ティポタ 不思議なダンジョンがある、と聞いて来てみたものの、あまりの平和さにマトリフは大きな欠伸をした。
「気が緩んでいるではないか、大魔道士」
「だってよぉ、随分と深く潜ってんのにスライムとドラキーしか出てこねえんだぜ?」
かといって派手なトラップがあるわけでもない。通路が狭くて少々入り組んでいるものの、迷うほどでもなかった。
このダンジョンをマトリフに教えたのはポップだった。ポップは各地の遺跡を調べており、その中でこのダンジョンを見つけたのだとマトリフに報告した。
ポップの説明ではこのダンジョンは一度入れば抜け出せなくなるのだという。ではなぜお前は帰ってこれたのだと問えば、ポップは運が良かったからだと言った。
マトリフは念の為にガンガディアを伴ってダンジョンへとやってきた。だが今のところ、不思議なことはひとつも起きていなかった。
「もうちょい詳しく聞いとけば良かったな」
ポップが忙しそうだったのでこのダンジョンの調査を引き受けたのだ。あまりダンジョン内で何があったのかを聞く暇もなかった。ダンジョンの入り口は小さな遺跡で、古い寺院のようだった。
「大魔道士」
前を歩くガンガディアが立ち止まった。
「なんだ?」
前にガンガディアが立っていたら何も見えない。マトリフは体をずらして前を見た。するとその先は濃い霧が立ち込めていた。
「なんだ? この先に水場でもあるのか?」
元々薄暗い洞窟に霧が発生しているせいで先が全く見えなかった。どうやら通路を抜けて広い空間らしいが、どれほどの広さなのかもわからない。霧はマトリフたちのところにまで押し寄せてきていた。
「毒霧ではなさそうだな」
ガンガディアは霧に手を伸ばして言う。マヌーサの類かとも思ったが、それとも違うようだった。ただ視界が不自由になるだけで、害は無さそうだ。だがすぐ横に立つガンガディアの姿さえぼやけて見える。
「これがポップの言ってたやつか?」
この霧で迷えば抜け出せなくなるだろう。するとガンガディアがマトリフに手を伸ばした。
「はぐれないように手を繋いでおこう」
「ははっ、ガキじゃねえんだから」
マトリフは言ってバギを作る。バギの風圧なら霧を晴らせるだろう。マトリフは構えるとバギを前方へと放った。
しかし霧は簡単には晴れなかった。バギでかき消されてもすぐに元通りになってしまう。
「どうなってんだこりゃ」
霧をどうにかするのは難しそうだった。ここは霧を我慢して抜けたほうがいいだろう。
「しょうがねえな……ガンガディア」
手を繋ぐぞ、と手を差し向けてから、そこにガンガディアがいないことに気付いた。さっきまですぐ横に立っていたはずだ。
「……なんだよ、先にいっちまったのか?」
手を繋ぐことをガキみたいだと言ったのを怒ったのだろうか。ガンガディアは一度怒ったら面倒なのだとマトリフは肩をすくめる。
「おーい、ガンガディア」
マトリフは大声で呼ぶ。だが返事は無かった。マトリフは霧の中を歩きはじめる。
「手ぇ繋いでくれよー。オレが迷子になっちまうだろー」
マトリフの声は霧に吸い込まれていくのか反響しなかった。いつの間にか肌寒くなってきて、マトリフは手で腕を摩る。どこか不気味な様子に、余計に寒さを感じた。
「……ったく、どこいったんだよ」
マトリフが口をひん曲げていると、背後から声が聞こえた気がした。思わず立ち止まる。耳をそばだてると、それは自分を呼ぶ声のようだった。
マトリフは振り返った。霧でその姿は見えない。
「そこにいるのかね、マトリフ」
それはガンガディアの声だった。マトリフは安堵する。
「おう、こっちだ」
マトリフは目印にと思って手にメラを浮かべる。するとその姿がようやく見えてきた。現れたガンガディアがマトリフを見下ろす。
「まったく、どこいってたんだよ」
「手を繋ぐのはガキっぽいのでは?」
「あーはいはい、オレが悪ぅございました」
ほれ、と言って手を差し向けると、ガンガディアがその手を掴んだ。
「いっそのことあなたを抱っこしようか?」
「それこそガキじゃねえか」
そうこう言っている間に霧を抜けた。本当に何もない場所に霧だけが発生していただけのようだ。
「なんだよ、驚かせやがって」
「怖いのであればこのまま手を繋いでいようか?」
「馬鹿言ってんじゃねえよ」
ガンガディアの大きな手を離して先に歩き出す。その先もやはりただ真っ直ぐの通路のようだった。するとガンガディアはその先を見て言った。
「この先はティポタだ」
聞き慣れない単語にマトリフはガンガディアを見上げる。ガンガディアは遠くを見るように真っ直ぐに視線を向けていた。
「何だって?」
***
ガンガディアはマトリフが聞き返したことを不思議に思ったようだ。
