魔法の言葉「なあ師匠」
不満気に名を呼ばれ、マトリフは目を開ける。椅子に腰をかけて本を読んでいたつもりが、いつの間にか眠っていたらしい。
「ここんとこ、よくわかんねえんだけど」
既に日は傾いていた。ポップは出した課題に真面目に取り組んでいたらしいが、やはりと思う箇所で躓いていた。
「そこらへんに積んだ本のどれかに書いてあらぁ」
「適当すぎだろ。せめてどの本か教えてくれよ」
言いながらもポップが手に取った本はまさに答えが載った本で、生来の運の良さか、あるいは見当がついていたのか、どちらにせよマトリフの助言は必要なかった。
ポップは本を開いて読み始める。それと同時にコーヒーメーカーをセットしていた。二人分を沸かすつもりだろう。まあ飲んでから帰るかと、マトリフは立ち上がるのをやめた。
やがてコーヒーの匂いが狭い部屋に立ち込める。狭い上に物が乱雑に積み上げられているので人間がいられる場所が少ない。片付けたほうが良いですよ、と友人は言うのだが、マトリフもポップも片付けよりも散らかすほうが得意で、散らかった部屋に不満がないものだから一向に片付かない。
「師匠は何を食う?」
ポップはそう言ってスマートフォンを向けてくる。近くのファストフード店の配達を頼む気らしい。いったいいつまで居座る気だ。
「それ飲んだら帰んな」
「ええ〜これ終わらせたいんだけど」
「家でやれ家で。ここで飯食ったら帰るのが面倒臭くなるだろ」
「おれは面倒じゃないけど」
「オレが面倒なんだよ」
ちょうどコーヒーも出来上がった。マトリフは本に埋もれたマグカップを探し出してコーヒーを入れる。ポップのコーヒーには砂糖を多めに入れた。
「……師匠のほうは進んでるの」
「進むわけねえだろ。どだい無理な話なんだよ」
マトリフはコーヒーに口をつけながら机に放り出していたものを拾い上げる。書き込まれた文字は線で塗り潰してあった。
「あるわけねえだろ。魔法なんて」
この科学の発展した世界で、魔法だの呪文だの存在するわけがない。それらはファンタジーとして物語の中へ押し込まれてしまった。
「あんたが無理なんて言わないでくれよ」
マトリフが魔法を否定する度にポップは不機嫌になる。理由は知らないがポップは魔法というものを信じ込んでいた。
「飲んだら帰るぞ」
ポップが持っていた本を取り上げる。ポップは口を尖らせて抗議するが、それでも急かせて帰り支度をさせる。
「……じゃあ、また明日」
気落ちしたポップの背中を見送ってマトリフも家路につく。魔法なんて存在しないと思いながら、否定も出来なかった。何故だかその魔法というものを知っている気がしてならないのだ。ずっと使ってきたかのように手に感覚が残っている。
自分が生きてきた世界はここではない気がしていた。もっとどこか遠くだ。そこへ行ってみたい。
「……ルーラ」
たしかそんな言葉だった気がする。ここではないどこかへ行ける魔法の言葉だ。
***
「その言葉をどこで?」
突然に声をかけられてマトリフは驚く。さっきの独り言を聞かれていたらしい。振り向けば大きな男がいた。スキンヘッドで耳には大きなピアスをつけている。
「どこだっていいだろう」
ずっと見上げていたら首が痛くなりそうなほどの大男だ。変な奴に絡まれてしまったとマトリフは通り過ぎようとする。しかし男は追いかけてきた。
「今のは呪文だったと思うが」
「……何言ってんだ。呪文って」
男の口から呪文という言葉が出たことにマトリフは驚く。大男は眼鏡を押し上げた。眼差しは真剣そのものだ。
「ルーラ。移動呪文だ」
移動呪文。それはマトリフがイメージしていた通りのものだった。だが、もしかしたら何かで読んだ本に出てきたものを、その名前だけを覚えていたのかもしれない。
「大魔道士。あなたは大魔道士なのだろう」
大きく風が吹いた。街路樹が大きく揺れる。足元が覚束ず、まるで空中に放り出されたような感覚になる。青い空か、あるいは海にいるみたいに周りが青く見えた。
「馬鹿げている。魔法なんてありゃしねえよ」
マトリフは両脚を踏み締めた。大男は傷付いたような顔になる。それがポップの表情と重なった。どいつもこいつも何だってんだ。
マトリフは通りに向かって手を挙げた。ちょうど来たタクシーがウィンカーを光らせてゆっくりと止まる。
「待ってくれ」
大男を無視してタクシーに乗り込む。すぐに運転手に閉めてくれと伝えた。大男を残してタクシーは走り出す。
「今日は風が強いですねぇ」
