倒幕しなかった1340年 その3 いっそ清々しい思いがして、常興はゆっくりと息をついた。吹き飛んだ木片が軌道を描きながら落ちていく。派手な音と共に吹き飛んだ砦を遠目に見ながら、これで鎌倉に戻れると常興は微笑んだ。
「兄上……いくらなんでもやり過ぎでは」
「悪党共に手加減などいらぬ」
大急ぎで信濃に帰ってきた常興と新三郎であったが、たった三日で常興は悪党共の根城である砦を見つけ出して、爆破した。爆薬は夜のうちに仕込んでおき、朝になって見張りが欠伸をしながら出てきたところを、吹き飛ばしたのだ。
瘴奸とまともに斬り合っても勝機はない。であれば、瘴奸が思いもよらない方法を取るしかなかった。元の世界で瘴奸とは少なからず関わりがあった常興は、瘴奸が武芸や兵法に通ずる反面、新しい兵器などに疎いと知っていた。
「しかし、あんな小僧に頼るなんて」
「手段を選んでいる場合ではない」
砦の捜索や爆薬の仕掛けなどは、とある狐面の小僧を見つけ出してやらせた。しかし狐面の小僧は守銭奴で、常興は私財を殆ど投じることになった。
「さて、鎌倉に戻るぞ」
「え?今からですか。こっちに着いてまだ三日ですよ」
「三日あれば十分だろう。さっさと支度しないか」
鎌倉から信濃まで三日、さらに悪党退治で三日を要した。常興は一刻も早く鎌倉へと戻りたかった。
しかし、ようやく旅準備が整った頃になって来客があった。その胡散臭い後光に、顔を見る前から誰が来たのかわかるほどだった。
「何の用だ」
忙しい最中に現れた諏訪頼重に、常興は警戒した。この世界の諏訪頼重も存命だとは聞いていたが、会いたい相手ではなかった。
「先ほど、派手な爆発があったので様子を見に来たのですが、もしや、うちの者が関わってる、なぁんてことはありませんよね?」
頼重はこれまた胡散臭い笑みを浮かべて、後方から連れてこられた風間玄蕃を見た。その玄蕃の首根っこを掴んでいるのは市河助房だった。知っていたこととはいえ、市河が頼重の側にいることに常興は強い違和感を覚える。
「さて、なんのことやら」
常興は白を切ろうとしたが、市河が一歩前に出た。
「あの火薬の音は間違いなく玄蕃が作ったもの。こいつは金がなきゃ動かない奴でしてね。しかも吹き飛んだのはここいらで悪さをしている悪党共の砦とあっては、誰が依頼したかなんて火を見るより明らか」
大きな耳に手を添えて見せる市河に、味方にいても敵にいても厄介な相手だと常興は拳を握る。
「だったら何だというのだ。我々は領地を守るために悪党共を吹き飛ばしただけだ。その小僧には仕事の対価を支払った。何か問題があるのか」
すると頼重がじっと常興を見てきた。それはもうじっと、まるで暇なカレー屋の店主のように見てきた。
「……なんだ」
常興は思わず後退る。頼重の顔がまともに見られなくて、目を逸らした。
「……もしや、あなたは向こう側から来たのでは?」
頼重の言葉に常興は体を強張らせた。やはりこの世界の頼重も「向こう側」を知っているらしい。
常興をこの世界へと導いたのは頼重だった。あの大徳王寺で打ちひしがれる常興の前に、諏訪頼重は亡霊となって現れた。そして「向こう側」であれば、貞宗を救えるかもしれないと言った。
「向こう側?」
新三郎が聞き返す。市河も怪訝そうに頼重を見ていた。
「……なんのことだか。忙しいので帰っていただきたい!」
目的を邪魔されるわけにはいかない。常興は太刀に手をやった。すると市河も太刀に手をかける。双方に緊張が走った。
するとその空気を壊すように頼重が明るい声を上げた。
