酒が飲みたい夜 籠城するときに欠かせないのは食料、飲水の確保である。限られた物資しかない中で、兵を食わせて士気を保つ。そのために酒も多少は備蓄してあるが、真っ先に尽きていた。
赤坂城に籠ってどれほど経つか。戦況はこちら側に有利でないことを、楠木正成は十分に承知していた。様々な奇策で切り抜けてきたものの、ここが限界かもしれないと、撤退を考えていた。
「将監殿はおられるか?」
此度の戦に誘った悪党に、平野将監という男がいた。それなりの数の郎党を率いており、兵法にも通じている。城から逃げ出す算段を話し合おうと楠木は考えていた。
「あぁ、いるにはいるんすけど」
いつも将監の側にいる若い郎党が言った。その歯切れが悪い言い方に、何か事情でもあるのかと楠木は尋ねる。すると郎党は頭を掻きながら、後方を振り返った。その奥は仕切りがされて、寝床になっている。将監と誰かが喋る声が聞こえていた。
楠木は仕切りの奥を覗く。漂ってきたのは酒の匂いだ。とっくに尽きたと思っていた酒がまだ残っていたらしい。
「お頭ぁ、これも酒なんですから、これでいいでしょう?」
宥めるような声音で言っていたのは、顔が髑髏のような男だった。手には酒甕を持っている。
「嫌だ」
そう言った将監はぐったりと横たわっていた。虚な表情をしているので、体の具合が悪いのかと楠木は駆け寄る。
「如何した将監殿」
「……楠木殿……ちょうどよかった」
将監は楠木を見ると腕をついて体を起こした。
「無理をされるな。何か必要なものがあれば持ってこよう」
「そう、必要なものがあるのです。たしかこの城の近くに小さな村がありましたな?」
「あるが、それがどうしたでござる」
将監は瞠目すると楠木を見た。その眼が濁っているように見えて、楠木は訝しむ。
すると将監は懇願するように言った。
「その村に掠奪に行かせてほしい」
「……は?」
「親は殺して子供は売って、その金で買った酒を飲みたい」
将監の濁った眼は炯々と輝いていた。だらしなく開いた口からは唾液が垂れている。
「あ、ほら頭、また涎垂れてる」
先ほどの若い郎党が来て手拭いで将監の口元を拭いている。その手慣れた様子からから、将監のこの状態は戦中の乱心などではなく、よくあることなのだと窺い知れた。
「将監殿、酒ならそこにあるようだが?」
悪党の素行の悪さは承知の上で、多少は目を瞑ってきた。しかし、この逼迫した状況で酒のために掠奪に行きたいと言われて承諾できるはずがない。しかも酒ならまだあるのだから。
すると将監は楠木の直垂の胸元を掴んだ。見開かれた濁った眼がじっと楠木を見つめる。将監は郎党が持つ酒甕を指差して言った。
「これは何だ、楠木殿」
「酒でござる」
「そう、ただの酒だ。私が欲しいのは両親を失って絶望した子供を売った金で買った酒だ」
恍惚の表情を浮かべて将監は言った。瞳孔が拡大して、緩く開いた口からまた涎が垂れて顎まで伝う。そこに理性はなく、一度覚えた欲望を際限なく満たそうとする貪欲さだけがあった。
救いようがない外道だ。
楠木正成は安心させるように将監に微笑んでから、渾身の力で将監の頬を張り倒した。勢いで近くにいた郎党にぶつかり、酒甕が割れた音がする。
「てめぇ、何すんだ!」
くってかかろうとする若い郎党を睨め付けて楠木は立ち上がった。
「戦死者の死体を替え玉にして貴様らを逃し、この城にも火を放つ。掠奪がしたければその後で好きにしろ」
気圧された郎党たちは声も上げなかった。ただ将監は嬉しそうに低い笑い声を上げている。
やはりどうしようもない腐れ外道だと楠木は思ったが、何も言わずに踵を返した。