夢のチケット「八番〜!」
マイクを持った幹事が高らかに言う。マトリフは手に持ったカードを見て、その数字があったので穴を開けた。会場は喜ぶ声や全く関係のない雑談でざわめいている。
忘年会兼クリスマス会と称された飲み会で、余興としてビンゴ大会が催されていた。全員参加ですよとアバンに連れて来られて、食って飲んで程よく酔ったところでビンゴカードを渡された。
「……揃わないものだな」
隣に座った大男が生真面目そうに呟いた。情報システム部のガンガディアだ。ガンガディアは飲み会だというのに正座をしたままでネクタイすら緩めていない。ガンガディアは仕事は出来るが物静かで、マトリフは仕事の話しかしたことがなかった。
マトリフも自分の手のビンゴカードを見る。いくつか穴が空いているものの、てんでバラバラの場所なのでビンゴには程遠かった。
前方では幹事がビンゴになった者へワインを手渡している。景品は全て机に並べられており、ビンゴになった者から景品を貰っていく。下位景品から渡されるので、真っ先にビンゴになったポップはタワシを貰っていた。残っている景品は国産和牛セット、丸型のお掃除ロボット、それと温泉旅行だった。
「温泉旅行ったってなぁ」
その温泉は有名な旅館らしく、洋々たる海を眺める立地で、露天風呂付き客室が売りらしい。宿泊日は決まっており、それが大晦日と元旦なのだという。
「それもペアチケットだ」
つまり年末年始温泉デート券というわけだ。マトリフは肩をすくめてコップのぬるくなったビールを流し込む。
そうしている間にもビンゴになった者が前方へと進み出ていた。バルトスは和牛セットを嬉しそうに貰っている。
「もし当たっても一緒に行く相手がいない」
ガンガディアが言うのでマトリフはガンガディアの手元のビンゴカードを覗き込む。ガンガディアのカードはあと一つでビンゴになりそうだった。
「恋人いねえのか?」
「いない。いたこともない」
「へぇ、そうかい。じゃあルンバが当たるように祈ってな」
また当たりが出た。アバンがルンバの箱を持ちながら「これ欲しかったんですよ」と笑っている。残る景品は温泉旅行だけだった。
「残念だ。私もルンバが欲しかった」
「いいじゃなねえか。温泉が当たっても。それとも大晦日は先約があるのか?」
「いいや。何も予定はないのだが」
マトリフは自分のビンゴカードを無用とばかりに手から落とす。いくら待っても当たる気がしない。代わりに当たりそうなガンガディアのカードを見ながら取らぬ狸の皮算用を続けた。
「じゃあ温泉が当たったらオレを連れていってくれよ」
「あなたを?」
「オレも大晦日はヒマしてんだよ。温泉入って美味い酒でも飲みてぇじゃねえか」
もし当たれば、などと言いながらマトリフは本当に当たるとは思っていない。ただその場の陽気さと酔いのせいで口が滑ったのだ。
「あなたが良いのなら、一緒に行こう」
ガンガディアも空気を読んだのかそんなことを言った。マトリフはコップを置くとガンガディアに肩を寄せる。
「言ったな。その言葉忘れるんじゃねえぞ」
マトリフはふざけて脅すように言った。ガンガディアは神妙に頷くと、手元のコップをぐいとあおった。
「は〜い、次の数字は〜」
幹事のキギロが数字の入ったガラガラを回す。一回、二回と回ってから、小さな白い玉がポロリと出た。キギロが小さい玉をつまみ上げる。
そういや何番が出りゃビンゴなんだと思ったマトリフが、ガンガディアのカードを見る。それと同時にキギロが高々と叫んだ。
「五九番〜!」
「うぉおおおおおおおおおお!!」
突然にガンガディアが聞いたこともない雄叫びを上げて立ち上がった。マトリフは呆気に取られてガンガディアを見上げる。ガンガディアのカードは一列がきれいに空いていた。
「マジか」
呟くマトリフの手をガンガディアは掴んだ。大晦日の予定が埋まったなとマトリフは思いながら、ガンガディアに引き摺られていった。
***
「あ」
お互いに同じように驚きの声をあげて、ガンガディアとマトリフは見つめあった。