「ティポタだ。ああ、あなた達の言葉では何と言っただろうか。そうだ、何も無い、だ」
「この先には何も無いってどうして知ってるんだ」
マトリフは微かな疑念を抱く。ガンガディアをよく観察するが、不審な点はなかった。ガンガディアは先を見たまま眼鏡を押し上げた。
「匂いだ。魔物が多ければ魔物の匂いがする。通路が入り組んでいれば空気は澱む。それらがないということは、この先には何も無い可能性が高い」
「とんでもねえお宝が待ってるかもしれねえだろ?」
「ここまでの難易度から見てもそれは無いだろう。もし仮に宝箱があったとしても、既に誰かが開けていて空っぽのはずだ」
「だったら引き返すか?」
「いや、念の為に最奥まで行ってみよう。あなたの言う通り、宝箱がある可能性もある」
てっきりこの先へ行きたくないのかと思ったが、ガンガディアは先に歩き出した。ガンガディアの様子に不自然さを感じたのは思い過ごしだろうか。
そのままマトリフとガンガディアは通路を進む。そこからの通路は一本道で、ひたすらに真っ直ぐだった。
やがてその通路も途絶えた。少し広くなったところで行き止まりになっている。まるで途中で掘り進めるのをやめたようだった。宝箱どころか何も無い。ガンガディアはマトリフをちらりと見てから呟く。
「やはり何も無かった」
マトリフはメラをともして行き止まりを入念に調べた。魔法の類で封印された出入り口があるかもしれないと思ったからだ。
だがいくら調べても何も無かった。マトリフは眉間に皺を寄せて行き止まりを凝視する。
「調べ終わったかね?」
ガンガディアはマトリフの気が済むのを気長に待っていたらしい。マトリフは振り返ってガンガディアを見る。
「……何かがおかしい」
「そうだとも。こんな半端なダンジョンはいっそのこと埋めてしまったほうがいいのかもしれない」
「そう思うか?」
ガンガディアは薄い笑みを浮かべた。それはマトリフの知るガンガディアではない。ガンガディアならこの状況で自分で調べもせずに黙って見ているなんておかしい。あまつさえ埋めてしまおうなんて言うはずがなかった。
マトリフは足を引いて手を構えた。ガンガディアはそんなマトリフを見て笑みを深くしていく。やはりこいつはガンガディアではない。
「さっさと正体を見せな」
「……どうしてわかったぁ?」
ガンガディアは大きく口を開けた。その口は大きく裂けて、中から鋭い牙がのぞく。ガンガディアだったものは徐々に形を変えていった。青い肌はそのままに、眼と口が肥大化していく。
「うっせぇな、オレのガンガディアはもっと男前なんだよ」
言うと同時にマトリフは呪文を放った。手加減なしの極大呪文が魔物めがけて飛んでいく。
「あ、ああああああ!!」
魔物が大きく口を開けた。そこへ呪文が打ち当たる。だが魔物は燃え上がらなかった。それどころか呪文が吸い込まれるように小さくなっていく。
「……なんだこいつ」
その魔物はマトリフの呪文を食べていた。魔物は呪文を全て飲み込んで身体を揺する。
「もっど、ちょうだ」
***
魔物は大きな口を開けてマトリフを見ていた。その姿はガンガディアの面影を残している。それだけでもやり難い相手だが、呪文を魔法力として吸収する能力はマトリフにとっては天敵とも言えた。
マトリフはこんな魔物の存在を知らない。他者の姿へと擬態する能力、会話できる知恵、そして魔法力の吸収。これほどの魔物なら名が知れていてもおかしくなかった。
マトリフは素早くあたりへと視線を走らせる。立ち位置ではマトリフが不利だった。マトリフの背後は行き止まりであり、魔物は通路いっぱいに立ち塞がっている。
マトリフが選べる手は二つだ。
一つ、メドローアで倒す。だが問題はメドローアを撃つ時間を稼げるかどうかだ。さらにメドローアすら吸収する可能性がある。
一つ、リレミトで脱出する。この場合も呪文発動までの時間が稼げるかが問題だ。そしてマトリフがここでリレミトを使えばガンガディアを残して逃げることになる。
ガンガディアがどうなっているかわからない。この魔物とガンガディアが入れ替わったとしたら、あの霧の中にいたときだろう。本物のガンガディアがここへ来ないということは、その身に何かあったということだ。
「はやく゛、ち゛ょぉだぁ」
魔物がさらに大きく口を開いた。マトリフは横に飛びながら小さなメラを連発する。魔物の口に当たらないように手足を狙った。
だが魔物は素早く動いてマトリフが撃った呪文を食べた。図体の割に動きが速い。マトリフはルーラを唱えてわずかな隙間から魔物の横をすり抜けた。
そのままマトリフは止まらず飛んだ。魔物があれほど速い動けるのなら、メドローアもリレミトも使いようがない。それならばガンガディアとの合流が最優先だった。
