Hey ガンガディアはエレベーターを待っていた。だがエレベーターはまだ上の階にいるらしく、焦ったい気持ちで表示を見上げる。階を表す数字が光り、ゆっくりと下降を知らせてくるが、その遅さが苛立たせてくる。
ガンガディアは無意識に手に持った書類を整えた。ガンガディアの部署に持ち込まれる書類のうち、完璧に整ったものはごく一部だ。どこか抜けがあったり、記載ミスがあるなど、訂正を必要とするものが多い。いくら社内文書とはいえ、提出前に十分に確認すべきだとガンガディアは思う。そしてその訂正を必要とする書類を抱えて、ガンガディアはエレベーターを待っていた。特に一番上の書類ときたら、付箋が何枚も貼られている。いったいどんな書き方をすればこんなにミスをするのかと思うほどだった。
ガンガディアは総務課に入りたかったわけではない。この会社を選んだのは偏にある人物に会うためだった。だが残念なことにその人にはまだ会えていない。自分の仕事が忙し過ぎるのと、その人物があまり自分の部署に篭らず、どこで仕事をしているのかは日によって違うからだ。
微かな音を立ててエレベーターが降りてきた。軽快な音と共に扉が開く。ガンガディアは書類に目を向けながら、ようやくきたエレベーターに向かって大きく一歩踏み出した。
「おっと」
その声にはっとする。どうやらエレベーターの中に誰か乗っていたらしい。降りようとしたその人の前をガンガディアが塞いだ格好になってしまった。
「すまない」
ガンガディアはさっと横に避ける。苛立ちのせいで周りが見えなくなるのは悪い癖だった。
「悪りぃな」
目の前を小柄な男が横切っていった。総柄のシャツにジャケットを羽織っており、足元はサンダルだった。随分とラフな格好だと目が追う。男は初老のようで、白髪は軽く撫で付けられていた。
ガンガディアはなぜかその男に惹かれた。目が男を追いながらエレベーターに乗り込む。本来ならガンガディアは規律正しいことを好んだ。服装もその一つである。いくらこの会社が自由な服装を認めていても、仕事をする上では整った格好であるべきだと考えていた。だらしない格好は好きじゃない。だがその男に関しては嫌悪感を持たなかった。
ガンガディアは階数ボタンを押した。扉がゆっくりと閉まっていく。白髪の男が誰かを探すようにガンガディアの部署に入っていくのが見えた。誰かが白髪の男を呼ぶのが聞こる。
「マトリフ」
男が振り向く。そこで扉が閉じた。エレベーターが上昇していく。
「マトリフ……」
ガンガディアは名前を呟いていた。ガンガディアがこの会社を選んだのは、とある伝説的なエンジニアに会うためだった。
大魔道士と異名がつくそのエンジニアの名前はマトリフ。さっきすれ違ったあの人こそ、ガンガディアが追い求めていた人だった。
***
マトリフはエレベーターが好きではない。この狭い空間と、上昇や停止の時に慣性によって感じる浮遊感や圧力が不快だからだ。
だったら階段を使うといいですよ、と友人にはアドバイスされたが、そんな強靭な足腰は持ち合わせていない。
今日もマトリフは少しの憂鬱を感じながらエレベーターに乗り込んだ。他には誰もおらず、がらんとしている。階数ボタンを押せば下降していくエレベーターに、胃の辺りがふっと軽くなる。背後の壁は洒落た造りのためかガラス張りになっていて外が見えた。それなりの速さで下降していく様子は、空を飛ぶというより落下だった。マトリフはその様子から目を背けるために扉のすぐ近くのボタンのそばにいた。
エレベーターは下降の速度を緩めた。まだマトリフが行きたい階数ではないから、途中で誰かが乗り込むのだろう。
扉が開く。狭い箱に入ってきたのは大きな男だった。男は大きな段ボールを抱えている。マトリフは小さく息を飲んで、ボタンの前に指をやった。
「どこまでだ?」
両手が塞がっていては押せないだろうと思って尋ねる。男は一階だと控えめな声で言った。同じ階なので閉のボタンを押す。
再び下降をはじめたエレベーターは沈黙に包まれていた。マトリフは落ち着かなさを感じる。そのままエレベーターは下降を続け、やがて一階に着いた。マトリフはそっと息をつくと、開のボタンを押した。
「ありがとう」
男が礼を言って降りていく。すると男のポケットから何かが落ちた。それは社員証だった。カードタイプで首から下げるものだ。マトリフはそれを拾って男を追いかける。
「落としたぞ」
男が振り返る。マトリフが社員証を持っているのを見て、慌てたように段ボールをどこかに置こうとした。その様子が面白く思えて、マトリフは小さく手招きした。それを見て男が身を屈める。
マトリフは手を伸ばすと社員証を男の胸ポケットへと入れた。男は落としたことを恥ずかしく思ったのか、顔を赤くさせて礼を言ってくる。
マトリフはそれに軽く手を振って社員食堂の隣にあるミーティングスペースへと向かった。そこはあまり日が当たらず人気が無い場所だった。
案の定誰もいなかったそこへと腰を下ろす。マトリフは背もたれに身体を預けて大きなため息をついた。まだ胸の鼓動がうるさい。
さっき自分が言ったことが不自然ではなかったかと思い返す。緊張して何と言ったか思い出せない。
あの男のことをマトリフは知っていた。
ガンガディア。マトリフが片思いを続けている男だ。
***
ガンガディアは慌ててボタンを押した。閉まりそうになっていたエレベーターのドアが開く。ガンガディアは温かな紙袋を手に持ちながら中へと乗り込んだ。
「何階だ?」
その声にガンガディアは嬉しい驚きを感じて肩が跳ねた。見ればマトリフがボタンに指を伸ばして待っている。
マトリフと会うのはこれが三度目だ。今回もまたエレベーターの中だったのは不思議な偶然だ。
「四階に……ありがとうございます」
マトリフがボタンを押してドアがゆっくりと閉まる。エレベーターは上昇をはじめた。
ガンガディアはこの狭い空間にマトリフと二人きりでいることに緊張を覚えた。自然と目線が上を向く。視界の端にマトリフが映り、それだけで胸が高鳴った。
「いい匂いだな」
「えっ……ああ、これ」
話しかけられたことに驚きながらガンガディアは手に持った紙袋を見る。中に入っているのは焼きたてのアップルパイだ。どうしても食べたくて昼休み中に急いで買ってきた。
「近くに新しくできたケーキ屋のアップルパイです」
「甘いものが好きなのか?」
「ええ。今はアップルパイにハマっていて。前に同僚の手作りアップルパイを頂いてから好きになって、あちこちの店を回って食べています」
ガンガディアと同じ部署の同僚は料理好きで、時々会社にもお裾分けで料理を持ってくる。その同僚が作ったアップルパイを食べてから、ガンガディアはすっかりアップルパイが好きになった。
「ああ、あの交差点にあるケーキ屋か。オレも今度行くかな」
マトリフがそう言ったとき、ちょうど四階へと着いた。ドアがゆっくりと開く。
「では……」
ガンガディアは軽く会釈をしながらエレベーターを降りた。ドアはすぐに閉じてしまう。
ガンガディアは思わずエレベーターを振り返った。短い会話ではあったものの、マトリフから話しかけてくれたことに今になって気分が舞い上がる。
ガンガディアは顔中に笑みを浮かべて歩き出した。食べたかったアップルパイは買えたし、エレベーターでマトリフと話せたし、なんて素晴らしい日なのだろうと幸せを噛み締める。
一方、エレベーターに一人残されたマトリフは、真剣な面持ちでスマートフォンを取り出した。
「ヘイ、トロール」
マトリフはバーチャルアシスタントを呼び出す。すぐに「ご用件は?」と返答があった。
マトリフは赤くなった顔を伏せた。これまで料理らしい料理をした事がなかった自分を恨みながら呟く。
「アップルパイの作り方を教えてくれ」
***
夕暮れの休憩室は忘れ去られた孤島のようだった。足早に帰宅する者が通り過ぎていき、残業をする者が重い足取りで後にする。
そのどちらとも違う姿がそこにあった。ガンガディアは休憩室の前で立ち止まる。マトリフが休憩室の机に突っ伏していた。
ガンガディアは帰るために向けていた足を休憩室へと進めた。マトリフの顔は窓の方を向いており、ガンガディアからは見えなかった。
「大丈夫ですか?」
思わず声をかけたのは、その姿が落ち込んでいるように見えたからだ。
マトリフがそろりとこちらを向いた。その顔には酷いくまができている。
「お前さんも残業……じゃねえな」
マトリフはガンガディアが持っていた鞄を目にして言った。ガンガディアの部署には今回の騒動の余波はあまり及んでいない。もしかすると明日以降は忙しくなるかもしれないが、今日は定時で帰ることができた。
今回の騒動の発端は、とあるニュースから始まった。高性能AIが社会に与える大きな影響、という見出しがつけられたニュースだ。そこで問題視された高性能AIが「トロール」だった。
トロールはこの会社が開発したバーチャルアシスタントだ。トロールは発話解析により、使用者の質問にインターネット上の情報やローカルに保存された情報を用いて回答し、使用者の命令を代理実行する。天気を調べ、特定の相手へ花を送り、列車のチケットを買うこともできる。
しかし、トロールは高性能過ぎるという理由で忌避された。AIが人間の仕事を奪う未来が現実味を帯びてきたというのだ。
そしてそのトロールを開発したのがマトリフだった。
トロールを危険視したニュースが出たのが昨日で、技術開発部をはじめとした関係部署は対応に追われているらしい。そんなニュース如きに右往左往する必要はないとガンガディアは思ったが、問い合わせの数はニュースの影響を如実に表していた。
ガンガディアはマトリフのことを心配していた。トロールを開発したマトリフにも非難が集まり、その対応に追われているのだろうと思ったからだ。
「大変でしたね。今回のこと」
「ああ、まあ大したことはねぇよ」
マトリフは肩をすくめてみせた。しかし疲れた様子は隠しきれない。するとマトリフの手に包帯が巻かれているのが見えた。
「どうしたんですか、その手は」
「いや、これは」
マトリフはさっと手を袖の中に隠してしまった。
「……ちょっと火傷しただけだ」
「トラブルでもあったのですか」
「そんなんじゃねぇよ。オレが不注意だっただけで……」
マトリフはあまり言いたくなさそうだった。ガンガディアは歯痒さを感じる。もしマトリフに何かあったなら、どんな事をしてでも助けたいとガンガディアは思う。しかしマトリフは助けを必要としないだろう。
マトリフは天才であるが故に孤高の存在だった。会社の方針は人とAIが共に進化していく社会を目指していくことだが、マトリフは違った。マトリフのAIに対する発言が物議を呼んだのだ。
人間より優れたものを作りたい。
マトリフはAI作成の動機についてそう語った。そしてマトリフは自分が作ったAIに「トロール」と名付けた。トロールはフィクション作品に登場するが、大概は粗暴で醜く、知能が低い姿で描かれている。マトリフがどのような意図で「人間より優れた存在」だと語ったAIに「トロール」と名付けたのかはわからない。だが彼が皮肉の意味合いを込めたのだというのが多く人の認識だった。
