月影に隠す言葉 大魔道士は突然にやって来た。手には分厚い魔導書を携えている。
「暇だろ」
開口一番に決めつけられて、やや気分を害する。私がここ数日読み込んでいる魔導書は終盤に差し掛かっていた。魔力と呪文の無限の可能性に感銘を受けるほどの良書である。それでも私はその魔導書を閉じた。
「どうしたのかね。あなたがここまで来るなんて珍しい」
この棲家は森の奥深くにある。人間に敗れた魔王軍の生き残りは、人間のいない場所でひっそりと生きるしかない。だが普段はスライムなどの魔物すら寄り付かず静かなので、読書には最適の場所と言えた。大魔道士が住む洞窟からなら歩いても来られる距離にあるが、普段は私が大魔道士の洞窟へと赴いているから、大魔道士がこの棲家へ訪ねてきたのは初めてだった。
茶を淹れようと思ってから、人間用のカップが無いことに気付く。湯を沸かす程度にしか調理器具もなく、もてなすための物は何も無かった。
「探したいアイテムがあるんだよ。手伝うだろ」
大魔道士は遠慮なく棲家に入ってくると室内をぐるりと見渡した。この棲家は巨木の洞を利用した簡素な造りになっている。私が窮屈に感じないほどには広いが、客人を招くには向かないほど質素だ。僅かに恥ずかしさを感じながら一つしかない椅子をすすめる。だがその椅子も大魔道士には随分と大きかった。まるで幼児が大人用の椅子に座っているようで、一瞬微笑ましいと思ったが、それを言ったら大魔道士が怒ると思ったので口には出さなかった。
大魔道士は魔導書を捲りながら三つのアイテムを探していると言った。どれも簡単に手に入るものではない。だがそのうちの一つは採れる場所に覚えがあった。
「案内しようか」
ルーラを使えばすぐに行ける場所だった。大魔道士は最初からそのつもりだったらしく、すぐにでも行きたいと言った。
「ところで何に使うのかね」
今から探しに行くのは使い道のない植物だった。薬草にもならないし食用にも向かない。大魔道士が欲しがることが不思議だった。
「呪文に使うんだよ」
大魔道士は持っていた魔導書の表紙を指で示した。アイテムを使用する呪文は多くない。古代呪文か、あるいは誰かが作り出したオリジナルの呪文なのだろう。私は呪文と聞いて急に興味がわいた。
「どのような呪文なのかね」
「内緒」
大魔道士は意地悪そうに笑う。手を貸しているのに教えてくれないらしい。さては不埒な呪文なのだろう。大魔道士は優れた知能を持ちながら色欲に弱かった。大魔道士とはよく魔法談義をするが、話の流れが逸れた時に大魔道士はよく猥雑なことを口にする。私はそういった話題を好まない。それを大魔道士がわからないはずがないのに、何度も繰り返すということは私が辟易とする様子を見て楽しんでいるのだろう。
「ほら行くぞ」
大魔道士は椅子から飛び降りると急かすように外を指し示した。
「そんなに急ぐのかね」
「次の満月に使いたいんだよ」
「明後日ではないか」
どうやら呪文の発動にはアイテム以外にも細かな条件が必要らしい。凍れる時の秘法もそうであったが、条件が多いほど複雑な呪文になる。それほどの大呪文は身体への負担も大きいはずだ。いくら興味があるからといって、あまり無理をするようでは止めなくてはいけない。
「ほら、行くぞ」
大魔道士に急かされて棲家を出る。大魔道士の言動は横暴とも取れるが嫌ではない。こうやって大魔道士と一緒に過ごすことが私の楽しみになっていた。
「手を」
大魔道士に手を差し出す。そこで私は大魔道士と共にルーラをしたことがないと気付いた。敵対していた頃はお互いに飛翔呪文を使って追いかけあっていたが、一緒に使うのは初めてだ。
大魔道士は私の手に手を重ねる。その小さな手の感触に心臓が小さく跳ねた。何も驚くことはないのに動悸がする。どうにか平静を保ちながら握り潰さないようにそっと大魔道士の手を握り返して呪文を唱えた。