二人が出会ったのは全くの偶然だった。ガンガディアは本屋へと向かう途中で、駅から出たところでマトリフを見つけた。ガンガディアが気付いたと同時にマトリフもガンガディアに気付き、二人は同じように驚いて声をあげて数秒間見つめ合った。
「偶然だね」
先に口を開いたのはガンガディアのほうだった。マトリフはガンガディアから視線を逸らせて頷く。
「そうだな」
マトリフは浮かない顔をしていた。口をきゅっと閉ざして視線は明後日の方向を見ている。
「もし良ければお茶でもどうかね」
ガンガディアは勇気を出してマトリフを誘った。休みの日にマトリフに会えた幸運に逃すまいと意気込む。
ガンガディアはずっとマトリフに片思いをしてきたが、ずっと気持ちを隠してきた。しかしそれでは駄目なのだと、年末に偶然に一緒に行くことになった温泉旅行で気付いた。
ガンガディアの新年の目標はマトリフに思いを伝えることだ。それがこんなに早くチャンスが巡ってくるとは。やはり目標を持つことで運もやってくるのだろう。
マトリフは驚いたようにガンガディアを見た。一瞬だがマトリフが笑みを浮かべているように見える。だがすぐに「悪い」と言った。
「今から用事があるんだよ」
「そうか……」
ガンガディアは心から残念だった。もしマトリフと一緒に休日を過ごせたらどんなに素晴らしいか。だがマトリフも忙しいのだろう。あるいは何の用事がなくても、ガンガディアと一緒に休みの日を過ごすなんて嫌なのかもしれない。マトリフはガンガディアを見たときから浮かない顔をしていた。
「では失礼するよ。そこの本屋へ行くんだ」
ガンガディアは気落ちしていないように振る舞うために、やや大袈裟に笑みを浮かべて本屋を指差した。そこは駅前の大きな本屋で、専門書も多く取り扱っている。
ガンガディアはそのまま本屋へと歩き出そうとしたが、その腕をマトリフが掴んで止めた。
「あのよ、その本屋のあとの予定は空いてんのか?」
「今日は休日なので他に予定はないが」
マトリフに腕を掴まれたことに心臓を飛び上がらせながらガンガディアは答える。するとマトリフはどこか言いにくそうに、本屋とは反対の方向を指差した。
「オレはあそこに用があるんだが」
その指が指し示すほうへガンガディアは視線を向ける。ビルが並んでいるが、マトリフが指差しているのはそのビルに入っている歯医者の看板だった。
「……歯医者かね」
ガンガディアが尋ねるとマトリフはさらに口をぎゅっと閉ざした。それはまるで歯医者を怖がる子供のようで、ガンガディアはマトリフの意外な姿に思わず頬が緩んだ。
「たぶん小一時間で終わるんだが」
マトリフはまるで奥歯に物が挟まったように言う。もしかすると本当に奥歯に問題があるのかもしれないが。
「……そんで、お前が本屋でぶらついてて、ちょうど時間が合うなら茶を飲んでもいいぜ」
「私は何時間でも本屋にいられるからあなたの歯医者が終わるのを待っているよ」
「そんなに時間はかからねえよ」
マトリフは本当に歯医者が嫌なのか、うんざりとした顔をしている。しかし、ガンガディアを見てちょっと笑みを浮かべてみせた。
「じゃあ、あとでな」
マトリフは手を上げてから歯医者へと歩いていった。
***
旅館の廊下はやけに静かだった。まだ寝静まる時間でもないのに、他の客の姿はない。
マトリフは浴衣姿で歩いていた。宿に着いてさっそく風呂に浸かってきたのだ。部屋についていた露天風呂は二人で入るには充分な広さだったのだが、ガンガディアはマトリフに先に入るように言った。マトリフはその言葉に甘えて先に風呂に入り、入れ替わりでガンガディアが風呂に浸かっている。
マトリフは部屋で一人でいるのも退屈に思えて、探検がてら旅館の中をぶらついていた。たしかロビーの近くに土産物の売店があったはずだ。
売店はすぐに見つかった。暇潰しに土産物を見て回る。この地方で漁れる魚介類を使った煎餅や、よくわからない人形なんかが並んでいた。ひとつひとつをじっくり見て歩く。
「……ッ、マトリフ」
呼ばれて振り返るとガンガディアがいた。何か焦ったような顔をしている。
「なんだよ、どうかしたか?」
「あなたが部屋にいなかったから……どうしたのかと」
