コーヒーと紅茶 ガンガディアの部屋の、ガンガディアが選んだらしい家具はやたらと豪華だ。そのひとつのソファに寝そべりながら、マトリフは天井を見上げていた。高い天井には、くるくると回るファンが付いていて、金持ちはなぜあんなものを天井に付けたがるのかと不思議に思う。
バスルームからはシャワーの音が聞こえていた。ガンガディアが出てくるまであと数分。先にベッドルームに行っていてもいいのだが、面倒臭さが勝っていてソファでだらけている。飲み終わったミネラルウォーターのペットボトルを手で弄びながら、ガンガディアが出てくる前に帰ってしまおうかと考えた。
だが数分も待たない間にガンガディアがバスローブを着て出てきた。なぜ金持ちはバスローブを着るのだろうか。
「そんな格好では風邪をひいてしまうよ」
ガンガディアは言いながら近くにあったブランケットをマトリフにかけた。マトリフはガンガディアより先にシャワーを浴びて、腰にタオルを一枚巻いただけの姿でソファに横になっていた。
「疲れてんだよ」
ちらりと見たゴミ箱には先程使ったコンドームやティッシュが山盛りになっている。この値段を聞いたら腰を抜かすソファで、汚すことも気にせずに一戦を交えた。なんとかシャワーだけは浴びたが、若いガンガディアに付き合ったマトリフは立ち上がる体力すら無くなってしまった。
「今夜は泊まっていくだろう?」
半端に乾かしたマトリフの髪をガンガディアが指先で触れる。
「いや……」
本当は帰るつもりでいた。明日の予定を思い出す。同僚から遅刻しないでくれと念を押された会議があったはずだ。
「明日は時間までに送っていく」
眼鏡をかけていないガンガディアの眼差しがマトリフに刺さる。顔を寄せられ、風呂上がりの石鹸の匂いがふわりと香った。自分も同じ匂いをさせているのだろう。何かと鋭いマトリフの同僚が、明日でもその匂いに気づくだろう。
ガンガディアの唇がマトリフの首筋に触れた。リップ音をさせてキスされる。
「おい……もう無理だぞ」
「わかっている」
それでもキスは止まない。ちゅっちゅと繰り返しキスされて、気持ちより先に身体が反応してしまう。
マトリフは自分から口をガンガディアに向けた。こっちにしろよ、と舌先で唇を舐める。ガンガディアはマトリフに唇を重ねて身体を抱きしめた。
流されている自覚はある。だがそれが心地良くもある。
マトリフがガンガディアを抱き返すと、ガンガディアはマトリフを横抱きにして持ち上げた。ふわりと浮いた身体にどこか懐かしさを覚えながら、その正体はわからない。
懐かしさを覚えるのは浮遊感だけではない。時折り、何か大切なことを忘れているような気がする。
「なあ……」
何を言いたいのかわからないままに、ガンガディアに呼びかけていた。ガンガディアはすぐにこちらを見る。
「どうかしたのかね」
「いや、別に……ほんとにもうやらねえからな」
言いたかったことがわからなくて、下手に誤魔化した。その間に寝室にたどり着いて、ガンガディアはそっとマトリフをベッドに下ろした。
「君が欲しがらなければね」
そう言ってガンガディアはバスローブを脱いだ。ガンガディアはマトリフの横へと寝転ぶ。肉がつかない体質のマトリフと違って、筋肉で覆われたガンガディアの肌は温かい。
なあ、どうして金持ちって裸で寝るんだ。主語が大きいことはわかっているが、疑問は尽きない。
***
窓に切り取られた朝陽が差し込んでくる。マトリフは手をかざしてそれを遮った。助手席のリクライニングは倒してある。ガンガディアの丁寧過ぎる運転で、また眠気が戻ってきそうだった。
ガンガディアの家に泊まって、そのまま職場まで送ってもらうことは珍しくなかった。今朝も出勤に間に合うように起こされて、マトリフがのろのろと身支度しているうちに朝食が出来上がっていた。栄養が考慮された朝食は湯気を上げており、食欲がなくても食べやすいように工夫されていた。
まさしく完璧な朝食を、マトリフがもそもそと食べているうちに、ガンガディアは細々とキッチンとダイニングを行き来してマトリフの世話を焼いていく。そして時間通りに家を出て車に乗り込んだ。
そしてこの、尻が溶けてしまいそうなほど座り心地のいいシートで、マトリフは朝の街を眺める。いつもなら地下鉄に揺られて職場に行くのだから雲泥の差だ。この至れり尽くせりの待遇で、脳が馬鹿になってしまいそうだ。
「……あの件については考えてくれただろうか」
ガンガディアの控えめな言葉に、マトリフは微睡から浮上する。
「ああ、同棲のことか?」
「そうだ」
ガンガディアから同棲を提案されたのは随分と前のことだ。それも一回ではない。数週間ごとに考えてくれと催促されている。
「考えておく」
マトリフは毎回同じように言っていた。否定も肯定もせず、答えを先延ばしにしている。
「一緒に住めば、毎朝君を送っていく」
「それは悪いだろ」
ガンガディアの職場とマトリフの職場は離れている。ガンガディアの職場は出勤時間が自由らしいが、それでも毎日それをされては気が引ける。
「では君の職場の近くに新しい家を建ててもいい」
「家って……お前が金持ってるのは知ってるけどよ、それはやり過ぎだぜ」
ガンガディアは少し口を閉ざした。考えるように指がハンドルを叩く。
「君が同棲を躊躇う理由が知りたい」
「躊躇うっていうか……お前こそちゃんと考えて言ってんのか」
