黒雲 黒い空には雷鳴が響いていた。強い風が吹き、重たい雲が引き摺られるように動いている。それは大きな化け物のように空を覆っていた。
ポップはまだ信じたくない気持ちで二人を見つめていた。空に浮かぶ二人の人物。それはポップにとっての先生と師匠だった。
「おやぁ、今日はポップが相手をしてくれるんですか?」
アバン先生はにこやかに言った。黒いマントと服が強い風に靡いている。
「ねえマトリフ。ほらポップですよ」
マトリフは腕を組んだままポップからは視線を外していた。まるで見ないようにするかのように。
「アバン先生、マトリフ師匠、なんでこんなことするんだよ!」
ポップの背後には街があった。豊かで人口の多い大きな街だった。だが今は跡形もなく破壊されている。ポップは知らせを聞いて文字通り飛んできたが、間に合わなかった。
この街を破壊したのはたった二人の人間だという。それがアバンとマトリフだった。
「……嘘だって言ってくれよ……何か理由があるんだろ……」
アバンもマトリフも、これまで正義のために戦っていたはずだ。そして二人はポップに戦う術を教えてくれた。最後まで諦めずに正義を貫けと教えてくれた。
それなのに、その二人が人間の敵になったという。
ポップはそれを聞いたときに悪い冗談だと思った。そうじゃなかったら偽物が二人の名を騙って悪事を働いているのだと思った。そしてそれを見極めるためにポップはやってきた。
「いいえポップ。私たちは嘘でも冗談でもなく、人間の敵になったんですよ」
穏やかでいっそ美しいと思うほどの微笑みを浮かべてアバンは言った。ポップは手を握りしめる。
「だったら、どっかの誰かがモシャスでもしてやがるんだ……二人がこんな……こんな酷いことするはずがねえ!」
ポップは破壊された街の上を飛んできた。惨たらしく破壊された街がポップの目に焼き付いている。
ポップはマトリフを見た。マトリフは先ほどからポップを見ようとしない。
「なあ師匠!」
ポップは声の限り叫んだ。マトリフの視線がポップへと向く。
「……ポップ、悪いことは言わねえ。故郷に帰って親御さん連れて人里離れた森にでも隠れてるんだな」
「……なんだよ、それ」
「マトリフってば、ポップに甘いですよ。私たちが鍛えたポップがどれほど強くなったか、見られるチャンスなんですから」
「わかっただろうポップ。死にたくなきゃさっさと行け」
するとアバンは腰に佩いた剣を抜いた。それをくるりと持ち帰る。あまりに見慣れたその姿に、ポップは体が固まった。
「さあて、いきますよ」
構えたアバンの剣に黒い稲妻が走る。みるみる集まっていくエネルギーは禍々しかった。ポップは手が震えた。逃げなくてはと思うのに、恐怖で体が動かなかった。
するとマトリフが組んでいた腕を解いた。その次の瞬間には姿が消え、気付けばポップの目の前にいた。ルーラだと気付いた時にはもう遅かった。マトリフは魔法力を込めた手をポップに叩きつけた。
ポップは咄嗟に構えようとしたが間に合わず、呪文を受けて飛ばされた。まるでルーラのようだと思ったが、それがバシルーラだと気づく。ポップはまったく知らない森へと墜落した。
ポップがいなくなった空で、アバンは困ったようにマトリフを見た。
「……いずれ彼とも戦うんですよ?」
「わかってる」
「この道を選んだんですから、あの子達との戦いも避けられません」
「わかってるって言ってんだろ」
マトリフはふいと顔を逸らすとルーラを唱えた。アバンは肩をすくめると街へと視線を向ける。そして手のひらを向けた。アバンはその手を握る。すると一瞬にして街は塵になった。焼け焦げた家の残骸も、煉瓦塀も、人々も、砂粒程度の小さな塵となってしまった。
「これでよし、と」
アバンは満足そうに頷くとルーラを唱えた。
二人が去ったその地には何も残らなかった。はじめから何も無かったかのように、平原が広がっているだけだった。
***
「なんだい、これ」
ポップは棚に置かれた法衣を指差して言った。マトリフはちらりとそれを見てから、すぐに視線を外した。それはギュータの法衣だった。雑然としたマトリフの洞窟の中で、それだけが丁寧に保管されていた。
「昔に使ってた法衣だ」
「へぇ、師匠って昔は白を着てたんだ。なんか意外だな」
