一天四海に咲く 大けがをした無限の意識が戻らないまま、三度陽が沈んだ。窮地を知り駆け付けた老君の手で事の始末がつけられ、無限はいま清潔な床に伏している。
右まぶたから額にかけて大きな裂傷があり、その血を止めるためか白布が当てられている。半面を隠されて覗く表情は苦悶にゆがみ、荒い呼吸を繰り返す唇は発熱でひび割れていた。
「人間の身で見ず知らずの妖精を守るために、妖精と大立ち回りを演じて。で、首尾よく相手を無力化したのはいいが、大けがを負っただなんて」
哪吒は無限の足元に立ち、その様子を眺めた。老君が整えた室内は静かで、無限の呼吸音だけがやけに耳についた。
「……こいつ、死ぬのか」
哪吒がぽつりと傍らに立つ老君に問い掛けた。
「いいえ、死にません」
老君が静かに応えた。
「彼は生きなければならない」
意外なことを聞いた、と哪吒の片眉が跳ね上がる。
「だったら、さっさと怪我を治してやればいいじゃねえか。そういうの、得意だろう?」
「私が得意だからといって、彼に必要とは限らない」
「はあ? 何を言って……」
「これはそういう類の問題です。私はこれ以上、手出しできない」
老君がぴしゃりと哪吒の言葉を退けた。常にない厳しい口調の老君を見て、さすがの哪吒も口ごもるしかなかった。
無限の命が助かるかどうか。それはどうやらこの世の理(ことわり)に関係するものらしい。
(老君がそういうのならば、この男は助かるのだろう)
哪吒には見えないものが、老君には見える。その老君が断言するのだから、いずれそのように決着がつくのだろうけれど。
「随分としんどそうじゃねえか……」
哪吒が眉をひそめて、無限の様子を改めて見た。
怪我の程度は分からないが、衣服に覆われていない部分の怪我は数え切れない。むき出しの手足に散らばる打撲痕や裂傷が、彼の死闘を思わせた。気も脆弱で、体内にも深刻な痛手があるだろうことは容易に見て取れた。
無限は自分に降りかかった火の粉を払った訳ではない。自ら進んで、危険に飛び込んだ。力あるものが、弱き者のために力を振るう。それは賞賛に値するが、その代償は大きかった。
「かわいそうに」
そのまっすぐな心根と、容赦なくズダボロに傷つけられた身体が痛ましかった。自然と、憐憫の情が哪吒に沸く。
その時、老君の静かな眼差しに何かが過った。無限の苦鳴を聞いても平然と動かなかった白い面(おもて)で、ぴくり、と眉が動く。
「ではあなたが助けてあげますか? 哪吒」
「えっ」
突然の老君の台詞に、哪吒が息を飲んだ。
「かわいそう。そうあなたが思うのでしたら、彼を助けてあげればいい。私はそれを止めません」
「助ける、ったって……俺は癒し手じゃないぞ」
「傷は治ります。時間をかけてゆっくりと。ですがその間、長く無限が苦しんでいることをあなたは忍びなく思う。ならば早く治るよう、仕向ければいい」
「早く、治る……?」
「思い出してください、哪吒。古来、人間を私たちがどう癒してきたか」
老君の頬に、意味深な微笑みが浮かんだ。妖精や神仙ならば、誰でも不可思議の力で人間を癒す方法がある。
弾かれたように哪吒が老君の顔を見上げた。
「はあ? こんな死に体の奴と、ヤレってのか!?」
ぎょっとして哪吒が目をむいた。
身体を重ねる。それで妖精は人間から力を得る。それと同様に、人間へ気を分け与えることもできるはずだ。
「この状態の彼に、そんな無体を為す気ですか?」
「……だよな」
「それとも、哪吒。あなたが慈悲をもつて、無限にとどめを刺すとでも?」
じろりと老君が哪吒を睨んだ。
「長く苦しまないように、無限を楽にしてあげるつもりですか」
「んなわけ、ねーだろう」
哪吒が声を荒げると、「好」と老君が呼気で笑った。
「やりようは幾らでもある。あなたがこの人間に憐憫を持つならば、手助けしてあげてほしい」
老君の「お願い」に、はっとした哪吒が目を細めた。会話する二人の足元で苦悶する無限の顔と、場違いなほど穏やかな老君の微笑み。
哪吒には見えないものが老君には見えている。だが、その逆もしかり。
(つまりは俺に、無限を助けろっていうことか)
「なるほど」
それがこの場に俺様を呼びつけた真意か。
老君はそれ以上は何も言わず、哪吒の心が定まるのを微笑みで見守った。
老君は何らかの理由で、無限を助けることができない。だが哪吒にはそれができる。 そこであることに哪吒は気が付いた。
「けど、大丈夫なのか?」
哪吒は火属性、無限は金属性。火剋金の理。火は金を抑える。
「弱ったこいつに、それこそ、とどめを刺すことにはならないか?」
金属性である無限に火属性である自分が触れることで、かえって無限の身体を弱らせることになるかもしれない。哪吒は心配になったが、その懸念を老君が一蹴した。
「気が足りなくなればどうせ死ぬのです。このまま身体が衰弱しても。ためらっている場合ですか?」
「おいおい、随分と乱暴だな」
「生きるためには、時に荒療治も必要です。無限は安寧に逃げようとしている。このまま楽になろう、と」
老君が無限を見下ろした。
「活を入れてやってください。あなたの熱い『気』で」
「……おっかねえ神仙だな。容赦の欠片もない」
「神仙とはそういうものでは? それに、それくらいの根性は、持ち合わせている男です」
こういう知り合いは欲しくないな。哪吒がぼやいた。
「だが、ありがたいよな」
哪吒の瞳に光が浮かんだ。
「死ぬなよ、無限。生き延びて老君に文句を言ってやれ」
そうなるよう、俺が手助けしてやる。
哪吒の決意を聞いて老君がそっと零した安堵の吐息を、哪吒は聞かなかったことにした。
・・・このあと、哪吒のわくわく大人の治療行為が始まる、はずです。
いま格闘中です。成人指定になるか、さて、ライトに終わるか…