「ガンガディア!!」
マトリフは霧の中へと突入する。やはり視界は真っ白に覆われてしまった。マトリフはガンガディアの魔法力を辿ろうとするが、その痕跡が全く見当たらなかった。
「どごぐぉ」
背後から大きな足音がする。魔物の声はあたりの空気を震わせていた。無気味さに背筋が寒くなる。霧のせいで姿が捉えられず、不思議と魔法力も感じなかった。
このままではガンガディアも見つけられない。一度引いて態勢を整えるべきだ。
マトリフは天井に向けてギラを撃つ。天井を崩させて魔物の足止めをしようと思ったからだ。
その結果を見ずにマトリフはルーラで飛ぶ。霧さえ抜ければ隙を見てリレミトができる。
そのマトリフの背後に、大きく口を開けた魔物がいた。そう気付いた瞬間には、その口がマトリフを飲み込もうとしていた。
「ッ!!」
逃げられない、と思った瞬間に、マトリフは両手で呪文を作っていた。それはメラとヒャドで、あえて威力を僅かに合わせなかったものだ。出来損ないのメドローアが生成される。それは不安定で、生成された瞬間に暴発した。
その爆風でマトリフは魔物の口から飛び出した。しかし爆発のダメージに立ち上がれなくなる。
マトリフは魔法力を高めた。霧のせいで魔物の姿は見えない。あの出来損ないのメドローアが効いていることを祈るしかなかった。
このままガンガディアを置いていきたくない。だがこのままでは勝てる見込みがなかった。
マトリフはリレミトを唱える。その瞬間にマトリフはダンジョンの外にいた。
外の明るさに目が眩む。ダンジョンの外は静まり返っていた。
「師匠!」
その声に振り返る。ポップがこちらに向かって走ってきていた。マトリフは自分に回復呪文をかけながら立ち上がる。マトリフはポップに背を向けてダンジョンの入り口を見た。
「来てくれて助かったぜポップ、まだガンガディアが中にいるんだ」
ポップと二人ならば陽動が使える。そうすれば魔物の背後からメドローアが撃てるだろう。
「師匠」
その声が真後ろから聞こえた。途端に胸に衝撃を感じる。見下ろせば胸から刃物の先が突き出ていた。マトリフは背後から胸を剣で貫かれていた。
「駄目じゃないか。ちゃんとニセモノだって気付かなきゃ」
それはポップではなかった。ガンガディアがすり替わっていたように、このポップも魔物がすり替わっていたのだろう。
法衣が赤く染まっていく。身体の力が抜けてマトリフは崩れ落ちた。
***
「毒霧ではなさそうだな」
ガンガディアは霧に向かって手を伸ばした。充満している霧は一見無害そうに見える。霧が濃いせいで視界は殆どが白く覆われてしまった。
ガンガディアはすぐ横に立つマトリフを見下ろす。その姿も霧に包まれてはっきりとは見えなかった。
「これがポップの言ってたやつか?」
マトリフは霧を払うように手を振っている。その様子に、やはりおかしいとガンガディアは思った。
このダンジョンを訪れたのはポップがマトリフにこのダンジョンのことを話したからだ。そのときガンガディアは出掛けており、二人の会話は聞いていない。ガンガディアが帰って来たときには、マトリフは既にこのダンジョンに出向く準備をしていた。
そのときからマトリフの様子がおかしかった。だがその違和感をうまく説明できない。マトリフはこのダンジョンに行かねばならないと繰り返し、その理由は多く説明しなかった。ポップから聞いたという話も曖昧だった。だがその違和感は極めて小さく、マトリフの気まぐれだと片付けてしまえる程度のものだった。
ガンガディアはこのダンジョンを進む中で、マトリフのことをよく観察していた。出没する魔物に強いものはいなかったが、マトリフは必要な注意を怠ることはなかった。
だが、徐々にマトリフの様子がおかしくなっていった。特にこの階に降りてきてから、マトリフはどこかぼんやりとしている。
原因があるならこの霧だろうとガンガディアは思う。ガンガディアはマトリフに手を伸ばした。
「はぐれないように手を繋いでおこう」
「ははっ、ガキじゃねえんだから」
そんなことを言っている場合ではない。ガンガディアは無理矢理にでも手を掴もうとした。そしてこのまま引き返そうと考えた。だが、それより先にマトリフの身体が傾いた。
「大魔道士!?」
マトリフが倒れる寸前にその身体を抱き止める。マトリフは目を閉じていた。呼びかけても身体を揺すっても目を開けようとしない。だが脈や呼吸はある。意識を失っているだけのようだった。
「なぜ急に……」
そのとき、わずかに霧が晴れた。風が吹いたように霧が流れていく。少し先まで見通すことができて、そこに誰かがいると気づく。
「……ポップ君?」
見慣れた緑の旅人服姿が倒れていた。ガンガディアは慌ててマトリフを抱き上げてポップの元まで行く。ポップもマトリフと同じで意識を失っているようだった。