ポップは法衣とマトリフを見比べている。マトリフは話題につられてその法衣を着ていた頃を思い出しそうになった。あの魔王軍との戦いの旅。マトリフはその記憶を無理に奥底へと押し込んだ。
「師匠ってずっと黒ばっかだし」
マトリフが着ているのは全て黒色のものだった。詰襟から手袋に至るまで、全てが闇夜のような色をしている。肌が見えるのは首の一部と顔だけだった。
「なあ、この法衣もおれにくれない?」
ポップは可愛げのあるねだり方をした。以前に杖とマントをくれてやったから、頼めばマトリフが譲ってくれると思ったのだろう。
「……広げてみな」
マトリフは持っていた本を置くと腕を組んだ。ポップは身体の大きさに合うだろうかと確かめるように法衣を手に取って広げた。そして目を見張る。
その法衣は青い血で染まっていた。
その青い血は随分と前についたもので、乾いて黒ずんでいる。それが戦闘によるものであることは明らかだった。棚に置いてあるときは血で染まった部分が見えないように折りたたんであった。
「これ……魔族の血だよな」
「ああ。デストロールのだな」
マトリフは椅子から立ち上がると本を本棚へと戻した。
「だからそれはもう着られねえんだ」
「そっか……」
ポップは法衣を丁寧に畳むと元の位置に戻した。マトリフは本棚の前に立ったままじっと本を眺める。記憶の渦は思い出したくないことばかりを選んで浮き上がらせた。マトリフを庇って死んでいった好敵手の顔が、後悔と共に思い出される。思えばあの時から歯車が狂い始めたのだ。
「なあ師匠」
ポップはマトリフのマントの端を握っていた。
「なんかその……大丈夫だよな?」
「なにがだよ」
「最近の師匠、ちょっと変だぜ」
「オレは元から変わり者なんだよ」
「そういう意味じゃなくてさ。上手く言えないんだけど」
マトリフにはポップの言いたいことがわかっていた。ポップは聡い子だ。そして思いやりの心を持っている。この子を残していくことを考えると胸が痛んだ。だが決心は揺らがない。
「……お前に新しい呪文を教えてやるよ」
「え、どうしたんだよ急に」
「お前なら出来ると思うからだ。オレが完成させられなかった極大消滅呪文を、お前に託したい」
「なんだいそれ、物騒な名前だな」
マトリフは手のひらを見つめるとそれをポップに向けた。そこに小さなヒャドを作る。
「このヒャドと全く同じ強さのメラを作ってみろ。それでオレのヒャドと重ねるんだ」
「何言ってんだよ。そんなことしたって……」
ポップの反応にマトリフは苦笑する。若い頃の自分も似たような顔をしていただろう。
「いいからやってみな」
ポップは不思議そうにしながらも、器用に同じ威力のメラを作った。
***
「先に帰るなんてひどいじゃないですか」
アバンは薄暗い部屋にいるマトリフに向かって言った。地底魔城の奥深く、書架に囲まれた部屋にマトリフはいた。魔王軍のいなくなった地底魔城は隠れ住むには丁度よく、アバンとマトリフはそこを居場所に選んだ。
マトリフは身体のサイズに合わない大きな椅子に座っていた。その手には本が広げられているが、読んでいないことをアバンは知っている。アバンはそのそばまで行くと、わかりやすく頬を膨らませて怒ってみせた。
「私とポップとどっちの味方なんですか」
「オレは勇者の味方だよ」
マトリフはアバンを見ずに言った。アバンは座るマトリフの前に膝をつくと、マトリフの膝に顔を乗せた。マトリフの持っている本をどけさせると、ようやくマトリフと目が合う。
「勇者と私と、どっちの味方なんですか?」
「お前は勇者だろ」
「そこは迷わずに私って言ってくださいよ」
意地悪な人だとアバンは思う。するとマトリフは筋張った手をアバンの頭に乗せた。
「オレは最後までお前に付き合うって言っただろ」
マトリフの手はアバンの髪を撫でた。その手つきが存外に優しくて、アバンはムッとする。
「もう子供じゃないんですよ」
「だったら膝に頭なんて乗せてくんな。撫でて欲しいのかと思うだろ」
マトリフは言いながらも撫でる手は止めなかった。アバンのセットされた髪型を崩さないように、ゆっくりと撫でられる。
「……あなたも私が間違っていると思うんでしょう」
「なんだよ今さら」
