弟「弟が欲しい?」
バルトスは驚いて聞き返した。ヒュンケルは期待のこもった眼差しでこくりと頷く。
「父さんは兄弟って知ってる?」
「あ、ああ。そうだな、知っているよ」
同じ親から生まれた者同士を兄弟ということはバルトスも知っている。ヒュンケルの表情から、興味本位で訊ねたのではなく、かなり真剣だと伝わってきた。
「ヒュンケルは弟が欲しいんだな?」
「うん!」
バルトスは二本の腕を組み、一本の手で後頭部を撫でた。
ヒュンケルには兄弟はいない。もしかして兄や姉に当たる人間がいたかもしれない。もしかしたら生き延びた両親が子をつくり、弟に当たる人間がいるかもしれない。だが、それを探すことも、ここへ連れてくることも限りなく不可能だろう。
「ヒュンケルはどうして弟が欲しいと思ったんだ?」
バルトスは屈むとヒュンケルを抱き上げた。
「……絵本で読んだから」
「絵本。ああ、ガンガディア殿から頂いた本か」
教育の一環として子供用の本をガンガディアから譲ってもらっている。字を覚えるのに役立つそうだ。おかげで今のヒュンケルは自分で絵本が読めるほどに字を覚えることができた。
「うん。昨日貰って読んだ」
ヒュンケルはどこか思い詰めた顔をしている。バルトスははっとした。ヒュンケルはもしかして寂しい思いをしているのかもしれない。
「そうかそうか。その絵本で兄弟を知ったんだな」
ガンガディアには後で礼を言おう。最近は勇者の行動が活発になっており、バルトスは見張りのために部屋を離れていた。きっとガンガディアはそれを知ってヒュンケルの様子を見に行ってくれたのだろう。バルトスはヒュンケルとの時間が最近あまり持てていない。ヒュンケルが寂しく思っても仕方がなかった。
「弟か……」
バルトスは困ったように呟く。魔族は人間ほど血縁を気にすることはない。血縁を求めるのはやはりヒュンケルが人間だからだろうかとバルトスは考えた。
「すまないヒュンケル」
迷った末に、バルトスは本当のことを伝えることにした。
「ヒュンケルには弟はいない。おそらく、これからもだ」
ヒュンケルは意味がわからなかったのか首を傾げた。
「弟が欲しいのに?」
「そうなんだ。すまないね」
ヒュンケルは悲しそうに眉を下げた。しかしそれ以上に駄々をこねることもなく、黙り込んでしまう。
「ヒュンケル、おやつにしようか?」
バルトスは自分で言いながら、食べ物で機嫌を取るなんてと反省する。しかしヒュンケルはその誘いに首を振った。
「食べない? お腹が空いていないのかい?」
ヒュンケルはバルトスの腕の中から抜け出すと走って行ってしまった。
***
「ちょっと、何の用?」
キギロはすぐそばに座り込んでいるヒュンケルを見て言った。キギロは苗木姿だ。勇者に挑んで以来消息不明のキギロだが、万が一のために部屋には苗木が保管されてあった。それを発見したガンガディアがヒュンケルを水当番に任命して育てている。
キギロは自室ならぬ自植木鉢に根を下ろしていた。まだ自足歩行が出来るほど育っていないために移動ができない。さっきからずっと隣にヒュンケルがいて鬱陶しいのに逃げることさえ出来なかった。
「ねえ、キギロは兄弟はいる?」
やっと口を開いたと思ったら突然の問いにキギロは怪訝な顔をした。ヒュンケルは伺うようにキギロを見ている。
「兄弟ぃ? おまえら人間と違ってボクたちにそんな関係はないの」
「じゃあキギロが弟になって!」
「はあ!? 嫌だけど!」
キギロは思わず反射で答えたが、ヒュンケルが目にいっぱいの涙を溜めたことにぎょっとした。