どうやらガンガディアは風呂から上がってマトリフがいなかったから探しにきたらしい。よほど慌てていたのか、ガンガディアの浴衣は随分と乱れていた。
「おいおい、ガキじゃねえんだから迷子になんてなってねえよ」
マトリフはガンガディアの慌てぶりがおかしくて、つい顔をにやけさせた。そしてガンガディアの浴衣へと手を伸ばして、よれている部分を引っ張って直してやる。
「いや、もしかして急に嫌になって帰ったのかもしれないと思って」
「嫌になるって何をだよ。良い風呂だったろ?」
マトリフは久しぶりに温泉に浸かって、ここへ来て良かったとしみじみ思っていたところなのだ。
ガンガディアはようやく慌てたことを恥ずかしく思ったのか、眼鏡を押し上げて俯いている。これだから生真面目な奴はいけないとマトリフは思う。話題を変えようとマトリフは売店の土産物を指差した。
「土産を見てたんだよ。なかなか美味そうだぜ?」
真面目なガンガディアのことだから、職場にも土産を持っていくだろう。そう思って先ほど見ていた煎餅を手に取って見せると、ガンガディアは全く別のものを見ていた。
「……それ気に入ったのか?」
ガンガディアが見ていたのはキーホルダーだった。よくわからないキャラクターがぶら下がっている。温泉をモチーフにしているようだが、はっきり言ってダサい。
「温泉くんというらしい。この宿のマスコットだろうか」
ガンガディアはキーホルダーを手に取ってしげしげと眺めている。どうやら相当気に入ったようだ。
マトリフもキーホルダーを手に取る。絶妙に可愛くないキャラクターだが、こうしてみると愛嬌があるように見えなくもない。
「それ貸せ」
マトリフはガンガディアに向かって手を伸ばす。ガンガディアが持っていたキーホルダーを受け取ると、マトリフはレジへと向かった。さっき手に取った煎餅とキーホルダーを二つレジの台へと置く。
「マトリフ?」
「こっちはお前のな」
マトリフは金を払うと、キーホルダーの一つをガンガディアに渡した。
「そんで、こっちがオレの」
もう一つのキーホルダーをマトリフは指へと引っかけて揺らす。
「すまない。代金は部屋に戻ってから渡す」
「良いんだよ。オレはお前が当てたビンゴにくっついて来てんだぜ。これくらい気にしてんなよ」
「そうか。ありがとう。大事にする」
ガンガディアはよほど気に入ったらしく、感激したようにキーホルダーを握りしめている。
これまでガンガディアのことをとっつきにくい奴だと思っていたが、全然そんなことはなさそうだ。小さい子どものように喜ぶ姿はむしろ可愛らしい。
マトリフは指にはめたキーホルダーを見る。勢いで買ってしまったが、家のスペアキーにでもつけるとしよう。
***
「狭くはないかね」
ガンガディアはどうにか身じろぎをしようとするが、マトリフがいると思うそれも憚られた。
バスタブはガンガディアの身体の大きさに合わせて大きめを選んでいた。だがまさか二人で入ることなんて想定していない。どうせなら一緒に入ればいいじゃねえかと屈託なく言うマトリフに押し切られて、ガンガディアはマトリフと共にバスタブに浸かっていた。
マトリフを部屋に招き入れたのは初めてだ。突然の雨に濡れてしまい、風邪をひくといけないからとガンガディアはマトリフを部屋に誘った。風呂を沸かしてマトリフに先に入るように言ったら、一緒に入ればいいと言われたのだ。
まさかマトリフがガンガディアの好意に気付いていないはずがない。そしてガンガディアもマトリフからの好意を薄らと感じている。だがお互いにはっきりと気持ちを表明しておらず、そんな中で一緒に風呂に入っていた。
何も起こらないはずがない。きっとマトリフは何か行動してくるはずだ。ガンガディアも部屋に誘った時点で今日は一歩先へ進むかもしれないと期待していた。
「あったけぇ〜」
「今日は平均気温を下回っていたらしいからね。冷えたんじゃないかね」
「やっぱお前んちで風呂借りて正解だったわ」
ガンガディアとマトリフは向かい合って座っている。右半分をガンガディアが、左半分はマトリフが使っている。しかしガンガディアがどれほど身体を縮めようとしても、まったく身体が触れないなんてことはできなかった。あまり大袈裟に避けても失礼な気がする。かといってこれ以上密着すればまずいものを見られるかもしれなかった。