「今回のことを、あなたはどう思いますか」
確かにAIは既存の仕事に変化を与える。そのために仕事を失う人が出るかもしれない。そこにガンガディアは迷いを感じないわけではなかった。
するとマトリフはガンガディアをじっと見つめた。まるで脳の中まで見透かされるような視線に、ガンガディアは背筋を伸ばす。
「オレはリスクから目を背けるつもりはない。このAIでより便利になる。あとはどう向き合うかってことだ」
迷いのない言葉に、ガンガディアは身体に電気が走ったように感じた。自分が憧れた存在が虚構でも陽炎でもなかったと確信する。
「私はあなたが作ったAIを信じています」
するとマトリフは驚いたように目を丸くさせた。
「……お前に言われるなんてな」
「気を悪くさせましたか」
「逆だよ……嬉しい」
マトリフは椅子から立ち上がった。西陽が窓から差し込むせいか、マトリフの顔が赤く染まっていた。
「そろそろ戻るとするか」
「あまりご無理をなさらないように」
「オレは不真面目なんでね。サボるのは得意なんだ」
じゃあな、と言ってマトリフはガンガディアの横を通り過ぎようとした。ガンガディアは思わずマトリフの腕を掴む。
「すみません急に」
引き止めようとして咄嗟に掴んだ腕を離す。マトリフは驚いたせいか固まっていた。
「火傷によく効く塗り薬を知っているので、明日にでも持ってきます」
「あ、ああ。助かる」
マトリフはぎこちなく言うと足早に歩いていく。しかし休憩室から出る前に立ち止まると振り返った。
「ありがとよ、ガンガディア」
それだけ言って今度こそマトリフは行ってしまった。今度はガンガディアは驚いて目を瞬いた。
「なぜ私の名前を……」
思わず呟いてから思い出した。社員証を落としてそれをマトリフに拾って貰ったのだ。そのときに名前を見たのだろう。
ガンガディアの耳にマトリフの声がリフレインする。名前を覚えていてくれたことに喜びが込み上げていた。
一方マトリフは人のいない場所まで行ってから座り込んでいた。さっきガンガディアに掴まれた腕をそっと撫でる。まだ掴まれた部分が熱く感じられた。
マトリフは指先に巻いた包帯を見つめる。それは昨夜に火傷したものだ。マトリフは最近はずっとアップルパイ作りに没頭していた。昨夜も遅くまでパイを焼いていて、寝不足の不注意でオーブンの中の熱い鉄板を素手で触ってしまったのだ。
アップルパイは依然として上手く作れない。そう思い悩んでいたところをガンガディアに声をかけられた。ガンガディアは今回の騒動をひどく心配した様子だったが、マトリフは一ミリも苦労していない。それよりもアップルパイの新しい構想で頭がいっぱいだった。
「オレ人生で今が一番努力してるよなぁ……」
マトリフの呟きは誰にも聞かれることなく消えていった。
***
「その……私は床で寝るのであなたがベッドを使ってください」
「床ってお前……こんだけ広いんだから一緒に寝りゃいいだろ」
ガンガディアとマトリフは回転式ベッドを目の前に立ち尽くしていた。ムーディーなライトがそのベッドを照らしている。
二人はラブホテルにいた。二人で一緒になった出張で、手違いによりホテルの予約が取れておらず、仕方なくラブホテルに入った。空いていたのは一部屋だけで、その部屋には回転式のベッドが部屋の真ん中に鎮座していた。
「本当にあるんだなこのベッド」
マトリフは感慨深そうに呟いた。しかしガンガディアは気まずくてベッドから目を逸らす。つい性行為を連想してしまい、この場にマトリフと二人きりでいることに居た堪れなくなってきた。
「まあ、気にすることはねぇよ。さっさと風呂に入って寝ようぜ」
「では先にどうぞ」
と言ってからガンガディアはハッと息を飲んだ。回転式ベッドのすぐ近くにあるバスルームはガラス張りだった。中の様子が丸見えである。もちろん脱衣所なんてない。ガンガディアは慌てて反対の壁を向いた。
「私はずっと壁を向いてますので」
「おいおい、気にし過ぎだろ。まあジジイの裸なんて見たくもねぇか」
マトリフは軽い調子で言いながらジャケットを脱いだ。
「いえ、そういうわけでは」
「え?」
「いえ! あなたの裸を見たいという意味ではなくて! その、見るのが嫌ではないというか」
ガンガディアは気が動転して言い訳を重ねていく。しかし言えば言うほどいやらしい意味に聞こえる気がしてガンガディアは焦った。
「すみません違うんです変な意味はないですし入浴は覗きませんから安心してください」
ガンガディアは早口で言うと壁に向かって正座した。
「じゃあ入るけどよ……テレビとか見てていいんだぜ」
「いえ、このまま待ちます!」
ガンガディアは背筋を伸ばして言った。やがてシャワーの音が聞こえてくる。ざあざあと流れていく音に、つい思考がそちらに向いてしまう。ガンガディアは頭を振った。尊敬する人の裸体を想像するなんて不敬である。ガンガディアは心頭滅却するべく素数を順番に数えた。素数は私に勇気を与えてくれる。するとバスルームの戸が開く音がした。
「なあガンガディア、悪りぃんだけどタオル取ってくれ」
思わず振り返ってからガンガディアはぎゅっと眼を閉じた。そしてベッドの上に置いてあったタオルを手探りで取る。あとは自分の足元だけ見てバスルームまで歩いた。
「どうぞ」
「あんがとよ」
バスルームからの湯気が漂ってくる。濡れたマトリフの裸足が視界に入って慌てて眼を閉じた。
「お前も入れよ」
マトリフはタオルを腰に巻いてそのまま歩いていく。ガンガディアはそそくさとバスルームへ入った。ガンガディアは手短にシャワーを終わらせてバスルームを出る。
するとベッドが回転していた。ベッドの真ん中ではマトリフが大の字で寝転んでいる。ベッドはマトリフを乗せて低い唸りを上げながらゆっくりと回り続けていた。
「なぜ……」
ガンガディアは呟く。マトリフは腰にタオルを巻いたままの姿だった。
「なんでベッドを回転させんだろうな。楽しいと思うか?」
「そう思うならなぜ回転させたのです?」
「やってみたらわかるかと思ってよ」
ガンガディアは回るベッドを止めるためにスイッチを探した。見れば枕元にストップのボタンがある。だがそれ以外にもライトとレフトのボタンがあった。どうやら右回転か左回転か選べるようだった。ちなみに今は左回転だ。
どうでもいい。心底どうでもいいと思いながらガンガディアはストップのボタンを押した。
「服を着てください。風邪をひきますよ」
「オレは寝るときは着ない派なんだよ」
ガンガディアはぎょっとしてついマトリフを見てしまう。するとマトリフは悪戯っぽく笑っていた。
「なんてな。冗談だっての」
マトリフはそう言うとベッドから降りた。スーツケースからTシャツと短パンを取り出して身につけている。
「じゃあおやすみ」
マトリフは言うとベッドに潜り込んだ。ガンガディアは少し迷ってからベッドに入る。広々としたベッドは二人で寝ても十分な広さだった。だがガンガディアは大きな身体をぎゅっと丸めて端っこで眠った。
***
マトリフは天井を見上げていた。ベッドはゆっくりと回転している。
マトリフはシャワーを終えてタオルを腰に巻いただけの格好だった。今はガンガディアがシャワーを浴びている。湯煙の中に鍛え上げられた筋骨隆々の身体が見えた。その後ろ姿を遠慮もなくじっくり眺めてから、また視線を天井に戻した。
天井は鏡になっていた。ベッドに大の字になっている自分の姿が映っている。回転するベッドに寝転ぶ自分は滑稽に見えた。
本来ならこの鏡は抱かれている自分の姿を見るためのものなのだろう。マトリフはガンガディアに抱かれている自分を想像した。先ほど見たガンガディアの背中に腕を回し、あの引き締まった腰が打ち付けられる衝撃を夢想した。
だがそれらは虚しい空想だった。しかもそんな想像は初めてではない。自慰のためにガンガディアに抱かれる想像を数えきれないほどしてきた。
この手違いはチャンスだったはずだ。予定していたビジネスホテルには泊まれず、目についたこのラブホテルに泊まることになった。どきつい色のライトも、このわけのわからない回転ベッドも、引き出しの中の大人の玩具も、どれを見てもセックス以外の選択肢はなかった。
それなのに、ガンガディアは裸を見ることさえ遠慮している。
マトリフは鏡に映る自分の姿を見た。恵まれた体格ではないし、筋肉もつかない貧相な身体だ。おまけに若くもない。こんな身体では誘惑なんてできそうもなかった。
そう考えてから、ガンガディアにその手の誘惑は無意味だろうと思う。先ほどからの言動から、こんな状況で流されて手を出すような奴じゃないとわかっていた。
「……はぁ」
マトリフは溜息をついて両手で顔を覆った。気持ち悪くなってきた。この回転ベッドのせいだ。メリーゴーランドに乗ったときも酔ったことがある。
するとガンガディアがバスルームから出てきた。ガンガディアはベッドの回転を止めた。そして何事もなくお互いにベッドに入った。
マトリフはちらりとガンガディアの様子を伺う。ガンガディアは身体を丸めていた。あまりに端にいるので少しの寝返りでも落ちてしまいそうだった。
やがてガンガディアの寝息が聞こえてくる。どうやら寝付きがいいらしい。マトリフはこんなに近くにガンガディアがいると思うと眠れなかった。
いや、眠らなくてもいいか。
マトリフは寝返りをうってガンガディアの方を向く。見えるのは背中だけだが、その背中は呼吸に合わせて微かに動いている。
マトリフはそっと手を伸ばして指先でガンガディアの背に触れた。ガンガディアが起きる気配はない。
マトリフはそのまま何時間もガンガディアの背中を見つめていた。この大きな背中は昔と変わっていない。
心地良い暖かさに包まれてマトリフは目を覚ました。いつの間にか眠っていたらしい。目を瞬いていると視界がはっきりしてきた。
マトリフは驚きのあまり硬直した。ガンガディアの顔が目の前にあったからだ。
マトリフは目を見開いて視線だけであたりを見る。マトリフとガンガディアは向かい合っていた。そのうえガンガディアの腕がマトリフの身体を抱きしめている。力が強くて身動きができないほどだった。
ガンガディアはまだ眠っている。マトリフは動けないまま、鼻先が触れ合うほどの距離でガンガディアを見つめていた。少し首を伸ばせばキスできそうだった。
ガンガディアはまだ熟睡している。触れるくらいなら起きないだろう。ほんの少し触れるくらいなら。
マトリフは息を止めると顔を傾けた。あと数センチ。顔が燃えそうなほど熱い。胸が早鐘を打ち、その勢いで口から飛び出しそうだ。
「……おい、ガンガディア」
マトリフは顔を離すとガンガディアの鼻を指で摘んだ。途端にガンガディアが目を開ける。
「オレは抱き枕じゃねぇぞ」
ガンガディアは寝ぼけ眼でマトリフを見て、数秒経ってから状況を理解したらしく平謝りしてきた。とはいえよく見ればマトリフのほうが端で寝るガンガディアにくっついていたらしく、マトリフはガンガディアが謝るのを止めてホテルをチェックアウトした。