「なんで泣くわけ。ボクのせい? でもおまえの弟なんて絶対に嫌だから」
するとそこにガンガディアが通りかかった。なぜかガンガディアはももんじゃを腕に抱いている。ガンガディアは涙を浮かべたヒュンケルとキギロを見ると、目を険しくしてこちらへと来た。
「小さい子を泣かすとは、よほど暇らしいな」
ガンガディアは怒りのこもったため息をついた。ガンガディアは最近ようやく復活した魔王と、勇者討伐のための準備に忙しいらしい。しかしキギロにも言い分はある。キギロはさっきのヒュンケルとのやり取りをガンガディアに話して聞かせた。
するとヒュンケルはガンガディアの脚にしがみついた。
「じゃあガンガおじさんが弟になってくれる?」
「それは無理だ」
ガンガディアはにべもなく言った。ヒュンケルはグッと唇を噛む。その拍子にヒュンケルの目からぽろりと涙がこぼれた。
「ほぅら、ガンガディアがチビを泣かした」
「やめないか」
囃し立てるキギロを指先で弾いて、ガンガディアはヒュンケルを摘み上げた。
「そこまで言うからには、何か理由があるのだろう」
ヒュンケルは少し迷うように口を閉ざしたが、意を決したようにガンガディアを見た。
「ガンガおじさんが昨日くれた絵本」
「あの絵本がどうした」
そういえばガンガディアは昨夜にヒュンケルに絵本をやった。確か三匹の豚と狼の絵本だ。あの絵本に出てくる三匹の豚は兄弟だった。
「弟が二人欲しい」
「あの絵本の豚のように兄弟が欲しいということかね」
ヒュンケルは頷いた。どうやら絵本の影響らしい。子どもらしい発想にガンガディアとキギロは微笑ましく思った。
「兄弟ごっこに付き合ってくれるモンスターを探すか」
「そのももんじゃでいいんじゃないの?」
キギロの提案にガンガディアは「駄目だ」と一蹴した。腕に抱いていたももんじゃをぎゅっと抱きしめている。
「じゃあスライムとかは?」
キギロの言葉にヒュンケルは首を横に振った。
「ごっこじゃだめなの!」
「なんでさ、探してやるだけありがたいと思いなよ」
キギロは恩着せがましく言って葉先をひらひらさせた。ガンガディアはももんじゃに弟になれそうな魔物について相談している。
そこに足音が響いた。ガンガディアはそれがハドラーのものだと気付いて姿勢を正した。ヒュンケルも気付いてキギロの植木鉢を持って部屋の隅へと隠れる。
ハドラーが部屋へと入ってきた。ハドラーは部屋を見渡してからガンガディアを見る。
「ガンガディア、あのチビはおらんのか」
「ヒュンケルのことでしょうか」
ガンガディアはちらりとヒュンケルが隠れたほうを見た。ヒュンケルがおずおずと出てくる。すると慌てた様子のバルトスも部屋に入ってきた。
「貴様、弟が欲しいそうだな」
ハドラーは怯えるヒュンケルに向かって言った。ガンガディアはバルトスを見る。どうやらバルトスがその件をハドラーに話したらしい。
「オレが貴様に弟を作ってやろうか」
ヒュンケルはハドラーの思ってもみない提案に目を丸くした。
「ハドラー様が?」
ガンガディアも意外に思った。ハドラーはヒュンケルの存在を容認したが、普段から関わろうとはしていなかった。ところがハドラーは何の思いつきか、ヒュンケルに弟を作ってくれる気になったらしい。
「戦力不足だったところだ。もう一人くらい禁呪法で生み出してもよかろう」
「では、炎と氷の呪文を合わせて作ってはいかがでしょう」
すかさずガンガディアが言う。それはガンガディアがあのウロド荒野で大魔道士から受けた呪文からの着想だった。
「でもぉ、それハドラー様が作ったら、ヒュンケルの弟じゃなくてバルトスさんの弟になるんじゃないですか?」