***
水で冷やされた空気が清々しくあたりに漂っている。流れ落ちる滝は水飛沫を方々へと飛ばしていた。それらを受けながら大魔道士は岩肌に生える植物に手を伸ばす。
私は大魔道士を抱えて呪文で中空に浮かんでいた。大魔道士はなぜか自分でトベルーラを使わず、私に抱えて飛ぶように言った。私は大魔道士の手が植物に届くように岩肌に近づく。
「お、いいぞ。そのまま」
大魔道士は手を伸ばして植物をいくつか採った。それはユドンバラという植物で、金色の茎の先に真珠のような実をつけている。引き抜いた長い根は銀色だった。根が強いのか大魔道士は力いっぱい引き抜いている。私も手伝いたかったが、私の力では強すぎて根が途中で千切れてしまうだろう。
「気をつけたまえ。実には毒がある」
人間が触れればそれだけで死に至るほどの毒を持った植物だった。採取したユドンバラは丁寧に洗い、細かな土を丁寧に落としていく。
「あとは乾燥させたいんだけどよ、オレのとこは潮風が吹くから、お前の家で干させてくれ」
「それは構わないが」
「じゃあ戻るぞ」
そう言って大魔道士は手を差し出して待っている。行き先が私の棲家なら大魔道士のルーラでも可能だろう。別にどちらが呪文を使っても構わないが、大魔道士に頼られているような気がして少し嬉しかった。
私は大魔道士を連れてルーラを唱えた。一瞬の風の抵抗と目眩に似た感覚のあと、見慣れた棲家の裏に着地する。
大魔道士は棲家にあった物をいくつか使って採取した植物を干した。その大魔道士の法衣から水が滴っている。滝の水飛沫が随分と大魔道士の法衣を濡らしたようだ。
その後ろ姿を見ながら小さな違和感を覚える。なぜ大魔道士は呪文を使おうとしないのだろうか。
「あなたの法衣も干したほうがいい。風邪を引いてしまうよ」
「代えがねえよ」
「その植物もあなたの法衣も呪文で手早く乾かせるのでは?」
「丁寧にやらねえと効果が薄れるかもしれねえだろ。この法衣だって燃やしちまったら大変なんだ」
だがせめて濡れた法衣は脱いだほうがいい。私は肩に付けているマントを外した。
「乾かす間に羽織るといい。身体を冷やさないように」
このマントなら大魔道士が羽織るには丁度いい大きさだろう。大魔道士はマントを受け取ると法衣を脱いだ。大魔道士の身は骨と皮ばかりで、昔に鍛えたであろう筋肉が薄く残っているだけだった。
「……おい、あんま見るなよ」
大魔道士が怪訝そうに言う。私は大魔道士を注視していたことに気付いて眼を逸らせた。
「すまない」
「スケベかよ」
「そのような意図はない。人間の身体が珍しかったのでつい」
幼児ならヒュンケルを見ていたが、年齢を重ねた人間の身体を見たのは初めてだった。その肉体のあまりの頼りなさに不安を感じる。先ほど手で抱いたときも、あまりの軽さに持っている感覚が無いほどだった。
「肉を食べたほうがいい」
「あ?」
「沢山食べて運動をすれば強靭な肉体になる」
「なるわけねえだろ。こっちは棺桶の三歩手前にいるんだぞ」
マントを羽織った大魔道士が法衣を干しにいった。マントから覗いた手足の頼りなさに胸が騒つく。それは大魔道士と戦っていた頃は感じたことがないものだった。
***
本と地図を交互に見ながら思わず溜息が出た。大魔道士が探している残り二つのアイテムについて調べているが、順調とはいえなかった。
大魔道士と話し合って次はサラマンダーの抜け殻を探す事になった。私の手持ちの本にもそれに関連する書籍が幾つかあったので手分けして読む。生息地について調べるのは難しくなかったが、問題は抜け殻をどう採取するかだった。
「やはり採取は難しいようだよ」
採取方については大魔道士が別の文献を読んでいる。そちらに良い案が載っているだろうか。
「大魔道士?」
返事が無かったので振り返る。大魔道士は椅子に座って本を開いたまま眠っていた。
「大魔道士、起きたまえ」