愛想の良さそうな初老の運転手が話しかけてくるが、マトリフは無愛想な相槌しか返さなかった。ルームミラーに取り付けられたサンキャッチャーが、外の明かりを受けてきらめいている。
***
窓から見える景色が先ほどから動かない。普段は渋滞するような道ではなかった。マトリフはシートに深く体を沈めていた。先ほどの男の言葉が頭の中を巡っている。詳しく話を聞けば魔法について何か分かったのではないかと後悔を感じ初めていた。
「あれ、事故かな」
運転手が体をずらして前を見ようとしている。テールランプの列は長い。小さく流れるラジオからはかしましい声が聞こえていた。
「どうします。歩きますか?」
「いや、いい。もう歩きたくねえ」
「さっきから気になってたんですけどね、お客さんとどっかで会ったことありませんでした?」
マトリフはダッシュボードに運転手の名札を探したが見当たらなかった。後ろから見る限りでは見覚えはない。
「前に乗ったことがあるのかもな」
気軽な会話をしたい気分ではなかった。深く息を吸い込むと車からは新品特有の匂いがした。
「前に乗せたってことはないですね。タクシーは始めたばかりで」
アイドリングが止まった車内は静かだった。いつの間にかラジオも消えている。
「前は何してたんだ」
特に興味もなかったが、聞かねば話を終わらせないのだろう。
「ケチな商売ばっかりで。占いとか、インチキ講師とか、火事場泥棒みたいなことも」
「あんま客を不安にさせること言うなよ」
運転手の言葉が嘘でも本当でもどちらでもよかった。話慣れているから、占いや講師というのは本当かもしれない。
「お客さんのお仕事は?」
「別に大したことしてねえよ」
「そこの大学の先生じゃないんですか。そんな雰囲気だけど」
「違ぇよ。あの辺りの雀荘の店員」
「またまたぁ。あそこは知り合いの店ですよ。お客さんを見かけたことはない」
今日はやけに人に絡まれる。この運転手も適当なようでいて人をよく見ていた。
「ああそうさ。本当は魔法使いだ」
嘘のついでに軽口を叩けば、運転手は急に黙り込んだ。マトリフは急に自分がつまらないことを言った気がした。冗談にしてももっと笑えるものがあっただろうに。
「ええ。そうでしょうよ。兄者は魔法使いだ」
運転手がこちらを振り向いた。やはり見覚えはない。細い髭がくるりを巻いていた。
「兄者? 急に時代劇か?」
大きくクラクションが鳴った。見れば前の車が進んでいる。動かないタクシーに後続車は何度もクラクションを鳴らしていた。
「進めよ」
「兄者は目覚めないと」
「もういい。いくらだ」
懐へ手を入れてから、マトリフは自分が何を探していたかわからなくなった。わからないも何も、金を払おうとしたのだ。金なら金貨だろう。だがポケットは空だ。他のポケットも探る。そもそも、このギュータの法衣にポケットなんてあったか。
「わしは兄者を起こしに来たんじゃよ」
運転手は緑の法衣を着ていた。なんだ誰かと思ったらまぞっほではないか。あんな運転手の格好をしているから誰だかわからなかったのだ。
「……ん?」
マトリフは真っ直ぐに前を向いて考える。いつの間にかクラクションは止んでいた。それどころかタクシーもまぞっほも無い。数秒の空白の後に、これは夢なのだと気付いた。
マトリフは目を覚ました。いつもの洞窟の天井が視界に入る。何やら窮屈だった。
「……なんだよこりゃ」
マトリフが寝ていたベッドの左隣にはポップが、足元にはまぞっほが眠っている。さらには床に座ったガンガディアがマトリフの右腕を枕にして眠っていた。
「おい、お前ら」
こいつらのせいで変な夢を見たのだと思ったが、夢の内容が思い出せなかった。たしか光る板のような物で食い物を探せたり、人間を乗せる機械があった気がする。だがそれらは思い出そうとするほど薄れていった。
「おや、みんなでお昼寝してたんですか?」
そう言って顔を見せたのはアバンだった。両手に野菜を抱えているからまたお裾分けなのだろう。アバンは寝室の散らかり具合を見て「おやおや」と眼鏡を光らせた。
床は足の踏み場もないほどに散らかっていた。主に魔導書が散乱しているが、中には食べかけのパンやら果物があったり、地図が広げてあったりした。まるで熱心に調べ物をしていたようなあとである。マトリフはこんなに散らかした覚えはない。
「片付けたほうが良いですよ」
言いながらアバンは野菜を抱えてキッチンへ向かった。その言葉を夢の中で聞いた気がする。いや、それも勘違いだろう。おかしな夢だった。