アバンは誰も巻き込むつもりはなかった。人間たちに背を向けることに、誰かを付き合わそうなどと考えもしなかった。それを無理矢理についてきたのはマトリフだ。最後まで一緒にいてやると、彼にしては珍しく真面目な顔で言うものだから、思わずその手を取ってしまった。
マトリフはため息を吐くと、アバンの手を取った。そこに小さな切り傷を見つけたからだ。マトリフの手から温かな回復呪文が発せられる。
「正しいとか間違ってるとかよりも、お前には大事なものがあるだろ」
「でもあなたは、あちらへ帰りたいんじゃないかと思て」
「そんなぬるい覚悟でお前についてこねえよ」
マトリフは天を仰いだ。窓のない地底魔城では月も見えない。だがマトリフはその位置を正確に把握しているかのように、一点を見つめていた。
***
ポップは肌寒い洞窟にいた。外は嵐のような雨が降っている。傷は回復呪文で直せたが、森に墜落したせいで破れた服や付いた泥はそのままだった。
アバンとマトリフが人間の敵に回ったことに、ポップは深く傷ついていた。がむしゃらにルーラを唱えて気が付けばこの洞窟の前に来ていた。酷い天気で、それを理由に洞窟の中へと進む。そこは時間を止めたようにあの頃のままだった。マトリフがいつも座っていた椅子は帰ってこない主人を待つように、変わらずそこにある。雑多なアイテムも床に転がったままだ。
ポップはふと机に手紙を見つけた。風で飛ばないよう燭台で押さえられたそれは、表にポップの名が記されてあった。それがマトリフの字だとすぐにわかる。マトリフがポップに宛てて書いた手紙だろう。
ポップは手紙を燭台から引き抜くと、それを大きく二つに引き裂いた。それをまた半分に破く。それを繰り返せば手紙は小さな紙片になって床に落ちた。
「今さら手紙なんて!」
ポップは床に膝をつくと拳を振り上げて床へと叩きつけた。込み上げてくる涙が視界を歪める。マトリフは対話すら受け入れなかった。それなのに手紙を残していくなんて勝手すぎる。
「……どうすればいいんだよ」
ポップにはアバンやマトリフと戦うなんてできない。たとえ彼らが敵になったとしても。
***
アバンの得た力に対する人間の反応はとてもわかりやすかった。結局人間は相手がどんな人物なのかよりも、どんな力を持っているのかを見る。並外れた力を得たアバンを人間たちは敵だと見做した。
もちろん全ての人間がそうだったわけじゃない。アバンをよく知る親しい人間たち、かつての仲間や教え子たちは、アバンを恐れはしなかった。
そもそも、アバンがその力を得たのは十数年前の、あの魔王軍との戦いだった。アバンは魔王に勝ったが、その時に不思議な力を得た。それは奇跡なんて類のものではなく、呪いのようだった。
アバンが得たのは全てを破滅させる力だった。たった一瞬であらゆるものを塵に変えてしまう。
だが、それがハドラーを倒しから得られた力とは思えなかった。そもそもハドラーにそれほどの力があったら、この世界はとっくに彼の手中にあっただろう。
アバンに力を与えたのは魔界の神なのではないかとマトリフは考えていた。ハドラーは今際の際に魔界の神の名を叫んだ。だがハドラーに奇跡は起こらず、アバンが力を得た。魔界の神はハドラーを生かすよりも、勇者を魔王にすることを選んだのかもしれない。
アバンはその力を得たことに動揺していたが、やがて受け入れた。破滅の力を得たからといって、使うとは限らない。使わなければ、以前と変わらない。私は私ですよ、とアバンは笑ってみせた。
アバンの力のことはごく一部の者だけしか知らなかった。それはあの旅を共にした仲間たちだけだった。
それから十数年が経った。アバンは家庭教師として各地を回りながら何人もの生徒を導いた。それは平穏な日々だった。だがそれは嵐の前の、一時の静けさだった。
アバンに破滅の力があると噂が広がったのは、アバンがアルキード国を訪れている時だった。不思議なことにその噂は瞬く間に世界中に広がった。同時期に死神が各地に現れたという話もあったが、それはすぐに忘れ去られた。
アバンの名は既に勇者として知れ渡っていた。だから余計に人々はアバンの力を恐れた。各国はアバンを極悪人のように扱ったのだ。
そこからアバンは少しずつ変わっていった。アバンを変えたのは破滅の力ではない。人間の恐れの感情だ。理性を上回る恐怖が、アバンを人間の敵にした。