同棲するということは、この先も長くパートナーでいることを約束するようなものだ。ガンガディアと付き合って数年。相性も悪くない。だが、マトリフはガンガディアより二十も歳上だ。その年齢差はステディな関係を続けることを躊躇わせる十分な理由になるだろう。
「私が若い、という理由なら聞き飽きた」
「別に焦る必要もねえだろ」
「一緒に暮らすほうがメリットが多い」
「だから、考えとく」
マトリフはまたそう言って逃げた。車が信号で停車する。ガンガディアの何とも言えない視線が横顔に突き刺さった。マトリフはまた視線を窓の外へとやる。マトリフはガンガディアのこの視線が苦手だった。
「……オレは大魔道士じゃねえぞ」
マトリフは独り言のように呟いた。ガンガディアが求める存在が自分でないことをマトリフはわかっている。
「その話はしない約束だ」
「だったら」
マトリフはそこで言うのをやめた。喧嘩がしたいわけではない。マトリフはガンガディアが言った前世とやらを、信じてはいなかった。信じられるわけがない。前世でマトリフは大魔道士で、ガンガディアはトロールで、二人は敵同士だったものの、思いが通じ合って結ばれたなんて。
ガンガディアもマトリフがその話を好まないと知っている。だから二人の間でその話はしない約束だった。ガンガディアもその約束を守っている。
だが、ガンガディアは時折りマトリフを見ながら違う誰かを見るような目をする。そんなとき、マトリフはひどく居心地が悪かった。ガンガディアが本当に好きなのは、あるいは本当に求めているのは自分ではないと思うからだ。
前世だろうが昔の恋人だろうが、知ったことではない。そんな目をするくらいなら見ないでくれ。マトリフはそう言いたいのをぐっと堪えた。
「着いたよ」
いつの間にか会社の前に車が停まっていた。マトリフは身体を起こす。
「お弁当を作っておいた。食べてくれ」
ガンガディアはそう言って紙袋を差し出した。マトリフはそれを受け取る。
「悪いな」
そのままドアを開けて出ようとしたマトリフの手をガンガディアが捕まえる。体勢を崩したマトリフにガンガディアが覆い被さった。
ほんの一瞬、触れるだけのキスをして、ガンガディアはマトリフを離す。
「気をつけて」
マトリフは声もなく頷いて車を出た。
会社に行くだけなのに何を気をつけろというのか。突然にキスをしてくるお前のほうがよっぽど危険だろ。
それらの言葉をまた飲み込んで、マトリフは振り返らずに歩いていった。
***
ガンガディアと出会ったのは十年も前になるだろうか。今となっては思い出だが、その当時のマトリフにとっては厄介な出来事だった。
あの日は雨だったと記憶している。冬の終わりの、雪混じりの雨が降る昼間のことだった。
マトリフは昼休憩に食事をしに外に出ていた。大通りに面したファストフード店の、二階の窓際に座ってホットドックにかぶりついていた。店内は混んでおり、窓際の席も全て埋まっていた。空調がぬるい空気を吐き出す音と、話し声と飲食の雑音が混ざり合って賑やかだった。
マトリフは食事を終えたらすぐに出ようと思って、最後の一口を口に押し込んだ。紙コップに少し残ったコーヒーを揺らしながら、ふと視線を下げる。その窓際の席は全面がガラスで、大通りが見下ろせた。雨が降っていたから、色とりどりの傘が花のように行き交っていた。
その中で立ち止まっている男がいた。男は黒い傘をさしていたが、こちらを見上げているせいで雨が男の顔を濡らしていた。
男は真っ直ぐにマトリフを見ていた。そのためにマトリフは男と目が合う。それがガンガディアだった。
ガンガディアはひどく驚いたようにマトリフを見上げていた。それこそ墓場から死人が蘇ったのを見たような顔をしており、見られているマトリフも気味悪く思ったのだ。
マトリフはガンガディアと視線が合ったと思ったが、もしかしたら隣にいる奴を見ているのかと思って横を見た。隣に座ったサラリーマンは何も気付かずにスマートフォンを注視していた。反対の隣人は連れとの会話に夢中になっている。
やっぱりオレを見ていたのかと、マトリフが大通りに視線を戻すとガンガディアはもういなかった。なんだったのだろうかとマトリフが思っていると、後ろに誰かが来た気配がした。
「大魔道士っ!」
肩を力任せに掴まれて、マトリフは思わず驚いた声を上げた。身構えながら振り返ると、そこにガンガディアが立っていた。走ってきたのか、僅かに息を乱している。
「だ……いまどうし?」
確かにそう呼ばれた気がしたが、その単語の意味がわからずマトリフは困惑する。ゲームかファンタジー映画でしか聞かなさそうな言葉で呼びかけられたことに、相手への警戒度が一気に高くなった。マトリフの反応にガンガディアは眉間に皺を寄せる。
「……私のことを覚えていないのか」
「会ったことねぇだろ」
記憶力は良い方だと自負している。それにこんな目立つ奴を忘れるはずがないとマトリフは思った。ガンガディアは体格が良く、筋肉質であることは服を着ていてもわかるほどだった。頭をスキンヘッドにして、耳にはピアス。丸眼鏡とその奥の眼差しの知的さが、身なりとのちぐはぐさを感じさせた。
「それは前世の記憶が全てないという意味かね」
「……はあ?」
ガンガディアは真剣な表情だったが、口から出る言葉のために周囲も訝しんでこちらに視線を向けていた。マトリフもこれ以上関わり合いになるのは得策ではないと判断する。
「……宗教の勧誘なら他所でやってくれ」
トレイを持って席を立つ。ガンガディアを避けようとしたが前に回り込まれてしまった。
「本当に私を覚えていないのかね」
「だったら名前くらい言えよ」