***
職場に気になる人がいる。その人は才能に溢れた人で、それと同時に孤独な人だ。誰もが彼を語るときに、称賛の言葉を口にしながらも、その表情に別の感情を表す。それは軽蔑であったり妬みだったり、良くないものが多い。大魔道士という異名でさえ、本人が名乗ったのが由来らしいから、尊大な自尊心があるのは間違いなさそうだ。
だが、ガンガディアはそのマトリフのことが気になる。それは以前から抱いていた尊敬の念とは少し違う感情だった。
ガンガディアは書類を抱えてエレベーターを待つ。そこにはガンガディアのようにエレベーターを待つ人が数人いた。その場の空気は何故か重い。ガンガディアの横に立つ人は苛立たしげに時計を見ていた。
やがてエレベーターが到着したものの、扉が開けば中は半分ほどが埋まっていた。しかし待っていた人数が乗り切れないほどではない。ガンガディアは扉のすぐ前で待っていたのでエレベーターの奥へと乗り込んだ。このエレベーターはガラス張りになっていて外の風景が見えるから圧迫感はない。
「あ」
思わず声が出たのはマトリフを見つけたからだった。エレベーターの一番奥の隅にマトリフはいた。前に大柄な人がいたから気がつかなかった。
「よお」
マトリフはガンガディアを見て言ったがすぐに目を逸らした。ガンガディアは小さく挨拶だけしてマトリフの横に並ぶ。
マトリフと一緒に出張へ行ったのは先月のことだ。手違いでラブホテルへ泊まることになってしまったが、仕事の方は問題はなかった。
だがそれ以来、マトリフに避けられている気がする。今のように会えば挨拶くらいはするが、以前のように会話することは無くなってしまった。もしかすると一緒にラブホテルに泊まったのが気まずいのかもしれない。ガンガディアは以前のようにマトリフと話したいが、避けられているなら話しかけるのは躊躇われた。
ガンガディアはそっとマトリフを見る。日に焼けていない不健康な肌が、今日は一段と青白く見えた。表情も険しく、もしかしたら具合が悪いのかもしれない。
大丈夫ですか、と言おうとしたらエレベーターが止まった。中にいた人たちが一斉に出ていく。その波と一緒にマトリフもエレベーターを降りていった。
声をかければよかったという後悔が残る。だがマトリフの足取りはしっかりしていたし、避けている相手から声をかけられれば余計なお世話かもしれない。
エレベーターの扉が閉まる。一人残ったガンガディアを乗せてエレベーターは上がっていった。
***
その日の夜。ガンガディアは疲れた気持ちでエレベーターを待っていた。もう殆どの部署の電気は消えている。ガンガディアのいる部署だけが今まで残業を続けていた。それもようやく終わり、同僚たちを見送ってガンガディアが最後に部屋を出た。
どうやら今回の残業は昼間の会議が発端らしい。昼間にエレベーターで見たのはその会議へと向かう人たちだったようだ。
エレベーターが到着して軽い音を立てる。扉が開き、内部から明るい光が漏れた。その光だけでどこかほっとする。
「あ」
誰もいないと思っていたエレベーターにマトリフがいた。マトリフもガンガディアを見て驚いているようだった。
「お疲れ様です」
言いながら頭を下げてエレベーターへと乗り込む。
「今帰りか?」
マトリフから声をかけられたことに驚きながら頷いた。
「ええ、あなたも?」
「オレは飯を買いに行くだけだ」
マトリフはパネルの前に立って壁に身体を預けていた。エレベーターはゆっくりと下降をはじめる。ガンガディアの目は自然と外へと向いていた。ガラス張りのおかげで街の光が見える。きらめく光の粒が街を輝かせていた。
「開発部はまだ終わりませんか?」
今なら話しかけられる気がしてガンガディアは言った。マトリフはこちらを見なかったが返事はすぐにあった。
「明日までに終わらせろって無茶言いやがるからな」
開発部の残業は終わりそうにないらしい。ガンガディアは残業を不憫に思いながらも、会話が続いていることが嬉しかった。マトリフを見れば疲れているようだが、昼間見たときほどの顔色の悪さはなかった。
「そういえば……」
ガンガディアが話を振ろうとした時だった。大きな音がして身体が大きく揺れた。電気の点滅が起こり、やがて消えた。あたりが暗闇に包まれる。エレベーターが止まったのだと気付いたのは数秒経ってからだった。
「大丈夫ですか?」
咄嗟にマトリフのほうを見たが、真っ暗で何も見えなかった。しかし返事がない。
「マトリフ?」
そのとき非常灯がついた。橙色の明かりがついて僅かにあたりが見えるようになる。するとマトリフが座り込んでいるのが見えた。
「大丈夫ですか」
ガンガディアは屈んでマトリフの肩に手を置く。薄暗くてよく見えないが、マトリフは顔を伏せて身体を丸めていた。息遣いが乱れている。ただ怖がっているのではなさそうだった。
「……悪ぃ」
マトリフの声は震えていた。
「高いところが……だめなんだ……」
ガンガディアはエレベーターの外を見る。まだ地上からは随分と高い位置にいた。
***
ガンガディアは咄嗟にマトリフの手を握った。
「大丈夫。すぐに復旧しますよ」
何の根拠もなく言い切っていた。この人を守らなければならないと、それだけを考えていた。
「非常ボタンがあるはずですし」
ガンガディアは立ち上がるとボタンパネルにあった非常ボタンを押した。途端にけたたましい音が鳴る。管理会社に繋がれば復旧作業に来るはずだ。ガンガディアは祈る気持ちで返答を待つ。
非常ボタンの音が鳴り止んだ。代わりに自動音声が再生される。無機質な声が、センターへ繋いでいると繰り返すだけで、それも数回繰り返して止まってしまった。見ればビル全体が停電している。
ガンガディアはマトリフを見た。マトリフは身体を縮めて震えている。自分がしっかりしなければとガンガディアは手を握り込んだ。それが使命感のようにガンガディアを急き立てる。
「助けを……」
ガンガディアが呟いたとき、スマートフォンの着信音が鳴った。ガンガディアは咄嗟にポケットのスマートフォンを取り出すが、それは黒い画面のままだ。見れば床に落ちているスマートフォンが音を立てている。ガンガディアのでないのならマトリフのものだ。しかしマトリフはそれを拾おうとしない。
「失礼します」
ガンガディアは言ってからスマートフォンを拾い上げた。見れば表示には名前と開発部課長という役職名が表示されていた。開発部はまだ残業していたと言っていたから、マトリフを心配して電話をしてきたのだろう。ガンガディアは迷わずに通話ボタンを押した。スピーカーにしてマトリフにも聞こえるようにする。
「今どこにいる!」
通話開始と同時に怒鳴り声が聞こえた。エレベーターに閉じ込められているのだとガンガディアは伝える。すると電話の相手は不審そうに言った。
「お前……ガンガディアか?」
「え、ええ。そうですが」
「老ぼれと一緒か?」
「老ぼれ?」
なぜか電話の相手はガンガディアのことを知っていた。マトリフは苦々しい顔をしている。
「マトリフだ。そこにいるのか」
「ええ。います」
「何階だ?」
ガンガディアはエレベーターから下を見下ろす。高さから見て三階くらいだろうか。そう伝えれば通話は切れた。
「助けを呼んでくれそうですね」
外部と連絡が取れたことに安心する。ガンガディアはスマートフォンをマトリフに差し出したが、マトリフは息苦しいのか浅い呼吸を繰り返していた。ガンガディアはスマートフォンを自分の胸ポケットへと入れる。ガンガディアはマトリフに手を差し出した。
「私に掴まってください」
どうにかマトリフを安心させたくて、ガンガディアは冷静な声で言った。マトリフは過呼吸を起こしそうだった。そっと掴んだマトリフの手は冷たい。その冷たい指先をぎゅっと握った。
「ここから無事に出られたら、食事に行きませんか?」
「……は?」
マトリフは顔を上げてガンガディアを見た。
「実は気になっている店があって。遅くまで営業している隠れ家的な店なんですが」
ガンガディアは努めて平静を装った。本当はこんな方法でいいのかと迷いながら、淡々とその店の情報を喋る。マトリフは驚いた顔でガンガディアを見上げていた。
「その店のメニューは健康に配慮されたものばかりで、ダイエット中にも気にせず食べられると評判で、行ってみたら本当に美味しかったので」
ガンガディアは自分の心臓がうるさかった。こんなことを話しているのはマトリフの意識を呼吸から逸らすためなのだが、こんな状況でデートに誘っているという意識に段々と緊張してきた。
「なのでここを出たら一緒に食事に」
言い切ってからガンガディアはじっとマトリフを見た。マトリフはわずかに頬に笑みを浮かべている。
「ははっ……いいぜ」
マトリフの呼吸は落ち着いてきていた。ガンガディアはほっと息をつく。
すると電気がぱっとついて目が眩んだ。がたんと揺れてから、エレベーターがゆっくりと下降していく。それもすぐに止まって、扉が開いた。
そこには電気がついたフロアが広がっていた。体格の良い銀髪の男が仁王立ちしている。
「無事か」
その声を聞いて、さっきの電話の相手だとわかる。ガンガディアはマトリフを支えて立ち上がった。マトリフは逃げるようにエレベーターから降りる。
ハドラーと名乗った男はビル全体が停電をしていたのだと説明をした。ガンガディアは礼を言いながら改めて自己紹介をする。しかしハドラーはなぜかガンガディアを知っている様子だった。ガンガディアはハドラーと会った覚えはない。
「……じゃあ行くぞ」
マトリフは休んでいたベンチから立ち上がってハドラーに言った。しかしハドラーは嫌そうに鼻を鳴らした。
「貴様は帰れ」
「なんでだよ。明日までに仕上げなきゃいけねえんだろ」
「この停電の復旧でそれどころではないわ。おいガンガディア。こいつを連れて帰れ」
ハドラーは追い払うようにマトリフへ手を振った。マトリフはそれに対して中指を立てている。
結局ガンガディアとマトリフは一緒にビルを出た。
「お住まいはどちらですか。送ります」
「……飯は行かねえのか」
マトリフの言葉にガンガディアは心臓が跳ねた。
「あの、具合は大丈夫なんですか」
「冗談だよ。もう遅いからお前も真っ直ぐ帰れ。オレはその辺でタクシーでもつかまえる」
マトリフは一人で歩き出してしまった。ガンガディアは追いかけてその手を掴む。
「……なんだよ」
「あの、やはり送ります。心配です」
しかしマトリフはガンガディアの手を外した。
「大丈夫だっての。じゃあな」
マトリフの有無を言わせない様子に、ガンガディアもそれ以上は言えなかった。ガンガディアはマトリフがタクシーをつかまえて乗り込むのを見届けてから帰路についた。
***
ガンガディアは鍵を開けて暗い部屋へと入った。家に帰ってきた途端にどっと疲れが押し寄せてくる。あのエレベーターへ閉じ込められたことが自分で思っていた以上に疲労として蓄積されていたようだ。