ガンガディアはポップの身体を起こす。ポップは生気を失っているように見えた。
なぜポップがここにいるのか。ポップはマトリフにこのダンジョンの調査を依頼したはずだ。後から来たのかと思ったが、このダンジョンは造りが簡素で後から来た者が気付かれずに追い越すことは難しいだろう。ポップがそんなことをする理由もないはずだ。
だとしたら、可能性はひとつだ。ポップはこのダンジョンに来てこの霧に触れて意識を失った。そして何者かがポップに化けてマトリフに接触し、このダンジョンに誘い込んだ。ガンガディアが無事ということは、この霧は人間にしか効かないのだろう。
すると、誰かがこちらへとやって来る気配がした。ガンガディアは二人を胸に抱いて前を見据える。
その人物は霧の中からゆっくりとその姿を現した。ガンガディアは目を見開く。
「……大魔道士?」
霧の中からマトリフが姿を現した。マトリフはガンガディアに向かって微笑みを向ける。それは美しい笑みだった。
***
ガンガディアは思わず胸に抱きしめたマトリフに視線をやる。本物のマトリフは眠ったままだ。霧の中から現れたマトリフは偽物である。
ガンガディアは顔を上げた。偽物のマトリフは霧の中に佇んだままだ。偽物のマトリフは少し困ったように首を傾げた。
「どうした、ガンガディア。おっかねえ顔になってんぞ」
「黙れ。その姿で喋るな」
その姿は驚くほどマトリフに似ていた。立ち姿やちょっとした動作もだ。もし何も知らずに会えば偽物だとわからなかったかもしれない。
「ここに本物の大魔道士がいる以上、その偽物の姿に意味はあるのかね」
姿を似せるのは相手を騙すためだ。だが本物と同時に現れたら意味がない。
だが偽物のマトリフは穏やかに微笑んだ。
「オレが偽物? なに言ってんだ。お前こそいつまでオレの偽物を大事に抱えてんだよ」
少し肩をすくめたマトリフは、しょうがないと言わんばかりの表情でこちらへと歩いてきた。
「そんな言葉で私は騙されない」
「わかったわかった」
マトリフはまるで聞き分けのない子を宥めるように言った。その眼差しに暖かさを感じてガンガディアは後退る。こちらを懐柔させようとしているに違いないと思いながらも、まるでマトリフに言われているような気になった。マトリフはすぐ側まで迫っている。
「信じちまってもおかしくねぇよ。オレも危うくポップの偽物に騙されるとこだったんだ」
マトリフは自分の失態を恥じるようにため息をついてからガンガディアを見上げた。
「どうやってオレが本物だって証明したらいいんだろうな」
その声音は寂しさを帯びていた。マトリフの手がガンガディアの腕に触れる。その温もりに、偽物がこんな温かさを持つはずがないと思えてきた。
「ガンガディア」
ふわりと浮き上がったマトリフは、ガンガディアに向かって手を伸ばした。ガンガディアはマトリフから目が離せなくなる。マトリフは少し躊躇うように息を詰めてから、ぼそりと呟いた。
「愛してる」
ガンガディアは目頭が熱くなるのを感じた。これが本当のマトリフの言葉ならどれほど良かっただろうか。
ガンガディアはマトリフの身体を鷲掴みにした。そのままマトリフの身体を床に叩きつける。
「ぐぅうッ!!」
マトリフが苦しげに声を上げた。その姿にガンガディアは奥歯を噛み締める。これは偽物なのだと自分に言い聞かせた。この胸に抱いているマトリフこそ本物のマトリフで、本物のマトリフは愛してるなんて口が裂けても言わないのだ。
「が、がんがでぃ……あ」
苦痛に顔を歪めるマトリフが途切れ途切れに声を上げる。打ち付けた頭から血が滲んでいた。赤い血が流れてマトリフの白い髪を染めていく。たとえ偽物だとしてもマトリフの姿をしたものを傷付けることは強い苦痛を感じた。
こいつは偽物だ。だが、心の中で迷いが消えたわけではない。マトリフであるはずがないと思うと同時に、ようやくマトリフが思いを打ち明けてくれたのだと思う自分がいた。
「い……いい、んだぜ、ガンガディア」
マトリフは細い呼吸を繰り返しながら言った。
「お前が、オレを信じられねえのは、オレのせいだ。お前に自分の気持ちを……ちゃんと伝えてこなかった」
マトリフの目に涙が浮かんでいた。痛みのせいか感情のためか、その目尻から涙がこぼれていった。
「好きだって……全然言わなくて悪かった。これで死んだって、オレの自業自得だな」
自嘲するマトリフは突然に咳き込んだ。その咳に血が混じる。あれほどの力で叩きつけたのだ、内臓も傷付いているはずだ。
このまま回復呪文を唱えなかったらマトリフは死ぬ。その恐怖がガンガディアを満たしていた。
「大魔道士」