「ガンガディアだ」
「知らねえよ。じゃあな」
マトリフはゴミが乗ったトレイをガンガディアに押し付けて階段へと向かう。早足で駆け降りて店を出た。ちらりと見たガンガディアは律儀にゴミを分別しながらゴミ箱へと入れていた。
そのまま早足で外を歩く。慌てて店を出たせいで傘を忘れた。すると背後から走る足音が聞こえてマトリフは思わず隠れるように道を曲がった。大通りから一本傍に入った細い路地を進んだが、数歩も進まぬうちに手を掴まれる。
「……いい加減にしろよ」
振り払う勢いで手を振ったが、掴まれた手はびくともしなかった。手を掴んだガンガディアは、焦ったような顔をしながらマトリフを見下ろしている。細かい雨が二人を濡らしていた。
「聞いてんのか。あんまりしつこいと警察呼ぶぞ」
「君には記憶がないらしいな。混乱するのも無理はない」
ガンガディアは理解を示すように言う。高い位置から見下ろすように言われて腹が立った。
「まだその話すんのかよ」
「これは宗教の勧誘ではないし、押し売りでもない」
「だったらナンパか。こんな誘い方が若い奴らの間で流行ってんのか?」
「……私が君をナンパすると思ったか?」
「思わねえよ。なにマジに答えてんだよ。嫌味もわかんねえのか?」
「とにかく、少し話を聞いてくれないか」
「嫌なこった。とっとと失せろ」
そこでガンガディアははっと気づいたようにスーツの内ポケットから名刺入れを取り出した。そこから一枚引き抜くと、マトリフに差し出す。そこには有名な外資系企業の社名と名前があった。
「……これが何なんだよ」
「君の連絡先を教えてくれないか」
「この状況でオレが教えると思ったのか」
そもそも名刺なんて持ち歩いていない。マトリフは貰った名刺をポケットに入れて踵を返した。
「着いてきたら通報するからな」
釘を刺せばガンガディアはもう着いてこなかった。マトリフは寒さに身を震わせながら早足でその場を後にした。
この数週間後には付き合うことになるのだが、出会いは散々なものだった。
***
ガンガディアと出会ってから半月ほど経った頃。その夜マトリフはほろ酔いで行きつけの居酒屋を訪れた。会社の飲み会のあとで、一人で飲み直そうと思ったからだ。
マトリフはよく座る窓際の席に腰を下ろした。酒を注文して一息ついたところで、ふと店内へと目をやる。どこからか視線を感じたような気がしたからだ。
すると店の奥にガンガディアを見つけた。ガンガディアは気まずそうにマトリフから視線を逸らしている。ガンガディアは一人なようで、机には食べ終わった皿や空のグラスが置かれている。どうやら偶然に居合わせたらしい。マトリフは酔いのせいでおぼつかない思考で、半月ほど前の出来事を思い出していた。
ガンガディアは伝票を持って立ち上がった。大きな体を屈めるようにしてマトリフの横を通り過ぎようとする。
マトリフはガンガディアに向かって手を伸ばした。それは酔っていたせいだ。頭がまともに働いていたらやらなかっただろう。
ガンガディアはマトリフにジャケットを掴まれて驚いていた。戸惑ったようにマトリフを見てから、抑えた声で言う。
「離してくれ。通報されるのは困る」
「おまえ、こういう店で飲むのか」
「ここは食事が美味しいから通っている。しかし君が気にするならもう来ない」
「なんでだよ……この間の勢いはどうしたんだ。あの前世とやらはもういいのかよ」
マトリフはガンガディアのジャケットから手を離さない。ちょうど店員がマトリフの注文した酒を持ってきた。
「いいから座れって。突っ立ってたら邪魔だぜ」
ガンガディアは店員に頭を下げながらマトリフの隣に座った。マトリフは店員に同じ酒をガンガディアにも持ってくるように頼んだ。
「で、前世がなんだって?」
マトリフは酒を片手にガンガディアに訊ねる。酔いがマトリフを人恋しくさせていた。マトリフは時折りどうしようもない寂しさを感じる時があった。まるで大事な何かを失ってしまったかのような、そんな喪失感が胸を支配するのだ。酒を飲んだ時はそれが顕著で、今夜もそうだった。だからこの胡散臭い奴でもいいから人の声を聞いていたかった。
「警察を呼ばないと約束してくれ」
「わかったわかった。酒もオレの奢りだ。お前の話を聞かせろ」
ガンガディアは運ばれてきた酒を一口飲んで口を湿らせると、ぽつりぽつりと話し始めた。
それは魔王と勇者がいる世界の話だった。世界を征服しようと目論んだ魔王と、それを止めようとした勇者。それはモンスターや呪文が当然のように存在する世界だった。その世界でガンガディアはデストロールで、魔王の側近だったという。マトリフは人間の魔法使いで、大魔道士と名乗っていた。マトリフは勇者の味方をして魔王を倒そうと旅を続けていたという。
「それで?」
「私と君は戦った。何度もね」
ガンガディアはその戦いの様子を克明に語った。まるで本当にそんな戦いがあったかのように、実感のある語り口だった。
マトリフは酒をちびちびと飲みながら、ガンガディアの話に耳を傾けた。
「そして最終決戦となった。君たち勇者一行が地底魔城へと攻め込んできたのだ」
そう言ってから、ガンガディアは急に口が重くなった。マトリフは続きが気になって先を急かす。
「そんで? どっちが勝った?」
「勝つのは勇者と相場が決まっている」
「ふうん。ま、いい酒のつまみになったぜ」
時計を見ればいい時間だった。明日は休みだが、電車がなくなっては困る。そろそろ帰るかとマトリフは立ち上がった。ガンガディアが持っていた伝票も取る。
