乱戦状態だった。一人ずつ探して回復していったのでは間に合わない。マトリフは冷静さを保ちながら素早く周囲を見回して、次いで傍らでモンスターを殴り飛ばしたブロキーナに視線を向ける。最近習得したばかりの回復呪文を使うにしても発動中は無防備になってしまう。詠唱のための時間稼ぎも必要だ。
「よお大将! 全員を一気に回復させてやっからちょっくらザコどもの相手を頼むぜ」
「いいよん」
モンスターの大群相手にしながらもブロキーナは軽いノリで請け負った。
そんな二人の会話を聞いていた一体のモンスターが不満をありありと孕んだ声色でもって割り込んだ。
「ほう。君の言うザコとは私のことも含まれているのかな?」
トロルの群れの向こう側から青色の肌をしたさらに巨大な体躯が現れた。眼鏡を中指の鋭利な爪で押し込んで歩み寄ってくるその理知的な動作とは裏腹に額には幾つもの血管が盛り上がっていた。
デストロールのガンガディア。マトリフは表面上は余裕の表情を装いながらも内心では盛大に舌打ちをした。そんなわけねえだろ、と毒づく。ガンガディアには今までも何度も相対してその度に厄介さを痛感させられているのだ。それと同時に言い知れない感情に胸を痛めることもあるのだが、マトリフは気付かないふりをしている。湧き上がりそうになる感情に無意識に蓋をしてマトリフはガンガディアを警戒しつつトベルーラで上空へと浮上した。
同時にガンガディアが地を蹴って追いかけようとするのをブロキーナが瞬く間に距離を詰めて分厚い胴体へと向かって拳を叩き込んだ。
「ぐっ!!」
衝撃で後方に後退ったガンガディアは脚を踏ん張って倒れ込みそうになるのを耐えた。並のモンスターならばこの一撃だけで倒されていたことだろう。
「随分と頑丈だね〜」
ブロキーナは飄々としながらも驚いた口調で呟いた。
「私の相手は大魔道士だ。邪魔をしないでもらえるかな」
「マトリフ殿もまた厄介な敵に目をつけられたもんだ。……その割にはマトリフ殿に対して殺気が感じられなかったのはおかしいねえ」
ブロキーナは魔王軍配下ではない比較的大人しいモンスターたちと触れ合う生活をしている。あきらかに知能が高く魔王の邪気を跳ね返せるほどの心身の強さを兼ね備えているであろうガンガディアは今この場にいるモンスターたちの中ではあまりに異質であるとブロキーナは独りごちた。
上空ではマトリフが飛行系モンスターをバギクロスで薙ぎ払ってから回復呪文の詠唱に入っていた。マトリフが唱えようとしている回復呪文を察しているブロキーナはその邪魔をさせないためにガンガディアへと向かって攻撃を繰り出した。アバンが次々とモンスターをまとめて倒しているおかげでブロキーナはガンガディアへと集中できる。怪我よりも体力の限界のほうが心配だった。マトリフもそれを分かっていて全員の体力を回復させようとしていた。 ガンガディアが棍棒を振り翳してブロキーナを迎え撃つ。しかしガンガディアはブロキーナと相対するのは初めてだった。だから、知らなかったのだ。
構えたブロキーナの拳が淡い光を纏わせる。
「鍛え抜かれたその肉体は見事じゃが、これは耐えられまいて。――閃華裂光拳!!」
咄嗟に腕でガードしたガンガディアだったが、ブロキーナの拳が腕を殴りつけた瞬間、眩い閃光が迸った。
「ぐうっ!!」
棍棒を握り締めていた太い腕が破裂して濃い青色の血が傷口から大量に吹き出した。ガンガディアの身に付けている衣にも装飾品にも地面にも青色の血が飛び散った。ガンガディアは自らの右肩を左手で押さえ込んで膝をついた。荒い呼吸を繰り出しながら右肩からその先へと視線を向ける。そこには何も無かった。右腕は失われてしまっていた。
刹那、緑色の光が淡く周囲を照らし出した。
「これは……!?」
ガンガディアはハッと顔ごと視線を上空へと向ける。すると、目が合った。
「大魔道士……」