***
貫かれた胸から血が吹き出していた。それが地面に広がっていく様を見る。
そばに立った偽物のポップが何やら喋っていた。その喋り方がポップと違って癪に触る。どうやら偽物はあの霧に触れれば生まれるらしく、このダンジョンを知らせに来たポップも偽物だったらしい。
マトリフは回復呪文をかけながらダンジョンのほうを見る。先ほどガンガディアの偽物がいて、ここにポップの偽物がいるということは、マトリフの偽物もいて、おそらくガンガディアのところにいるはずだ。ガンガディアはまさか偽物に騙されてはいないだろうと思うが、早く合流するに越したことはない。
「回復は終わった?」
偽物のポップが馴れ馴れしく喋りかけてくる。マトリフは血がついた口元を拭った。そして呪文で飛び上がると同時に重圧呪文を唱える。地面がひび割れて円形にへこみ、その中心でポップが膝をついている。
その隙を逃さずマトリフはマヒャドを放った。更に氷で作った塊を幾つも重ねて落としていく。偽物のポップがいたところは氷漬けになっていた。
マトリフはそのままダンジョンに逆戻りした。いちいち階段で降りている時間は無い。マトリフは近場にあった一番大きな岩に重圧呪文をかけて床をぶち抜いた。真っ直ぐに下へ降りる穴ができる。マトリフはそこに飛び込んだ。
「ガンガディア!」
一番下の階に降り立ってマトリフは叫ぶ。しかし返事はない。代わりに大きな足音が響いた。
「だ! がっでぎだ!!」
偽物のガンガディアがこちらへと走ってくる。本物のガンガディアもこれくらい素直に寄ってきてほしいと頭の隅で思う。
「お前はねんねしてな」
偽物のガンガディアはまだ遠い場所にいて、真っ直ぐこちらへと走ってくる。この距離ならメドローアを作る時間があった。マトリフは両手に呪文を作って合成させる。
「いいね、これ」
突然ポップが目の前に降り立った。その身体は傷ひとつついていない。偽物のポップは怖がりもせずにメドローアをしげしげと眺めていた。この呪文の効果に気付かないうちに二人まとめて消し去ればいい。
「ねえ知ってた? 疑似餌を消滅させると本体も死ぬんだよ」
偽物のポップがくすりと笑う。どうやらメドローアがどんな呪文か知っているらしい。
「疑似餌だと」
「僕たちのこと。誘き寄せるための餌だから、疑似餌」
「じゃあどうすればお前らだけを消せるか教えてくれんのか?」
「そんなの簡単だよ。本体がダンジョンから出ればいい。霧の効果が途絶えて僕たちも自然と消える」
でも無理だよね、と偽物は可愛らしく笑う。
それが本当ならマトリフは一度ダンジョンから出て、戻ってからは霧に触れていない。ならば偽のマトリフは消滅したはずだ。他の偽物の二人がここにいるならガンガディアは安全だ。
「でも、それが違うんだよね」
まるでこちらの思考を読んだかのようにポップが言った。だがそれで説明がついた。メドローアを知っているということは記憶までコピーしているのかと思ったが、見ているのは頭の中だ。この疑似餌たちは頭の中を直接に覗けるのだろう。
「大正解!」
ポップがバンダナを弄りながら言う。そこでマトリフは考えることをやめた。思考を悟られないためでもあったが、もっと大切なことのためだ。
偽物のポップがはじめて顔を顰めた。偽物のガンガディアもこちらへ近づいてくる。偽物のポップとの会話から、マトリフは答えを導き出していた。頭の中を覗くなんてことは簡単にできることではない。だが、その者の内側に入ってしまえば、頭の中は覗き放題だ。つまりこれは現実ではない。全てマトリフの頭の中で起こっていることだ。
「これは夢だ」
夢から醒めるにはこれが夢だと気付けばいい。途端にマトリフはその世界から抜け出す感覚になった。突然に意識は浮上して、目が開く。
マトリフの視界に飛び込んできたのは、ガンガディアがマトリフとキスしようとしている光景だった。マトリフはガンガディアの腕の中に抱かれているが、そのガンガディアはもう一人のマトリフの手を掴み、二人の口は今にも重なろうとしている。
まだ夢を見ているのかと思いそうになって、そのマトリフが偽物だと気付く。ではガンガディアは偽物のマトリフとキスしようとしているということだ。
「てめえッ!!」
マトリフはバギを纏わせた拳でガンガディアの顔面を殴りつけた。
***
「大魔道士」
ガンガディアは倒れたマトリフに回復呪文をかけた。傷が癒えてマトリフは少し驚いたようにガンガディアを見ている。ガンガディアはその身体を支えて起こした。
「ガンガディア……オレのこと信じてくれたのか」
マトリフはガンガディアの腕に触れる。それはこれまでの二人にはなかった意味が含まれているように思えた。