「話代くらいは出すぜ」
「いや、自分の分は払う」
「いいって。大人しく奢られてろ」
マトリフは一歩踏み出そうとして、急に視界がぐにゃりと捩れた。飲み過ぎたと気付いたが、もう手遅れだった。
「大丈夫かね」
ガンガディアの大きな手に体を支えられた。他に掴まるものもなく、マトリフはガンガディアに縋り付く。
「悪りぃ……酔った」
マトリフは瞼が重くなっていくのを感じた。足の踏ん張りがきかなくなっていく。外でこれほど酔うのは久しぶりだった。
このまま寝てしまいたい。抗えないほどの眠気が地面の下から手を伸ばして、マトリフを引き摺り込もうとしていた。それに逆らうことはできない。マトリフは諦めて目を閉じた。
目が覚めたら朝だった。爽やかな朝陽が眩しくない程度に部屋に差し込んでいる。だがそこは見慣れた自分の部屋ではなく、薄汚い路地裏でもない。見知らぬ部屋だった。身を包むシーツの肌触りがよいことに感動を覚える。だがすぐに酷い二日酔いの頭痛がして、昨夜の出来事を知らせてきた。
「目が覚めたか?」
その声に驚いて振り返る。隣に寝ていたのはガンガディアだった。そこでふと気づく。マトリフもガンガディアも裸だった。
***
呻き声がマトリフの口から漏れる。上げていた頭を枕へと戻し、手で頭を押さえた。
マトリフは昨夜の出来事を全て覚えていた。それらが更に頭痛を酷くした。
「二日酔いかね。薬を取ってこよう」
ガンガディアはベッドから出るとガウンを羽織った。そのときに見えた裸体が、鮮明に昨夜の痴態を思い出させる。逞しい腕の中でよがった自分の声が耳にこびりついていた。
やってしまったという後悔がじわじわと這い上がってくる。
昨夜は居酒屋で眠ってしまい、困ったガンガディアはマトリフを自宅へと連れてきた。そこで目が覚めたマトリフはガンガディアから水を貰った。
そこで帰ればよかったのだが、時計を見れば終電が終わっている時刻だった。今からタクシーをつかまえるのも面倒だった。
「始発まで寝かせてくれ」
マトリフがそう言ったら、ガンガディアは承諾してベッドを貸してくれた。ガンガディアはベッドではなくソファで寝ると言うので、その手を捕まえて引き止めた。
「こんだけ広いベッドなんだ。隣に寝ればいいだろ」
マトリフが寝かせられたベッドはバカみたいに大きかった。そのベッドを間接照明が照らしている。
「しかし」
遠慮するガンガディアの手をマトリフは引いた。寂しさが身体を寒くさせていたのだ。さっき身体を支えられた時の、確かな温もりがもう一度欲しくなった。
「それとも、前世で敵同士だったオレとは寝れないってか?」
信じてもいない前世の話を出したのは、ガンガディアを引き留めたかったからだ。するとガンガディアはマトリフの顔の横に手をついて覆い被さってきた。
「……それだけではなかったと言ったら君はどう思う」
「どういう意味だよ」
ガンガディアの目の奥に何かが灯ったようだった。情欲か恨みか判断しかねる。
「私と君は恋人だった」
「……なんでだよ。敵なんだろ」
「私は君に憧れていたが、憧れだけでは終わらなかった」
「それで恋人になったっていうのかよ。話に無茶があるぜ」
「私の話を信じるのかね」
「いいや。けど今夜だけは信じてもいいぜ」
誘うようにマトリフはガンガディアの頬を撫でた。セックスがしたかったわけではないが、それで温もりを分けてもらえるならそれでよかった。
ガンガディアはまだ踏ん切りがつかないようにマトリフを見つめている。
「どうした。恋人だったんだろ?」
その言葉でたがが外れたようにガンガディアはマトリフの身体をかき抱いた。
ガンガディアの話を信じたわけではない。信じていないが身体の相性は良かった。これまでに感じたことのないほどのものを与えられて、戸惑いと酩酊のままに夜は過ぎていった。
ふわりといい匂いがしてマトリフは顔を覆っていた手をどけた。ガンガディアがトレイを手に持って立っていた。
「薬とスープを持ってきた。温かいものを腹に入れたほうがいい」
湯気を立てるスープの匂いに、ふと腹が減ってような気になった。差し出された器を受け取る。一口食べれば美味かった。
「あのよ、一応言っとくんだが」
マトリフはガンガディアを見ないまま言った。
「今回のことは、お互いに忘れようぜ」
「……なぜかね」
「わかるだろ。一夜だけのお遊びだったってことだ」
「私はそんなつもりでは」
「オレはお前と関係を続けるつもりはねぇよ。ここまで迷惑をかけといて悪いけどよ」
マトリフは薬を取って飲み込むと、ベッドから降りた。服は丁寧に畳んで置いてある。それらを身につけていった。
「じゃあな」
マトリフはそのまま寝室を出て、部屋の大きさに驚いた。どちらが玄関かわからずに視線を彷徨わせる。そういえば昨夜もやたらと広い部屋だと思った記憶があった。
「こっちだ」
ガンガディアがマトリフの前に立って歩いた。マトリフは自分の格好悪さに口を曲げながら部屋を眺める。ホテルのスイートルームかと思うほどの整った空間に、マトリフは白けるような気持ちになった。
「送っていこうか。ここは駅からは遠い」
「いらねえよ」
ここがどこかもわからないままマトリフは答える。ガンガディアが金持ちだと知って妙なやっかみを感じていた。
「じゃあな」
マトリフは言いながら、これまた広々とした玄関を出た。そのまま早足で歩く。どうやら高層マンションらしく、窓から見えた地上は遠い。
乗り込んだエレベーターが時間をかけて地上へと降りていくのを、マトリフはため息をつきながら待った。