ガンガディアは鞄を置いて上着を脱いだ。するとそれを待っていたかのように着信音が響いた。ガンガディアはズボンのポケットからスマートフォンを取り出す。しかしそのスマートフォンの画面は黒いままで音も立てていなかった。
着信音は鳴り続いている。ガンガディアの疲れた頭はゆっくりと状況を理解した。先ほど脱いだ上着の胸ポケットに手を入れる。するとそこにはもう一つスマートフォンがあった。それはあのエレベーターで咄嗟にポケットに入れたマトリフのスマートフォンだった。
やってしまった。あのときはマトリフに返すのが無理だと思って預かる気持ちで自分のポケットに入れて、そのまま返すのを忘れてしまったのだ。
ガンガディアはマトリフのスマートフォンを見る。着信表示には自宅とあった。マトリフがかけてきている可能性もある。それなら出たほうがいいだろうとガンガディアは応答のボタンを押した。
「もしも……」
「どこほっつき歩いているんだい!」
突然の怒鳴り声にガンガディアは思わずスマートフォンを耳から離した。そういえばエレベーターの中でも通話開始と同時に怒鳴られたことを思い出す。しかし今回の声は女性だった。
「……すみません。実はわけがあってこのスマートフォンを預かっているのですが」
ガンガディアは恐る恐る言った。電話の相手がマトリフでないなら出ないほうが良かったのかもしれない。
「クズはどうしたんだい」
「クズ?」
「マトリフのことだよ」
このやりとりも先ほどと似ていると思いながら、ガンガディアは自分がマトリフと同じ会社に勤めていることを説明した。あのエレベーターでのこと、先ほどまで一緒だったが間違ってスマートフォンを持って帰ってしまったことを伝えると、電話の向こうの人は小さく「そうかい」と呟いた。
「すみません。あなたは?」
「あのクズの身内だよ」
「奥様ですか?」
その言葉のあとでたっぷりと沈黙があった。もしかして通話が切れてしまったのかと思って画面を見たが通話は切れていない。
「あの……」
「あんたには面倒をかけてすまないね。悪いがそのスマートフォンは明日にでも会社に届けてやってくれるかい」
「はい。そうします。あの、マトリフはまだ御自宅に戻られていないんですか?」
「それはいつものことだよ。どうせ友だちの家にでも転がり込んでるに決まっている」
「はぁ」
ガンガディアは事情が飲み込めないまま返事をした。女性はガンガディアに礼を言うと電話を切った。
ガンガディアはマトリフのスマートフォンを見つめる。自宅と登録された電話番号からかけてきた女性。あの沈黙。自宅にはあまり帰らずの友人宅に泊まると言った呆れた声音。それらのピースがありきたりで不快感を伴う状況を予想させた。しかしガンガディアはその想像を振り払う。断片的な情報で勝手に不倫などを想像することの方が間違っている。
そしてガンガディアはマトリフのことを何も知らないのだと気付いた。ガンガディアにとってマトリフはただ一方的に憧れて、少し話したことがあるだけの人なのだ。
だがそれと同時に、ガンガディアはマトリフに伴侶がいると考えただけで胸が苦しくなることに気付いた。それがどんな感情なのか知らないほど初心ではない。
だが確信を得たその感情は無惨にも砕けた。これが失恋の痛みなのだとガンガディアは胸を押さえる。胸からは全ての空気が抜けて代わりに悲しみで満たされていた。
***
「すみません」
ガンガディアは言ってハドラーに会釈した。早朝にも関わらず開発部は殆どの席が埋まり、忙しそうにパソコンに向かっている。その雰囲気は殺伐としていた。
ガンガディアの手にはマトリフのスマートフォンがある。早く返したほうがいいだろうと思って持ってきたのだが、マトリフの姿は見当たらなかった。
「お前か。昨日は災難だったな」
まあ座れ、とハドラーは近くの空いた椅子を指し示した。ガンガディアはまた会釈してその椅子に座る。
「昨日は助かりました」
ガンガディアは丁寧に頭を下げる。ハドラーが来てくれたおかげでエレベーターから出ることができた。もし長い時間閉じ込められたままだったら、マトリフはもっと辛かっただろう。
「何か用か?」
「マトリフにこれを返したくて」
ガンガディアは手に持っていたスマートフォンをハドラーに見せた。間違って持ち帰ってしまったので返しに来たのだと説明する。
「彼はまだ来ていませんか?」
「あいつが時間通りに来て席に座ったことなど無いわ」
ハドラーは苦々しく言う。その表情から彼の怒りは十分に伝わってきた。マトリフの良くない噂ならいくつか聞いたが、どうやら真実も含まれていそうだ。昨日の様子から二人の仲が良くないこともわかる。
「できれば手渡ししたいのですが」
返すだけならマトリフの席に置いておいてもよさそうだが、ガンガディアは直接会って持ち帰ったことを謝りたかった。マトリフの様子も気になる。エレベーターの隅で身体を震わせていたマトリフの姿が頭に焼きついていた。
「あいつならどうせ低いところにいる」
「低いところ?」
「あいつは高い所が怖いからな。このフロアにいるのも怖いんだろう」
ハドラーは親指で窓を指し示す。大きな窓からは街が見下ろせた。晴れているので遠くまで見通せる。いい景色だが、マトリフからしたら恐怖でしかないのだろう。
「一階に社員食堂があるだろう。あれの横に小さな休憩室がある。あいつがいるならそこだ」
「ありがとうございます。行ってみます」
ガンガディアはハドラーに頭を下げて立ち上がった。するとハドラーに呼び止められる。
「ガンガディア」
その呼び方にガンガディアはふと懐かしさを覚えた。不思議に思いながらハドラーを見る。
「あいつのどこが良いんだ?」
「はい?」
「生まれ変わっても惚れるほどなのか?」
「何の話ですか?」
意味がわからずガンガディアは眉間に皺を寄せる。なぜ会って間もないハドラーがガンガディアの恋を知っているのか。それもようやくガンガディアが自覚して,それと同時に失恋したばかりだというのに。
ガンガディアが答えに窮していると、ハドラーは興味を失ったようにガンガディアから眼を逸らせた。
「ついでに健康診断を受けろとあの老ぼれに伝えておけ」
話は終わったと言わんばかりにハドラーは自分の机へと向き直ると、もうガンガディアを見なかった。ガンガディアにはなぜハドラーがマトリフを老ぼれと呼ぶのかわからない。マトリフに年齢を聞いたことはないが、せいぜい五十代といったところだろう。ハドラーよりは年嵩だが、老ぼれと呼ぶには早過ぎる気がする。
「伝えておきます」
ガンガディアは一礼してから部屋を出た。何だか釈然としない気持ちのままエレベーターの前までくる。しかしガンガディアはボタンを押すのが躊躇われた。
昨夜のエレベーターが思い出される。あの揺れと暗闇の恐怖が色濃く残っていた。
ガンガディアは踵を返すと階段へと向かった。さっきこの階へ来るときも足は自然とエレベーターを避けていた。
ガンガディアは非常口と書かれたドアを開けて階段を降りる。これはダイエットになると己に言い聞かせた。
***
「お二人が付き合っているという噂を聞いたのですが」
アバンの言葉にマトリフは口をひん曲げた。会社の給湯室には甘い香りが漂っている。
「そんなんじゃねえよ」
カウンターの前に置かれたチェアに座りながらマトリフはノートパソコンを睨みつけた。
この会社の給湯室は給湯室というには充実した設備が整っている。広い作業スペース、棚に揃った洒落た調味料、オーブン、さらによくわからない調理器具などなど。社員同士のコミュニケーションを促進するために作られたスペースだが、マトリフは普段は近寄らない場所だった。この充実した給湯室をよく使っているのはアバンだ。先ほどから小麦粉を捏ねている。
「お前は給湯室でパイ作りができるほど暇なのかよ」
「これはリフレッシュタイムですから。出来たらマトリフも食べてくださいね」
仕事さえこなせれば休憩時間などは自由にしていい決まりだった。マトリフもそれを最大限に利用して殆ど昼寝している日もあるくらいだ。しかし今日ばかりはマトリフは真面目に仕事をしている。本来であれば昨日までに仕上げなければならなかった仕事が、ビルの停電によって作業が出来なくなり、今日の午前中までと期限が伸びたのだ。
マトリフは小さく欠伸をする。昨夜は殆ど眠れなかった。昨夜の停電のとき、マトリフはエレベーターの中にいた。そのせいで閉じ込められ、久しぶりにパニックを起こしてしまった。閉じ込められたのは短時間で、一緒にいたガンガディアのおかげですぐにパニックは治った。しかし恐怖はそう簡単には消えてくれず、夜は寝付けなかった。今朝もエレベーターを前にして足がすくんでしまい、乗ることを諦めて階段を登った。するとこの階からいい匂いが漂ってきて給湯室に顔を出した。そうしたらアバンがいたのだ。
「大丈夫ですか?」
「何がだよ」
「寝不足、仕事の進捗、高所恐怖症。どれも大丈夫じゃないでしょう」
「前二つは問題ねえよ」
この会社でマトリフの高所恐怖症を知っているのは二人だ。一人は上司であるハドラー。そしてもう一人がアバンだ。そして二人とも前世からの付き合いである。
そもそも、マトリフの高所恐怖症は前世が原因だった。前世でマトリフは自分の意のままに空を飛んでいた。それは呪文や魔法力が存在する世界だったからだ。
しかし、今のこの世界には呪文も魔法力もない。その知識はあっても使いようがないのだ。結果としてマトリフは前世であった力を失って、ただの人間になってしまった。
だがそれを、子どもの頃には納得できなかった。なんとか呪文を使ってやろうと、馬鹿なことをしてしまった。
その結果、少年であったマトリフは家の二階から落ちた。命まで落とさなかったのは奇跡だと言われた。父であるバルゴートにはこっぴどく叱られ、姉であるカノンには泣かれた。こんなに馬鹿だとは思わなかったと言って泣かれたのだ。今世では姉として生を受けたカノンは、この歳になってもマトリフを二階から落ちる馬鹿弟として接してくる。
その落下事故以来、マトリフは高い所が駄目になってしまった。高い場所にいるのに、身を守る術がないと思うと恐怖が襲ってくる。呪文が使えないことは身に沁みていた。
ただこうした前世との違いに戸惑うことは、前世持ちにはままあることだった。あのハドラーでさえ今世は生きにくいと言う。それをどうにか折り合いをつけて生きていくしかない。
「最後に作ったパイをあなたは食べてくれなかったじゃないですか」
ぽつりと呟かれたアバンの言葉にマトリフは意識を引き戻した。見ればアバンの表情が曇っている。
「いつの話してんだよ」
マトリフは呆れてため息をついた。それは前世でのことだからだ。前世でマトリフが死んだとき、最初に見つけたのはポップだ。そのポップはアバンお手製のアップルパイを持ってきていたらしい。死んでいたマトリフはもちろんそのアップルパイを食べることなんて出来ないし、そのアップルパイがどうなったかも知らない。
「だから今度こそ食べてくださいね」
一瞬湿った空気をアバンは笑顔で払拭する。いつの間にかパイは形作られ、天板に乗せられていた。アバンはそれを温められたオーブンへと入れている。