何度か肩を揺すると大魔道士はようやく眼を開けた。寝惚けた眼が不思議そうに私を見ている。やがてここへ来ていた理由を思い出したのか、慌てた様子で本を見た。
「悪い」
「疲れているなら今日は休んだほうがいい」
私は外へ出て干しておいた大魔道士の法衣を手に取った。天気が良かったから既に乾いている。
「乾いていたよ。着替えるといい」
法衣を手渡し、今度は大魔道士の身体を注視しないように気を付けながら離れた。だが先ほど見た日に焼けていない生白い脚が思い出されてしまう。考えないようにしようと思えば思うほどに、より強く意識してしまった。大魔道士に申し訳ない。見られることを嫌がっていたのだから、早く忘れよう。
十分時間を取ってから振り返る。大魔道士の着替えは終わっていた。大魔道士は私が先ほど見ていた地図を見ている。その眼差しに焦燥の色が見えた。
「ロモスあたりが多そうだな。探しに行くぞ」
「今からかね」
「当たり前だろ」
それから私たちはロモス地方を回ってサラマンダーの抜け殻を探した。サラマンダーは巣で脱皮をするというから探したものの、巣は見つけても抜け殻は見つからない。それどころかサラマンダーに見つかり、巣を荒らされると思ったのか散々に追いかけ回された。
「大丈夫かね大魔道士」
大魔道士はぐったりと座り込んでいる。動き回って疲れたのだろう。額には薄らと汗が浮かんでいた。
「思ったより見つからねえもんだな」
「私はサラマンダーの抜け殻を見たことがない。本当に存在するのかね」
サラマンダーの皮は脱皮すると同時に燃えるという。後には残らないものをどうやって手に入れるというのか。
「続きは明日にしよう」
もう夜だった。魔物は夜に凶暴性を増すものが多く、ドラゴンもそれに該当した。
「いや、もう少し探す」
「まだ二日ある。焦っても良い結果は生まれない」
大魔道士は不満そうだったが私の言っている事が正しいと認めた。大魔道士は座り込んだまま私に向かって手を伸ばす。
「じゃあお前のとに泊めてくれ」
「何故」
「ベッドの端っこ借してくれりゃいい。明日は早朝から探しに行くぞ」
ルーラで棲家へ帰ると、大魔道士は本当に私の寝台へと横になった。寄越せと言って私のマントを奪って身体に巻きつけている。本当にこのまま寝る気らしい。
「寝台を使うのは構わないが、あなたは平気なのかね」
「平気って何がだよ」
半分眠っているような声で大魔道士は言う。目は既に閉じていた。岩を削って作った寝台は人間には固いだろうし、温かい毛布もない。何より、私と一緒に眠ることに大魔道士は何の抵抗もないのだろうか。
「私が隣に寝ても良いのかね」
大魔道士は寝返りをうって自分の隣を叩く。だがその手の動きは緩慢で、殆ど眠りに落ちていた。程なくして寝息が聞こえてくる。やはり疲れていたのだろう。
大魔道士は一緒に寝ていいと言ったが、それが判断が正常な思考でされたものなのか迷った。そして長い時間を逡巡した挙句、大魔道士に背を向けていくつかの本を本棚から抜き取った。
それから何冊か本を読み込んだが、サラマンダーの抜け殻はまだ見つかる可能性はあっても、残りの一つは不可能のように思えた。伝承に似たアイテムはあるものの、それらは御伽話の域を出ない。大魔道士が本気でこのようなアイテムを探そうと思ったのか些か疑問だった。
息をついて立ち上がる。明かり取りの窓からは低い月が見えた。あと数刻で夜が明ける。動物たちが目覚めはじめるだろう。
「ん……」
微かな布ずれの音がして大魔道士が寝返りをうっていた。眠っているというのに苦悶の表情を浮かべている。アイテムを探すときもどこか焦っているようだった。大魔道士が使いたいという呪文はただの不埒な呪文ではないのかもしれない。だが尋ねても教えてはくれないだろう。