***
「最近なにかあったんですか?」
アバンの問いに、マトリフは持っていたペンを落としそうになった。マトリフは顔を上げてアバンを見る。アバンは見事なアルカイックスマイルを浮かべて、首を傾げてみせた。
「別にぃ」
マトリフは持っていたペンを机に放り投げる。背を預けた椅子が乾いた音を立てた。アバンはじっとマトリフを見てから、机の引き出しを開けた。
「これ渡すのを忘れてたんですけど」
そう言ってアバンは引き出しから出したものをマトリフの机に置いた。
それはガンガディアの名刺だった。初めて会った時に渡されたものだ。
「それは捨てたんだ」
「そうだったんですか。私の机の下に落ちていたので拾っておいたんですよ」
マトリフは貰ったその名刺を会社に戻ってすぐにゴミ箱に投げ捨てた。どうやら入れ損ねて隣の席のアバンの方へいってしまったのだろう。
マトリフは名刺を手に取る。ガンガディアと寝たのは数日前のことだった。
「取引先じゃないですよね」
「ただの変な奴だ」
「名刺をくれる変な人ですか」
「金持ちのな」
「へえ」
「ゴミは分別するタイプの」
「良い人ですね」
「あとキスが上手い」
「……へぇ?」
アバンは驚いたように声をあげた。それはとても珍しいことだった。この歳下の同僚は妙に達観していて、何事も見透かしているような奴だった。
「それで、名刺はいらないんですか。もう連絡先を交換したから?」
「いいや。もう二度と会わねえから」
マトリフは持っていた名刺を今度こそゴミ箱に入れた。
「いいんですか?」
アバンは名残惜しそうにその名刺を見ていた。
「紹介して欲しいならしてやるぞ?」
「私じゃなくあなたですよ。せっかく出会えたのに」
「なんだよせっかく出会えたって。一期一会を大切にしろとでも言いたいのか」
「彼との縁を切らないほうがいいと思って」
「金持ちの友達は大切ってか」
「いえ……ただ」
アバンははっきりと言わずに曖昧に微笑んだ。アバンの指がゴミ箱から名刺を拾い上げる。
「でもキスするほどの関係になったのでしょう。いつの間にそんなロマンスがあったんですか?」
「ただの酔った勢いだっての。もう会わねえって言ったろ」
「マトリフ。あなたって人は……」
アバンは呆れたようにため息をつくと、ガンガディアの名刺をマトリフの胸ポケットへと入れた。
「おまえ……ゴミ箱に入れたもんを押し付けんな」
「だったらもう一度捨ててください」
「オレはこれを何回捨てりゃいいんだよ」
マトリフは胸ポケットから名刺を引き抜く。そのまま捨てようとして、手はゴミ箱の上で止まった。一瞬だけ、惜しいと思ったからだ。何を惜しんだのかわからずに考えを巡らせる。そこでふと、あのスープは美味かったと思い出す。
だがマトリフは手を離した。名刺はひらひらとゴミ箱へ向かって落ちていく。
「まあ、縁があればまた会うだろ」
そんな運に任せてみようとマトリフは思った。
***
運命なんてものはないのかとマトリフはぼんやりと考えた。
縁があればまた会うだろうと名刺を捨てたが、それ以来まったくガンガディアに会っていない。
マトリフのルーティンは大体決まっている。はじめて出会ったファストフード店は昼食によく行く店で、二回目に会った居酒屋も行きつけの店だ。マトリフは変わらずその店に行っていたが、ガンガディアの姿を見ることはなかった。
マトリフは今日も昼にファストフード店を訪れていた。あの時と同じ二階の、硝子張りで外の大通りが見える席に座っている。行き交う人は多い。だがガンガディアは目立つから見逃すことはないはずだ。
マトリフはハンバーガーが包まれていた紙を丸める。それをトレイに落としてため息をついた。
運命なんてない。あの出会いは偶然で、その偶然を繋ぎ止めなければ、人との縁は切れてしまう。きっとガンガディアに会うことはもうないのだろう。
マトリフは会社の研究室に戻り、自分の机を見た。その足元に小さなゴミ箱がある。当然だが、あのとき捨てた名刺はなくなっていた。
これは後悔かもしれない。では何の後悔だ。ガンガディアに会えなくなった後悔か。そんな馬鹿な。あんな作り話でナンパしてきた奴に会いたいなんてどうかしている。
マトリフは椅子に座ると背もたれに体を預けた。足を机に乗せ、四本足の椅子の前二本を浮かせてバランスを取る。ポケットから煙草を出して火をつけた。
「危ないですよ」
言いながらアバンが通り過ぎていく。手には弁当箱を持っていた。毎日美味そうな弁当を作ってくるこの同僚を見て、マトリフはふと思いつく。
「なあ」
「なんですか」
アバンは煙草の煙で澱んだ空気を手で払いながら、窓を開けに行った。
「二日酔いに効くスープって知ってるか?」
「しじみのスープとかですか」
「魚介系じゃなかった気がするんだよな。あっさりしてて、飲みやすくて」
「飲んだことがあるんですか。どこで?」
アバンに言われて、マトリフは言うんじゃなかったと後悔した。後悔が多くないか。これまで後悔なんてしたことがない人生だったというのに。
「具はなかったんだよな。澄んだ色してて、生姜が入ってたような」
アバンの問いには答えずにマトリフは記憶を辿る。そうすると満腹だったはずの腹が減るような気がした。後悔とはきっとあのスープだ。あのスープがもう一度飲みたい。これは食欲による後悔なのだと結論付ける。
そうすると、あの朝のガンガディアの様子が思い起こされた。こちらをじっと見つめるあの顔が、マトリフの思考を埋め尽くす。胸のあたりが苦しくなったような気がして、マトリフは胸をさすった。