悲しいですね、とアバンは言った。だからマトリフはアバンについて行く決心をした。
***
アバンはアルキードにいた。そこにいる王子は、アバンの最後の教え子だった。だがすぐにあの噂を聞きつけた王族がアバンを追いやったために、修行は数日しか行われなかった。
その少年ディーノは他のアバンの教え子達と一緒にアバンへと向かってきた。その中にはポップもいる。マトリフはその姿を見つけると深い溜息をついた。
戦いは激しかった。ディーノはたった数日の修行で得たとは思えない力でアバンと戦った。マァムの戦い方から、彼女がブロキーナから教えを受けたのだとわかる。ブロキーナはアバンを止めたいに違いない。その気持ちはマトリフにも痛いほどわかった。
アバンはディーノとマァム相手に戦っているが、半分遊んでいるようだった。マトリフはアバンのサポートをしながらポップの動きに目を配った。ポップはまだ大きな動きを見せていない。傷を負ったディーノの回復をしながら、こちらの様子を伺っている。その二人を見てマトリフは息が詰まった。かつてのアバンと自分を二人に見たからだ。
するとポップ達は目配せをしてから突然に動きを変えた。それぞれが方々に散ってアバンとマトリフを取り囲む。アバンはマァムとヒュンケルの同時攻撃を受けながら感心している様子だった。マトリフは向かってくるディーノに呪文を撃つが、それは海波斬で大きく二つに斬られた。ならばとマヌーサを唱えた。ディーノは驚いて距離を取る。
そのとき、大きな呪文の気配を感じた。思わぬ方向からのイオラに、寸前で相殺する。だがそれは囮だった。間髪入れずにメラゾーマが飛んできた。避ければアバンに当たってしまう。マトリフはダメージを受ける覚悟で呪文を解体した。身体を焼く炎に顔を歪める。まともにくらうよりもダメージは少ないが、元の呪文の威力が大きいために身体への負担は大きかった。すぐに回復呪文がかけられなくてマトリフの動きが止まる。
「……し、師匠ッ」
ポップの声にマトリフは舌打ちする。ポップの呪文の威力は以前よりも上がっていた。このタイミングで畳み掛けられたらマトリフの命を取ることも可能だろう。だが、ポップは苦しむマトリフを見て躊躇ってしまった。その一瞬が命取りだ。
マトリフは片手で回復を、もう片方の手でマヒャドを撃った。ポップは慌てた顔をしたが、そのポップをヒュンケルが庇った。ヒュンケルの鎧に呪文は効かない。氷の粒があたりに散った。
「今のはちょっと危なかったんじゃないですか?」
「うるせえよ」
マトリフは焦げた手袋を見やる。マトリフの背はアバンに、アバンの背はマトリフに預けられていた。
「もういいですかね」
アバンはまるで準備運動を終えたような気楽さで言った。アバンはポップとヒュンケルに向かって手を向けた。その手のひらに力が集まっていくのがわかる。
マトリフはポップを見た。以前はアバンを前に固まっていたポップだが、今のポップは片手にメラを、もう片手にはヒャドを作っている。マトリフが教えたメドローアを撃つためだ。
「あれ、あなたが教えたんですか」
「まあな」
「なんてことしてくれたんですか」
と言いながらも、アバンは瞬時にポップの目前まで移動した。アバンストラッシュが放たれるが、ヒュンケルが寸前で受け止めた。だがその勢いを受け止めきれず、ヒュンケルはポップ諸共吹き飛ばされた。
メドローアを撃つまでにかかる時間は、アバンが攻撃するには充分だった。
アバンはそのまま剣を逆手に持ってポップに向かっていく。マトリフはルーラを唱えた。
「邪魔をするんですか」
マトリフはポップの前に立つ。それを見たアバンは眉を顰めた。
「……私を裏切るんですか?」
マトリフはアバンに向かって手を向けた。マトリフはポップに向かって言う。
「下がってろ」
「師匠……」
ポップは思わず手を伸ばしそうになるのをぐっと堪えた。すぐにヒュンケルを連れてトベルーラで離れていく。
「あなたが私に勝てないことはわかっていますよね」
アバンは手のひらを向ける。その破滅の力は、望めば全てを塵に変えてしまう。
「これならどうだ?」
マトリフは片手にメラを、もう片手にヒャドを作った。メラは弓に形を変え、そこへヒャドを合わせる。合わさった二つの呪文は虹の輝きを見せた。その完成された呪文を見ても、アバンは恐れなかった。