私は大魔道士のそばに立ち彼を見下ろす。大魔道士に強く惹かれるこの気持ちの行き先がわからないでいた。共に過ごせて嬉しい思うが、見えない壁も感じる。もっと親密な関係になりたいと思う気持ちもあるが、それを自分の口から提案することはできなかったし、またするべきではないと思っていた。だが大魔道士の手に触れた時に感じた感情に昂りを、もう一度感じたかった。
***
ふと気付くと朝になっていた。ベッドのそばに座ってうとうとしていたらしい。見ればベッドは空になっていた。私のマントが丸まって置いてある。
「大魔道士?」
棲家を見渡すが大魔道士の姿はなかった。私は棲家を出て大魔道士を探す。
「起きたか」
大魔道士はすぐに見つかった。近くを流れる小川で顔を洗っていたらしい。大魔道士はさっそく探しに出かけると言った。私は夜に調べておいたサラマンダーの生息地を告げる。
「さすが仕事が早ぇな」
大魔道士は感心したように私の腕を叩いた。また胸が高鳴る。やはり大魔道士に褒められるのは嬉しかった。
そこから各地方を探し回った。山岳地方を中心に探したが、サラマンダーや巣は見つかっても抜け殻は見つからない。成果が出ないまま時間が過ぎていった。やはり抜け殻の採取など無理なのではないかという思いが大きくなっていく。
「あと一箇所、探してねえ土地がある」
大魔道士は座り込んで地図を睨みつけていた。
「オーザムかね。しかしサラマンダーがオーザムに棲むとは思えない」
オーザムは可能性か低いとして最初から除外していた。
「……行くぞ」
大魔道士は立ち上がる。だがその表情は疲れきっていた。
「休んだほうがいい。無理をしては」
「時間がねえ。今日中に見つける」
大魔道士は私に手を向ける。目的地へのルーラはすっかり私の役割になっていた。今日も大魔道士が呪文を使っているのを見ていない。
「それほど急ぐのかね。次の満月に間に合わずとも、一月待てばまた満月がくる」
「今度の満月じゃねえとダメなんだ」
大魔道士は思い詰めたような顔をしていた。これまでの大魔道士であれば、たとえ必死であったとしても、それを表に出すようなことはしなかった。
「無理をするほど大切なのかね」
「ああ」
「そろそろ教えてくれないか。どんな呪文を使う気なのか」
「言わねえと手伝ってくれねえのか?」
狡い言い方だ。大魔道士に頼られて私が断れないと知っているのだ。
「わかった。行こう」
大魔道士の手を取ってルーラを唱える。次の瞬間にはオーザムの吹雪に迎えられた。強烈な風と共に吹雪が襲ってくる。視界は一瞬にして真っ白になり、僅か数歩先すら見えなかった。雪の粒が全身に叩きつけてくる。
「大丈夫かね大魔道士」
叫ぶように言っても吹雪の轟音が耳をつんざき掻き消してしまう。大魔道士は吹雪にあおられて倒れそうになっていた。
「私に掴まって」
大魔道士を抱え上げる。これならば寒さも多少は軽減されるだろう。私は出来るだけ大魔道士に風雪が当たらないようにした。
そのまま進もうとするが風は容赦なく身体を押し戻してきた。膝まで埋まる雪をかき分けながら、何とか前進し続ける。足が雪に取られ、バランスを崩して転びそうになる度に、大魔道士を抱きかかえた腕に力を込めた。
そのまま目ぼしい場所を探したが、サラマンダーの巣は見当たらなかった。やはりこの地には生息すらしていないのだろう。大魔道士は私の腕の中で震えていた。やはり人間がこの吹雪の中いるのは無理だ。
「今日は諦めよう。明日にまた」
「待て、何か聞こえないか」
大魔道士に言われて耳を澄ますが、吹雪の音が周囲を包み込み、何も聞こえない。それでも風の中に微かな異音が混じっている気がした。まるで遠くから聞こえるかすかな鳴き声のようだ。
「この方向だ」
大魔道士が指し示した方角へと進む。すると視界の先にわずかな明かりが見えた。それは大きな雪の壁の向こう側にある。吹雪の中でも見えるほど強烈な光を放っていた。
ゆっくりと音を立てないように雪の壁を回り込む。すると火柱が一瞬上がった。そのままサラマンダーが天高く舞い上がっていく。赤く輝く鱗は吹雪の中でも鮮明だ。そのまま身を低くしてサラマンダーをやり過ごしてから巣を覗き込んだ。