すると体の支えを失った。椅子の足二本で支えていた体が、背後へと傾いていく。
危ない、と認識した時にはひっくり返っていた。天井と床が一瞬で回って背中に衝撃を受ける。大きな音がしてアバンが驚いたように声を上げた。
「いてぇ……」
「大丈夫ですか!?」
アバンが駆け寄ってきて、マトリフは体を起こす。見れば椅子の足が一本折れていた。
「危ないって言ったのに」
「へーへー、オレが悪りぃんだよ」
「怪我はないですか。骨とか折ってませんよね」
「年寄り扱いすんなって」
そう言ったものの、マトリフは痛みを感じて体を丸めた。手で腹に触れる。
「痛ぇな」
「どこですか」
「腹じゃねえな……こっちか」
そっと手で触れた肋骨がずきんと傷んだ。思わず顔をしかめる。
「行くなら整形外科ですよ」
アバンは立ち上がるとマトリフの上着と荷物を持った。マトリフは思わず溜息をついたが、それだけで肋骨は痛んだ。
***
そのままマトリフはアバンに付き添われて病院へ行った。増してくる痛みに呻きながら診察を受けると、肋骨にヒビがはいっているという。胸部を固定する装具をつけて様子を見ることになった。
病院を出るために階段を降りたが、それだけで痛みが響く。マトリフは鬱々としながらゆっくりと息を吐いた。アバンが気遣しげに見てくる。
「大丈夫ですか」
「大丈夫じゃねぇよ」
自分の行動が原因なだけにマトリフは悪態もつけない。いや、あいつのことを考えていてこうなったのだから、あいつのせいにしておこう。マトリフはポケットから煙草を出すと咥えた。
「それ息を吐くときに痛いんじゃないですか」
「いいんだよ」
ライターで火を付けようとしたが風に吹かれて火がつかない。カチカチと何度も火をつける。しかし北風は悪戯に火を弄んだ。
「アバン、手ェ貸してくれ」
「しょうがないですね」
アバンは両手でマトリフの手を囲むようにした。風が遮られてようやくライターに火がつく。煙草を咥えた口で息を吸い込めばやはり胸が痛かったが、煙草には火がついた。アバンの手が離れていく。
「あんがとよ」
「ほどほどにしてくださいよ」
「手遅れだっての」
そう言って歩き出そうとして、マトリフは目を見開いた。道路を挟んだ向こう側の歩道にガンガディアを見つけたからだ。
ガンガディアはこちらに気付いていない。マトリフたちが進もうとしたのとは反対の方向に歩いていく。
マトリフは踵を返して駆け出した。
「マトリフ?」
アバンの驚いた声を聞きながらマトリフは足を止めなかった。足で地面を蹴るたびに振動で胸が痛む。だがこれを逃したら一生ガンガディアに会えないような気がして、マトリフは走った。
行き交う車がガンガディアの姿を見えなくさせる。マトリフは道路を渡る方法を探した。地下道への入り口が見える。その前に声をかけて引き止めるべきか。マトリフは肩で息をしながら考えた。
「どうしたんですか一体」
追いついたアバンが困惑したように言う。そこでアバンは何かに気付いたようにスマートフォンを取り出した。
するとガンガディアが立ち止まった。ガンガディアはポケットからスマートフォンを取り出すと耳に当てている。
「申し訳ないんですが、右を向いてもらえませんか」
アバンが言った。マトリフは眉根を寄せてアバンとガンガディアを見る。するとガンガディアがこちらを向いた。アバンは小さく手を上げる。
「実はマトリフが肋骨を折ってしまって。病院に行ってきた帰りなんですよ」
「なんでお前があいつの連絡先を知ってんだよ」
「ちょっとこっちに渡ってきてくれますか」
ガンガディアは向こう側にあった地下道の出入り口へと消えた。少し待つと走る足音が聞こえてくる。見るとガンガディアがものすごい形相でこちらに走ってきた。
「骨折!? いったい何が!?」
ガンガディアはマトリフに駆け寄り大きな手で肩を掴んだ。するとアバンは持っていたマトリフの荷物をガンガディアに押し付ける。
「お大事にしてくださいね。マトリフは早退ってことにしておきます」
アバンは手を振ってさっさと行ってしまった。マトリフは痛みがひどくなってきた胸を押さえながら、どうしてこうなったかの経緯をガンガディアに話す羽目になった。
***
マトリフは自宅の鍵を開けた。一歩入って手探りで明かりをつける。築四十年のボロアパートは昼間でも暗かった。
「お邪魔する」
ガンガディアは律儀に言って靴を脱いだ。マトリフの荷物を大事そうに持っている。送っていくと言われて、今度は断りきれなかった。
「茶でも淹れるからそのへん座っとけ」
マトリフはちゃぶ台のあたりを指差しながら言う。ようやく痛み止めが効いてきたので動くのが楽になっていた。
ガンガディアは恐縮しながら正座して座っている。ガンガディアがいるだけで狭い部屋が余計に狭くなったように思えた。
マトリフが住むこのアパートは二部屋にキッチンと風呂トイレがついているだけだ。そのうちの一部屋を本や雑多な物を詰め込んで物置状態にしている。
ガンガディアは珍しいものを見るように部屋を見渡していた。といっても部屋にあるのはちゃぶ台と敷いたままの布団、その周りに散乱したビールの空き缶だけだ。
マトリフは台所に立ったものの、茶なんて無かったと思い出した。仕方なく冷蔵庫を開けて缶ビールを二つ取り出す。それを持っていってちゃぶ台の上に置いた。
「まあ飲めよ」
マトリフはプルタブに指をかけたが、その手をガンガディアに押さえられた。
「君は何を考えている!?」
