魔導図書館の地下深く アバンがマトリフを訪ねたのはあの戦いから数年後のことだった。最後に会ったときには彼はパプニカの王宮に勤めていた。そのためアバンはパプニカにむかったのだが、そこに彼はいなかった。
アバンにその事を伝えたのは城の衛兵だった。もう辞めたと言われたきり、理由さえ教えてくれない。アバンがなんとか聞き出そうとすると、王の側近という者が出てきた。その者が言うには、マトリフは最初からパプニカ王国に仕える気など無かったのだという。仕事も不真面目、職権の濫用、閲覧禁止の魔導書の持ち出しなどを行なったために追放したという。側近はマトリフが国家を転覆させようとしていたのではないかとまで言った。
アバンはマトリフのことはあの旅の間のことしか知らない。彼が癖のある人物であることは間違いないが、側近の語るような人でないことは理解していた。マトリフは魔王との戦いで我が身を削ってまで正義のために戦ってくれたのだ。
側近は最後に、最近ヨミカイン遺跡の近くでマトリフを見かけたと言った。そしてその傍に青いトロルがいたという。それを聞いてアバンははじめて疑念を抱いた。青いトロル。それはあの戦いでマトリフが呪文によって消滅させたからだ。
***
アバンがヨミカイン魔導図書館に辿り着いたのは夕暮れ時だった。ヨミカインは崩壊したが、その後にパプニカによって修復が試みられたらしい。しかし損傷が激しく、また水中での作業は困難を極めた。そのために途中で頓挫したらしい。魔導図書館を囲む泉には建築資材が半端に放置されていた。
アバンは薄暮のなか泉の周りを歩く。暗闇はすぐそこまで迫っていた。アバンが灯りを灯そうとしたら、泉の一箇所が淡く光っているのが見えた。近づくとその光は泉の中から発せられているのだとわかる。それが呪文によるものだとアバンは気づいた。
アバンは意を決して泉に飛び込んだ。淡く発光する呪文を辿って潜っていく。崩壊した図書館の瓦礫が泉に沈んでいた。その中で大きな水泡が見える。淡く光っているのはその水泡だった。アバンはそれに近づき、手を差し入れる。水泡は弾けることなくアバンを迎え入れ、やがてアバンは完全に水泡の中へ入った。
水泡は崩壊した図書館を包むようになっていた。アバンは大きく息を吸い込む。水に囲まれて冷えた空気が肺を満たした。図書館は崩れたものを支え直して通路にしたらしく、水泡の入口からその通路が奥へと続いていた。これが魔導図書館再建の名残なのだろうか。だとすると、それに関わっていたのはマトリフだ。この水泡の呪文には彼の魔法力を感じる。アバンはその先にあるものに不吉さを感じて足を踏み出した。
***
アバンは図書館を奥深くまで進んだ。図書館は下層まで深く続き、崩壊は途中で止まっている。水の侵食もなく、地下深い図書館は薄暗く冷たい空気でアバンを包んでいた。
進んでいくとしんと静まった空間に微かに声が響いた。そして近づくにつれてそれがマトリフのものだとわかる。見ると少し先に明かりの灯った部屋があった。アバンは走り出す。
「……マトリフ?」
アバンが見たのは青いトロルと談笑するマトリフだった。アバンに先に気付いたのは青いトロルのほうだ。トロルが立ち上がる。マトリフはそれでアバンに気づいた。
「おう、アバンじゃねえか」
マトリフの表情は明るかった。それはあの旅の最中に些細なことで笑い合った時と同じだ。
「……ダ……コ、ロ……」
青いトロルがアバンのほうへと一歩踏み出した。それを見てマトリフは眉をひそめると指を掴んで止めた。
「アバンだよ。知ってんだろ?」
マトリフはなだめるように青いトロルの指を撫でた。その指に燻んだ色の指輪がある。そこでアバンはあの戦いのことを思い出した。
あの戦いでマトリフは極大消極呪文を放った。ガンガディアはそれを受け、手だけを残して消滅した。その呪文の威力は凄まじく、大地を大きく抉るほどだった。だがマトリフは呪文の成功を喜ばなかった。呆然と地に膝をつき、落ちた青い手を見つめていた。その手の中指には指輪があり、マトリフは目を閉じると、まるで愛しいものに触れるようにその指輪に手を這わせた。
「マトリフ……あなたの隣にいるのは誰ですか」
アバンはマトリフに問いかける。マトリフは青いトロルからアバンへと視線を移した。
「ああ? お前まで何言ってんだよ。ガンガディアだろ。もう忘れちまったのか?」
「いいえ。そのトロルは彼ではない」
マトリフの横にいる青いトロルは、そもそもトロルであるのかすら怪しかった。まるで幼児が粘土をこねたような曖昧な造形で、かろうじてトロルのようではある。唯一、指輪をはめた手だけがトロルのそれだった。まるで無理矢理に貼り付けたように、くすんだ青い手が生えている。おそらく、消滅呪文から残ったガンガディアの手を元にして、マトリフが禁呪法で生み出したのだ。だが、一度消滅した命は二度とは戻らない。しかしマトリフはまるでガンガディア本人のようにそのトロルを見ていた。
「ダ……ドウ……ィ」
突然青いトロルの身体が崩れ落ちた。見れば脚の肉が崩れている。
「ほら、だから急に動くなって言ってんだ」
マトリフはすぐに青いトロルの脚に回復呪文を唱えた。肉は崩壊を止めたが、なかなか元には戻らない。部屋中に眩い回復呪文の光が満ちた。それは過剰な魔法力の氾濫だった。マホイミ寸前の、ぎりぎりの回復呪文を受けてもトロルの肉体は再生しない。