キギロが言った言葉に、その場にいた全員がキギロを見た。
「そうなるのか」
「そうですね」
「でしょ?」
「そこまで気にしなくても良いのでは」
「弟……」
しんと沈んだ空気を打ち破るように、ハドラーは踵を返した。
「弟を作るのはやめだ!」
ハドラーはそのまま部屋を出ていってしまう。
ガンガディアはキギロの葉を一枚ちぎった。
「痛っ!」
「余計なことを言うからだ」
一人でも多く人手が欲しかったガンガディアはジロリとキギロを睨む。キギロとガンガディアは口喧嘩をはじめた。バルトスは慌ててその仲裁に入るが喧嘩はおさまらない。ヒュンケルは俯いて足元を見つめた。
するとキギロが大きな声で言った。
「もうやーめた。弟探しなんて馬鹿らしい」
キギロはガンガディアに向かって舌を出している。ガンガディアは顔中に血管を浮き上がらせていた。バルトスは喧嘩の仲裁を諦めて、ヒュンケルを連れてどこかへ行こうとした。
しかしヒュンケル首を振ってそれを拒んだ。ここで諦めるわけにはいかない。ヒュンケルは顔を上げて叫んだ。
「兄弟じゃなきゃ……弟が二人いなきゃ、悪い勇者を追い払えないの!」
言いながらヒュンケルは声を上げて泣き始めた。ガンガディアとキギロは顔を見合わせる。
「どういうこと?」
キギロはガンガディアにそっと尋ねる。
「ああ、そうか」
あの絵本に一度目を通していたガンガディアはヒュンケルの意図を理解した。
「あの話は、三匹の兄弟豚が、豚たちを食べようと狙ってきた狼を追い返す話だ。そして兄弟は家を守り、そこで幸せに暮らす。つまりヒュンケルは、勇者を狼に見立てたのだろう。勇者がこの地底魔城に迫っているから、その狼である勇者を追い返すために兄弟が必要だった。だからヒュンケルは弟が欲しかった」
ヒュンケルはこくりと頷いた。ヒュンケルは自分の家であるこの地底魔城を勇者から守りたかった。
「父さんも、ガンガおじさんも、キギロも、みんな勇者のせいで死んじゃう」
ヒュンケルはしゃくりあげながらなんとか言葉にする。そのことがずっとヒュンケルは恐かった。
キギロとガンガディアとバルトスは顔を見合わせた。ヒュンケルがそこまで考えていたとは思わなかったからだ。
「負ける前提なのがムカツクぅ」
キギロが不服そうに言った。
「二度も負けておいて何を言うか」
「あんただって二回負けてるでしょうが!」
キギロとガンガディアは睨み合う。ガンガディアの腕の中のももんじゃがジタバタともがいていた。
「でもさ、それって兄二人でもいいんじゃないの」
キギロが思いついたようにヒュンケルに言う。ヒュンケルは涙を拭った。
「あとから増える兄弟は弟なんだよ」
「知ってますぅ。おまえは一番チビだから末っ子だって言ってんの」
「キギロのほうが小さいよ」
キギロは怒って枝を揺さぶったが、特に何にもならなかった。
「心配するな、ヒュンケル」
ヒュンケルの頭を、バルトスの手が撫でた。
「ここにいる者は兄弟ではないが、みんなこの地底魔城を守るつもりだ」
バルトスは言う。その言葉に同調するようにキギロもガンガディアも頷いた。ヒュンケルは父を見上げた。
「兄弟みたいに?」
「そうだ。血の繋がりはないが、ここにいる者たちは兄弟であり家族だ。おまえも含めてな」
「勇者からここを守れる?」
「おまえの父は魔王軍最強の騎士だぞ。侮るな」
ヒュンケルはバルトスに抱きついて頷いた。父が言うのだから間違いない。きっと父が勇者をやっつけてくれる。ヒュンケルは安心して父の手を握りしめた。