ガンガディアにとってマトリフは尊敬する人だった。一緒にいられるだけで、どれほど満たされていただろう。手に触れなくても、言葉を交わしていれば満足だった。
だが、それはマトリフに触れたくないという意味ではなかった。触れてみたいという気持ちは常に心の片隅にあった。
だから、もし、マトリフが望むなら、ガンガディアはマトリフに触れたかったし、人間同士がするような愛情の行為をしてみたいとすら思っていた。
マトリフは目を伏せながら頬を染めていた。躊躇うように視線を彷徨わせながら、意を決したようにガンガディアを見上げる。
「オレの気持ちはもう……わかったろ?」
マトリフはそう言うとガンガディアを見上げたまま目を閉じた。それにどんな意味が含まれているのかわからないほどガンガディアは鈍感ではない。
ガンガディアはマトリフの肩に手を触れた。胸が早鐘を打つ。この日がくるのをずっと待ちわびていた。
目を閉じて待つマトリフに顔を寄せる。あと少しで触れると思った瞬間に頬に衝撃を受けていた。
マトリフに殴られたのだと気づく。それは目を閉じてキスを待っていたマトリフではない。胸に抱いていたほうのマトリフだ。そこでマトリフが二人いたことを思い出した。
どちらが本物なのかと考えていたはずなのに、いつの間にかそれを忘れていた。思考に靄がかかっているようだった。
ガンガディアはマトリフに釈明しようとしたが、それよりも早くマトリフがマトリフに殴りかかっていた。
「ざけんな!!」
マトリフがマトリフに馬乗りになっている。だがすぐに引き倒された。二人は殴り合いながら立ち位置が入れ替わっていく。はじめに本物だと思ったほうのマトリフがどちらだったかわからなくなっていた。
「大魔道士」
止めなければ、と思ってガンガディアはそれぞれを掴んで引き離した。やはり見た目は瓜二つで、見分けることは難しい。
「ガンガディア……助けてくれ」
右手に掴んだマトリフが言った。こちらのマトリフのほうが手酷くやられている。ガンガディアに縋るような視線を向けていた。
「止めるな! こいつをぶっ殺す!」
左手に掴んだマトリフが言う。殺気を存分に纏わせて、止めているガンガディアすら攻撃しかねない勢いだった。
どちらが本物のマトリフだ。
***
【左】
ガンガディアは一瞬だけ迷った。だが既にどちらが本物のマトリフかはわかっていた。ただ偽物の言葉に心に波風が立ってしまっただけで、それが判断を鈍らせることはなかった。
ガンガディアは右手で掴んでいたマトリフを離した。縋るような顔をしていたマトリフはほっとしたように肩の力を抜く。左手で掴んでいたマトリフはそれを見て更に大きな声を上げた。
「そいつはッ!!」
「わかっている」
そう言ってガンガディアは暴れるマトリフを胸に抱きしめた。マトリフはガンガディアを見上げる。
「あなたが本物の大魔道士だ」
ガンガディアは偽物のマトリフを見て己の欲望を突きつけられたような気分だった。好きだと言いながら、キスを待ついじらしい姿。助けてくれと縋るか弱い姿。ガンガディアは心のどこかで、そんなマトリフを望んでいたのかもしれない。そして偽物はそんなガンガディアの願望につけ込んでいたのだろう。
だが、ガンガディアが惚れたのはそんなマトリフではない。意地っ張りで、不遜で、恋愛に関しては意気地なしで、その強さ故に自ら孤独を選ぶような人だ。
「帰ろう、大魔道士」
「オレはお前のこと許したわけじゃねえからな」
マトリフはガンガディアが偽物のマトリフにキスをしようとしていたことを相当に怒っているらしい。いくら偽物相手とはいえ、ガンガディアがマトリフにそのような事をしたことを不快に思ったのだろう。
「大魔道士、謝罪は帰ってからにさせてくれないか。ポップ君を早く外へ連れ出さねば」
「チッ……帰ったら覚えろよ」
マトリフはぷいとそっぽを向いてしまった。ガンガディアはマトリフとポップを抱え直す。
すると偽物が声を上げた。
「なんだよ、オレのこと置いてっちまうのか?」
素っ気ないようでいて、少しの寂しさを帯びた声音がガンガディアに届く。だがガンガディアはもう偽物の言葉に耳を貸さなかった。その姿を見ないでおこうと背を向ける。するとマトリフがノックでもするようにガンガディアの胸を叩いた。
「さっさと出るぞ。本物のオレらがダンジョンを出たら偽物は消えるらしいからよ」
「わかった」
マトリフはいつの間にか魔法力を溜めていたらしい。しかし呪文が発動する前に床が大きく揺れた。床がひび割れて崩れていく。ガンガディアが呪文で浮き上がると、そこに床はなく、大きな生き物の口があった。それはガンガディアを簡単に丸呑みできるほど大きい。
「ダンジョンそのものが魔物だったのか」
偽物のマトリフはその大きな魔物の口の縁に腰掛けていた。大きな魔物が口を閉ざす前に、リレミトの光がガンガディアを包む。
