いってらっしゃい、おかえりなさい 真木晶は悩んでいた。
密かに想いを寄せていた東の国の魔法使いファウスト・ラウィーニアと想いが通じ合い、他の魔法使いたちには秘密にして交際を始めてからひと月が経とうとしていた。このことを知っているのは他の東の国の魔法使いである三人だけで、その誰もが口が硬い魔法使いばかりであった。そして、それぞれが快く祝福をしてくれていた。
恐らく、他の国の魔法使いに対してファウストと交際することになったことを伝えても、誰もが祝福の言葉を贈ってくれたに違いなかった。それくらい晶はみんなから信頼されていたし、ファウストは見守られていた。それでも二人が秘密にしようと結論づけたのは、晶が魔法舎で暮らす魔法使いたちを召喚した、またはこれまでの賢者たちから魔法使いを引き継いだ現任の賢者だからである。晶は全員に等しく接したいと思っていたし、そうあるべきだと信じていた。それでも晶はファウストを選んでしまった。
「きみの好きなようにしたら。僕もそうするから」
そう言ってファウストは晶の手を取り、跪き、手の甲にキスまで落として「愛している」と告げたのだ。そこまでされてしまっては、晶の返事はひとつしかなかったのなから仕方がない。
「あなたへの想いは隠すつもりだったのに、ずるいです」
晶が首まで赤く染めて涙目になりながら訴えると、ファウストは目を細めて「僕は魔法使いだからな」と揶揄った。そんなファウストの耳もどこかほんのり色づいていたことを晶ははっきりと覚えていた。そして同時にそんな風に自虐する言葉が自然に出てきてしまうようなファウストの人生が切なくもなっていた。だから、少しでも。どんなに細やかであっても。自分が恋人とした彼の隣に立つ間はファウストの心の支えになれたらいいと晶は願わずにはいられなかった。
こうして交際が始まったのはいいのだが。もともとファウストは晶に色々と贈り物をしたがった。恋人になる前から「きみが気にいると思って」と言っては中央の市場で猫グッズを渡したし、「君の精神と肉体を守るために」と出身地近くの洞穴から採ってきた石を使って作ったお守りを贈られた。そのどれもが晶を魅了し、喜ばせたのだが。
「貰ってばかりなんだよなあ……」
異世界から来た賢者なのだから、この世界の贈り物を選ぶというのはそもそも分が悪かった。第一、賢者としての給金というかお小遣いというか。そういった物を受け取ってはいるが、北の魔法使いの機嫌を取るためのお菓子を購入したり、健気な若い魔法使いのために使ってしまったりしているために正直言って懐事情は寒かった。本来欲さえ出さなければ眠るための個室は与えられていたし、三食だって付いているのだから十分生きていけるのだ。それに中央の国の管轄だからとドラモンドやクックロビンを通じて友人のように親しみを感じているアーサーから金銭を受け取らなければならないのはどうにも気が引けてならなかった。
だから、お返しをしようにも晶にはいい案が浮かばなかったのだ。
とはいえ、貰ってばかりも居心地が悪い。自分もなにかお守りを渡すことができればいいのだが。しかし、どうにもいい案が浮かばなかった。こうなっては仕方がない、本職に聞くのが一番だろうと恋人であるファウストに直接訊ねることにした。
「きみは僕が呪い屋だって忘れたの」
不満そうに色付きのグラスの向こうにある目が細められる。前髪に隠れてしまっているが、恐らくは眉間の皺も深く刻み込まれているに違いなかった。
「わ、忘れた訳ではないんですけど……前にファウストが言っていましたよね、相手の幸運を上げたり下げたりしているのであって、直接呪っているわけではない、って」
「確かに、そうは言ったが」
「だから、俺にもできるような幸運の上げ方をファウストに教えて貰いたいなって思ったんです」
ファウストは都合が悪そうにきゅっと結んだ唇をへの字に曲げてしまう。少し考えてから「別にいいけど」と呟くように言ってから続けた。
「でもきみ、本当にそれでいいのか?」
今度は晶が目をぱちくりと瞬かせる番だった。どういう意味ですか、晶は訊ねる。
「きみは魔法使い全員を平等に扱いたいんだろう?僕だけにお守りを渡すのはきみの信念を傷つけたりはしないか」
痛いところを突かれたと思った。
「それなら、皆さんの分を作ります」
「僕はのお返しではなかったの?」
晶はそれ以上は言い返せなかった。仮になにかいい反撃の言葉を思いついたところで、きっとまたファウストにまた言い返されてしまうのが関の山だろう。どこまで教えたくないんだ、そう恨みがましい目で思わずファウストを見てしまう。
