三度の食事に君を食べたい 朝、起きると真っ先にマトリフを見る。宵っ張りのマトリフはまだ熟睡中だ。昨夜は何時まで起きていたのか、ベッドのそばにはノートパソコンと空のマグカップが置いたままだ。
私は起きて湯を沸かす。電気ケトルは好きではなくて、鉄瓶を使っているのだがマトリフには不評だ。マトリフは自分用の電気ケトルで湯を沸かす。コーヒーもインスタントでいいと言い、そのくせ味にはうるさくて、自分が気に入ったメーカーのしか飲まない。私はマトリフが使ったまま捨てていないシュガーの袋を摘んでゴミ箱に捨てた。
こだわりの強い無精者との生活は、いくつもの拾い物をする。それがシュガーの袋であり、何もついていない鍵であり、サイン入りの本だったりする。私はそれらをひとつひとつ拾っては、なぜ彼がそれを置いたままにしたのかを考える。
どうやら昨夜は仕事が捗らなかったらしい。普段の彼はコーヒーにシュガーを入れない。それなのに入れたということは、よほど疲れていたのか、脳が糖分を求めていたのだろう。瓶のインスタントコーヒーは昨日見た時よりもかなり減っている。
ならば彼が起きてくるのは昼過ぎか、夕方近くなるかもしれない。
キッチンで微かに蒸気の音がする。私は机に残った数粒のシュガーを指で取る。
キッチンの隅には小さな作業台がある。食材などを置くのに使うスペースだが、そこには見慣れない本が置いてあった。表紙を捲ればサインが入っていて、それはマトリフに宛てたものだ。作者の名前に見覚えがあり、私はそれが誰だったか思い出そうとしながら、沸いた湯で淹れた紅茶を飲んだ。だがやはり思い出せなくて、インターネットに頼る。作者の名前を入れればすぐに結果は出た。マトリフの友人の祖父だ。高名な学者だと聞いた覚えがある。そういえば先日にその友人と会っていたから、その時に受け取ったのだろう。その本をキッチンに置いたままということは、本を読んだままここで何か食べていたのだろう。
私は冷蔵庫を開ける。夜食にでも、と伝えて入れておいた野菜スープがなくなっている。きちんと食べたのならよかったと冷蔵庫を閉めた。だが食べながらの読書はいただけない。消化に悪いし、本が汚れる。
私は本を持って寝室へと戻った。少し開いた遮光カーテンから一筋の光が差し込んで、床に四角を作っていた。本をサイドボードに置き、空のマグカップを回収する。すると鍵を見つけた。キーホルダーなどはついていない。大きさから見て家の鍵だろう。
その鍵に手を伸ばそうとして、やめた。その鍵がどこの鍵で、なぜここにあるのかを考えそうになる。そのような詮索をマトリフは好まない。
私は逃げるように寝室から出た。詮索を好まないわりに、マトリフはあらゆる痕跡を残す。私が見たらあれこれ考えるとわかっているはずなのに。
ベランダへと続くガラス戸を開ける。今日はいい天気らしく、日差しが当たれば暑いほどだった。シーツを洗濯するなら今日だろうと思う。明日からは雨だと予報で言っていた。
私はキッチンに戻ってコップに水を汲む。それを持ってベランダまで戻った。オレガノは少し枯れていた。水をやってから枯れた葉をむしる。鉢を日影へと移動させた。
「飯食ったか?」
その声に振り返ればマトリフが立っていた。欠伸をしながら腹を掻いている。
「もう起きたのかね」
「今日はジジイのとこ行く用事があんだよ」
マトリフは言いながら洗面所へと向かった。私はガラス戸を閉めてエアコンをつける。すぐに空気が出る音がした。
朝食を準備していると着替えを終えたマトリフがキッチンに来た。うろうろとしてから寝室へと戻っていく。すぐに戻ってきたと思ったら、その手には本と鍵が持たれていた。
「ジジイの書庫の整理を頼まれてんだよ。途中でポップも拾ってから行く」
マトリフがジジイと呼ぶのは彼の師であるバルゴートのことだ。そしてポップはマトリフの教え子である。
「あまり寝てないのでは?」
「向こうで昼寝するからいいんだよ」
マトリフは焼いたパンにかぶりついている。もぐもぐと動く彼の頬を見ながら、頬袋がある齧歯類のことを思い出していた。
「お前も来るか? 今日暇なんだろ?」
「私が行ってもいいのかね」
私は幼稚な嫉妬心を見破られたのかと焦った。マトリフの交友関係は広くはないが、その数少ない友人や師にすら私は嫉妬する。マトリフを取られてしまうと、時々本気で思う。
「オレの昼寝を守りたいだろ?」
マトリフは本を手に取る。私は本を持つマトリフの指を見ていた。
「この本、ジジイも読みてえって言ってたから、これ渡しておけば暫くは静かだろ。そのうちに書庫の整理して、開いた時間で昼寝すりゃいい」
マトリフは反対の手で鍵を持つと私に向けた。
「これ書庫の鍵な。そんで車も運転してくれ。持ち帰る本が多いだろうから車で行きてえんだ」
私は鍵を受け取った。マトリフは私の詮索すら気付いていたのだろう。そんな詮索をするくらいなら自分の目で見てみろ、と言いたいのだ。
マトリフとの生活はまるで荒波の甲板に立っているようだ。大きな波で甲板は左右に大きく揺れる。それに翻弄されながらバランスをとり、それすら楽しいと思えてくる。
「夕食は二人で」
「おまえの独占欲は嫌いじゃねえよ。でもそろそろ慣れろよ」
「……夜は一緒に風呂に入りたい」
「いいぜ。じゃあ行く準備しろよな」
マトリフは立ち上がると私に顔を寄せた。キスを期待して私は目を閉じる。するとマトリフの唇は私の首筋に触れ、歯が微かに肌に食い込んだ。
「……夜が楽しみだな?」
マトリフは声もなく笑う。また掻き乱された感情が、大きく揺れる。ならばこちらもと、マトリフの細い手首を掴んだ。