anti-podeそれはヒノミヤが『財団』に加入してすぐのことだった。
「緊急連絡先、ですか」
それはどこの職場でも提出する類のものだ。労働者の身元を保証し、急病・事故などがあった時にその連絡をする相手ーー多くの場合は家族や親類、そのような相手がいない者はパートナーや親密な友人の記載を、と求められる。
「ええ」
これから上司となる『財団』代表者にしてモナーク王国王女・ソフィーは慈愛の笑みを浮かべた。
「ユウギリの連絡先はあなたとわたくしにしてあります」
「あー…、王女、俺は……」
ヒノミヤには家族も親戚も、そして友人もない。少なくともこの国、或いは他の国家に身分を保証されている者は。強いて言えばソフィーの庇護下に居を移したユウギリはモナークに籍があるが、年端もいかぬ少女に「もしも」の第一報を受け取らせるわけにもいくまい。
一般のオフィスワーカーと異なり、『財団』の分析官は軍人のように危険任務に従事する性質を帯びている。本当に万一の場合は認識表の帰る先にすらなり得る。
ソフィーは全て分かっていると頷いた。
「あなたの書類にはわたくしがサインいたします。王女として、個人として、あなたの身元を保証いたします。ですが……もしもあなたの身に何かあった時、それを委ねたいひとがいるのではなくて?」
「……書面には書けねぇ奴ッスけど」
ヒノミヤは頬を掻いた。あの時以来、二人揃って顔を合わせたことなどないはずなのにこの王女の洞察力は大したものだ。案外自分の知らないところで本心を聞き出したりしているのかもしれない。
「アンディ・ヒノミヤ。もしもその時が来たら、わたくしの責任において必ず彼にお伝えすると、約束しましょう」
新しい上司は慣れた様子でサインを書き付けた。
窓に差し込む昼の太陽は眩しかった。
*
「……と、いうことをあなたにもお伝えしておくべきかと思って」
モナークの王女は相手が誰であろうと筋を通す人間である。たとえ相手が犯罪者であろうと非合法組織のボスであろうと澱みはしない。
モニタ越しの柔らかな微笑みに、非公式とはいえ無断で身元を預けられた兵部は迷惑だという顔を作ってみせた。
「ユウギリならともかく、彼はうちの構成員じゃない。他人だよ」
「あら、名誉会員と伺っていますが?」
「それを他人って言うんだ」
彼の実年齢が自分よりずっと年上であることをソフィーは知っている。しかし外見通りに子供っぽく、一方で彼も彼なりの理屈で筋を通す性質だ。
とどのつまり彼のわざとらしい不機嫌は、ヒノミヤの所属組織の長は彼女であり非合法組織のパンドラとはもう関係がないと認めつつも、この件でイニシアチブを握られているのが気に入らないから言いくるめてみろということだ。
なんと可愛らしい芝居であろう。気分良く、ソフィーは同じ舞台に上がる。
「たとえ他人でも、彼はあなたに預けたいと言いましたわ」
「へぇそうかい。それなら、まぁ面倒を見てやろう。無関係ってわけでもないし」
兵部は鷹揚に頷いた。
ヒノミヤに対してもそのくらい素直ならきっとソフィーの手元には彼直筆の署名があったことだろう。それは『財団』の立場上、受理出来ないものであるがいつかそれを受け取りたいと思う。
宝石に喩え得る大きな瞳で真っ直ぐに見つめる王女に兵部はゆっくりと口を開いた。
「僕がいない時は真木が代理だから。それも約束の履行と認めるよ」
「……兵部少佐、」
「何かあった時はあいつにも連絡が行くさ」
それ以上を聞く関係ではない。画面を隔てて彼らは互いに頷きあった。
「それじゃあ王女、新しい組織の健闘を祈っているよ」
「ありがとうございます兵部少佐。よい夜を」
モニタに映し出されていたビデオ通話は切断され、黒い終了画面の中に見慣れた船室が映り込む。
カタストロフィ号の現在位置はモナーク王国から地球上で最も遠い場所。
兵部の見る空には月が静かに輝いていた。