そんな晶の表情が愛らしかったのか、それとも晶の視線を独占した優越感か。理由はどうであれ、ファウストは口から息を吐き出すと先ほどまでの不機嫌そうな表情から一転して笑みを浮かべた。
「冗談だよ、晶。あまり拗ねないでくれ」
「拗ねてませんよ」
「ふふ、拗ねてる。そんなきみも可愛いけれど」
ファウストは晶を宥めるように頭を撫でてやる。晶はファウストの手で優しく撫でられることが好きだった。普段から自由気ままな猫たちに好まれる撫で方なのだ。不快になる訳がなかった。だがそれで絆されてしまっては完全に子ども扱いをされているようで、それはそれで居心地が悪い。
「そもそも、僕は魔法使いのお守りの作り方しか知らないよ。不思議の力を持たない人間たちの迷信じみたお守りの作り方は専門外だよ」
そうですよね、晶は肩を落としてがっかりした気持ちを隠そうともしなかった。
そんな晶の気持ちを汲んだファウストは「でも」と言葉を続ける。
「言葉でも十分励ます力があることはきみも知っているだろう?きみの言葉で僕たち魔法使いは強くなることができる」
晶にしてみれば歯が浮くような言葉だった。それでもファウストが言えばどこか説得力のある、本当だと信じさせてくれるような力があった。それはひとえに彼の誠実な人柄のせいなのか、それとも彼の中に流れている中央の地のせいなのか。晶には分からなかったが、ファウストがなにかを求めていることは理解できた。
「きみは、まだ出会ったばかりの頃に東の国へ触媒を取りに行く僕を見送ってくれただろう?」
ファウストが負った厄災の傷の症状が判明した翌日のことを晶は思い出す。
「あの時の言葉はとても心地よかった。できれば、今度から僕がきみと離れて任務へ行かなければならないとき、あの言葉で見送って欲しい。そして、帰ってきた時にはまた同じように迎えてらしい」
「いってらっしゃい、と……ただいま、ですか?」
そう、それ。ファウストは優しげな笑みを浮かべた。
「絶対にきみの所へ帰ろうって気持ちにさせてくれるお呪いの言葉だよ」
挨拶くらいならきっとみんなも許してくれる、そうファウストは付け加えると、晶はこれからそうします、と安心したように受け入れた。
◇◇◇
魔法を使わずに肉弾戦に持ち込もうとするレノックスに対して、昔からずっとファウストは「魔法を使え!」と指摘し続けていた。
なのに、いざとなると身体が先に動いてしまう。人のことなんて言えないな。たとえば、晶がこの世界にやって来た晩の厄災との戦いの最中もそうだった。ヒースクリフを助けようと思わず身体が動いて死にかけた。そして今もそう。任務に同行していたミチルを庇ってファウストは死にかけていた。
東の国と南の国の合同任務だった。この日は依頼が立て続けにあってどちらも緊急性の高いものだったので、晶は中々言うことをきいてはくれない北の魔法使いたちについて行くことになった。こちらはファウストもフィガロも居るし、大丈夫だろうとの判断だった。
だから、晶はファウストに言葉を贈った。
「いってらっしゃい」
ファウストはそれに応じるように晶に教えてもらった「いってきます」と口にする。なんだか妙に照れ臭くなって二人で微笑みあっていると、近くにいたヒースクリフが目を細めて「新婚さんみたいですね」と口にした。それを聞いたシノがすかさず「ちゅーはしないのか」と揶揄う。見かねたネロが「お子ちゃまさんの癖に随分マセてるな」と宥めていた。
「どうする、賢者。しておくか?」
ファウストは揶揄うように晶の頬に手を添えながら訊ねると、可哀想なくらい晶は顔を赤く染めた。ファウストは肩をすくめて「冗談だよ」と口にはしたが、少しだけ残念に思っていた。
——あの時、キスを、しておけばよかったか。
ファウストは薄れていく意識の中で後悔を抱えていた。そんな時だった。
「ファウスト!」
無理矢理意識を引き上げられた、と思った。出血のせいで重たく濡れたファウストの衣服で肩に掛けた白衣が汚れることなど気にもせず、フィガロはファウストの身体を抱え上げて箒で浮かび上がり、安全地帯まで運んでいく。その背後につくように顔を青くしたミチルを励ましながらルチルが回収する。レノックスとネロが援護し、ヒースクリフとシノが先導した。
「君を肉体のままで何としても魔法舎へ連れて帰るし、賢者さまに会わせるからね。これは約束ではなくて命令だよ」
「ど、……どうして、けん、じゃが……かんけい、あるんだ」
「どうしてって君たちは恋人同士だろう?」
信じられない、そうフィガロは叫ぶように言いながら箒を飛ばす。