「昼間っからビール飲めて最高だなって」
「君は骨折しているのでは」
「ヒビな。肋骨にヒビが入ってても酒は飲めるだろ」
ガンガディアは額に青筋を浮かべるとマトリフの手から缶ビールを奪った。もう一つの缶も手に取ると、それを持っていって冷蔵庫に戻してしまう。
「ここへ来る道中にあったコンビニへ行ってくる」
「なんでだよ」
「酒ではない飲み物を買ってくる。今見たところ冷蔵庫には酒以外何も入っていないようだが」
「だろうな」
酒以外買ってねえもん、とマトリフが言うと、ガンガディアは呆れたように溜息をついた。
「なんだよ」
「君の生活はどうなっているのかね」
「なんとかなってんだよ」
「きちんとした食事は健康に」
「説教なんて聞きたくねえよ」
マトリフはふいとガンガディアから顔を逸らす。
するとガンガディアはマトリフの正面に座った。
「マトリフ」
名前を呼ばれてマトリフはそっとガンガディアを見る。ガンガディアは手を伸ばしてマトリフの胸に触れた。そこはちょうど怪我をした部分だ。思わず顔をしかめると、ガンガディアは神妙な顔になった。まるで自分が怪我の原因で、それを悔いているかのような面持ちだ。
「なんだよ」
「……痛かったかね」
マトリフにはなぜガンガディアがそこまで深刻になっているのかわからない。ガンガディアはここではない遠くを見るかのように沈んだ目をしていた。
「そりゃ痛ぇよ」
そう言ってから、マトリフはふと思い出した。ガンガディアが話したあの世界の話だ。
「怪我を治す呪文もあるのか」
「もちろんある」
「なんて言うんだ」
ガンガディアの手がそっと胸を撫でた。ぴくりとマトリフは身体を震わせる。
「ホイミ」
その言葉が空気を震わせる。だが何も起こらなかった。やはり骨はヒビが入ったままだ。少しだけの期待は萎んでいく。
「そんな便利な呪文があるわけねえな」
「私は元からこの呪文が使えない」
「オレなら出来たのか?」
「君は賢者だからな。そう名乗るのを好まなかったが」
「ああ、それで……大魔道士だったか。大層な自称だな」
ガンガディアの手はまだ触れたままだった。マトリフは落ち着かない気持ちになってくる。さっきの触り方にエロさを感じてしまったからだ。あの夜のことを思い出してしまう。
「おい……離せよ……」
その気になりながらもマトリフはガンガディアの分厚い胸を手で押した。すると逆にガンガディアに押し倒される。マトリフの背後には敷いたままの布団があった。
「お、おい……よせって」
「君は寝ていたまえ。必要なものを買ってくる」
「コンドームか?」
「はあ!?」
ガンガディアは怒りを隠そうともせずに声を荒げた。
「この状況でセックスするとでも!?」
「布団に押し倒しておいてよく言うぜ」
「違う! 私は飲み物や食べ物を買ってくるから、君は体を休めるために寝ていたまえ!」
「……なんだ、つまんねえ」
するとガンガディアに睨まれた。その勢いに気押されてマトリフは渋々頷く。ガンガディアはぷりぷり怒りながら部屋を出ていってしまった。
そこでふと、ガンガディアに名前を教えただろうかとマトリフは思った。あまりにも自然に名前を呼ばれて、不思議と初めて呼ばれた気がしなかった。
***
マトリフの怪我をきっかけに、ガンガディアは頻繁にマトリフの家に来ることになった。今もガンガディアはコインランドリーから取ってきた洗濯物をせっせと畳んでいる。
「お前って尽くすタイプか?」
マトリフはガンガディアを見て呟く。土曜日の昼下がり。ガンガディアは朝早くからマトリフの部屋に押しかけてきた。
「君の怪我が治るまで手伝っているだけだ」
マトリフは綺麗に折り畳まれたパンツを見る。それくらい自分でやると言ったのに、ガンガディアは「君は安静にしておくんだ」の一点張りだった。ガンガディアは洗濯物の他にも食事やら掃除やらを勝手にやっていく。
マトリフは窓から隣のコインパーキングを見下ろした。この寂れたアパートには不釣り合いな外車が停まっている。この車といいあの家といい、ガンガディアはよほど稼いでいるらしい。
「私の家に来てくれるなら平日も君の世話が出来るのだが」
「あんなでけえ家は落ち着かねえんだよ」
ガンガディアからは怪我が治るまでの間だけでも一緒に住まないかと誘われている。だがマトリフはそれを断っていた。
「しかし」
「オレは一人でも大丈夫だって言ってんだろ」
「君のことが心配なんだ」
ガンガディアは丁寧に畳んだ洗濯物を片付けていく。あまりに世話を焼かれてマトリフは面白くない。優秀な介護人がいて安心ですね、と言った同僚の顔がちらつく。
「なあ、それより」
マトリフは言ってガンガディアに手を伸ばした。ガンガディアはすぐにマトリフの元へと来る。マトリフはガンガディアの服を掴むと意味ありげに見上げた。
「……いいだろ?」
「なにがかね」
「言わせんなよ」
そう言ってマトリフは目を閉じた。さあキスしてみろと待ち構える。ガンガディアの躊躇いが見なくても伝わってきた。
「まだ君は怪我が治っていない」
「何も最後までやろうって言ってんじゃねえ。キスくらいいいだろ。せっかく恋人になったんだから」
お前のことが好きになったみたいだ、と言ったのはマトリフのほうからだった。ガンガディアがこの部屋を訪れた何回目かのときに、マトリフは観念して伝えた。マトリフは恋を知らないわけじゃない。ガンガディアに対する気持ちがどうにも恋愛感情なのだと気付いてしまって、そのままその感情に目を瞑ることも出来なかった。ガンガディアはマトリフの告白を聞いて「私も君のことが好きだ」と返してきた。そのしゃちほこばった態度が笑えたが、とにかく二人は恋人という関係に落ち着いた。