「あなたも使えるんですね」
「オレがお前を止めてやるよ」
「私の力のほうが勝ちますよ」
「だったら、なんでさっきポップが撃とうとした時に使わなかった?」
アバンは表情を消した。暗い瞳がマトリフを見る。
「お前はわかってたんだろ。その力じゃメドローアは消せない。だからアバンストラッシュを選んだ」
全てを塵にする力と、全てを消滅させる呪文。それは実際にぶつけてみなければ結果はわからない。だが、呪文なら撃つ前に対処すればいい。アバンストラッシュなら呪文を撃つ一瞬の間に斬り込める。その方が確実だ。アバンならそれを選ぶだろうとマトリフは思っていた。
「そのためにポップにメドローアを教えたんですか? 私がアバンストラッシュを選ぶと確かめるために? そんな捨て駒にポップを使ったのですか?」
「オレが悪党だってお前なら知ってるだろ」
「いいえ。あなたは結局、私と同じところまで堕ちてこなかった」
アバンは剣を逆手に構えた。そこへエネルギーが集まっていく。
「ですが確かめたところで結果は変わらない。あなたのメドローアが撃たれる前に、私のアバンストラッシュがあなたを斬る」
「やってみなきゃわかんねえぞ」
「ではあなたの望む通りにしましょう。私はアバンストラッシュ、あなたはメドローア。お互いの必殺技をぶつけ合って勝ったほうが生き残る」
マトリフは合成した呪文を引き絞る。弓矢のように形作った呪文をアバンへと向けた。
「そういや、お前と戦うのは初めてだったな」
マトリフは胸の痛みに耐えながら声を振り絞る。アバンは小さく頷いた。
「どんな気分です?」
「嫌な気分だよ」
アバンとマトリフは視線を合わせると、一瞬だけ笑い合った。友だった頃のように。
アバンは剣を持つ手に力を込める。手を抜く気はなかった。それが出来る相手ではないとわかっていたからだ。
「アバンストラッシュ!」
アバンの振るった剣から全てを斬る技が放たれる。その輝きは勇者の頃のままだった。マトリフはその眩しさに目を細める。昔に浜辺で見た、あの希望をもう一度見たような気がした。
マトリフの手から呪文が消える。それは失敗ではなく、術者本人の意思による解除だった。
アバンは驚いて目を見開いた。アバンストラッシュは既に放たれた。マトリフはまったく無防備に手を広げている。まるでアバンストラッシュが己を斬り裂くのを待っているように。
「マトリフ!」
アバンは咄嗟に剣を放り出してマトリフに向かって駆けた。だがそれはマトリフの身体をアバンストラッシュが吹き飛ばすのと同時だった。
アバンは頭が真っ白になりながらマトリフの元に駆け寄った。魔王の体さえ深く傷つけた技に、生身の人間が耐えられるはずがない。アバンは地面に倒れ伏したマトリフの無惨な姿を見て呆然とした。しかしアバンは目を逸らさずマトリフの身体を抱き起こした。
すると腕を掴まれた。
「もう離さねえぞ」
マトリフの手は信じられないほどの強さでアバンの腕を掴んでいた。マトリフの身体は大きく斬り裂かれている。まだ意識があることさえ信じられないというのに、どこにこんな力が残っていたのか。
「マト……」
アバンはその名を最後まで呼べなかった。眩い光が二人を包んだからだ。
二人は最後を共にした。全てを消滅させる呪文が二人を消し去ったのだ。
世界が一瞬だけ静寂に包まれた。だがすぐに少年の泣き声が響き渡る。
ポップは地面に倒れ込んで泣いていた。ポップのメドローアがアバンとマトリフを消したからだ。ポップの懐には繋ぎ合わせた手紙がある。それはマトリフからの手紙だった。ポップは破り捨てたそれを繋ぎ合わせていた。
「……先生ぇ……師匠ッ……」
必ずアバンを無防備にさせるタイミングを作るから、その時に迷わずメドローアを撃て、と手紙には書かれてあった。その時にマトリフも消滅することになるが、絶対に撃てと。
「うわぁああああああ!」
泣きじゃくるポップの肩をヒュンケルが抱いた。抉れた地面だけがそこに残る。
マトリフはアバンと最後を共にするために、ポップにメドローアを授けた。アバンを止める方法なら、他にもあったかもしれない。だが最後の瞬間を得るために、弟子に消えない傷を残すこの方法を選んだ。
マトリフはアバンの選んだ場所まで堕ちたのだ。その最後を迎えても、さらに一緒にいるために。