父と子 瘴奸はその少年を見下ろして喉を鳴らした。小笠原貞宗の嫡子と紹介されたその少年は、瘴奸を見るなり身を縮めて父の背に隠れてしまった。
「こら、政長。挨拶をせぬか」
瘴奸は正式に小笠原の郎党として加わり、挨拶に回っていた。一通り済ませたところで、貞宗は長男である政長を呼んだ。
政長は歳の頃は十四、五あたりで、手足がすっと細長いが肉付きの薄い、少年特有の体つきをしていた。顔は貞宗に似ている部分があるものの、受ける印象はかなり違っている。
「挨拶も出来ぬように育てた覚えはないぞ」
貞宗は政長の背を押して前に出そうとするが、政長は貞宗の背にしがみついて離れなかった。その必死の抵抗に、瘴奸は笑みを浮かべて貞宗を制した。
「構いません。大殿に似て良い目をお持ちのようですな」
貞宗は政長を離すと奥に戻るように言った。政長は一瞬だけ瘴奸に視線をやると、逃げるように去っていく。しかし、色白の顔にある慎ましやかな目玉は、射抜くような力強さがあった。
「すまぬな。いつもはああではないのだが」
貞宗は困ったように政長が去っていたほうを見ていた。その表情は父親のものであり、瘴奸は初めて見たその表情につい気が取られてしまった。
「どうかしたか」
貞宗が瘴奸の視線に気付いて見上げてくる。貞宗の知らない一面に、瘴奸はつい笑みが浮かんだ。
「いえ、なんでも。政長殿は大殿のように優れた観察眼をお持ちのようで、感服しました」
「何故そう思う?」
「随分と警戒しておられたので。私を見て危険を感じたのなら、素晴らしい観察眼です」
すると貞宗は息をついて、瘴奸の耳をつまんだ。貞宗の思わぬ行動に瘴奸は目を瞬かせる。貞宗はそのまま瘴奸を引っ張って歩くので、瘴奸は身を屈めてついていくしかなかった。
「大殿?」
「いいから来い」
空いた部屋まで連れて行かれて、ようやく耳は解放された。僅かにひりつく耳を瘴奸は手で押さえる。すると貞宗は戸を閉めて、部屋には貞宗と二人きりになった。
「そちのどこが危険なのだ?」
貞宗は腕を組んで瘴奸を見上げる。瘴奸は苦笑せざるを得なかった。
「……それは言わずとも」
子供を売った金で酒を飲んでいた瘴奸のどこが危険なのか、説明など不要だろう。まともな判断力がある親なら、我が子を瘴奸に会わせたいと思うはずがない。それを貞宗は信頼の証なのか知らないが、まだ少年と呼べる年頃の我が子を瘴奸に引き合わせた。どうかしていると思っていたが、当の政長は瘴奸を見た途端に警戒を露わにした。瘴奸がどのような人間か見抜いたからだろう。
すると貞宗は何を思ったのか、今度は瘴奸の頬をつまんで引っ張った。瘴奸は瞠目して口を開く。
「おおとの」
「何が大悪党だ。そちは儂の前では小熊のようではないか」
それは貞宗が大恩のある相手だからであって、もし同じようなことを他人にされたら、腕の一本や二本は斬り落としている。だが瘴奸は思っても言いはしなかった。貞宗の前では小熊にでもダニにでもなる。
「政長の人を見る目もまだまだのようだな。そちの生真面目さを見抜けぬようでは、上に立つことは務まるまい」
「私からすれば、大殿の警戒心の無さのほうが心配です。私が言うのもおかしいですが、昨日今日引き入れたばかりの者に、このような距離を許されては危険です」
「そちが儂を害するか否かなど、気にしておらぬ。信じねば始まらぬからな」
はっきりと言い切る貞宗に、瘴奸は咄嗟に言葉が返せない。
信頼とは、証拠を積み上げて得るものである。だが貞宗は最初から答えを決めているのだ。裏に何があろうとも、それを受け入れるつもりらしい。
やはり貞宗は上に立つ者の器を備えているのだろう。人としての魅力というべきだろうか。それが恐ろしくもあり、それ故に絆されたことを自覚しながら、瘴奸は貞宗の手を取った。
「これは政長殿」
数日後、訪れた守護館で瘴奸は政長を見かけた。弓を手にして片肌を脱いでいるので、稽古からの帰りなのだろう。
政長は瘴奸を見ると険しい顔になった。しかし逃げたりはせずに、厳しい視線を寄越してくる。
「そう心配なされるな」
瘴奸は無理に近づかずに政長を見た。小さな目鼻から感情を読み取るのは難しいかと思ったが、政長の感情はわかりやすかった。あからさまな警戒はかえって悪い気がしない。
「弓の稽古ですか?」
瘴奸は穏やかな笑みを浮かべならが尋ねた。政長はここで答えねば流石に礼を失すると思ったのか、不承不承に頷く。瘴奸は空でも眺めるようにして、さりげなく一歩近づいた。
「熱心ですな。お父上を超える日も遠くないでしょう」
すると政長は小さな目をいっぱいに見開いた。触れられたくない感情に触れたらしい。政長は貞宗に対して、対抗心のようなものを持っているようだ。
「あのような立派な父上がいて羨ましい限りです」
「お前に父上の何がわかる」
食ってかかる政長に、瘴奸はさらに一歩近付いた。こうして見ると政長は実に貞宗に似ている。この気性などはまさに貞宗から受け継いだものだろう。
瘴奸は作った笑みを消して、一呼吸を置いてから言った。
「私は、自分の父とわだかまりがありまして」
政長は小さく薄い眉をひそめた。瘴奸は政長から視線を外さないまま言葉を続ける。
「約束していた領地を頂けなかったのですよ。それを恨んで家を出て、賊に成り果てていたところを、お父上に拾って頂いたのです」
瘴奸は自分で言っておきながら胸が騒つくのを感じた。父のことは貞宗にも話していないことであった。
政長も突然の瘴奸の告白に戸惑っているようで、厳しかった視線に少しの好奇心が生まれていた。
「何故それを俺に言う」
「こちらから胸襟を開いて信頼を得ようかと思いまして」
瘴奸の明け透けな言葉に、政長は小さな口を引き結んだ。瘴奸の真意を図りかねているのかもしれない。
あと一押しだろうかと瘴奸が言葉を選んでいると、政長がまたじっと瘴奸を見つめた。その視線に瘴奸の背がすっと冷える。口から出ようとしていた言葉は消え、沈黙が落ちた。
すると政長は迷いを振り切るように踵を返した。
「お前のことは好かん。これ以上俺に話しかけるな」
去っていく政長に、瘴奸は初めて貞宗に出会った時のような興奮を覚えていた。
「お父上によく似た……いえ、お父上以上に良い目をお持ちですな」
貞宗は瘴奸が持つ生真面目さを見抜いたが、政長は瘴奸が捨てきれずに押し込めた欲求を見抜いていた。
さぞ高く売れるだろうと瘴奸は思う。だがそれ以上に政長の顔が絶望に染るのが見てみたかった。一貫文にも満たない金で売り払って、その金で安い酒を買う。それを口に含んだ瞬間の多幸感を想像して、瘴奸は喉を鳴らした。