ガンガディアは最後に偽物のマトリフと目が合った。偽物のマトリフは頬に笑みを浮かべている。
「……オレのほうが良かったなんて、後悔すんなよ」
その笑みの意味を考える間もなく、マトリフの呪文がガンガディアを外へと連れ去った。
景色が一瞬のうちに明るくなる。そろそろ日が傾いてきていた。
マトリフは二度と誰も入らないようにとダンジョンを封印した。そのあとでルーラで洞窟へと帰り、まだ眠っているポップをベッドへと寝かせた。ダンジョンから離れたためか、ポップの顔色は良くなってきていた。マトリフはポップに回復呪文をかけながら話しかける。ほどなくしてポップは目を覚ました。
「師匠……あれ?」
ポップはまだ夢から覚めきらないようにマトリフを見ていた。マトリフはこれまであったことを簡単に説明してから、ポップにもう少し休むように言った。ポップは素直にそのまま目を閉じる。
「お前も休んでろよ」
マトリフはガンガディアに言った。怒りは冷めたのか、いつもの冷静なマトリフだった。
「あなたは?」
「もう少しポップの様子を見ている」
「それなら私がポップ君を見ている。あなたこそ休んだほうがいい」
「……うるせぇな」
邪険な言い方にガンガディアはむっとする。マトリフが疲れているのは側から見てもわかるほどだった。そんな状態でもマトリフは素直に頼ってくれない。それほど信頼されていないのかと思うとガンガディアは悲しくなった。だがそう思ったことをガンガディアは口にはしない。マトリフにいらない負担をかけたくないからだ。
「わかった」
言いたいことを飲み込んでガンガディアは寝室をあとにする。その時になってふと、あの偽物のことを思い出した。あの偽物なら、きっとガンガディアを頼っただろう。ガンガディアが欲しいと思うような言葉を簡単にくれたはずだ。
「……待ってくれ」
マトリフの声にガンガディアは立ち止まる。寝室を覗くと、マトリフが苦虫を噛み潰したような顔でこちらを見ていた。
「どうしたのかね」
「あのよ……やっぱりここにいてくれねえか」
小さな声でボソボソとマトリフは言う。その様子にガンガディアは寝室へと戻った。
「もちろん構わないが、何かあったのかね」
「別に」
つん、とそっぽを向こうとするマトリフを突く手があった。見ればポップがマトリフの背を咎めるように突いている。するとマトリフは口を歪めてたっぷりと逡巡してから口を開いた。
「……ここにいて欲しいんだ」
ようやく言ったマトリフと、それに満足したようにガンガディアにウィンクするポップ。どうやらポップが何か言ってくれたらしい。
ガンガディアはマトリフの隣に腰を下ろした。マトリフは気恥ずかしいのか口を重く閉ざしている。彼の性格から考えて、今の一言でさえ口から出すのに苦労したのだろう。
ガンガディアはふとあることに気付く。マトリフが愛していると言わないように、ガンガディアも自分の気持ちを伝えてこなかった。それはマトリフに遠慮してのことだったが、自分の臆病さの裏返しでもあった。彼にそこまで踏み込んだとして、拒絶されることが怖かったのだ。
「私はどんなときもあなたの一番そばにいたいと思っている」
マトリフの肩が揺れた。こちらを伺う気配がする。ポップは慌てて布団を顔の上まで引き上げていた。
「なんだよ、いきなり」
「あなたを愛している、と伝えておきたくて」
マトリフは黙ったまま俯いていた。その表情がうかがえない。やはり言うべきではなかったかと思ったとき、マトリフがぼそりと呟いた。
「……オレも」
「ん?」
よく聞き取れなくて聞き返す。するとマトリフは怒ったようにガンガディアの腕を叩いた。
「なんでもねぇよ」
マトリフはそのままガンガディアにもたれた。そのままマントを身体に巻き付けるようにしている。そのまま眠る気なのだろう。
そのままマトリフを見つめていると、マトリフがそろりとこちらを見た。目が合う。マトリフは指でガンガディアを呼んだ。
ガンガディアはマトリフに顔を寄せる。するとマトリフは背伸びをしてガンガディアの唇に唇を重ねた。
触れるだけの口付けはあっという間に終わる。マトリフは何も言わずにそのまま身体を離すとガンガディアの膝に寝転がって顔を隠す。気配に顔を上げれば、ポップが驚いたようにこちらを見ていた。ガンガディアが人差し指を口の前で立てると、ポップは何度も頷いで今度こそ布団を被って背を向けた。
ガンガディアは身体が震えないように耐える。はじめての口付けの喜びを一睡もせずに噛み締めた。
***
【右】
一瞬の迷いの後に、ガンガディアは左手に掴んでいたマトリフを離した。そして右手で掴んでいるマトリフに回復呪文をかける。
「……何やってんだよ」