「なあ」
マトリフが水面を指で弾いた。その水滴がガンガディアの顔へと飛ぶ。マトリフは温まってきたためか顔が上気していた。首筋も鎖骨もほんのりと色づいている。
「なにかね」
「……腹減った」
「上がったら何か用意しよう。簡単なものしかできないが」
言いながらガンガディアは立ちあがろうとした。これは先に上がるいい機会だ。これ以上マトリフを見ていたら勃起するかもしれない。
するとマトリフがガンガディアの手首を掴んだ。ガンガディアは半端な中腰になる。そうなるとマトリフの視線の先にものがぶら下がっている状態になった。ガンガディアは慌てて隠す気持ちで湯に浸かる。
「なにかね」
「あ、いや……もうちょっと温まってけよ」
マトリフの顔が先ほどより赤くなっている。もしかするとのぼせたのかもしれない。マトリフは何かを気にするように座り直していた。ガンガディアは気付かなかったが、マトリフのものは勃起していた。
「のぼせていないかね。あなたは上がったほうがいい」
「いや! オレはもうちょっと落ち着いてから出る」
「落ち着く?」
「あー、いやなんでもねえ!」
マトリフは慌てたように顔をそらせる。なぜかその表情に非常にそそられた。ガンガディアは自分のものが反応していると気付いて慌てる。これでは出るに出られない。
「ははは、やっぱり先に出ろよ」
「いや、もう少し温まっていく」
「そ……うか? 今日は冷えたもんな」
二人は引き攣った笑みを浮かべた。いっそのこと抱き合えば解決するのだが、今日はまだその日ではなかったようだ。
***
「おや、どうしたんですか暗い顔して」
アバンはそう言ってマトリフの隣に腰を下ろした。今はその役目を終えた喫煙所の、いくつか並んだ椅子は小さく、自然と肩が触れ合うほどの距離になる。
「やっちまったんだよ」
マトリフは頭を抱えていた。たとえ仕事で大惨事が起きようとも顔色ひとつ変えないマトリフが、これほど落ち込んでいるのは珍しい。いや、珍しいなんてものではない。天変地異の前触れか。それとも恐怖の大魔王でも空から降ってくるのかもしれない。
「どうしたんです。まさか仕事のことではないでしょう」
「あいつだよ……ガンガディア」
「ああ、彼がどうかしましたか」
ガンガディアとマトリフが最近急に仲良くなったことはアバンも知っていた。きっかけはあの忘年会で、ガンガディアが温泉旅行券を当てたことだ。二人にどんなやり取りがあったか知らないが、その温泉旅行に二人で行ったらしい。その後もちょくちょく二人で出かけていることを、マトリフからそれとなく聞き出していた。
「昨日あいつと呑みにいったんだが」
「二人で、ですか?」
それはデートですねえ、と思ったが言わないでおいた。ガンガディアがマトリフに恋をしていることは知っている。だがマトリフにとってガンガディアは友人であるらしいから、余計な茶々を入れるつもりはなかった。二人の関係は進んでいないが、アバンはマトリフの数少ない友人として、二人の仲をひっそりと応援している。
「美味え焼き鳥屋があったから、あいつを連れてったんだが、そこで……」
マトリフは言葉を切ってから、本当に言っていいのか迷うように視線を彷徨わせた。だがやはり言うと決めたのか、大きなため息をついてから手で顔を覆った。
「酔ってたんだよ……強い酒を飲んじまって……で、つい……」
「つい?」
「あいつにキスしちまった」
天使がラッパを吹き、色とりどりの花が咲く幻影が見えた気がした。アバンはその心象風景を心の手で追い払ってから、極めて冷静なふりをしてたずねた。
「彼にキスしたんですか」
「そう言ったろ」
「それで、彼はなんと?」
「……覚えてねえ」
「覚えてないんですか!?」
「だからっ……酔ってたんだよ。勢いでキスして……その後のことはよく覚えてねえ」
「それは……やってしまいましたね」
と思ってよくよく聞いたら、マトリフは今朝は自宅のベッドで目を覚ましたらしく、本当にキス以外は何もなかったらしい。てっきりそのままの勢いでいくとこまでいったのかと思ったアバンは、少々肩透かしをくらってしまった。