オーブンに入れられたパイをマトリフは素直に喜べなかった。マトリフはアバンが作る料理が好きだ。その料理の腕は前世よりも上がっている。便利な調理器具のおかげですよとアバンは言うが、その手が繊細に作り出す料理はアバンだからこそ出来るものだった。きっとこのアップルパイも美味いのだろう。
「また同じ部署の連中に差し入れすんのか?」
「ええ、そのつもりですが」
アバンは総務部だ。ガンガディアと同じ部署である。少し前、ガンガディアはアップルパイを好んで食べていた。そのきっかけは同僚にお裾分けしてもらったアップルパイが美味しかったからだという。それを聞いたとき、その同僚はアバンだろうとマトリフは思った。
マトリフは自分の手を見る。その手には薄らと火傷の跡が残っていた。自分がアバンほど器用でも繊細でもないとわかっている。そしてアバンと同じように美味いアップルパイを作れたとしても、それを理由にガンガディアから好かれるわけではないともわかっていた。
「彼のことを考えているでしょう」
オーブンの低い唸りに紛れるほどの声でアバンは言った。マトリフはガンガディアへの思いを今世ではアバンに言っていない。だが当然のようにアバンはマトリフの気持ちに気付いていた。
「今度こそ気持ちを伝えるべきですよ」
「言うも言わないもオレの自由だ」
マトリフはガンガディアを好きだが、やはり今世でもその思いをガンガディアに伝える気はなかった。
「同じ失敗は繰り返したくはないからですか? それならやはり言うべきでは」
「前世でのオレの失敗はあいつの身体を求めたことだ。好きだと言わなかったことは後悔していない」
前世でマトリフは思いよりも先に身体を重ねた。そうやってガンガディアを手に入れようとしたのだ。だがそれはガンガディアを傷つけるだけだった。だから今世ではその失敗を繰り返したくない。あのラブホテルに泊まった時も、欲に負けて誘うような真似をしたが、寝ているガンガディアにキスをするのはすんでのところで思い止まった。
「あなたの頑固は相変わらずですね。一緒にラブホテルに泊まって、手さえ握らずに出てきたというのは本当なんですね」
「それあいつが言ったのか。それが噂の元だろ」
ガンガディアは相変わらず真面目だ。ラブホテルに泊まった弁解を真正直にアバンへ言ったのだろう。
アップルパイはまだ焼けない。マトリフは何度も作る練習して、この長い待ち時間を知っている。そんな時間につい頭はガンガディアのことを考えてしまうのだ。
「では前世で、身体を悪くしていた事を彼に話さなかったのもあなたの自由だと?」
「そうだろ」
「教えてもらえなかった彼の気持ちを考えたことは?」
アバンが薄らと怒っていることにマトリフは気付いた。これはお説教なのだとマトリフは思う。
「彼がどんな気持ちであなたの亡骸を見たと?」
「あいつなら大丈夫だっただろ」
マトリフが死んだことを知ってもガンガディアなら大丈夫だとマトリフは思っていた。心配なのは弟子のほうで、真っ先に見つけたのがポップだと知ったときは心臓が凍った。だがガンガディアなら、冷静にやるべきことが出来る。だから一番に見つけるのはガンガディアだったらいいとさえ思っていた。
「あなたは酷い男ですねって、彼なら絶対に言わないでしょうから、私が代わりに言ってあげますよ」
「あまりいじめてくれるなよ」
「私はあなたに幸せになって欲しいんですよ」
「じゃあ黙っててくれ」
「ねえ知ってますか」
黙る気はないアバンは言うと一つのリンゴを手に取った。パイ作りで余ったものだろう。
「このパイに使っている林檎はとても酸っぱいんです」
アバンは大きな口を開けるとリンゴに齧り付いた。アバンは咀嚼をしながら表情を歪めていく。
「酸っぱくて食べられたものじゃない」
「じゃあなんで食ったんだよ」
製菓用のリンゴが酸っぱいことくらいマトリフも調べて知っている。アバンはさらにもう一口リンゴを食べた。
「たとえ酸っぱくてもパイにすると美味しい。人生も同じなんですよ」
「よせよ。人生を語るなんて年寄りのすることだぜ」
「私たちは幸か不幸か、二回分の人生を知っています。前の人生の苦しみも失敗も、覚えているんですよ」
アバンは酸っぱさに顔を歪めながら、それでもリンゴを食べていく。アバンの言おうとしていることを察してマトリフは口をつぐんだ。
「ねえマトリフ。酸っぱいリンゴでも、とっても美味しいパイに出来るんですよ。前世での悲しさをそのままにしておいていいんですか」
「いいんだよ」
どうせそのパイすら上手く作れない。酸っぱいリンゴが不味いパイになるだけなら、そのリンゴのことは忘れたほうがいい。いずれ腐って土に還るだろう。
「彼の意思はどうなるんですか。彼はあなたのことが好きですよ」
「お前は相変わらず鈍いな。あれは恋愛感情なんかじゃない」
言いながらマトリフは胸が苦しくなった。ガンガディアが向けてくる純粋な眼差しを思い出す。
「オレに言わせんなよ。あいつはオレを愛してるわけじゃない」
言えば余計に辛かった。愛している相手に愛されていない。それはよくあることだが、だからといって苦しいことに変わりはなかった。
「あいつを一番に見ているのはオレだ。そのオレが断言する。あいつは昔も今も、ただオレに憧れてるだけだ。そんな相手から恋愛感情を向けられたら嫌だろうが」
「そうやって決めつけるのがいけないんですよ。直接彼に聞いたらいい」
「ちゃんとフラれてこいってか。勇者様は手厳しいぜ」
止まっていた手を動かす。だが入力を誤ってデリートキーを連打した。
「あなたは自分が傷付くのが怖いわけじゃないんですね。彼を傷つけたくない。だから言わないんですか」
アバンの言葉に手が止まる。すると空いたドアをノックする音が聞こえた。
「お取り込み中すみません」
顔を見せたのはガンガディアだった。ガンガディアは戸惑ったように二人を見ている。マトリフは話を聞かれたと思って身体中が凍りついた。
***
ガンガディアは遠慮がちに中へと入ってくると、マトリフにスマートフォンを差し出した。それは無くしたと思っていたマトリフのものだ。
「私が誤って持ち帰ってしまいました。申し訳ない」
「いや……あんがとよ」
「私はこれで」
ガンガディアはそれだけ言ってすぐに部屋を出ていってしまった。ガンガディアは一度もマトリフと目を合わせようとせず、表情も強張っていた。
マトリフはスマートフォンを持ったまま立ち尽くしてガンガディアが出ていった戸口を見ていた。悲しい動悸が胸をうつ。それは現実がいかに残酷で救いがないかを訴えていた。
マトリフは暫くそうしていたが、立ち尽くしていてもどうにもならないと気付いた。近くにあった椅子に崩れるように座る。するとオーブンが焼き上がりを知らせる音を立てた。アバンがパイを取り出すのが視界の端にうつる。
「そっちのパイは美味そうじゃねえか」
「ええ。そのようです」
「オレはやっぱダメだ」
「諦めるのは早いと思いますが」
「あいつの反応を見ただろ」
ガンガディアはマトリフの言葉を聞いたに違いない。それで逃げるように去っていった。これほどわかりやすい拒絶もないだろう。
「きっと、事態はあなたが考えるほど悪くはありませんよ」
「悪くないだと。これ以上の最悪はねえよ」
マトリフはひとつ息をつくとパソコンに向かって一心不乱に指を動かした。先ほどから社内チャットにハドラーからの催促がうるさい。
「最悪だと言えるうちはまだ最悪ではありませんよ」
「このままでいいのか悪いのか、それが問題ってか」
マトリフはエンターキーを打つとパソコンを閉じた。それを持って立ち上がる。問題箇所に指示だけ出したから、あとは残りの連中でどうにかするだろう。
「じゃあな」
「一口いかがです」
アバンは切り分けたパイを皿に乗せてマトリフの前に置いた。それはまだ湯気を上げている。食欲をそそる焼き色に、香ばしく甘い匂いが胃を刺激する。
「最善を尽くしてください。それでもフラれたら、一緒に泣きましょう」
差し出されたパイにマトリフは手を伸ばした。それを鷲掴みにする。まだ熱いそれを、大きな口を開けてかぶりついた。サクッとした口触りと、上品な甘さが口いっぱいに広がる。やっぱり美味いじゃねえかと思うと、鼻の奥が痛んで目の縁に涙が迫り上がってきた。最初の一口を飲み込んで、残りを口に押し込む。視界がぐにゃりと歪んだ。己を惨めに思いながらも、最後の矜持が涙を流すのを許さなかった。
「帰る」
「またハドラーがうるさいですよ」
「知るかよ」
手についたパイの欠片を舐め取る。鼻を啜りながらマトリフは部屋を出た。このまま真っ直ぐに家に帰って溜まっている有給を申請してハワイに行こう。絶対にやらない事を夢想していたら突然に手首を掴まれた。
「なっ」
マトリフの手首を掴んでいたのはガンガディアだった。ガンガディアは廊下の陰に隠れていたらしい。ガンガディアは無言のままマトリフの手を引いて歩き出す。
「おい!」
マトリフは焦って声を上げる。ガンガディアの背中がやけに大きく見えた。
***
「おい、いい加減に止まれって」
ひと気のない廊下まで来たところでマトリフは言った。ガンガディアの大きな手で掴まれた手首が痛い。だがその体温が自分に触れていることに胸は高鳴った。
ガンガディアは歩を止めるとマトリフの手を離した。そうして気まずそうにマトリフを見る。マトリフは自分の置かれた状況を思い出して内臓が重くなった。
ガンガディアはアバンとの会話を聞いたのだろう。マトリフがガンガディアに片思いをしていることを知ったに違いない。羞恥と後悔が襲いかかる。今すぐにでも消えてしまいたかった。
「健康診断を」
ガンガディアが言った。マトリフは聞き間違いかと思ってガンガディアを見返す。
「健康診断を受けるようにと」
「は?」
「あなたの上司が言っていました」
「それを言うためにここまで引っ張ってきたのか?」
マトリフは気が抜けて思ったより大きな声で言っていた。するとガンガディアが焦ったように否定した。
「いえ、ですが先ほど伝えるのを忘れてしまったので、また忘れる前に言っておこうと」
マトリフの淡い期待は砕かれた。もしかしたらあの話はガンガディアに聞かれなかったのかと思ったからだ。
「じゃあ何の用だよ」
「先ほどの話、聞くつもりはなかったのですが、結果として聞いてしまいました。申し訳ない」
律儀に頭を下げるガンガディアにマトリフは混乱する。
「言いたいのはそれだけか?」
あの話を聞いてガンガディアは何も思わなかったのだろうか。ガンガディアは頭を上げるとマトリフを真っ直ぐに見る。
「聞いてしまったことは忘れます」
誠実さのこもった声でガンガディアは言った。マトリフは思ってもみなかった言葉に、頭を殴られたような衝撃を感じる。まさか思いが受け入れられるとは思わなかったが、嫌ならきっぱりと拒絶されると思ったからだ。だがガンガディアは忘れると言った。マトリフの思いは無かったことにするというのだ。
「……そうかい」
マトリフはゆっくりと俯いて口を引き結んだ。世界が音もなく崩れていくような気分だった。いつも自分だけが取り残される。もう立っているのさえ億劫だった。