「あった」
そこにはサラマンダーの姿を残した抜け殻があった。燃え尽きてはいない。オーザムの吹雪が炎を消したからだろう。
「気を付けろ!」
大魔道士が叫ぶや否や、急降下してきたサラマンダーが口を開き、灼熱の火球を吐き出してきた。火球は轟音を立てながら一直線に飛んでくる。咄嗟に避けたが、周りの雪が一瞬にして蒸発した。
「オレがあいつを引きつける。お前は抜け殻を守れ」
言うなり大魔道士は私の腕を飛び出していた。大魔道士は飛翔呪文で抜け殻から遠く離れる。サラマンダーは大魔道士のほうへ方向を変えた。大魔道士が唱えた呪文が響くと、氷の刃がサラマンダーに向かって飛んでいく。しかし、サラマンダーの吐く炎は氷の刃を溶かした。
私はサラマンダーの抜け殻を抱えた。見ればサラマンダーが大魔道士に急接近していく。その速さは驚異的で、一瞬で距離を詰めていた。鋭い牙が大魔道士に襲い掛かる。大魔道士は飛翔呪文を使い間一髪で避けた。
大魔道士はすかさず反撃の呪文を唱える。地面から何本もの氷柱が突き出し、サラマンダーの動きを封じた。
「大魔道士!」
大魔道士はすかさず私の元へと飛んできた。サラマンダーは暴れて氷柱を砕いている。私も飛んで大魔道士を腕に抱き留めた。氷柱を砕いたサラマンダーが火炎を吐く。それが届く前に私はルーラを唱えてオーザムを後にした。
***
森に降り立った瞬間に汗が吹き出した。咄嗟にサラマンダーがいない事を確認する。この森は静かで平穏だった。
「大丈夫かね大魔道士」
担いでいたサラマンダーの抜け殻を下ろして腕の中の大魔道士を見る。
「ああ」
大魔道士は私から顔を背けて腕から降りた。顔色が悪い。あれほど吹雪の中にいたのだから体力を消耗しただろう。
「休んだほうがいい。あなたの洞窟へ送っていこう」
休むなら私の固い寝台より、人間用の温かいベッドが良いだろう。すると大魔道士は覚束ない足取りで歩き出した。
「いい、一人で帰れる」
「しかし」
大魔道士は今にも倒れてしまいそうだった。思わずその身体を支える。途端に大魔道士の脚の力が抜けた。
「大魔道士!?」
大魔道士は胸を手で押さえていた。苦悶の表情に脂汗が浮かんでいる。ただの疲労とは思えなかった。
「ぐ……っ」
大魔道士は身を丸めると地面に蹲った。そのまま何度か咳き込む。すると地面に赤いものが散った。血だ。大魔道士は何度も苦しそうに咳き込んでいる。私は気が動転して呆然とその姿を見ていた。細い息の音がする。はっとして大魔道士の背をさすった。
「病気なのかね」
人間の病について知識はないがこれは只事ではない。なにか命に関わるほどの病気なのではないかと思えた。
「呪文を……使ったせいだ」
呪文の使用は身体に多少の負荷がかかるが、吐血するほどのものではないはずだ。
「どこか悪いのかね。呪文を使っただけでこれほど」
いや、今はそんな事を言っている場合ではない。私は大魔道士を抱えると棲家に引き返して寝台に寝かせた。
「平気だ……すぐおさまる」
大魔道士は血の気の失せた顔をしていた。何をすれば大魔道士が楽になるのかがわからない。どうして良いかわからず取り乱していると、大魔道士が私の手に触れた。
「落ち着け」
「落ち着いてなどいられない。私に何ができる。なにか薬があるのかね」
しかし大魔道士は小さく首を横に振った。
「これは禁呪法を使ったせいだ。そのせいで身体に無理がきかねえ。呪文を使うとこうなっちまう」
たったそれだけで、と私は愕然とした。呪文の中には人間が扱うには威力が大き過ぎるものもある。そんな呪文を使える人間はほぼ存在しないが、大魔道士はその技術と魔法力のために使えてしまう。だが人間の身体はその威力には耐えられない。そして一度傷付いた身体は元には戻らない。無理をして呪文を使えば傷口が広がっていくように寿命を縮める。そのために大魔道士は呪文を使おうとしなかったのだろう。