マトリフの眼は必死だった。彼は超えてはいけない一線を超えてしまったらしい。もしかすると、パプニカで聞いた話は本当かもしれなかった。マトリフはパプニカ国王の相談役という地位を得て、このヨミカイン魔導図書館を修復しようとした。閲覧禁止の魔導書を持ち出したり、魔導図書館を修復しようとしたのは、消滅した身体を再生させるという禁呪法を探していたのかもしれない。なにが彼をそこまで追い詰めたのかはわからないが、アバンは彼を止めなければならなかった。
「ぐッ……」
マトリフは呻いた。見ればマトリフは吐血している。彼の法衣にはよく見れば黒ずんだ血が散っていた。禁呪法を使ってガンガディアを復活させ、無茶な回復呪文を使い続けて人間の身体が持つわけがない。しかしマトリフはトロルへの回復呪文を止めなかった。
「マトリフ!」
「うるせえなぁ……いま忙しいんだよ」
「やめてください! 死んでしまいますよ!」
アバンはマトリフを止めようと駆け寄ったが、青いトロルの腕がそれを阻んだ。アバンは部屋の隅まで弾き飛ばされる。本棚にぶつかり、はずみで本が数冊落ちてきた。
「大……マド……シ……」
青いトロルの目は炯々と光っている。そこには確かに意識があるようだ。アバンはぶつけた頭を振る。あの旅で、ガンガディアは幾度となくマトリフに戦いを挑んでいた。その執着が滲んだ眼差しをアバンも覚えている。
「悪りぃなアバン」
マトリフはアバンを見なかった。しかしその横顔に見える眼差しに、どうしても狂気を見出せなかった。冷静さと叡智で仲間を助けてくれた彼が、変わらずにそこにいる。マトリフは正気を保ちながら、地獄へと足を踏み入れたようだ。
「二人きりにしてくれ」
マトリフの呟きにアバンは壁に手をついて立ち上がった。もしかしたら、彼ははじめからそのつもりでパプニカの宮仕えを選んだのかもしれない。あの戦いでガンガディアを失ってから、マトリフの中で何かが変わってしまったのだろう。アバンはそれに気付けなかった。
アバンはやりきれない気持ちでマトリフに背を向けた。仲間は既にそれぞれの道を選び進みはじめた。進めなかった者すらいる。アバンは己の手のひらを見つめた。幼い弟子を川へと沈めてしまった咄嗟の一撃の感触が、まだその手に残っている。
胸中に深く埋没した悪の心は誰にでもあるのかもしれない。それが表面に浮かび上がらないように必死で耐える者もいれば、環境によって否応なく悪に飲まれる者もいる。必死に手を伸ばしたとして、全てを救えるのだろうか。
アバンは立ち止まる。たとえ救えなかったとして、手を伸ばすことすら諦めていいのだろうか。アバンは振り返った。やはりマトリフをこのままにはしておけない。アバンはマトリフたちのいる部屋に戻った。
「大魔……ドウ……シ……コロ……テ、クレ……コロヂテ……クレ」
「それは駄目だって言ったじゃねえか」
マトリフは回復し終わったトロルの脚を満足そうに見ていた。青いトロルはその眼から涙を流している。それは異様な光景だった。マトリフは殺してくれと懇願するトロルを、無理に生かしていた。アバンは背筋が寒くなるのを感じる。しかし青いトロルは手を伸ばしてマトリフを抱きしめた。
「キミ……ガ……死ンデ……シマ、ウ」
「いいんだよ。そのときがくるまで、おまえはここでずっとオレと一緒に……」
マトリフは言い終わる前に胸を抑えて踞った。息が詰まったように口をはくはくと動かしている。アバンはハッとしてマトリフに駆け寄った。
「マトリフ!」
「うぐっ……あッ……」
そのとき、青いトロルがマトリフから離れた。途端にトロルの手が崩れる。まるで砂が流れ落ちるように身体が崩壊していく。それを見てマトリフは叫び声を上げた。
「ガンガディア……やめろ! やめてくれ!」
悲痛な声が部屋にこだました。青い肉体は床に崩れ広がっていく。マトリフはそれを止めるためか、受け止めるためか手を伸ばした。禁呪法で作られたトロルの身体は、常に魔法力を提供し続けなければその身体を維持できないらしい。一度崩れはじめたそれはあっという間に塵芥になった。その中に金色の指輪だけが残っている。マトリフは必死に魔法を紡ごうとするが、再び血を吐いて床に倒れた。身体が痙攣している。しかし尚もマトリフはトロルだったものに手を伸ばし続けている。
「マトリフ! もうやめてください」
「……ガン……ガディア……」
マトリフの手がガンガディアの指輪に伸びる。その手の先は魔法力がこもっていたが、しかし届く前に力を失って床に落ちた。マトリフの手から魔法力が失われていく。その手がもう動かないことをアバンは悟った。マトリフの命は燃え尽きてしまった。
「なぜ……」
水の流れる轟音が響いた。マトリフの魔法力が失われ、水泡の呪文が解けたのだろう。すぐにここも水に沈む。
アバンはガンガディアの指輪を拾い上げるとマトリフの側に置いた。マトリフの手をそこに重ねる。アバンはかつての仲間に短い葬いの言葉を残して立ち上がった。
アバンは地上に向かって走った。途中で水流が襲いかかり、地下深くへとアバンを引きずり込もうとする。しかしアバンはその流れに逆らって、必死で地上を目指した。
アバンが泉から上がると、空には満月が浮かんでいた。アバンは肩で息をしながらそれを見上げる。アバンのあげた号哭は静かな夜に吸い込まれていった。
おわり