だがガンガディアは立ち去らない。まだ何か言うのかとマトリフは顔を上げる。これ以上は過剰殺傷だと思いながら、ガンガディアの言葉を待った。ガンガディアは迷いながらも、意を決したように口を開いた。
「差し出がましいとは重々承知ですが、一つだけ言わせてください。昨夜、奥様から電話がありまして」
「はあ?」
「あなたのスマートフォンに着信がありまして、あなたからかもしれないと思って出たら奥様で」
「……それ自宅からの電話か?」
「ええ」
「怒鳴られたか?」
「え、ああ、はい」
「カノンは姉貴だ」
「姉? え、姉?」
「オレは結婚なんてしてねえよ」
「え!? じゃ、じゃあさっきの会話は……あっ」
ガンガディアは己の失敗に気づいたように青ざめていった。そして罪の告白をするように辿々しく言った。
「あの……すみません。てっきりあなたが不倫をしていたのかと勘違いを」
「不倫って……ああ、だから忘れるって言ったのか」
「ええ。奥様がいながら誰か別の方を好きになったという話かと勘違いを……よく聞こえなかった部分もあって。あ、その……もしかしてあなたが誰かに片思いをしているというもの私の勘違いですか?」
ガンガディアはしどろもどろになりながらも、少しの希望を持つように顔を明るくさせて言った。
「それは本当だ」
マトリフはきっぱりと言った。さっきガンガディアに勘違いされて気付いたからだ。ガンガディアを好きだという気持ちを、無いことにはしたくない。たとえ伝えられなくても、この思いは確かにこの胸に存在しているのだ。
マトリフは背を伸ばして顔を上げた。背の高いガンガディアを見上げる。
「ずっと前から好きなやつがいるんだ」
言ってしまえば不思議と心地よかった。涼しい風が吹き抜けていったときのような清々しさがある。ガンガディアは目を見開いていた。その驚いたような表情に思わず笑みが浮かぶ。
「そいつさ、賢いくせに鈍感でよ、オレの気持ちなんて気付かねえんだ」
そうなんだろ、と胸の内でマトリフは呟く。マトリフがガンガディアを思っていることを、ガンガディアは気付いてい。それでいいんだとマトリフは思う。
「もしかしてここの社員ですか」
ガンガディアが覇気のない声で言った。
「ああ」
「私も知っている人ですか」
「ああ、まあな」
そりゃ自分のことは知ってるだろとマトリフは頷く。これは嘘ではないと言い訳のように考えた。
ガンガディアは考え込んでいるのか難しい顔をしている。マトリフの片思いの相手を考えているのだろう。マトリフはガンガディアに手招きした。屈んで顔を近付けてきたガンガディアに、マトリフは声を落として囁いた。
「……これ内緒な」
「はい。誰にも言いません」
ガンガディアはまだ驚いているのか立ち尽くしている。マトリフはガンガディアの腕を軽く叩いてその場を後にした。
***
ガンガディアは重い体を引きずるように席へとついた。仕事は机に積まれている。長い時間マトリフを探していたから、今日の仕事には殆ど手がついていない。
ガンガディアは重い溜息をついて遠くを見た。窓の外にはビル街が見える。あまり良い景色とは思えなかった。どこか自然の豊かな場所なら、この傷心も少しは癒せたのだろうか。
ずっと前から好きな人がいると言ったマトリフは、見たことのない表情をしていた。まるで遠い夢を見るような、穏やかで切ないものだった。マトリフの恋が実って欲しいと思う。彼の幸せを願う気持ちは本当だった。
だが、彼の幸せに自分は必要ない。そう思うと寂しさが胸に吹き荒れるのだった。
「あなたもお一ついかがですか?」
かけられた声に振り返る。アバンが皿を手に持って立っていた。その皿にはアップルパイが乗っている。
「ありがとうございます」
もしあの会話を聞く前ならば、このパイを喜んだだろう。しかしガンガディアは受け取ったパイを以前とは違う気持ちで見ていた。
「あのあとマトリフと話を?」
「ええ。立ち聞きして申し訳ない。私はおかしな誤解をして彼を困らせてしまって」
「誤解?」
アバンはさらに話を聞くためかガンガディアの横の席に座った。そのことにガンガディアは胸が苦しくなる。ガンガディアは以前のようにアバンを見れなかった。
おそらく、マトリフが好きなのはアバンだ。二人は長い間友人のようだったし、マトリフは好きな相手のことを鈍感だと言っていた。マトリフがアバンに鈍いと言っているのも聞こえた。おそらく、マトリフはアバンが好きなのだ。だが本人に伝えるつもりはないのだろう。
「彼にあらぬ疑いを……でも誤解は解けたので」
ガンガディアはマトリフの恋を応援するつもりだ。しかし、まだ気持ちの整理がつかない。
「彼と話したのはそれだけですか?」
アバンは少しがっかりしたように言った。
「ええまあ」
「ああ……」
なぜかアバンは頭を抱えてしまった。その反応にガンガディアは目を丸くさせる。
「あの、何か?」
「まったく少しはポップを見習えばいいんですよ。この手のことでマトリフは本当に……」
アバンは独り言のようにぶつぶつと呟き始めた。どうやらアバンはマトリフに対して呆れているようだ。その理由はわからないが、二人の長い付き合いにはガンガディアがわからないこともあるのだろう。
「申し訳ない。仕事が溜まっていて」
ガンガディアは積まれた書類の束を手に取る。この量だと今日は残業だろう。
「お手伝いしますよ」
アバンはそう言うと書類の束を半分手に取った。その手に指輪が光っていることにガンガディアは気付く。それはパートナーがいることを示していた。
「そんな、悪いですよ」
かろうじて言ったが、ガンガディアはその指輪を凝視していた。長い付き合いならマトリフもアバンにパートナーがいることを知っているだろう。それはつまりマトリフの失恋を意味していた。
「元気がないようですが、大丈夫ですか」
「ええ……はい」
「じゃあパパッとお仕事終わらせちゃいましょう」
アバンはにっこりと笑う。魅力的な人だ。マトリフが好きになるのもわかる。
ガンガディアは俯くと仕事に取り掛かった。仕事をしていれば他のことは考えずに済む。
***
ガンガディアの元気がない、と聞いたのは昼下がりのベンチでだった。マトリフはこの会社のあらゆる休憩所を利用しているが、このベンチは総務部に近く、アバンと会うときに利用している。
マトリフは開けかけていた缶コーヒーのプルタブから指を離して、アバンをまじまじと見た。
「元気がねえって、どんな風に」
「しょんぼりしてるんですよ」
「なんで」
「知りませんよ」
アバンは自分の缶コーヒーを飲んでいる。マトリフはあの給湯室での一件以来、ガンガディアに会っていなかった。
「というか、あなたなら知っているでしょう」
「知らねえよ。最近会ってねえんだから」
「じゃあ最後に会ったときに何かしたんでしょう」
「何かって……」
マトリフはあの時の会話を思い返す。確かガンガディアが誤解をしていたからそれを解いたのだ。ガンガディアが落ち込む原因などあるはずがない。
「お前からそれとなく聞いてやれよ」
「なぜあなたに言ったかわからないのですか。彼はいつも定時きっちりに仕事を終えますよ」
アバンは立ち上がると飲み終えた缶をゴミ箱へ入れた。そしてマトリフの持っている缶コーヒーに手を延ばすとプルタブを開けた。
「開きましたよ」
「年寄り扱いすんじゃねえ」
「今のあなたは実際に年寄りじゃないですからね。でも時間なんてあっという間に過ぎちゃいますよ」
さあて仕事に戻りましょうか、とアバンは呟いて去っていく。マトリフはアバンが歩いていく方をじっと見つめた。その先には総務部がある。ガンガディアが出てこないかと思ったが、そう都合よくはいかなかった。
その日の夕方、珍しく定時まで部屋にいたマトリフをハドラーは不気味そうに見ていた。そして悪霊でも追い払うように出ていけと言った。
「言われなくても帰るんだよ」
ハドラーの机を蹴飛ばしながらマトリフは言った。今から行けばガンガディアと出会うタイミングだろう。偶然一緒になった風を装って飯にでも誘うつもりだった。
マトリフはハドラーの罵倒を背に部屋を出た。そこであることに気づく。ガンガディアと偶然に帰宅が一緒になることを装うなら、エレベーターに乗る必要があった。
マトリフはあのエレベーター閉じ込めの一件からエレベーターは使っていない。毎日階段を使うようにしている。筋肉痛が酷かったが、ようやく慣れてきたところだ。
だが階段を使っていては間に合わない。ガンガディアは寄り道もせず真っ直ぐに会社を出るだろう。もっと早くに出て会社の出入り口あたりで待ち伏せていればよかった。
エレベーターの前では定時に帰る人たちが待っていた。マトリフは意を決してそこへと加わる。間も無くエレベーターが到着した。
「あ」
エレベーターの中にガンガディアが立っていた。ガンガディアもマトリフに気付いてこちらを見ている。マトリフはワンテンポ遅れてエレベーターへと乗り込んだ。
「今帰りですか」
「ああ、お前もか?」
「はい」
エレベーターの扉が閉まる。わずかな揺れとともに下降が始まった。マトリフは自分でも顔が強張るのがわかった。やはり高い場所が怖い。下降の時に体が感じる不愉快さに嫌な汗がじわりと滲んだ。
「マトリフ」
隣に立つガンガディアが小さな声で言った。目だけで見れば、ガンガディアが手を差し出している。それは他の人が気付かない程度の小さな動きだった。
マトリフは震える手でガンガディアの手を握った。わずかではあるが、恐怖が和らいでいく。
やがてエレベーターは一階へと到着した。乗っている人が次々と降りていき、ガンガディアとマトリフだけが残った。
「……大丈夫ですか?」
手は繋がれたままだった。強過ぎもせず弱過ぎもせず、それでいてしっかりと繋がれた手は、地上へと繋ぎ止める錨のようだった。
マトリフはゆっくりと息をついた。あの閉じ込められた時も、ガンガディアのおかげで落ち着くことができた。
マトリフはガンガディアを見上げる。昔とは姿も変わったし、性格も全く同じということはない。だがいつも手の届く距離で、そばにいてくれた。
「お前のことが好きだ」
マトリフの言葉にガンガディアは目を見開く。エレベーターの扉がゆっくりと閉じた。
***
目を見開いたガンガディアは何か言おうとしているが、言葉は出ないようだった。マトリフはわかっていた結末にそれでも傷付いた。衝動的に言ってしまったことを悔いたが、今言わねばならないと思ったのだ。己を突き動かしたのが今の自分の意思なのか前世の自分なのかはわからない。だが言わずにはいられなかった。
「悪いな。本当は言うつもりじゃなかったんだが」
エレベーターは動かない。マトリフはガンガディアと繋いでいた手を離そうとしたが、ガンガディアは手を離さなかった。
「私を?」
ガンガディアは信じられないという風にマトリフを見ていた。困惑がありありと伝わってきて胸が痛む。あっさりと断ってくれたほうが傷は浅かった。だがガンガディアはそうしないだろうとも思う。