大魔道士は深く息をついた。どうやら苦しみは落ち着いてきたようだ。
「ガンガディア」
大魔道士が手を伸ばしてきた。思わずその手を両手で取ってから、大魔道士が何かを欲しがっているのかと思い至る。
「何が必要かね。水か。いや、先に身体を暖かくしないと」
「いい、いいから……暫くこうしててくれ」
言って大魔道士は目を閉じた。ただ手を取っているだけでいいのかと疑問に思う。もっと他にするべき事がある気がした。
「大魔道士」
しかし返事は返ってこない。眠っているようだ。だがこうしている間にも大魔道士の命が終わりに近づいている気がして、居ても立っても居られない。
そのときになって、大魔道士が持ってきた魔導書のことを思い出した。大魔道士がアイテムを集めてまで使いたいという呪文が載っている魔導書だ。大魔道士がこれほど焦りを感じながら呪文のためにアイテムを集めていることと、大魔道士の禁呪法で受けた身体のダメージが無関係とは思えなかった。
見ればその魔導書は椅子に置いたままだった。手を伸ばして手に取る。急いで目を通していくと、その呪文を見つけた。
ユドンバラの根、サラマンダーの抜け殻、そして空に鳴る雷を用いて満月の夜に呪文を唱えれば、人間を超越した身体へと変えるという。おそらく大魔道士は禁呪法で傷付いた身体を復活させるためにこの呪文を使おうとしたのだろう。そして次の満月を待てないほどに大魔道士の身体は限界なのだ。
満月は明日の夜だ。それまでに残りのアイテムを見つければ大魔道士を救える。
「待っていてくれ大魔道士。私が必ず見つけてくる」
握っていた大魔道士の手をそっと置いた。
***
月が昇り始めていた。満ちた月はいつもと違う光を放っている。今日の満月は大魔道士の命の期限を表していた。
私は一日中アイテムを探し回った。魔導書に載っていた「空に鳴る雷」というアイテムが実際に存在するのかも怪しい。もしかすると言葉通りの、自然に発生する雷のことを指しているのかもしれなかった。
世界中を飛び回ったが空に鳴る雷というアイテムは見つからなかった。気付けば夜になっていて、満月が浮かんでいる。
私は何の成果もないまま棲家へ戻った。大魔道士を救うためのアイテムを見つけられなかったことに自責の念が募る。
「大魔道士」
大魔道士は寝台に横になっていた。私を見て安心したような表情になる。
「どこ行ってたんだよ」
「空に鳴る雷を探していた」
「どうだ。見つかったか?」
「……すまない。見つけられなかった」
大魔道士はまるで初めから期待していなかったかのような表情をしていた。すっかり諦めているようだ。言いようのない無力感がある。大魔道士のために何か出来ることがまだあるはずだ。
「いいんだよ、もう」
「諦めてはいけない。やはり最後まで探そう」
「いや、駄目だ。お前はここにいてくれ」
「何を言う。もし本当に空を走る雷が必要なら天候呪文で雨雲を呼んで」
「あの呪文はインチキだ」
私は大魔道士が何を言っているのかわからずに言葉を失った。
「インチキ……とは?」
「嘘っぱちってことだ。あの本は知り合いの店から拝借してきた、トンデモ呪文ばっかりを集めた魔導書なんだよ。全部デタラメなのさ」
「では何故……あれほど必死にアイテムを集めたではないか。あなたはそれが荒唐無稽な本だとしても、一縷の望みをかけたのでは?」
「よく考えてみろよ。人間を強靭な身体に変える呪文なんてもんが本当にあれば、これまで誰かがそれを使ってる。だがどこにだってそんな話は残ってねえ」
大魔道士はまるで呪文を信じていなかったらしい。だとしたらアイテムを集めた理由がわからなかった。
すると大魔道士は自嘲するような笑みを浮かべた。悪事が露見したときのような気まずさと、それでいて反省の色を見せないいつもの大魔道士の顔だ。
「悪かったな。オレのワガママをきかせちまって」
