※いなくなる話
2021.08.10
抗いようもない呼び声に誘われて、昏い闇に飛び込んだ。進むたび、近づくたび、手綱をなくした彼の力が、じくじくと肌を焼く。痛みよりも喜びが大きかった。この身のすべてを、やっと大好きなひとに明け渡せるんだから。
空間が乱れて、一人ではなくなったことを認めた甲洋が、まどろみたがるまぶたを無理に開いた。引き寄せられるままに落ちる僕を、広げた腕に受け止めてくれる。
もう、加減が効かないのだろう。もともと一つだったと信じるように強く、へたをすれば骨から潰されてしまいそうなほどに強く、取り込みたがるような強引さで、大きな手のひらが背中を覆う。広がった彼の髪をおさえながら、僕からもそっと抱き締め返した。
「俺を追い掛けなくても、よかったのに」
囁きよりも大きく、遠くで今も戦う声が聞こえる。こんなところでさよならなんて、惜しいけれど。頭の力は削いだ。見たい未来は仲間たちに託した。一騎も、あの子と、きっと互いを見失わずに走っていける。
僕たちの担っていた役割は、もう、事足りている。
「甲洋も、知ってるでしょう。もうすぐ僕がいなくなること。最期の場所を選べるなら、きみと一緒を望んでいたこと……」
心音が混ざり合う。そのうちに、世界で一番求めた音も聞こえなくなるだろう。指先から感覚が消えていく。背中を預けた毒が、僕を迷いなく殺していく。
「ここでさよならしたら、もう、二度と会えないかもな。この先のどこにも、お前と見られる空はないかもしれない」
「いいよ。それでもいいよ。きみと僕が生きていた事実はなくならないでしょう。きみたちが……おかあさんや、甲洋が、僕と生きてくれた時間が一番大切だから、いいの」
ほんとうは、抗えた。振り絞って落ちた彼を置いて、一人で戦い続けられた。僕を呼ぶ声なんか、少しも聞こえなかった。だから、果てまで追いかけてきた。一人で死のうとした男の元へ、身一つ、心一つで会いに来た。
「ミールは、なんて?」
「……忘れちゃった。この体を返さなくたって新しい「俺」を造れるから、へいきだよ」
嘘だ。ボレアリオスはずっと僕を呼んでいた。振り払って飛び出してからは、もう、声は聞こえない。彼らに「僕」が必須じゃないのはほんとう。ずっと自由を許してもらっていたけれど、ないしょの思い出も共有し続けてきたのだから、ほんとの最期をふたりじめしたっていいだろう。
「甲洋と会えてうれしかったよ。けんかも、話すのも、深く繋がれる前から、戦いできみを頼れたのだって……」
「……俺も。俺だって、来主と生きる時間を好きになれて、よかった」
触れた頬が濡れる。もう、僕はコアじゃない。甲洋も、意図的に繋がりを切り離して、ここへ落ちてきた。何者でもない、ただの僕たちとして触れ合っている。
きっとこれが、最初で最後の逃避行だ。定めた行き先はどこにもない。同じ場所へ、還れるかだってわからない。確証がなくたって構わない。彼と共に行けるなら。声が聞けなくなるのは、ほんの少しだけ惜しいけど。
まぶたを開けるのも億劫だ。甘い匂いが鼻をくすぐる。
僕たちの明日はもう来ない。