「いいかい、君たちは完璧に隠せているつもりだったようだけれど、分かりやすいんだよ。気づいていないのなんて、オズとミスラくらいだからね」
フィガロの顔は笑っていなかった。自分が石になるのかどうなるのかも分からず、ただ今はっきりしていることである、必死に関係を隠していたというのに、全くの無駄だったということが馬鹿馬鹿しくてファウストは弱々しく笑った。
そうか、やっぱり堂々とキスをしておけば良かったのか。帰ったら、真っ先に晶に会いに行ってキスをしよう。たくさんしよう。なんなら魔法舎のみんなに見せつけてやってもいい。
妙に楽しさを感じ始めたファウストは、血以外にもなにか出ているのだろうな、と薄れ行く意識の中で考えていた。
「さて、ファウスト。何事もなかったかのように完璧に元通りにして賢者さまに会いにいく?それとも多少の汚れと怪我を残したままがいい?俺のおすすめはやっぱり残すことかな。そうすれば賢者さまが心配してくれるだろう?」
フィガロはおまけとばかりにウィンクまでつけた。だが、ファウストは非常に冷めた目で見遣り、呪文を唱えると自分で服の解れや汚れを全て消し去ってしまった。
「つまんないな」
フィガロは唇を尖らせて不満を訴えるが、ファウストの五感はもう既に一点集中していた。
自分だって任務から帰って来たばかりだろうに、律儀にも中庭にまで出てきて出迎えようとしてくれている賢者、いやファウストの恋人の姿であった。ファウストの姿に気がつくと両手で大きく手を振る。
ファウストはそれに気がつくと一気に速度をあげた。ルチル並みの速度である。気がついたネロの口笛を背後に聞きながらファウストはすとん、と落ちるように急降下し、晶の目の前に降り立った。
いつもなら他の魔法使いに紛れてひっそりと、静かに舞い降りるファウストのその行動に晶は驚いてぽかん、とした後、すぐに笑顔を見せた。
「おかえりなさい、ファウスト」
「ああ、ただいま、晶」
晶があれ、と思った時だった。二人きりの時にしか名前で呼ばれないのに。そう思っている内にファウストは一歩、晶へ近づくなり右手で後頭部を引き寄せ、何の躊躇いもなく口付けた。
晶にはなにが起きているのか分からなかった。そうしている内にファウストの左手が腰に巻き付けられて引き寄せられてしまう。ファウストは晶の下唇の膨らみを自らの唇で柔く食み、ちゅ、と音を立ててから少し離れ、再び角度を変えて口付ける。訳がわからないままに晶は思わず自分も両手でファウストの背中を抱きしめる。
そんな様子を少し離れたところからミスラが首を傾げながら見ていた。
「は?何してるんですか、あの人たち」
「恋人たちが再会したから挨拶してんだよ。東の呪い屋もやるじゃねえか」
「こいびと……?あの人たち、そうなんですか?」
「おま……だよなあ、お前気にしてなさそうだもんな」
ブラッドリーは隣のミスラに冷たい目を向けてから、恋人たちへ向けて冷やかしの口笛を吹こうとしたが、右手を持ち上げた段階で箒で降り立つついでのネロにドロップキックをお見舞いされていたのでそれは叶わなかった。
ネロに続いて他の魔法使いたちもファウストたちの頭上を飛び越えて魔法舎へと降り立っていく。きっと、晶が恥ずかしがるだろうと思ったから。
ファウストが満足した頃には他の東と南の魔法使いたちは全員地上へ降り立っていた。すっかり晶の息も上がり、苦しさからかファウストに縋り付くように抱きついていた。
「ふぁ、ふぁうすと、どうしたんですか……?」
「きみに、キスをしなかったから」
きょんと、と晶がファウストの紫の瞳を見つめる。
「きみが僕とこういう関係なのを隠したいと思っているのも承知しているし、恥ずかしがると思ってキスしなかったことを後悔したから、」
「あ、えっ、あ!そういえば、ここ、外だ……!」
ファウスト、どうして。晶は抗議するように潤んだ目でファウストを睨みつける。
「ふふ、ごめん。でも、気づいていなかったのはミスラとオズだけだと聞いたから、もういいかと思ったんだ。それに君を狙う他の魔法使いに対しての牽制にもなるしね。愛してるよ、晶。こんな僕でも好きでいてくれるか?」
ファウストは優しく晶の両頬を手で包み込む。晶は口をへの字に曲げて、恥ずかしいですよ、と言葉にならない抗議をしつつもファウストの服を両手で握りしめる。
「嫌いになるわけないじゃないですか。俺もファウストを愛してます」
ファウストは蕩けるような笑みを浮かべ、再び口付けてから晶の耳に直接吹き込むように囁いた。
「君の言葉が僕の心を守ってくれたよ、ありがとう」