「我儘?」
「最後の時間をお前と過ごしたかったんだよ。アイテム探しって言えば、お前も付き合ってくれるんじゃねえかと思ってな」
大魔道士が私と過ごしたいと思ってくれたことに驚きと喜びを感じながらも、それ以上の不可解さを感じた。偽られたことへの憤りもある。
「たとえ本当のことを聞いていても私はあなたの望みならば叶える」
「でもそれは同情からくるもんだろ。オレはお前に同情されるなんてまっぴら御免なんだ。オレは最後までお前の……お前が尊敬する好敵手でいたかった」
大魔道士は最後まで矜持を手放したくないがために嘘をついたという。私は歯痒かった。大魔道士の気持ちを尊重したいと同時に、弱味をさらけ出せる相手でなかったことが悲しかった。私だったら大魔道士のどんな姿だって受け止めてみせる。だがそう思っているのは私だけなのだ。
そのとき、轟音が響いて地面を揺らした。あまりの衝撃に敵襲かと思うほどだった。私は大魔道士と顔を見合わせる。
「……今のは近くに雷が落ちたのでは」
外を見ればいつの間にか分厚い雲が空を覆っていた。空の端が一瞬だけ光る。唸るような雷の音が空に響いていた。
「空に鳴る雷」
それは最後のアイテムだ。思わず立ち上がる。これほどの偶然を奇跡と呼ぶのだろうか。
「大魔道士、やってみよう」
「ありゃインチキ呪文だって言っただろ」
なぜか大魔道士は尻込みしていた。私は大魔道士の手を掴む。
「やってみなければわからない。もし本当ならあなたを救える」
「よせよ。オレはとっくにくたばっていい歳なんだ。今さら足掻くなんて」
「みっともないとでも言う気かね。私はみっともなくても構わない。あなたが生きられる可能性が少しでもあるなら」
こんな機会は二度とない。大魔道士さえその気になれば呪文は使えるのだ。
「大魔道士……お願いだ」
膝をついて懇願する。どんな手を使ってでも大魔道士に生きてほしかった。
すると大魔道士が立ち上がった。
「そこまで言われちゃあ、やらねえわけにはいかねえか」
私たちは外へと出ると急いで呪文の準備を始めた。空は暗雲で覆われている。嵐のように荒れた風が吹いていた。大魔道士は風に揉みくちゃにされながらも地面に魔法陣を描いていく。私は集めたアイテムをその側へと置いた。最後に大魔道士は魔法陣の中心に立って手のひらを天へと向けた。
「さっき言ってたことだけどよ」
大魔道士の声は風で吹き飛ばされてしまいそうだった。私は耳をそばだてる。
「もし呪文が成功してオレが化けもんみたいになったり、失敗してダセェことになっても、お前はオレのこと嫌わねえのか」
「当たり前だ。あなたがあなたであることに変わりはしない」
すると大魔道士はどこか安堵したような表情になった。
「そうか」
あたりがパッと明るくなった。空に雷が走る。少し遅れて雷鳴が響くと同時に、大魔道士は呪文を唱えた。
途端に魔法陣が炎を上げる。その炎に大魔道士は飲み込まれた。
「大魔道士ッ!」
炎の中で大魔道士がもがく姿が見えた。苦痛の声が響き渡る。このままでは大魔道士が焼け死んでしまう。私はありったけの氷系呪文を撃つが魔法陣の炎に弾かれてしまった。
「マトリフ!!」
燃え盛る炎の中へ手を差し入れようとすると、途端に炎は弾けたように魔法陣へと吸い込まれていった。大魔道士は魔法陣の上にうずくまっている。
「大丈夫かね大魔道士」
「大丈夫……みたいだな」
大魔道士は火傷も負っていなかった。大魔道士は立ち上がると自分の手のひらを見ている。
「呪文は成功したのかね」
「さあな。調子がいい気がするけどよ」
「そんな曖昧なものなのかね」
人間を超越した身体へと変える呪文というのはもっと劇的な変化があるのかと思っていた。だが大魔道士は呪文を使う前と何も変わらないように見える。
「なあガンガディア」
大魔道士は何か言いたそうにこちらを見ている。私は大魔道士の言葉を待っていたが、そのとき雨粒が空から落ちてきた。