マトリフが大きく目を見開いて驚愕した表情をしてガンガディアを見下ろしていた。
緑色の光を全身から解き放っているマトリフの姿。戦場の幾つかの場所で同じように光出していること、なによりも目の前のブロキーナの様子を見ることでガンガディアはすぐに察するに至った。
「ベホマラーまで使えるのか。さすがは大魔道士……」
大怪我を負っているというのにガンガディアは微かに笑みさえ浮かべて上空で滞空している憧れの存在を見つめた。もはや憧れだけに留まらず今まで一度も感じたことのない言い知れない感情をガンガディアは自覚せざるを得なくなっていた。こうしてマトリフの視界に自分が映っているというだけで歓喜してしまう。相対してももはや本気で殺すことなどできようはずもなく。この手で捕まえたいという気持ちはそのままにただただ触れたいという想いが募りに募っていった。
ああ、とガンガディアは思う。そういえば右腕は失ってしまったのだった。そう思い出した矢先に、ふと違和感を感じた。
緑色の光。ベホマラーによる回復の光があまりにも近くに見えていた。ブロキーナは攻撃の直後に後方に跳躍してガンガディアから一旦距離を開けていた。そのブロキーナの身体を緑色の光が包んでいる。
そこで、気付く。ガンガディアの身体もが緑色の光に包み込まれていることに。
「……これはいったい……?」
ガンガディアは自らの右肩の痛みがほんの僅か、本当に少しずつだが、引いていくのを感じていた。間違いない。ガンガディアに回復呪文がかけられていた。
ガンガディア自身は回復呪文を使えない。この場にいるモンスターにも不可能だ。回復アイテムも使ってなどいない。ならば、この回復呪文の効果は――温かく優しい緑色の光はいったい誰から与えられているものなのか。
導き出された答えに、ガンガディアは信じられない思いに駆られた。脱力した状態でゆるゆると再び上空へと視線を向ける。
異常事態に気付いたのはガンガディアよりも勇者一行の方が早かった。口々にマトリフの名を呼ぶ戸惑いの声が上がっていた。知能の低いモンスターは暴れていたがそれなりに知能の高いモンスターたちの中にはこの戦場の司令塔であるガンガディアの様子に気付いて動揺が広がっていった。
「マトリフ殿?」
ブロキーナが不思議そうにマトリフを見上げていた。その視線を今度はガンガディアへと向けて、またマトリフへと向けて、そんなことを交互に繰り返して、ブロキーナは頬を指先でぽりぽりとかいた。
「もしかして、ワシってば余計なことしちゃった?」
「う〜ん。そうかもしれませんねぇ……」
「おや、アバン君」
襲いかかってきたモンスターを返り討ちにしてアバンはブロキーナの傍へと駆け寄ってきた。アバンもまたマトリフとガンガディアの様子を見受けて困ったように後頭部に手を当てている。
「どうしましょう?」
「どうしようねえ?」
乱戦状態だった戦場は一転して戸惑いの波紋を広げていき戦いとは別の意味でざわめいていた。
不意に勇者の姿を見て攻撃を仕掛けようとしたモンスターをガンガディアが強い口調で止めた。
「やめろ。――撤退だ」
反論する者もいたが、ガンガディアの強烈な圧に気圧されてモンスターたちは一堂に戦場から離脱していった。この場にガンガディアに本気で刃向かえるモンスターなど存在しなかった。手負いのガンガディアにも退くことを促すモンスターがいたが、それを軽くあしらって、そうしてあまり時間を要すことなくその場にいるモンスターはガンガディアだけとなった。
ガンガディアは膝をついたまま上空を見上げていた。ずっと目を逸らすことなくマトリフだけを見つめていた。少しでも視界から外してしまえば、次の瞬間にはもう消えていなくなってしまうのではないかと思ったのだ。それは焦燥、恐怖。そして未だにそこにいてガンガディアを見下ろしているままのマトリフに、言い様のない期待をしてしまう。
「大魔道士……君は何故……」