「あなたの邪魔するつもりはありませんよ。よほど大切な人のためなのでしょう」
頼重の言葉に常興は背筋が寒くなった。まるで頭の中を覗かれているような気がしたからだ。すると頼重は更に言葉を続けた。
「私が見えるのはほんの少しですよ」
謙遜するように言う頼重に、常興は顔を引き攣らせた。
「さっきから何の話をしているのですか」
市河が頼重に尋ねるが、頼重は笑いながら誤魔化した。
「それでは、ご武運を」
頼重は市河と玄蕃を連れて引き返していった。常興は頼重が邪魔してこなかったことに安堵しつつも、気を引き締めねばならないと思った。
そして、そんな常興の姿を、少し離れた木々から覗く者たちがいた。
「さっさとぶっ殺しましょうよ〜」
小声で囁く腐乱の髪は爆発のせいで縮れていた。砦の朝の見回りに当たっていたのは腐乱であったが、足利学校で受けた訓練のおかげで爆発に巻き込まれても死なずに済んでいた。
「まだだ。あいつらはまた鎌倉へ向かうらしい」
瘴奸は狂気に満ちた眼で常興を見ていた。瘴奸たちは砦に仕掛けられた爆薬に気付いて避難していた。しかし敢えて爆破させ、死んだと思わせることにした。兵は詭道なり。騙し欺くことこそ兵法の基本であった。
「じゃあ、あいつらがいなくなったら館を襲いましょうぜ」
死蝋は待ちきれないように得物を握る。しかし、瘴奸は死蝋の頭を押さえつけた。
「館は襲わない。俺たちも鎌倉へ行くぞ」
郎党から不満の声が上る。しかしその声も瘴奸が視線をやるおさまった。
「あれほど急いで鎌倉へ戻るのは、何かあるからだ」
「何かって何すか」
「それを確かめにいく。この地にも飽きてきたしな」
悪党達の低い笑い声が山中に響く。
様々な思惑が人々を鎌倉へと引き寄せていた。
そして鎌倉でも、小さな波紋が起こっていた。
小笠原貞宗は今日も時行の鬼ごっこに付き合わされ、ようやく弓の稽古を終えた。
夕暮れに染まる家路を歩く貞宗の背もまた、赤く染まっている。春の夕暮れは寒く、貞宗は微かに身を震わせた。しかし、急ぎかけた足を引き止めるように、貞宗に声をかける者がいた。
「小笠原殿」
「これは、高氏殿」
貞宗は立ち止まって尊氏に頭を下げた。すると尊氏は穏やかな表情で空を見た。
「良い気候ですな」
「ええ、待ち侘びた春ですな」
貞宗も空を見上げながら腰をさする。すると尊氏はそれに目を止めた。
「おや、お疲れですか」
「歳には勝てませぬな。最近は体が痛むようになってまいりました」
すると尊氏の眼が気遣うように細められた。
「何を仰るのです、小笠原殿。まだまだこれからではありませんか」
尊氏は貞宗に近付くと、じっと目を見つめてきた。夕暮れの中で尊氏の眼は不思議なほど輝いて見えて、貞宗は体が浮くような心地よさに襲われた。
「小笠原殿は春を感じたいとは思いませぬか。人生の……我が世の春、というものを」
貞宗は一瞬顔を強張らせたが、小さく首を横に振った。
「そんなものを望む歳ではありますまい」
「歳など関係あるものですか。必要なのは、それを望む心ですよ」
尊氏の声音は神秘的な魅力に満ちていた。貞宗は諦めた夢が灰の中から蘇るような感覚がして目を見張る。この平穏な生活を、全て投げ打ってもいいと思うほどの魅力がそこにはあった。
「儂が高氏殿ほど若く、力に溢れていたら考えもしましたが、もう秋を迎えて冬を待つ身です」
最後の理性が言わせた言葉に力はなかった。尊氏はそっと貞宗に身を寄せた。
「ならば次の春に向かいましょう。今宵は私の酒に付き合ってください」
尊氏の手がそっと貞宗の肩に触れた。貞宗が頷くより早く、尊氏は貞宗の背を押して歩き出していた。