ガンガディアはマトリフの肩をそっと掴んだ。目を閉じたマトリフは余裕の表情でガンガディアのキスを待つ。
ふっと息を飲む音がして、唇に柔らかい感触がある。触れるだけにしようというガンガディアの思惑を無視して、マトリフは小さく口を開けると舌先でガンガディアの唇を舐めた。啄むように唇を食むと、肩を掴むガンガディアの手に力がこもる。欲望に負けるようにガンガディアは口を開けた。マトリフは身を乗り出すようにしてガンガディアに深く口付ける。夢中で貪っているとだんだんと身体は熱くなってきた。
「……抜いてやろうか?」
甘い息をついてマトリフはガンガディアのものを見た。ぴったりとしたズボンの中で窮屈そうにしているものに指先を這わす。その大きさを思い出してマトリフは自然と笑みを浮かべた。
「その必要はない」
ガンガディアはそう言ってマトリフを引き剥がすと立ち上がった。
「お手洗いを借りる」
ガンガディアはトイレに行くと鍵までかけてしまった。マトリフはつまらない気持ちになってトイレの前まで行くと、その前に座り込む。
「抜くときのオカズってオレなのか?」
「ノーコメントだ」
そう律儀に返してくるガンガディアに、マトリフは小さな声で笑った。
***
ガンガディアと過ごした数年を、ただ楽しいという簡単な言葉では言い表せなかった。喧嘩らしい喧嘩はしなかったが、元々の性格も価値観も違う二人であったから、小さな衝突は幾度となくあった。その度にガンガディアが折れるので、マトリフは自分がどんどんと我儘になっていくように思えた。
ガンガディアは実に誠実で思慮深く、深い愛情を持っていた。ついでに莫大な資産を親から引き継いだらしく、今後一生働かなくても困らないほどの資産を持っていた。
そんないい男がなぜ自分を、とマトリフは思わないではなかった。マトリフは研究職に就いていて給料は悪くなかったが、その殆どを酒とギャンブルに注ぎ込んでいたので貯金もなく、住むのはボロアパートであったし、誰もが振り向くような容姿もしていなかった。性格の面でも優れているとは言えず、職場でも同僚のフォローがあるからやっていけているようなものだった。
ただガンガディアは「前世」を本気で信じており、その「運命の相手」であるマトリフを愛しているということは、この数年で嫌というほどわかった。
ガンガディアは自分でも無意識のうちに、マトリフを通してマトリフではない誰かを見ていた。その視線の沈んだ色を見るたびに、マトリフはどうしようもない寂寥を感じた。
そしてそんな目をする夜に限って、ガンガディアは獰猛な獣のようにマトリフを抱くのだった。普段の冷静さはどこへ行ったのか、本能のままにマトリフを求め、終わってからそれを悔いる。マトリフはそんなときにガンガディアを拒絶することが躊躇われた。私は愚かな生き物だとさめざめと泣くガンガディアの背を撫でて、お前にだったら何をされてもいいと慰めるのだった。
だがそれを差し引いても、ガンガディアと過ごした数年は楽しかった。誰かを好きになるなんて何年振りかわからないが、その気持ちの浮き沈みや、肌の触れ合いや、何気ない日常は心地良いものだった。
ずっとガンガディアと一緒に生きていけたらと本気で思うほどに、マトリフはガンガディアを愛していた。
マトリフは大きな窓から空を見上げる。冷たく澄み切った晩冬の空からは、鈍い光が降り注いでいた。
時計は昼の一時を指していた。喫茶店内は昼に提供された食事の匂いがぼんやりと残っている。マトリフの前には水の入ったグラスが置かれているが、飲まれることはなく役目は終わりそうだ。
ガンガディアに伝えた待ち合わせ時間まで暫くある。だがそろそろ来るだろうと店の出入り口を見た。生真面目なガンガディアは待ち合わせ時間より早く着くだろうから、それより早く来て待ち構えていた。
少し待つとガンガディアが店内に入ってきた。既にマトリフが来ていることに驚いて、早足でこちらに来る。その姿を見て感じた気持ちが、マトリフは自分でもよくわからなかった。
「私は時間を間違えただろうか」
「いいや。早いくらいだぜ」
「君はここで昼食を? それなら一緒に……」
「いや。たまにはお前より早く来て待ってるのもいいかと思ってな」
ガンガディアは不思議そうにマトリフを見ていた。マトリフの様子がいつもと違うことに気付いているのかもしれない。
「どうかしたのかね」
ガンガディアは心配さと不安が入り混じった顔をしていた。マトリフは思わず笑ってしまう。これまで見てきた風景が、全く違う光景に見えることに気付いたからだ。
マトリフは記憶を取り戻していた。大魔道士と名乗っていた頃のことを思い出したのだ。
ガンガディアが語ったドラゴンと呪文のある世界は本当にあった。そこでマトリフは大魔道士で、ガンガディアはデストロールだった。二人は敵同士で、何度も激しく戦った。
「なあ、ガンガディア」
ガンガディアがマトリフに語って聞かせた前世の話は殆どが本当のことだった。たった一つ。一つだけ嘘が混じっていた。
マトリフとガンガディアは恋人などではなかった。マトリフは最後の戦いで、ガンガディアを呪文で消し去ったのだ。
店員が音もなくテーブルへとやって来た。マトリフはテーブルの端にあったメニューを取ってガンガディアに向ける。
マトリフは注文を既に決めていた。
「 」