「…………」
マトリフは少しずつゆっくりと高度を下げていき、ふわりと地に降り立った。ガンガディアの目の前に佇むその様子はまるで迷子のように心許ない。負傷などしていないはずなのにその顔は酷く青褪めていた。白い肌が殊更に血の気が引いたような色になっていた。いつだって平常心を保ち揺らぐことのない双眸が薄い透明な水の膜をうっすらと張って不安定に揺れていた。
マトリフがゆらりと持ち上げた細い手は震えていた。その手が躊躇いがちにガンガディアの右肩に伸ばされて、触れるか触れないかという位置で浮いたままになった。
ブロキーナが声をかけようとしたがその肩をアバンが緩やかに掴んで引き止めた。ブロキーナが振り向けばアバンは苦笑しながら首を横に振った。この時には聡い二人はすでに気付いてしまっていた。
つまりそういうことなのだろう、と。
「マトリフ。私たちは先に町に戻っていますね」
返事は期待しないままアバンは懐からキメラの翼を複数枚取り出してブロキーナと、そして事情が飲み込めずに戸惑ったままでいるロカとレイラも連れて、その場から飛び去っていった。
ついさっきまで戦場だったはずのその場所はマトリフとガンガディアのふたりだけしかいない静かな空間になっていた。
「……大魔道士。どうして私を……」
「うるせえよ……そんなもんオレが知りてえよ」
再び問いかけたガンガディアにマトリフが答える声は弱々しい。
あの時――ガンガディアの腕が千切れて青い血が大量に飛び散った瞬間に、それを目の当たりにしたマトリフの頭の中は真っ白になった。視界には青い血にまみれたガンガディアの倒れる姿が映り込み、その顔と視線が自分の方へと向けられるまでマトリフは茫然自失状態だった。ガンガディアの身体が緑色の光に包み込まれていくのを見て、それが自分の唱えたベホマラーによるものであると察したマトリフを襲った衝撃は計り知れない。
「わからねえ……わからねえけどよ……」
マトリフは震える手でガンガディアの右肩に触れた。ベホマラーの効果が消えていく代わりにマトリフの手からベホマの光が溢れ出す。
ベホマラーよりもさらに強い回復の光にガンガディアは知らず息をついた。
「私は君の敵だぞ」
「言われなくったって」
「敵の君に回復してもらっているというのに、私は嬉しくて仕方ない」
「……どうかしてるぜ。お前も、オレも……」
それから随分と長い時間ベホマをかけ続けていたが不意にマトリフはふらりと身体を傾かせてガンガディアの胸へと倒れ込んだ。ガンガディアは慌ててマトリフの身体を抱き支えた。
「大魔道士! もういい。もう十分だ。これ以上続けたら君の方が……っ」
ガンガディアの右腕は回復呪文で元通りになっているが、まだ動かせるほどではない。むしろここまで修復できたことが奇跡に等しい。ガンガディアはマトリフの偉大さにより一層惹かれることになった。
マトリフを抱き支えたことでガンガディアの血がマトリフにも付着してしまったことに気付いて離すべきかどうするか悩んで、離す素振りをしたところマトリフの手が縋るようにガンガディアの胸へと添えられたことで結局はそのままの体勢でいることにしたガンガディア。
「心臓……動いてんな」
「あ、ああ。君のおかげだ」
「生きてる…………良かった」
瞬間、ガンガディアはマトリフを抱きしめた。
互いの心臓の鼓動を感じながら、確かに安堵した。
いつからかなんて分からない。気付いた時には、もう手遅れだった。
「大魔道士。君のその気持ちがどういうものなのか……起きたら私に教えてはくれないか?」
温かく優しい緑色の光が完全に消える頃、ガンガディアの両腕に抱かれてマトリフは深い眠りに落ちていった。
意識を失う寸前までベホマをかけ続けていたマトリフ。ガンガディアに何かを言おうとしていた。その言葉をガンガディアが聞くことができたのは、それから随分と後になってからのことである。