「あいつ怒ってんだよ」
「ガンガディアが? なぜ?」
「当たり前だろ。酔ってたとはいえ、キスしちまったんだぜ。今朝に送ったメッセージも既読スルーだし、あいつ潔癖なとこあるから、絶対怒ってんだよ」
「彼が怒っているかは一旦置いておいて」
「勝手に置くなよ」
「あなたはなぜ彼にキスしたんですか?」
「なぜって……だから酔った勢いだって」
「あなたは酔った勢いで私にキスしますか?」
「しねえよ」
「じゃあなぜガンガディアにはするんです」
「それは……」
マトリフは言葉に詰まって髪を乱暴に掻いた。本当はわかっているが認めるのを躊躇っているらしい。マトリフはまた深くため息をついてから、真剣な眼差しになって心を絞り出すように呟いた。
「……してえなって思ったから」
「でも酔った勢いではまずいですねえ」
「わかってるから悩んでんだろ!?」
「もう直接の会って謝っちゃえばいいじゃないですか」
「おまえ、他人事だと思って」
「いいですか。言い訳なんてせずに素直に自分の気持ちを言うんですよ。彼は言葉通りに受け取るんですから、見栄を張ってる場合じゃないんですよ」
マトリフの腕を掴んで立たせると、その背を押して喫煙所から追い出した。マトリフはまだ躊躇っているようだが、文句を言いながらも渋々歩き出す。その丸めた背中を見送って、アバンは小さく手を振った。明日にはおめでたい報告が聞けるだろう。
***
「冗談だったのだろう」
こちらを気遣う笑みと共にそう言われて、マトリフは用意していた次の言葉が出なくなった。
マトリフは飲み屋で酔いに任せてガンガディアにキスをした。その上そこからの記憶がない。マトリフはようやくガンガディアへの好意を自覚して、伝えようとした。
なあガンガディア、こないだの夜のことだけどよ。そうあの焼き鳥屋の。そんときオレ酔っててさ、お前にしちまっただろ。ああ、そんで、酔ってたとはいえ悪かったよ。
そこまでマトリフが早口で捲し立てたところで、ガンガディアは言った。「わかっているよ。冗談だったのだろう」と。
「あなたは随分と酔っていたからね。あまり飲み過ぎると体に悪い」
追加の気遣いにマトリフは完全に勢いを削がれた。こんな状況で好きだなんてとても言えない。
「そ、そうだな。とにかく悪かった。じゃあな」
マトリフは逃げるようにガンガディアの前から去った。
ガンガディアは小走りで去っていくマトリフの背後を見つめる。そして両手で顔を覆った。
なぜあんな事を言ってしまったのか。マトリフのあのキスが冗談や悪ふざけでなかったことはわかっていたのに。
あの夜。飲み過ぎてキスをしてきたマトリフを家まで送り届けた。そのとき既に下心が無かったと言えば嘘になる。だがそれよりも飲み過ぎたマトリフのことを心配していた。
酩酊しているマトリフに水を飲ませてベッドに横たえ、そのまま帰ろうとした。マトリフは半分寝ているような目でこちらを見て、手を伸ばしてきた。水が欲しいのかと思ってペットボトルを取って蓋を開けると、マトリフが掴んだのはガンガディアの手だった。
そのまま引き寄せられるように顔を寄せた。マトリフの唇が薄く開く。触れるだけのつもりだったキスはすぐさま深いものへと変わった。初めて知るマトリフの舌に夢中になる。
だが気が付けばマトリフは眠っていた。ガンガディアはそれ以上は何もせずに帰った。
そして翌朝、マトリフから来たメッセージで、あの酩酊のキスをマトリフは覚えてないと知った。それに返信しないでいると、マトリフは直接会いにきた。
ガンガディアは飲み屋での勢いでされたキスを冗談にすることで、あの酩酊のキスを無かったことにしたかった。マトリフの酔いにつけ込んでしまったことを後悔している。そしてそれを詫びることができなかった。
ガンガディアは今の関係が壊れることが怖かった。そう考えてから、それは少し違うと気付く。自分の行動で二人の関係を壊してしまうことが怖いのだ。
だがそれでいい筈がない。
ガンガディアは顔を上げる。モバイルを取り出すと、迷いながらメッセージを打った。マトリフに週末の予定をたずねる。既読はすぐについた。