「降ってきたな」
雨足はすぐに強くなった。激しく雨粒が打ちつけてくる。不思議と気分は高揚しており、景色が白く見えるほど強くなっていく雨の中で佇む大魔道士の姿を見ていると、口が自然と言葉を発していた。
「あなたは美しいな」
すると大魔道士は肩を振るわせた。寒いのかと思って私は大魔道士の上に手をかざして雨を遮る。
すると大魔道士は声を上げて笑い出した。可笑しくてしょうがないというように、雨に濡れながら笑い続けている。
「何がおかしいのかね」
大魔道士は目元を手の甲で拭った。拭ったのが雨粒なのか涙なのかわからない。大魔道士は私を見つめた。
「オレはお前の……」
大魔道士の言葉は雨の音にかき消されてしまった。何か大事なことを言っていた気がする。
「すまない。よく聞こえなかった」
しかし大魔道士は聞こえなかった言葉を言い直してはくれなかった。だが機嫌が良さそうに足元の水たまりを蹴っている。
「一人でずぶ濡れになるのは寒ぃけどよ、おまえとなら悪くねえってことだ」
その言葉の意味をはかりかねる。だが少なくとも、大魔道士は私と一緒にいることを望んでくれているのだろう。
だとしたら、やはり私はこの想いを大魔道士には告げないでいよう。これまで通り好敵手として大魔道士の隣にいれるのなら私は幸せだ。
「寒いのなら家に入ろう」
「それより次の満月の予定、空けとけよ」
「それは構わないが、どうしたのかね」
「理由は後で考える。ああクソ、いい夜だよなあ」
結局、呪文が成功したのかわからないまま、月日は過ぎていった。今も大魔道士が元気でいることが成功の証左のように思うが、大魔道士が言うにはあの呪文は失敗だという。では何故今も元気なのかと問えば、そんな事はどうでもいいだろうとあしらわれた。
「なあガンガディア」
大魔道士は寝転がったまま手のひらで呪文を錬成している。二つの呪文の組み合わせについての共同研究について取り組んでいた。あれから大魔道士は呪文を使っても体調が悪くならないのをいいことに、様々な呪文を作り出していた。
「少し待ってくれ。今その呪文の状態を書き留めている」
急いで書き留めていると、大魔道士は手に作り出した呪文をボールのように手で弄んでいた。それほどまで形状を保てるなら投擲に向くだろう。その場合は威力よりも操作性を重要視すべきだ。これも書き留めておこうと思うとペンは止まらない。
「いつまで待たせんだよ」
不貞腐れたように大魔道士は手の中の呪文を消してしまった。
「ああ、まだ消さないでほしかったのだが」
残念に思って言ったが、大魔道士の不機嫌そうな顔にはっとする。
「すまない。話は何かね」
「……やっぱり言わねえ。それより今日はロモスの祭りに行くって言っただろ」
それは半年も前からの約束だった。もちろん覚えていたが、研究も興味深い部分に差し掛かっていた。
「わかっているとも。しかし今の呪文の状態をもう一度見たい」
「また明日な。ほら、行くぞ」
大魔道士は私が書き込んでいた本を取り上げると閉じてしまった。そのまま遠ざけるように手を伸ばしている。もちろん私がその気になれば本はいくらでも奪い返せるが、大魔道士が私と出かけることをそれほど心待ちにしていたかと思うと面映かった。
「わかったよ。行こう」
私は大魔道士を抱え上げる。すると大魔道士が私を見上げた。
「お前こそ、オレに言うことはねえのかよ」
もったいつけたように言う大魔道士に、やはり機嫌を損ねてしまったかと思う。
「わかっているよ大魔道士。待たせたお詫びにあなたの趣味の店を何軒か付き合うよ」
「……お前って本当に」
ため息混じりに大魔道士は言う。言うならはっきりと言ってほしい。最近の大魔道士はこんな風に言葉を濁すことが多かった。
「何かね」
「なんでもねえよ。ほら急げ」
急かされて飛び上がる。よく晴れた空の雲を突き抜けて、二人で高く高く舞い上がった。