様”は居なくなるのだと、彼女は悲しんだ。
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或る夜、塔の外で蝙蝠の鳴き声が幾つか響いた。誰か魔物が通ったのだろうか。彼女が結婚してからはこの見張りの塔は夫以外立ち入り禁止になっていて、彼女は夫以外の誰とも会うことはなかった。蝙蝠ですら近づくのを躊躇うこの塔に不審な影がちらついている。危険を感じた彼女は久々に忙しなく動き、不注意にも扉を開けて外の宵闇の中をそろそろと歩く。まるで15年振りに魔界にやって来た時の様な彼女の行動を見た影は、思わず笑みを溢しそうになった。
塔の周辺に異常が無いことを確認した彼女は、塔の階段を上がって頂上を目指した。長いベールが視界を遮り長いドレスの裾を踏む。ランタンも持たずに暗闇の中、塔の壁だけを頼りに進んでいた。夫が自分に会う前に見張りをしているのかと彼女は考えた。でも、こんな夜に何を見るというのだろう。月も星も無いこの暗闇で何が迫っているのだろうか、とぼんやりした危機感を持つだけだった。
塔の頂上に着くと、冷たい夜風が吹いた。誰も居ない。蝙蝠も何処かに飛んでいったようだ。安堵した彼女はそのまま戻って階段を降りるかと思えば、周囲を見渡した。暗闇なら何も見ることは無いと高を括って。時計塔の文字盤すら見えなかった。しかし、暗闇で動く影の存在は見えてしまった。確かに、見てしまった。
「よう、ニュート。元気だったか?」
調子抜けするほど白々しい声。何も変わらない態度。思い知りたくない名前。全てが目の前にあり、彼女の存在を揺るがす。
「……どなたですか」
「俺の事を忘れたのか? とんだ物覚えの悪さだな。あんなに世話してやったのに、薄情者め」
「知りません、ニュートなんて人。私はただの……“姫”ですわ」
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ベーケス2世は目の前の“姫様”をじっと観察する。薄汚いドレス、鬱陶しくて重そうなベール、編み込まれた髪も所々だらしなく解けている。
「お前は確かにニュートだよ。俺に顔を見せてくれないか?」
「私には夫がいますの。だから、他の方に見られてはいけないし、他の方を見てもいけませんのよ」
ベールを深く被って首を振る彼女に対して、ベーケス2世は躊躇なくそのベールを剥ぎ取った。髪や顔が露わになり彼女は驚いてどうにか手で顔を隠そうとするも、見開いた美しい瞳はありありと指の間で輝きを放つ。
「ほら、その輝きを放つ瞳も小さな手も艶やかな髪も可愛らしい鼻も柔らかな頬も赤い薔薇のような唇も……全部ニュートだ」
甘く囁く声は誘惑か、それとも慰めか。幼子に優しく諭す様なベーケス2世の態度に、既に彼女の脆い人格は壊れかけて中から無垢の本質が顔を覗かせる。彼女は必死に抵抗して編んだ髪を振り解く勢いで頭を掻きむしった。
「嫌! 私は“姫様”なの! 夫が愛してくれる“姫様”でないといけないのよ! 白いドレスを着て、美しい瞳で夫だけを見つめて、愛するしかないの! あの人の名前を呼ぶ事が出来ないから、せめてそうするしか……」
愛を表明出来ないのだと呟いた時は、ニュートの意志が戻っていた。彼女という理想の人格は無くなった。そこには、何もかも捨てて“姫”という偽りの人格を演じていたニュートが居た。目からは涙が溢れ出し赤子のようにみっともなく泣いているニュートだ。
「……愛がなんだ。そんなもの、表明なんかしなくていい」
ベーケス2世は愛という言葉を忌々しく吐き捨てる。ニュートの前ではダイジにしたかった愛も、今では何の価値も無い。何が愛だ。どんなに尽くして信じたって結局報われないなんて、赦されていいはずがない。そうだ、赦しておけない。裏切りは愛よりも重くて確かなものだ。それは確実に全てを狂わせる。