「そうだよ。こんな告白は迷惑だろ。勝手に言っておいてなんだが忘れてくれ」
「待ってください。あなたには片思いの人がいるのでは?」
「それがお前なんだよ」
「あなたが私を……好き?」
ガンガディアは理解し難い問題を考えるように呟く。やはりマトリフに好意を向けられているなんて思ってもいなかったらしい。
「痛ぇよ。離してくれ」
繋がれた手を見てマトリフは言う。本当は離してほしくなかった。だがこれ以上ガンガディアに嫌われたくない。
ガンガディアは掴んでいた手を離すと、マトリフの両肩を掴んだ。
「私もあなたのことが好きだ」
ガンガディアは真っ直ぐにマトリフの目を見据えて言った。一瞬喜びかけたマトリフだが、ガンガディアの言葉が信じられなくて目を逸らした。肩に置かれた手を外させるように掴む。
「……よせよ。からかってんのか」
「信じてほしい。私もあなたを」
「憧れてんだろ。知ってるよ」
「それだけではない!」
ガンガディアの大きな声にマトリフは肩が跳ねた。ガンガディアはハッとしたようにマトリフから手を離した。
「すまない。怒鳴るつもりはなかった。気持ちが高ぶってしまって。昔からの悪癖なんだ。自分の気持ちを伝えるのが苦手で」
ガンガディアは気持ちを落ち着けるためか深呼吸していた。前世のガンガディアも短気なところがあったが、随分と克服して冷静さを保てるようになっていた。目の前のガンガディアはまるで初めて出会った頃のようだ。ガンガディアは高ぶる感情を必死に抑えようとしている。
「私はあなたに憧れていた。それは間違いない。しかしそれと同時にあなたに惹かれていた」
ガンガディアの声は真摯だった。それゆえにマトリフは勘違いしそうになる。
「好きって感情にも色々あるだろ。オレの好きはキスしてえし、その先のことだってやりてえ好きなんだよ」
これでガンガディアはマトリフを侮蔑するだろう。愛情と性欲を直結するマトリフは、ガンガディアとは相入れない。ガンガディアは体の繋がりを忌み嫌ってさえいた。
しかしガンガディアはなぜかほっとしたような表情になった。
「安心した。私も同じだ」
「……本気で言ってんのかよ」
「私もあなたにキスしたいと思っていた」
ガンガディアの勢いに押されてマトリフは一歩後退る。だがそこはもう壁だった。エレベーターはさほど広くない。
ガンガディアはマトリフの目の前に立ちはだかっていた。その圧迫感にマトリフは怯む。ガンガディアの指がマトリフの顎をすくった。
「証明が必要かね」
「ばか言ってんじゃねえよ。ここをどこだと」
マトリフが言い終わる前に唇が塞がれた。触れるだけのキスは柔らかい。ここが会社のエレベーターであるとか、誰かに見られるかもしれないなんて遠慮は一瞬で消えてしまった。
マトリフはガンガディアの首に腕を回すとより深く唇を重ねる。一秒でも長くこの時間が続いて欲しいと思った。
***
雪崩れ込むようにドアを開けて入った。薄暗い玄関で、ドアを閉めると同時にキスをする。お互いに貪り合うように口を合わせた。
ガンガディアの住むマンションは会社から一駅ほどの距離にあった。ガンガディアが家が近いと言ったので、会社を出て真っ直ぐにここに向かった。いつの間にか日も沈んでおり、夜がはじまっている。
「ンッ」
鼻に抜ける声が出て、マトリフはガンガディアの服を掴んだ。まだキスしかしていないのに身体が驚くほど熱い。ガンガディアも同じなのか、キスをしながら上着を脱いでネクタイを緩めていた。マトリフも上着を自分で脱ぐと、ガンガディアの身体を引き寄せた。
「このままここでヤんのか……それともベッドまで連れてってくれんのか?」
首筋を撫でながら問えば、ガンガディアの熱い吐息を感じた。まるで獲物を前にした大型獣のようだ。
ガンガディアはマトリフの身体を掴むとその場に押し倒した。マトリフの背にフローリングの感触が当たる。この場でヤるのだと理解してマトリフは靴を脱ぎ捨てた。
「あ……って何もねえや……」
マトリフはほぼ手ぶらだった。潤滑油やゴムなんて持っていない。準備のいいガンガディアが玄関に常備していたら話は別だが、流石にそんなことはないだろう。
「やっぱベッドまで行こうぜ」
押し倒したまま固まっているガンガディアに言った。暗いから表情は見えない。それが一瞬怖く思えて、マトリフは言葉を選ぶように言った。
「な、ベッド行こうぜ。そっちにゴムとかあるだろ?」
手探りでガンガディアの顔を撫でる。するとその頬が濡れているのがわかった。温かな雫がさらに流れてくる。
「おい、なんで泣いてんだよ」
マトリフは驚いてガンガディアの涙を拭う。しかし涙は止まらなかった。
「やっぱやめるか?」
できるだけ優しく訊ねる。また騙し討ちのような真似をして、無理に抱かせるようなことはしたくなかった。
「すまない。やはりやめておく」
絞り出すような声でガンガディアが言った。マトリフはガンガディアから手をそっと離す。
「そうか……」
マトリフはやはり残念に思えた。ようやく気持ちが通じ合えたから、一緒に気持ちよくなりたかった。だがガンガディアにとってこの行為は好ましくないのだろう。
ガンガディアは自分で涙を拭くと懺悔のように言った。
「……セックスに必要なものが何もない」
「は?」
「その……ゴムなどがない」
「切らしてたのか?」
「いや、実は……したことがなくて」
ガンガディアの言葉は次第に小さくなっていった。マトリフはぽかんと口を開ける。
「したことがねえって……野郎とのセックスをか?」
「いやその……セックスそのものを」
それで泣いていたのかと思うとマトリフは毒気を抜かれてしまった。マトリフはガンガディアの顔を掴むと抱き寄せた。
「そんなことで泣くこたねぇだろ」
「すまない。気持ちが高ぶっていて、準備が必要だと思い至らなかった」
ガンガディアはすっかり恐縮している。まるで気の優しい大型犬のように思えて、マトリフは無意識にガンガディアの背を撫でていた。
「その……だから今夜は」
「わかったよ。今さら焦ってもしょうがねえ」
マトリフはガンガディアを離して立ち上がると、手探りで電気のスイッチを探した。パッと明るくなって気まずそうなガンガディアが身体を縮めているのが見えた。
「せっかく来たんだ。酒くらい出してくれよ」
「コーヒーで良ければ」
「コーヒーは酒じゃねえよ」
結局その夜はコーヒーだけ飲んでマトリフは帰った。どうせ翌朝も会社で会うのだと言って泊まることもなかった。
マトリフが帰った部屋でガンガディアは月を見上げる。それが唯一、前世で見たものと変わっていないものだったからだ。
***
「あの老ぼれと付き合っているのか?」
ハドラーの言葉にガンガディアは手を止める。ガンガディアはハドラーに手伝いを頼まれて、会議室で印刷された資料をまとめていた。
「ええ、そうですが」
「やはりな!」
なぜかハドラーは得意げに言った。マトリフからハドラーに報告をするとは思えないから、なにかをきっかけにハドラーが気付いたのだろう。マトリフから告白されて付き合ってからまだ一週間も経っていない。
「これで奴を黙らせてやる」
ハドラーは悪い顔をして呟いた。マトリフへの日頃の鬱憤が溜まっているようだ。
「何をする気ですか。喧嘩ばかりせず仲良くしてください」
前世でもハドラーとマトリフは顔を合わせるたびに言い争っていた。ガンガディアからすれば尊敬するマトリフと、志を同じくして仕えていたハドラーの喧嘩は仲裁が難しい。どちらかの肩を持つような事を言ったらもう片方が烈火の如く怒るのだ。
「……ガンガディア」
「なんでしょう」
「お前、もしや前世を思い出したのか」
ハドラーの言葉にガンガディアは硬直した。だがその反応こそ肯定だった。
「……このことは内密に」
「内密? 老ぼれは知っているのだろう」
「いいえ。言っていません」
ガンガディアが前世の記憶を思い出したのは、マトリフを押し倒した時だった。それはまったく突然に、そして望んでいないのにガンガディアの頭に流れ込んできた。
「なぜだ」
ハドラーは理解できないと言いたげな表情だ。ガンガディアは眼鏡を押し上げる。
「彼に知られたくないからです。というよりも、私は思い出したくはなかった」
ガンガディアが最初に思い出したのはマトリフの亡骸だった。彼の弟子の腕の中で血濡れになっている姿だ。悲しみも同時によみがえり、知らずに涙が溢れていた。そうすると記憶は次々とガンガディアの中へと流れ込んできて、それに溺れてしまいそうだった。
「黙っててやってもいいが、いずれバレるぞ」
「上手くやるつもりです」
「お前は顔に出やすいからな」
ハドラーが呆れたように言う。すると会議室のドアが開いた。入ってきたのはマトリフで、マトリフはガンガディアがいることに気づくとジロリとハドラーを睨んだ。
「てめえ、ガンガディアに手伝わせてんのか」
「貴様をクビにして代わりにガンガディアを部下にしてやる」
「おうおう、やれるもんならやってみろ!」
口喧嘩をはじめたハドラーとマトリフを見てガンガディアは溜息をついた。その様子はやはり前世と同じだった。
二人の喧嘩を止めなければ。そう思ったのが自分の意思なのか前世の自分の意思なのかわからなくなる。
前世のガンガディアは今のガンガディアの意思とは関係なく胸の内に棲んでいて、ことあるごとにガンガディアに指図してくる。あまりに口煩くて耳を塞ぎたくなるが、そうしたところで声は止まない。自分であって自分ではない。そんな不思議な感覚だった。
ハドラーが何か捨て台詞を吐いて二人の口喧嘩は終わる。それを見計らってガンガディアはまとめた資料をハドラーに差し出した。
「私はこれで」
「ああ、助かった」
マトリフにも会釈してからから会議室を出ようとする。するとガンガディアの手にマトリフの指が触れた。ハドラーからは見えていない角度で、ほんの一瞬、体温を感じるくらいの接触だった。マトリフの視線がガンガディアに届く。
マトリフはぱっと視線を外した。手もあっという間に離れていく。マトリフはまたハドラーに何やら文句を言いはじめた。
ガンガディアはそのまま会議室を出る。するとポケットに入れたスマートフォンが震えた。見ればマトリフからメッセージが届いている。今日の夜に会いたいとあった。
***
随分と日が長くなった。それでも昼間の熱は薄れていく。マトリフはマンションの前を行き交う人々を見るともなしに眺めていたが、やはりどこか落ち着かない。金曜日の夕方は浮かれた空気が漂っていた。
マトリフは手持ち無沙汰でスマートフォンを取り出す。興味を引くニュースはなく、アバンからの激励メッセージにスタンプだけ返しておいた。
「待たせただろうか」
その声に顔を上げれば息を切らせたガンガディアがいた。
「走ってきたのか?」
「あなたに早く会いたくて」
恥じらいもなく言われた言葉にマトリフは口を曲げる。それはにやけてしまうのを誤魔化すためだった。仕事が終わったらガンガディアのマンションの前で待ち合わせようと提案したのはマトリフのほうだ。色々と準備のためにマトリフは定時よりも早くあがってガンガディアを待っていた。