偽物のマトリフが言う。
「見ての通り、回復呪文をかけている。君に手酷くやられたからね」
ほどなくして本物のマトリフが全回復する。マトリフはトベルーラで浮き上がるとガンガディアに身を寄せた。
「早くこのダンジョンを出ようぜ。本物のオレたちがここを出れば、偽物は消えるらしいからよ」
マトリフは囁くように言う。ガンガディアは頷いてマトリフの身体を抱き寄せた。偽物のマトリフが顔を歪める。
「おい、待てよ。そいつが本物だって本気で思ってんのか」
「ああ、もちろんだ」
偽物は自分が選ばれなかったことを怒っているらしい。するとマトリフが両手に魔法力を集めはじめた。
「ガンガディア、リレミトするから時間を稼いでくれ」
「わかった」
ガンガディアはマトリフを庇うように身体の向きを変えると、偽物に呪文を放った。だが偽物はそれらを次々と相殺していく。
「偽物はオレと同じ呪文が使えるから気ぃつけろよ」
「わかった」
ガンガディアは手加減のない呪文を間髪入れずに撃っていく。偽物はマトリフと同じ能力を有しているらしく、それらの呪文は防がれてしまう。
「ふざけんな! いつまで寝ぼけていやがる!」
偽物の放った呪文がガンガディアの足を凍らせた。それと同時に火球を手にしたまま殴りかかってくる。だが標的はガンガディアではなくマトリフだった。ガンガディアは咄嗟に身を挺してマトリフを守った。攻撃はガンガディアの肩に当たって痛みに呻き声がもれる。
「ガンガディア」
偽物が怯んだのでガンガディアは腕を振った。拳が偽物を弾き飛ばす。偽物は壁に身体をぶつけて倒れた。自分に回復呪文をかけながら立ちあがろうとする。
「……ガンガディア……オレがわからないのか」
偽物はよろめきながらガンガディアを見る。それが本物のマトリフのように見えて、ガンガディアは思わず手を差し伸べそうになった。だがそれをマトリフが止めた。
「騙されんなって。あいつは偽物なんだから」
マトリフを見れば柔らかな笑みが向けられる。そうだ、本物はこちらのマトリフだ。マトリフは手を大きく広げると呪文を唱えた。
「リレミト」
「させるかッ!!」
偽物はルーラを使ってこちらへ飛び込もうとしていた。だがそれは叶わなかった。いつの間にか現れた青い化け物が偽物の足を掴んでいたからだ。青い化け物は大きく口を開けて偽物を飲み込もうとしている。
だがそれを見届ける前にガンガディアたちはダンジョンの外へと呪文で移動していた。
「さあてと、こんな危ねえダンジョンは封印しとかねえとな」
マトリフはそう言ってダンジョンの入り口を封印した。それが終わるとポップを呪文で目覚めさせる。
「……あれ、師匠?」
ポップはまだ夢から覚めきらない様子でマトリフを見ていた。マトリフはポップに回復呪文をかけると、このダンジョンには二度と近づかないようにと言った。
「わかったよ。ここは危ないダンジョンだったんだな」
ポップは礼を言ってルーラで帰っていった。
「オレたちも帰るか」
マトリフはガンガディアを見上げて手を差し出した。ガンガディアはその手を取る。
「くたびれたからお前のルーラで頼むわ」
「わかった」
ガンガディアはマトリフの肩を抱き寄せるとルーラを唱えた。
洞窟に帰りつくと、マトリフは真っ直ぐに中へと進んだ。何かをじっと見ている様子に、ガンガディアは不思議に思う。マトリフは寝室までいってからマントを脱いだ。
「今日は疲れたからもう寝る」
「ああ、ゆっくり休むといい」
ガンガディアはマトリフのマントを壁にかけた。するとマトリフがガンガディアの服を掴む。
「どうしたのかね」
「一緒に寝ようぜ。いいだろう?」
マトリフはガンガディアにぴったりと身を寄せてくる。その甘えるような仕草に胸が高鳴った。
「どうかしたのかね、大魔道士」
マトリフがそんなふうにガンガディアに触れてくるのは初めてだった。ガンガディアは嬉しいが緊張してしまう。
「マトリフって呼べよ」
「いいのかね。あなたを名前で呼んでも」
「当たり前だろ」
「……マトリフ」
ガンガディアの声は震えていた。マトリフは薄らと笑みを浮かべると、目を閉じた。そのまま何かを待っている様子に、ガンガディアはそっとマトリフの唇に唇を重ねる。自分の鼓動が煩かった。
ガンガディアが顔を離すと、マトリフがじっとガンガディアを見ていた。その瞳にガンガディアが映っている。だがその瞳が底の見えない暗闇のように思えた。
「……どうかしたかね」
マトリフがマトリフでないように思えてガンガディアは戸惑う。するとマトリフはぽつりと呟いた。
「ティポタだ」
「……なんと?」
聞きなれない言葉に聞き返す。するとマトリフは笑みを浮かべてガンガディアに頬を擦り寄せた。
「なんでもねえよ」