「なあ、ニュート。お前は選択を失敗した。失敗作だ。でも安心しろ、俺はお前を世界で一番愛している。もうお前が選択する必要は無い。俺が全てを終わらせてやろう……」
呆然としたニュートは、首筋から熱い何かが流れるのをどこか他人事の様に感じていた。首が、頭が熱い。熱い液体が指の先や腿の内側まで伝う。鼻につく臭いからようやく血だとわかった時には、既に大量の血が足下に血溜まりを作っていた。ベーケス2世の長い耳が頬に当たって、怖さよりも安堵を感じるのは何故だろう。昔こうして抱っこされていたのかもしれない、と思いながらニュートの意識は段々と薄くなっていく。彼女でもニュートでもない何かになっていく……
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スケルナイトが異変に気づいた時にはそれからしばらく経っていた。彼女の代わりに担う王政も多く、それでも以前より警戒を怠らない彼が出し抜かれたのは明らかに作意によるものだった。魔物の不自然な動員、多数の囮を設置、そして何より人間界への出張による留守を狙った犯行。彼の完璧な顔は数日以上保つことは出来ず、常に魔術と薬の世話になっている。その為ウィンチのご機嫌取りも忙しく、あらゆる敵を殲滅する鬼神ですら今の状況は余裕が無かった。
(姫様、ああ姫様、俺はいつでも貴女に会いたいのに。どうして俺の顔はいつも完璧でいられない? もしこの顔を失ったら、何処にも貴女の望む“私”は居なくなる……)
見張りの塔の扉を開けたスケルナイトは、いつもそこに佇んでいた白いドレスの“姫様”を見つけられずに顔面蒼白で塔を駆け上る。胸騒ぎがする。彼女と幼馴染が勝手に結婚式を挙げたあの時の鐘の音が遠くに聞こえた気がした。
「どうやらお前は、千年経っても永遠に愛の奴隷らしい」
スケルナイトが何か言うよりも先に、赤いマントの吸血鬼が塔の頂上で立ち塞がった。暗闇の中で光る赤い瞳がスケルナイトの判断を鈍らせる。
「手に入らないものを求め続けて、目の前の愛には気づかない。この見張りの塔で一体何を見ていたんだ? お前が見ていたのは過去、今のお前は何も見えてやしない」
耳障りな話し方に長い耳と鋭い牙、それらの特徴を認めた瞬間スケルナイトは吸血鬼の心臓目がけて剣を突き刺した。細くて鋭いレイピアが赤いマントごと吸血鬼の体を貫く。血が溢れ出した後に嘲笑う声が宙に響いて、スケルナイトの怒りが煮えたぎる。
「愛を知らない魔物風情が語るな。彼女は何処だ」
「彼女? 知らんな、そんな奴」
「しらばっくれるな!!」
スケルナイトの剣撃が激しくなり、赤いマントが捲れ上がる。するとそこには、剣撃を受けて血塗れになったニュートが隠されていた。ドレスは今やどす黒い血で染まり頭には漆黒の薔薇の花冠を被っている。どう見ても意識は無く、唇は乾いて黒く変色していた。
「これか? これはかわいいかわいい、俺のニュートだ。俺とニュートはこうしてずっと一緒に居ると決めたんだ」
吸血鬼はニュートを抱えながら軽く揺れて、寝かしつけるように子守唄を小さく口ずさむ。冥界から悪魔が来るかと思わせる歪んだ響きがスケルナイトの不安を煽り、目の前の状況を冷静に判断させない。最早“姫様”は此処には居ない。また“後”≪らいせ≫で会わなくては……
吸血鬼はニュートごと見張りの塔の頂上から突き落とされた。赤いマントは少しも浮かぶことがなく、多くの物質が重量と重力によって落ちるのと変わらぬ速さで落ちていく。吸血鬼はニュートと自分の胸を貫く長さの銀の杭を構えて、その瞬間を待ち受ける。代わりのベーケス2世は幾らでもいる。しかし、俺の代わりにニュートを愛≪ころ≫していい奴はいない。絶対にいないのだ。
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暗い塔の中には、もう誰もいない。塔の外では汚れたドレスの切れ端が、風に乗って何処かへと消えてしまった。
-END-