「飯は適当に買ってきたからよ」
マトリフの手にぶら下げた袋にはテイクアウトしたデリがある。外食ではなく家で食べることを選んだのは、その後の展開を期待してだった。マトリフはそそくさと歩き出す。
「行こうぜ」
そのマトリフの手をガンガディアがそっと握った。
「手を握っても?」
「やってから言うなよ」
マトリフは顔を赤らめながらガンガディアの手を握り返す。身体まで火照ってきて汗が滲んだ。二人はそのままエレベーターに乗り込んでいく。
「階段のほうがよかったかな?」
ボタンを押す前にガンガディアが訊ねてきた。
「お守りがあるから大丈夫だ」
マトリフはガンガディアと繋いだ手を揺らした。少しずつではあるが、高い場所もエレベーターも克服してきている。
二人はそのまま喋らずにガンガディアの部屋まで向かった。
「散らかっていて申し訳ない」
部屋に入るとガンガディアが言ったが、マトリフからすれば片付き過ぎているくらいだった。マトリフは買ってきたものをテーブルに置いてソファに座った。
「何か飲み物を?」
「酒を買ってきた」
ガンガディアはキッチンからグラスを二つ持ってきた。しかし片方には水が入っている。ガンガディアは空のグラスをマトリフに差し出して隣に座った。
「飲まねえのか?」
「酒は控えている」
マトリフは思惑が外れて出鼻がくじかれた気持ちだった。酒の勢いを借りようと企んでいたからだ。しかし買ってきた酒はどれもアルコール度数の低いものばかりで、多少酔っても泥酔したりはしない。あくまで気分を盛り上げる程度を狙っていた。
「オレは飲むぜ」
「どうぞ」
マトリフは自棄な気持ちで酒を注いで煽った。甘ったるくてアルコールの少ないジュースのような酒を流し込む。
それから二人で買ってきたものを食べながら他愛もない会話をした。ガンガディアは落ち着いた様子で自然体だ。しかしマトリフはこの後のことを考えて落ち着かない。やたらと喉が渇いて酒ばかり飲むが、酔えないまま甘さだけが口の残る。
「温かいものを淹れよう」
食事が終わった頃にガンガディアは言ってキッチンへと向かった。
ガンガディアは付き合い出してから少し変わった。雰囲気が落ち着いたような、妙な慣れを感じるのだ。それがガンガディアの恋人に対する距離感なのかと思うが、それとも少し違うとマトリフは感じていた。こうやって茶を淹れに行ったりもそうだが、先ほどの手を繋ぐときだって、まるでマトリフの希望を知っているかのように行動している。
「どうぞ」
差し出されたカップを受け取る。ふわりと香った匂いから、それがマトリフの好みの茶であるとわかる。口をつければやはり好きな味だ。
マトリフはすっかり茶を飲んで気持ちがほぐれていた。ここまま風呂に入って寝たら気持ちいいだろうなと思う。むしろそうしたい気持ちが高まっていた。こういうのは付き合って十年とかで感じる幸せではないのかとマトリフは思う。
だが今日の目的はまったりとした夜ではない。マトリフの足元には今夜のために買ってきたものが袋に入れられてある。サイズや使い心地に考慮して厳選したものだ。
「なあ……」
マトリフはカップを置いてガンガディアの手に触れた。その逞しい二の腕に頭を預ける。
「酔ったのかね」
「酔うってほどじゃねえよ」
言いながらマトリフはガンガディアの腕に手を絡める。ガンガディアの身体が緊張で強張るのがわかった。
「ガンガディア」
マトリフは上目遣いでガンガディアを見つめる。キスしろ、と念じてマトリフは目を閉じた。気配でガンガディアの顔が近づくのがわかる。マトリフは段々と羞恥心が込み上げてきて手が震えた。
ふわりと温かいものが触れる。キスだと理解した瞬間に唇は離れていった。待ってもそれ以上の接触はない。
マトリフは目を開けてガンガディアを睨んだ。
「それだけか?」
マトリフはあの時のような貪るようなキスをしてほしかった。激情のまま求め求められるキスだ。ガンガディアは少し困ったように眼鏡を押し上げた。
「止められなくなる」
「それでいいじゃねえか」
今夜の準備はバッチリなんだからよ、とマトリフは胸の内で呟いて笑う。セックスに必要なものはマトリフが一通り買い揃えてきた。
「いいだろ?」
マトリフはガンガディアの太腿に跨ぐように座った。向かい合って顔を合わせる。今度はマトリフから唇を重ねた。舌を絡ませて唾液を交換する。そうしているとマトリフは身体が熱くなっていくのを感じた。
「んっ……ぅ……ぁ」
角度を変えて何度も口づける。息継ぎの合間に漏れ出る吐息が熱い。マトリフはガンガディアの首に腕を回した。ガンガディアが応えるようにマトリフを抱き締める。その腕の強さに身体の奥が熱くなった。
「んっ……!」
服越しでもガンガディアのものが反応しているのが伝わってくる。それが性の衝動であることは間違いなかった。ガンガディアはマトリフに欲情している。マトリフは期待を込めてガンガディアの股間を撫でた。
「お前が欲しい」
密着した部分からは相手の鼓動が伝わるようだ。
だが、ガンガディアはマトリフの肩を掴むと引き剥がした。
「……これ以上は出来ない」
***
「なんでだよ」
マトリフは胸に苦い思いが広がるのを感じた。矜持が鈍い音を立てる。性的な行動を拒絶されたときの羞恥と後悔が湧き起こった。
「……出来ないんだ」
すまない、とガンガディアは大罪を詫びるように呟く。その姿が前世のガンガディアと重なった。前世でセックスをしたとき、ガンガディアはマトリフを傷付けたと言って声を震わせていた。悪いのはマトリフなのに、ガンガディアは己を責めていた。
「はじめてだってこと気にしてんのか。それならオレがリードしてやるから」
マトリフは寛容な歳上ぶって言ってみせる。ガンガディアの拒絶の理由がそうであって欲しいと思ったからだ。
「違うんだ……」
ガンガディアは否定するだけで理由を言わなかった。眼鏡の奥で伏せられた目はマトリフを見ていない。まるでここにはいない誰かを思っているような視線に、マトリフは焦燥を感じる。
「お前もヤりてぇって思ってんだろ?」
そうなんだろ、と祈るような気持ちだった。そうでなかったら勃起なんてしないだろうと勝手に解釈する。
「悪いことが起こる。私はあなたを酷い目に合わせてしまう」
ガンガディアはまるでセックスを恐れているようだった。
「なんだよそれ。やってもねえのにわかるのかよ」
マトリフは言ってから、はっと息を飲んだ。先ほど感じた違和感が、ある可能性を提示していた。
「お前まさか……思い出したのか」
付き合いはじめたばかりのガンガディアが、まるでマトリフのことを知り尽くしているかのように行動していた。もしガンガディアが前世を思い出したのならその行動も頷ける。
ガンガディアは否定も肯定もしなかったが、その表情に狼狽の色がありありと浮かんでいた。
「だったら……何も心配いらねえだろ」
お互いに人間として生を受けた今なら、前世ほどの体格差もない。あの時にセックスを困難にさせたものは今はもうないのだ。
だが、ガンガディアが気に病んでいることの核はそこではないのだろう。ガンガディアは性行為に忌避感を持っている。前世を思い出したなら尚更だろう。そしてそれはマトリフのせいだ。マトリフは前世で逃げ出したツケを払うときが来たのだと思った。
「お前に謝らなきゃいけねえ。あれは……あの時のセックスはオレがお前を無理矢理に付き合わせた」
あのセックスはマトリフがガンガディアの優しさにつけ込んでした行為だ。ガンガディアは何も悪いことなどしなかった。
「いや、あなたにはあれが必要な理由があったのだから」
ガンガディアに都合のいい思い込みをさせたことをマトリフは今になって悔いた。全ては己の身から出た錆なのだ。
マトリフは苦しい一言を絞り出した。
「そんなもんなかったんだよ」
ガンガディアは不可解そうにマトリフを見つめ返した。
「嘘だったんだ」
「嘘?」
「オレは前世からお前のことが好きだったんだ」
ガンガディアは瞠目する。信じられないという風にマトリフを見ていた。マトリフは罪の告白を続けた。
「だからお前のことを手に入れたかった。だが好きだと言えなかったんだ。セックスすればお前がオレに惚れるんじゃねえかって思って、あんな事をした」
マトリフはガンガディアの顔をまともに見られなかった。これでガンガディアもマトリフがつまらない人間の一人だったと気づいたはずだ。
ガンガディアの失望した顔を見るのが怖い。それは前世で告白出来ずにいたときと同じだった。ガンガディアを傷つけたくないと言いながら、結局マトリフはガンガディアに失望されるのが怖かった。
「お前につらい思いをさせるつもりはなかったんだ。オレが悪かった」
ガンガディアを解放したかった。前世にマトリフがつけた因縁を、この手で解かねばならなかった。
「……だったら、前世から私たちは思い合っていたということか」
ぽつりと呟かれたガンガディアの言葉に、マトリフは首を横に振った。この後に及んでもガンガディアが愚かな情けをかけたのかと思ったからだ。そんな嘘は余計につらい。
「私もあなたのことを前世から好きだった」
「馬鹿なこと言ってんじゃねえよ」
「なぜ信じてくれない。私はあなたを心から愛していた!」
「じゃあなんで言ってくれなかったんだよ!」
マトリフは自分が思いを告げなかったことを棚上げして叫ぶ。ガンガディアは痛いほどにマトリフの肩を掴んだ。
「粗暴で醜いトロルからの愛などあなたに相応しくないからだ!」
「醜いって……お前は醜くなんてなかった」
「それこそ嘘だ。私は醜いトロルだ。あんな前世なら思い出したくなかった」
ガンガディアの言葉に言いようのない寂寥が胸を抉る。マトリフにとってはその前世があったからこそ、今こうしてガンガディアと共にいられるのだ。
「なんでそんなこと言うんだよ。オレは前世のお前も好きだった。トロルだとか人間だとか、そんなこと関係あんのかよ」
「それはあなたが人間だから言えることだ。あなたは人間を嫌うが、人間であることに大きな恩恵もあったはずだ。驚愕と侮蔑の眼差しを受けずに済む」
「今の世の中を生きたなら人間がそんなに綺麗じゃねえってわかっただろ」
「それでも私は自分がトロルであることが嫌だった」
吐き出された言葉に、ガンガディアが自身の存在にどれほどの苦しんできたのかが滲む。マトリフはガンガディアの顔を胸へと抱き寄せた。
「オレはトロルのお前も、今のお前も愛している」
「マトリフ……」
「お前がどれほど嫌だと思っても、オレはお前を愛してるからな」
今の自分にできることは愛を伝えることだけだった。もはや強力な呪文は失った。この非力な腕が届くのは目の前にいるガンガディアだけだ。だからこそ決して離さない。
「マトリフ……こんな私でいいのか」
「お前だからいいんだよ」
ガンガディアはマトリフの背に手を回してそっと抱き寄せた。その温もりが胸の内まで沁みてくる。
二人は言葉もなく抱き合った。お互いの体温を感じ合う。そこには現在の二人だけではなく、前世の二人も存在しているようだった。